2008年3月23日日曜日

猿の主張

「風呂場でも携帯電話を見たことがあると答えた人が4割」といったニュースがあった。どんな統計を取ったか知らないが、ほんとかよ?と思わずにはいられない。

防水機能があるとかないとかの問題ではない。風呂場にも携帯を持ち込まないといけないほど忙しい時代になったものだと改めて思う。

受験を終えた中学生は親から携帯電話を買ってもらうのが一般的だ。持ち始めで嬉しいのだろう、とにかく携帯電話をいじっている。ちょっと手が空いたら携帯へ・・・。それまでの手持ち無沙汰の過ごし方を全て携帯が覆ってしまい、それ以前の隙間の時間には戻れなくなっている。

俺は携帯電話を持つのも遅かった上、未だに通話とメール以外の機能を携帯電話に求めていない。あとよく使う機能といえば、目覚ましと、カレンダーを見るくらいだ。時計を持たない俺は時計代わりとしても携帯を使っているが、メールが日にしょっちゅう来るわけでもなし、家に忘れて出勤しても平気で、さして不便を感じない。

車社会の田舎暮らし、都会で電車に乗るたびにびっくりするのが、車内で携帯をいじっている人の数である。俺はずっとメールをしまくっているのだと思っていたが、なんやらそうでもないみたいだ。携帯から色々カキコしたり、携帯でコミックを読んでいる人もいる。新時代の生活様式といえばそれまでだが、俺自体がそうなる気は、今もってしない。

急激な社会変動だ。俺が高校を出るまでは携帯電話は、一部の任侠道の下っ端か、偉い方々しかもっていなかった。トランシーバーみたいな大きさのものを持って大声で外部の視線を気にしながら話す奴らが嫌いだった。

ポケベルが流行った。俺はポケベルを持つのも遅かったのだが、一時期愛用したことがあった。ただ持ち始めて数ヶ月する内に、電子音で呼び出されることに異常な苛立ちを感じ出した。人間様を呼び出すことを許されているのは、自宅のインターホンと電話だけじゃ!と思っていた。こんなタバコサイズの箱に行動を阻害されることが嫌いだった。

富山に移住した25歳の頃には、多くの人が携帯電話を持っていた。ただ、少しポケベルもまだ残っていた。俺は頑なに携帯電話を拒否し、嫌いだったポケベルのほうがまだましだ! とポケベルにこだわった。

しかし時流は早い。勤めていた会社から携帯を持ってくれとの依頼もあり、しぶしぶ持った。それ以来、急激な普及率で誰もが携帯を持っている時代になり、今に至る。

「携帯持っている?持っていたら番号教えて~?」なんて野暮なセリフは今は使われない。「番号教えて~」と持っていることを前提として会話がなされる。もちろん。教える教えないの事情は昔も今の人それぞれの好き好きだが、携帯を持っていたらという仮定の会話は今はなされない。

パソコンも携帯電話の普及と軌を同じくして普及しだした。俺がゲートウェイの一体型4万弱のコンピューターを我が家に導入したのは1999年のことだ。ダイヤルアップ接続で、ジ~ジ~音をさせながら、俺は外界と繋いでいた。

俺がパソコンを導入しようと思った当時には、俺の周囲でもウインドウズ98が話題になり、結構な数の人が持っていたように思う。ただ、俺は必要性を感じなかった。
俺はこの当時、慶應大学での勉強を通信教育過程で始め、調べ物をするのに、ブリタニカ百科事典を買おうかと思っていた。ところがそれよりもかなり安い値段で調べ物が出来る機器があるということを知人に教えてもらい、パソコンなるものを導入したのだ。

導入されたらされたで数日間は、色々いじってみるが、当時は今ほど調べたい情報もネット上に載せられておらず、ヒットしない検索単語がたくさんあった。エロ用語だけは、当時からよくヒットしていた。

人のせいにするわけではないが、会社の同僚からエロサイトを教えてもらい、行ったら、無数に開かれる種々の扉、わけもわからなくクリックしまくって、海外通話をしていたこともあった。この月の電話料金は28450円だったと記憶している。満喫も出来ず、ジェニファーの裸を見ただけだった。高いストリップ鑑賞体験だった。高級エロ本だ。

今は調べたいものがウィキペディアやらで随分と網羅されており、調べ物機能としてもパソコンは便利になったと思う。

全く持ってすごい時代になってきた。見たい動画もそのほとんどが、すぐに取り出せる。
見た瞬間は興奮するが、昔ほど映像を強烈に体内に宿すことがなくなってきているようにも思う。飽食の苦悩だ。一期一会の精神も薄れてきているように思う。

どこにいても携帯電話で呼び出される。俺が警察とかの特殊業務に携わるならいざ知らず、普通に生業をしていて、どこにいてもバイブで呼ばれるというのは、便利な反面、なんだか囲われているようで、未だに違和感を感じている。

携帯電話がなかった時代、パソコンがなかった時代の生活スタンスを想像することは今じゃ困難になってきている。

数日前のブログに書いたが、キッズが旅行に出かけるとき、1度彼らが旅の行程にのっかってしまえば、親としては向こうから電話がかかってくる以外は連絡の取りようがなかった。どこで何をしているかわからない不安を抱えながら、無事な行程を願う気持ち、そしてそれに慣れることが、子どもを自立させ、やがては親という現役感覚をいい意味で消していく力が、不安な行事にはあったと思う。

それが今は、こちらが不安になったらすぐに電話をかけ、自分の不安をすぐに消し去ることが出来る。忍耐力と相手を信じる心すらが失われてきているような気がする。
我慢が出来ないのは親の方だ。携帯を持たない子どもは自立に向け歩んでいる。

連絡なんてものは、しょっちゅう取れるから良いというものではない。連絡が取れない間も相手の動向を想像し、そこに平安を願う気持ち、不安に悩む気持ち、それらが大人の心をも育んできたような気がするのだ。

どんな関係、例えば、親と子、恋人同士、友達同士、であっても、そこには適切な距離と離れた時間があったからこそ、向かい合う時間が心通う、濃厚なものになっていたことは否めないと思う。

最近言われている「希薄な人間関係」、これは、人々が連絡を簡単に取れるからこそ起こってきた問題であるようにも思う。急激な変化の時代を生きて、その文明の利器を使用し、その正の面を享受している一方、負の面に定期的に目を向けることも必要だと思う。

1年に数回、携帯電話、パソコンの使用禁止日なるものを設けてみて、そこで人々がどのように対処できるかを確認出来る機会を設けてみてはどうだろうか?と思う。家庭用の一般回線電話だけは使用できるようにして、それ以外は一切使用不可にするのだ。もちろん、インターネットを使用して生業としている人も例外無しだ。種々の調整は必要だろうが、簡単に設けられる日々だと思う。

大規模な自然災害に対して非難訓練をするようなものだ。携帯、パソコンなどの昭和には普及していなかったものが、完全に麻痺する事態は未だかつて訪れていない。しかし、大障害が起こって、全てが麻痺する事態がないとはいえない。個人的にはある可能性の方が大きいと思っている。

ならば、それらの事前準備という意味合いも込めて、まずは年に1回だけでも実施してみることは出来ないか?色々学べることがある気がする。アナログ崇拝ではないが、アナログの良さを再認識し、デジタル使用に人間性を加味出来るきっかけになる気がする。

ハイテクであることが、どんなに脆い側面を持っていて、時間を短縮しているようでいて、余計な時間のロスを生じるものまでいかに内包しているか・・・。一緒にみんなで味わう機会を設けることが出来たらいいと思っている。

調べ物をウィッキーでしたら早いかもしれないが、時間をかけて図書館を回り、本屋を回り、それでも解決出来ない問題を抱え、数年越しにその答えに出会う瞬間の喜びはウィッキーでは味わえない。効率だけが人間の喜びに比例するとも思わない。すぐに答えの出ない、アナログで無駄に思える時間が実は愛おしい時間であることを、忘れさせられているのが今だ。

これだけ立派に技術を発展させた人類であるから、そこで、たまには立ち止まって過去の素晴らしさを思い出す時間を設けることが出来る思想も持てるはずだ。それが本当の進化だと思っている。

猿が偉そうに述べるネタではないのかもしれない。ただ、進化途上にあり、直立歩行を出来つつある俺だからこそわかる、進化途上の本能的危惧の吐露だ。ウィッキーと鳴くのもよし、ただ、たまにはウッキ~と基本に帰りたいものだ。猿の主張だ。

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