2009年3月27日金曜日

慣れの開放

ちょっと個人的な用で関西に行っていた。目的を果たした後、一人歩きで京都大原三千院を半日かけて見たり、友人と飲んだり、先輩の店(インドカレーの「もりやま屋」、パン「さんしょ屋」)に行ったり、友人と大阪ミナミのゲイ・スポット、893スポット、アジアンスポットを探索したりして、今日帰ってきた。

楽しい。「心の洗濯」という表現をよく使うのだが、リフレッシュ効果抜群で、明日からの日常に鋭気を持って臨めそうだ。

気の置けない友人、尊敬できる先輩との交流は最高だ。色々迷いながらも1つのことを続けている人、そこで何かを持って処している人を見ると頭が下がる。

原点回帰ではないが、何だか急にストーンズが聴きたくなって、10年ぶりくらいに「スティッキー・フィンガーズ」を聴く。

昔、あきれるくらい聴いていたにも関わらず、今日聞くと、ギターの音色が昔とは違ったかっこよさで聴こえる。「Can’t you hear me knocking」を、19歳の頃にバンドでコピーしようとしていたのを思い出す。今から思えば、コピーするポイントがずれていて、ライブ演奏しなくてよかったと思っている。

歳を重ねるごとに思うのだが、昔過ごした町並み、聴いた音楽、見た映像、そういった諸々の記憶があって、それはずっと紛れもない何かとして頭に存在しているのだが、それらと何年後かに再見した時の感じ方の違い・・・、この正体を個人的な成長というのか退化というのか、良し悪しをつける気はないのだが、とらえ方の違いに驚いたり、感動したり、傷ついたり、戸惑ったり、涙ぐんだりすることが多い。

景観に対する認識違いの正体は、物理的な景観の変遷による感慨に起因するのはわかるのだが、それ以外の正体がわからず、うろたえることがある。

昔感動したものに感動できなくなることがある一方で、昔は気付かなかったことに気付くこともある。そしてそれを心地よく思うこともある。

三千院の苔むす庭園を見た時、苔の美しさに目が行き呆然と見とれていた。我を忘れて無の時間を過ごした。

これなんかは、昔になかった気持ちであり、俺のアンテナが捉える周波数が、変化してきた証であり、歳を重ねることの喜びである。

だが、その一方で感知しなくなった周波数があるのも事実であり、例えば、電車に乗る時に窓側の席を確保したくなる情熱が薄れ、車中で眠りたくなる。ドーパミンが出なくなったのを今日は痛切に感じた。見慣れたというには恐れ多い特急3時間の行程だ。いまだかつて眠くなったことはない。どんな苛酷な睡眠環境がその前にあったとしてもだ。

それが薄れていくことに気付くと、これは病的なのだが、俺はなんだか焦ってしまう。自分のまなこが退化しているような気がするのだ。この焦りを起こす正体もわからない。

「慣れ」というものが、感受性のメーターを弱くさせるとずっと思っていた。そして、それは歳を重ねる上で残念ではあるが、仕方ないこととも思っていた。

ルーティンとしての「慣れ」がある一方で、それを上回るだけの新たな発見があれば、「慣れ」による感受性の劣化を補えるものが出てくるはずだ。そして新たな発見は、特に劇的なもの(生まれて初めてみるもの、ハプニングとしての事象)でなくても良いはずだ。

上記の大原の三千院で俺が感動した苔の美。苔なんかは昔訪れた時にもあったはずで、たまたま俺が今回気付いただけだ。それに、苔のむす景色は、身近なところにもたくさんある。だが、それを捉えるだけの視点が、「慣れ」てしまった通常の日々に表れるかというと、それが疑問であり、不安であるのだ。

「慣れ」に従って、ルーティンに処している日々では、新たな発見に必要な新たな視点が出にくい。それを見ている余裕がないのだ。それが大人になるということだ。あきらめにも似た気持ちを抱きながら、納得できないでいるのが、俺の30代だ。

旅行は、身近にあるものの中で見出せなかった新たな視点を与えてくれる機会かもしれない。そう思った。そして、「慣れ」という概念は歳を重ねるごとに徒に深度をましていくので、歳を重ねるほど、旅をして、まなこを一時的にせよ、強制開放させてあげることが必要な気がした。

苔を見るのに京都を歩く必要はない。身近なところにある。だが、旅行という行為に随行する時間が、日常の、まなこを曇らせる「慣れ」を1度とっぱらってくれて、いつもは気付かなかった視点を与えてくれるのかもしれない。

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