2008年8月17日日曜日

墓参り

今日は墓参りに行ってきた。嫁の父方、母方両方の2箇所回り、参ってきた。
父方の墓は、田舎の集落内にぽつんとある小さな墓地であり、ぼちぼちの墓風情であった。
墓地横には多量の枝豆畑があって、先祖の前で、野菜泥棒をしたい欲求にかられた。

母方の墓地は、わが町最大の霊園内にある。高台で町が見下ろせる所にあり、墓の大規模分譲地だ。区画ごとに番地まで記してある。

墓掃除やら、花を活けたりする面倒くさい作業は嫁にまかせ、俺はひたすら点火に興じた。

ローソクの耐風力はすごい。1度火が着くと、少々の風にはへこたれないで灯火を守る。
そして、霊魂の灯下をわが身を削って作り出すのだから、なかなかの野郎だ。奴らの命は短い。すぐに体がとろけ出す。何だかロッキンだ。俺はろうそくが少し好きになった。

線香は、なかなかのいぶし銀だ。持久力ではろうそくを上回る。なかなか着火してくれない上に、ついてからも過剰な火のアピールはしてくれないので、着けた本人が少々心配になるくらいだ。それでも、ほのかに仏的な香りを出しながら、ちょびちょび灰になっていく。こちらは円熟に向かうブルースマンみたいだ。

周りの墓も見渡す。お盆時期に親類縁者が参った後だからだろう、だいたいの墓が綺麗に掃除されていて、花も枯れていない。

そんな中だから余計に目だつのが、手入れされていない墓だ。縁者の参拝がない墓は、草もぼうぼう、石も徒に朽ち果てていて、何だか悲しい。余計なお世話だが、色々なドラマを頭に描いてしまう。

放蕩息子しか持つことが出来なかった親の境遇、親類縁者総倒れの家系・・・、無縁仏の墓標とはまた違った悲哀を、分譲霊園内の墓に感じた。

隣の区画の分譲地では、高齢のご主人が1人で墓参りをしている。雑巾を何度もしぼっては墓を掃除し、花を慣れない手つきで活けている。奥様を亡くされたご主人であろうか?余計な詮索をしながらであったが、何だか心温まる光景だった。

分譲霊園で墓参りを終え、霊園内の坂道を車で下る。至る所に路上駐車で多数の墓参り者がいる。

ヤクザ映画の見すぎだからであろう。黒塗りの車から、いかつい御仁が降り立つのを見ると、何だか車を停めて観察したくなる。先代の墓参り時に敵対集団からのカチコミがあった事例はたくさんある。山一抗争なんかを思い浮かべた。

墓には手を合わせた。だが、自分の直接の先祖でもないからだろうか?特に胸に起こる感慨もなければ、何かをお願いする気にもなれない。みんな手を合わせて何を思っているのだろう?何だかお願いしているような気がしてならない。

先祖に対して、感謝の念を示すのは大切な和の心だと思うが、1年に1回参ったぐらいで、そこで種々のお願いをするなんてのは、どうも気に食わない。信仰心の希薄さとも違う、何だか冷めた感情もあった。俺はただ一言、「日々、精進しやす。」とだけ軽く誓った。

俺は、なかなか墓前を離れない嫁を待つ間、背丈の低い木を中心に蝉を探した。街中では少なくなった気がしていた蝉が、むちゃくちゃいる。アホみたいに鳴きさくる。普段、人が少ない土地では、まだまだ蝉もいるもんだと思い、何だかほっとする。

墓参り、俺は実の親父の墓には1回しか参ったことがないが、こちらの墓には毎年ちゃんと参る。先祖に対する感謝を1年に1回だが示すという和の文化。これはこれで素敵だと思う。この動作をすることで、わが身の襟を正す気持ちになるから不思議だ。しょせん、生きている人間の勝手な解釈と感情移入の墓参りの時間であるが、毎年大切にはしたい行事である。

明日からは1泊で、志賀高原の温泉に行ってくる。昨年行った、万座温泉のすぐ近くの所だ。泉質は万座と同じ、硫黄だ。あの、屁の香りだ。ヘヘヘ・・。

信州中野から草津温泉に抜ける道は何度も通っているが、大好きな道だ。湯田中・渋から種々の小さな温泉を抜ける。道をそれると、一昨年訪れた日本一の秘境、秋山郷にも行ける。横手山をハイキングしたり、ゴンドラ・リフトに乗ったりして、夏山ならではの風情を楽しみたい。

宿のお湯には最低4回は入るだろう。放屁の香りに包まれながら、湯浴みを楽しみたい。そこで、今は亡き父親や、先祖に対する感謝なんかを思い浮かべるのも良いだろう。墓地に行くだけが先祖供養ではない。 お盆になると、現世に帰ってくると言われる先祖様、今頃はもうあの世にお帰りだろうか? 盆は過ぎていく。

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