2009年3月8日日曜日

「忙しい」は言わない

最近、いつになく忙しい。どれくらい忙しいかというと、雲鼓をする暇もないくらい忙しい。汚い話だが、本気で厠に行く暇もない。ブログを書く時間はある。

万年垂れ流し状態で、便秘なんて言葉を体感したことがない俺が、最近は宿便している気がする。間違いなく、長期滞在していやがる。ブログを書く時間に厠に行けば良いのだが、何度か辛抱しているうちに、部屋にこもりきったまま出てくる気配もない。俺の腹も懐妊したみたいになっていやがる。

とにかく、それくらい忙しいのだが、考えてみると、「忙しい」という言葉自体を俺はほとんど使ったことがない。使わなかったのだから、忙しくなかったのだろう。

だが、最近は「忙しい」と思う。

これは、大きな問題だ。自己批判すべき問題だ。自分のキャパシティー減少の警告だ。

「忙しい」という感覚は、自己基準である。

「今日は16時間仕事した」、「今日は20件予定が入っている」、「今日締め切りの課題を終わらせて、次は明後日の締め切りに取り掛かって・・・」、「掃除がたまっているから終わらせないと、でも、その前に買い物にも行かなければ!」、「今日は10時と14時にキリトリして、夜は抗争に備えて事務所待機。」、「今日でシンナー切れるから、また塗装屋にカチコミせなあかん、金要るからカツアゲもせなあかん。」等々・・・・。

色んな立場によって、自己基準での忙しさがある。その人にとって、慣れ親しんだルーティンの日々に、少しスポットイベントが入りだし、それがその人にとって、心地よくないストレスを感じさせるものであったならば、人は「忙しい」と言うのだと思う。

自分にとって、楽しい行事が入っているだけならば、「忙しい」という言葉は、「充実している」にまで化ける。つまり、「忙しい」という言葉を吐く時、その人にとってのマイナス要因がどこかにあるような気がするのだ。

今の俺は決して「忙しい」わけではない。音楽を聴いたり、本を読んだりする時間も、社会人になってからというもの、ほとんど同じ時間を確保出来ている。楽しみな行事もぎっしり詰まっている。どんな環境下でも、意識と動き方がリンクしていれば、時間は何とでも捻出できるものだ。例え、物理的な拘束時間が増えたとしてもだ。

それを、俺は何でまた、厠にもいけないくらい、「忙しい」と感じたのか?

塾では、高校受験における超追い込みの時期に来ている。でも、昨年までならば、鼻毛を抜きながら、「忙しい」どころか、ルーティーンワークに鼻毛が生えた程度にしか思っていなかった。

授業をしながら、質問対応しながら、その間も新曲のことや、休みの行事のことや、読みかけの本のことや、いろんなことを、同時進行で考えていた。

でも、最近は、1つのことに集中する間中も、ずっと心を卍固めしているサムシングがある。それに対しての意識が俺を縛って、その他のことをこなすだけのキャパシティーを奪っているのかもしれない。

サムシングの正体はわかっている。卍固めでも、コブラツイスターでも、何でもかけてほしいくらい、全霊で対峙すべきサムシングである。ムフフをもたらしてくれるサムシングである。慶ぶ、喜ぶ要素はあっても、悲観する要素はない。

初めてのことで戸惑っているだけだろう。だが、ムフフな意識が、「忙しい」という、ちんけな感想に化けるような人間であってはならないと思った。

ムフフで羽交い絞めされても構わないが、「忙しい」という、雲鼓みたいな言葉に化けるような状態は、パパ心理としてよくないと思った。

「子供が出来ても親ばかにならない」という俺の初心は撤回しない。胎内にいて育ってくれている間に、俺自身が、しっかりと、十分にばかになって、対面できた時には、絶対的なキャパシティを持った人間になっていたいと思った。

「忙しい」は、もう言わない。

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