2008年8月1日金曜日

連帯責任

甲子園出場が決まった代表校の野球部員の不祥事があった。
高校野球児による不祥事といえば、喫煙、暴行、窃盗の3本柱であったが、今回は強姦だそうだ。

ベンチ入りメンバーではないこともあり、野球部は甲子園への出場辞退はしないとのこと。
学校のトップが決めたことだから、それがその高校の校風であり、外野が是非をどうこういうことではない。

喫煙で出場辞退する高校もあれば、強姦でも出場辞退しない高校もある。これらを当事者で無い有識者ごときが裁く場ではない気がする。学校の教育理念が事後処置の決定にリンクするだけである。一般的な裁きは高校進学を控えている生徒、保護者の判断に任すだけでよいと思う。

その学校を進学先として選定する際の尺度に、間違いなく今回の不祥事も入るであろうから、その学校が数年先も存在するか、淘汰されるかといった、時間だけが今回の処置を裁き、風化させてくれるだろう。

もし、会社の1社員が不祥事を起こした場合(不祥事の種類にもよるが)、会社はその社員を懲戒解雇するが、辞めてもらったからといって、単なる個人の事件で済むかというとそうではない場合が多い。少なからず会社のイメージ自体にも影響は与える。

ある特定の集団には、多少なりとも連帯の責任があり、それから逃げられない。1人が不祥事を起こすと、集団全体に悪いイメージが残ること、それは仕方ない。

だから、高校野球の不祥事に際して、「社会の中での個人の責任を体感させるためには、出場辞退というのが正しい選択である。」という有識者もいる。

たしかに、一理あるとも思う。甲子園に出られなかったからといって、命をとられるわけでもないし、悔しさを通して学べることの大きさの方が、後の彼らの人生にとっては、意味のあることのようにも思える。連帯責任を若いうちから体感させることが有益な面は否めない。

ただ、連帯責任というものをあらゆる事例に当てはめる必要はないと俺は思う。連帯すべき不祥事と、連帯とは関係ない不祥事があると思う。

不祥事を起こした個人を抱えた集団への連帯責任が必要な事例というのは、部室内での集団喫煙などの場合だ。これは、レギュラーであるなしの関係はなく、吸ったほうも、吸わないにしろ見ていたほうも、確かに悪い。連帯で責任をとるべきだろう。
大人の社会でも、飲酒運転をする人とそれを知っていた人とが両成敗を食らうのと同じだ。

一方、連帯責任がない事例というのは、今回のような強姦といった凶悪犯罪を個人が起こした場合だ。この場合にはむしろ、不祥事を起こした個人を抱えてしまった集団への憐憫の情を周囲が持ってあげるべきだと思う。連帯対象になるものではないと思う。

未成年者の喫煙と強姦、両者の差は大きい。誰しもが陥る可能性がある犯罪か、一部の人間ではない化け物しか犯さない犯罪かの差だ。

連帯責任というのは、個人の罪を集団みんなの責任としてとらえ、再発を防止するために集団で努力しようとするものであり、当然のことながら、人間が犯す可能性のある罪全般があてはまる。

ところが、強姦なんかは人間の所為ではない。化け物のなせる所為だ。秋葉原事件を犯した化け物の予備軍的な族であり、人間は化け物退治をすることだけが必要だ。化け物は迅速に埋立地にでも捨てれば良い。人権は人間にあるもので、化け物にまで権利を認めるほど人間は寛大ではない。

だから、今回の不祥事を起こした高校側の処置、俺は妥当だと思う。どういう思想で処置を決めたかはわからないが、辞退しなかったというのは、よかったと思っている。

マスコミはすぐに、化け物を抱えた集団への批判を興味本位で加えるが、相手は化け物であって人間ではないことをしっかり理解して、化け物に忌諱の念だけを持っていれば、集団に負の影響は与えないと思う。 忌み嫌う相手を見極めて欲しい。桐生第一高校を今回は弁護したい気持ちでいる。

内閣改造組閣がなされるが、ポストに就く人、去る人には連帯責任をもう少し持ってもらいたい。彼らは個人が犯した罪を、別の集団になすりつけるから、性質が悪い。内閣は内閣で、国会は国会で、社会保険庁は社会保険庁で、集団ごとに連帯責任を負ってほしいものだ。負える大きさの責任ではないけれど・・・。

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