2009年3月4日水曜日

雛人形に、我が身を奉る

雛祭りである。我が家には、嫁が子供の頃に使ってあった人形セットを、子供が出来ないここ13年間もずっと、毎年この時期におかんが出していた。いくつになっても親心は同じなのだろう。

清い親心を踏みにじるかのような行いをする俺がいる。

毎年この時期になると、俺は雛人形を見る度に心で毒づく! 「っけ! お前らいつの時代のおべべ着とるねん!センス悪! 夜見たら怖いがな! もっと、ナウでヤングな着ぐるみ着せてもらわんかい! それになんや、その髪型は! おい! 俺を見るな! キ、キモ!」 

実際、雛人形は気持ち悪い。飾って置く物には思えない。日本人形は全般的に気持ち悪い。

「家に置いてあった人形の髪の毛が伸びた~」といった、B級ホラー話を、幼少時に聞かされたトラウマかもしれないが、どうも好きになれない。いや、嫌いというより怖い。

人形だけでなく、こけしなどの彫り物も、日本の伝統物には、何かオカルトを感じてしまう。

海外のお化けが、どこか滑稽でまぬけであるのに対して、日本の幽霊は、怨霊ばりばりの陰なイメージがある。

血を吸うのも包帯しているのも怖くないが、井戸から出たり、皿を数えたりするのは怖い。

柳田文学を読むと、なぜか怖さを感じるのだが、裏日本、人里離れた山間部や、臨海部の人々の過酷な暮らしにあった、変な暗さ、怨念を感じてしまうのは俺だけだろうか?

だから、俺は「雛祭」という儀式自体が嫌いである。元々男3人兄弟で育った俺だから、縁がなく、免疫もないのだからだろうか、人形自体に忌諱感を抱いてしまう。

小学生の時、女の子が作って教室に飾ってあった雛人形の首をひっこぬいたり、種々の加工を加えたり色んなことをした。お内裏の首を抜いて、代わりに、巻き糞の絵を貼り付けて、「ババ人形!」と喜んでいた俺がいた。

先生はもちろん、教室中の女の子を俺は敵に回した。好きだった久保さんも、俺に本気で怒って、ビンタを食らわしてきた記憶がある。

「ババ人形!」はやり過ぎにしたとしても、人形自体が怖かったのだ。

お内裏はボスであり、五人囃子が雑魚ゾンビみたいに思えたのだ。だからといって、「怖い」と公言するのは気がひける。男の子プライドに反する。

だから、とにかく目の前にある邪悪な人形共を、滑稽にして、怖さを取り除きたかった。三人官女には、水を垂らして、「おもらし~~~!」とちゃかしてみせたし、五人囃子が持つ楽器には、全てプリッツを持たせた。三人官女の髪型をリーゼントにしたりもした。

そもそも、「雛祭」の雛人形は、子供のすこやかな健康を願って、人形に穢れを移しこんで、川に流したのが始まりだと聞いた記憶がある。

つまり、飾るものではなく、流して捨てるものだったのだ。人形自体は、飾るような代物ではなく、穢れを移しこまれた、ばっちいものだったはずだ。

それが、人形に商いチャンスを見出した奴らが、本来の趣旨を変えてしまったのだと思う。人形が高価になるにつれ、川に流すのがもったいなくなり、いつのまにか、座敷を彩る季節の風物詩に一役買うグッズになってしまったのだと思う。

自分に娘が出来たと仮定して、俺の雛人形に対する認識は変わるのだろうか?

日本人形だけでない、リカちゃん人形であっても、何だか怖い。特にあの、パツキンの髪の毛が怖い。

親心、少女心に対して、デリカシーのない俺、パパになるには、まだまだ修行が必要だ。
お内裏どころか、清掃担当の「仕丁」ぐらいから、修行しなおさないといけないかもしれない。

こんな不謹慎な邪念を抱きながら、家に帰ったら、嫁がお腹の子に向かって、お雛様の唄を歌っている。なんだか泣けてきた。

俺は下に降りて、飾ってある雛人形に懺悔した。「もう蔑みません。」

手を合わした俺に、長髪の内裏が微笑んでくれた気がする。奉りながら祭り日を終える。

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