2008年3月15日土曜日

音楽と情操教育

数年前から意図的ではないのだが、生徒達の親御さんが家庭で音楽を流しているか、または、どんな音楽がかかっているかを、機会があれば聞いている。

俺は自分が音楽好きであることや、バンドをやっていることを生徒に言うことはないのだが、たまに授業単元の中で音楽的雑学が付随するときがあるので、そんな時に口頭アンケートをしている。

信じられないかもしれないが、今の中学生の半分近くは、ビートルズを認識していない。さすがに、有名な曲を俺が口ずさむと、「なんか似ている曲は知っている。」と、俺の鼻歌を小ばかにするが、認識率は低い。俺の鼻歌に問題があるのかもしれないが、ビートルズという言葉を単語としてすら認識していないことが信じられない。

今の学校では、一部の先生方は、「カーペンターズ」なんかをさりげなく授業で取り上げたりするが、ほとんどの英語クラスでは音楽を英語教材として取り上げていないようだ。ALTが、熱心に扱っているが、色物扱いのような印象を受ける。

自分が好きな音楽を強要する気もないし、世代的な差と言ってしまえばそれまでなのだが、英語を学ぶ上で海外の文化として、必ず触れ合うであろう文化的側面が英語教育に浸透しなくなっているようで、少し疑問を感じる。

今の中3の英語教科書には、ブームの「島唄」が題材として取り上げられている。改定前の教科書では沖縄のドン、チャンプルーズ総裁の「花」が取り上げられていた。「沖縄の」という形容詞はOkinawanとして表記されている。日本発の単語が出てくるのだ。このルールに従うと、「富山の」は、Toyamanになり、なんだか、コンビニで売られている新種のほかほかまんみたいだ。

沖縄音楽を紹介するのはいかしたことだと思うが、ビートルズという歴史的な事象が英語教材にリンクしない理由がわからない。文法面、リスニングスピード共に、英語教育にぴったりだと思うのだが・・・。

俺の短い歴の中で得られた統計データだが、理解力と思考力に優れていて、偏差値も高い生徒のほぼ100%が、ビートルズを知っている。そして、家庭内でビートルズが流れる環境がある。「僕は意識して聴いたこと無いけれど、お父さんがよく聴いている。」といった意見が多い。
ビートルズに限らず、カーペンターズや、ビリー・ジョエルなんてのも偏差値高めの家でよくかかっている。よくよく聴くと、彼らの親御さんの音楽的趣味は、ビートルズをてっぺんとして、徐々に俺が感じるロック的側面は薄れていくのだが、洋楽がしっかり家で流れているみたいだ。

洋楽を家庭で流すのが偏差値を高める教育に良いと断言できるわけではないが、ある程度あたっていると思う。いろいろ聞いてみると、セリーヌとマライアが流れる家はまだまだよかったが、ユーロビートが流れる家はいまいち伸び切れない。ラモーンズを聴く家は塾には来ないのでわからない。

なんだかわかならないが、家庭内で流れる音楽には、情操教育という面で少なからず影響があると、現時点では認識している。ビートルズが流れる家とユーロビートが流れる家では、明らかに情操が異なる。小さな採取データだが、俺の中では確実なデータだ。

国内のミュージシャンに視点を移そう。偏差値自体が高いわけではないのだが、潜在的国語力を持った子供達の家では、「さだまさし」が流れていることが多い。偶然にしては多すぎる。「井上陽水」も多い。特にさだが目立つ。恐るべし、さだ・・・。

あくまで、俺の個人的データだ。断っておく。

さだの御大は俺も好きだ。歌詞が持つ日本語の音と絵の美的感覚は、素晴らしいと思う。と言いながらもあまり熱心に聴いていないが、小学校時分、「道化師のソネット」という曲がとにかく好きだった。なんだかわからないが、「イカルスの翼」といったような悲しい誰かの唄と同じ匂いで情操を刺激された気がする。

家庭内で流れる音楽を国家レベルで統計とったら面白いと思う。別に優劣をつけるためではないし、偏差値が高いのがそのまま頭の優劣をつけるものではないが、確実に音楽と情操教育の因果関係はある。国家レベルで調査すると、面白いことが見えてくるかもしれない。そうすることで、何か得られる解決策もある気がするが、反対多いだろうな~。でもする価値はあると思う。

俺の幼少時の情操教育を顧みてみる。

おやじの書斎には八代と島倉、たまに北島、それらのミュージックカセットがびっしりあった。家で歌う歌は詩吟であった。おやじは詩吟を週一で習っていて、その世界のホーリーネームもあったみたいだが、どう考えても回転数を間違えたお経にしか聴こえなかった。最悪な情操教育であったと思う。

音楽的な環境には恵まれなかった我が家であったが、「帰ってきたヨッパライ」と「およげタイヤキくん」のシングルレコードだけがなぜかあり、ヘビーローテーションされていた気がする。

俺の幼少時の友人で、エレガントで偏差値の高い奴がいたが、彼の家にはビートルズとニールセダカの音源がびっしりとあった。俺は悔しく感じたのを覚えている。そして俺はヘビメタに走った。セダカを罵った。なんだがちぐはぐな音楽的初期体験だ。

いまだ我が家に訪れないコウノトリであるが、子供が出来たら何を聴かせよう? すごくわくわくしている。親の価値観を押し売りするのはよくないし、ニールヤングの「ヘルプレス」がヘビローされる環境は字義的に良くない。どうしたものか? その時考えよう。

クリスタルキング「大都会」が好きだった。久保田早紀「異邦人」が好きだった。松田聖子「赤いスイトピー」が好きだった。でも家でかかっているのは八代だった。

幼少の俺を育む我が家の音楽的情操教育は、日本的拳と熟女への慄を鼓舞するものだった。漢文とひらがなを、おやじの生唄や、おやじの安物オーディオ機器でトランス的に与えられた俺は、隠微な洋楽に視線を向けた。家庭にはない隠微な洋楽の世界にトランスした。

洋楽が俺の耳を包む頃、俺の情操は重くて硬質なものへと変化していた。ビートルズを通り越して黒魔術にいってしまった俺の耳・・・。もう少し柔軟さを育みたかったと思っている。

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