2008年8月11日月曜日

スポーツの見方

バドミントンのオグシオが初戦突破! 中継を見ていて、冷や冷やしたが良かった良かった。我が県はバドミントンが盛んである。現在の教え子の中にも地区大会で優勝している子がいるので、興味深く観戦していた。実業団企業の資金提供意欲の増加に繋がってほしいと思っている。

観戦しながら、自分の中で興味をひかれるポイントが変化してきていることに気がついた。
オリンピックが始まる前の野球中継なんかを見ていても、かなり見る視点が従来とは異なってきている。

一般的なスポーツ観戦の視点というのは、こんな感じだと思う。野球を例にする。

最初は、ホームラン、剛速球といった、誰の目にも分かりやすい大型のプレーに魅せられる。

ところが、自分がその競技を実際にしたり、または、観戦歴が長くなったりするにつれて、そこには評論家としての渋い視点が加わり出す。速い球、ホームランだけでは満足できず、投手なら緩急の付け具合、打者なら選球眼の良さや、狙い球以外のボールをカットする技術なんかにも目が行き出す。野手の何気ないグラブ捌きなんかにもいぶし銀を見出すようになる。

俺はこの2番目の時期が長く続いていた。野球に限らない。サッカー、バスケ、相撲、ボクシングなどなど、色んなスポーツを見る機会が増えるにつけ、テレビ解説者の受け売りの知識を無意識に貯めこみ、そこに新たな興奮のツボを見出してきていた。

しかし、今年に入ってからだろうか? 少し自分のスポーツ観戦の視点が変わってきていることに気がついた。アスリートの動きの細部も細部、微妙な筋肉の妙に興奮を覚えるようになってきた。

オグシオのバドミントンの試合を見ていた。腕を上から下に振り下ろす豪快なスマッシュというのだろうか? ああいったプレーや、凄い速度のシャトルに対する反応の速さにアスリートの凄さを感じるのではない。

俺が凄いと感じたのは、地面に着地しそうなシャトルを足を踏み出してラケットで下からすくいあげて、相手の陣地に返す場面だ。

その足を踏み出して手を伸ばした場面がスローモーションでリプレイされると、一流選手の凄さを感じてしまう。エロティックなフェチの視線ではない。鍛えられた人間の凄さを感じてしまう。

もし、オグシオなどと同じ角度の足の開き、手の伸び具合、足が地面に着く負荷の衝撃、それらと全く同じ動きを30代以上の素人が1回でも偶然したとしよう。3回に1回は何か体に支障をきたしそうな気がする。ある人は腰を痛め、ある人は膝をやられ、ある人はアキレス腱が切れるだろう。運動不足とかいう問題ではない。人間に本来備わった動きではないような気がするのだ。

人間の体に元来備わっている筋肉の可動範囲と適応力は、生存のために必要なものに限られて設計されていると思う。食物を確保するため、敵と戦うために必要な動きは誰でもがある程度は出来るような気がする。

野球の投げる、打つなんかは、食料を確保するため、木の実を取る時に必要な動作であったような気がする。 サッカーの蹴る、ヘディング、格闘技全般なんかは、ガチンコステゴロファイトに必要な動きだ。

だが、落下しそうなものを着地寸前に何かですくって上に上げるという動作が、人間が生きていく上で一般的に必要な動作であるわけがない。それも股をびしっと開いて、片手ですくいあげるのだ。木の実が落ちてきてもそこまで必死にならない。日常の動きではない。

人間の体に設計されたものにはない動きを後天的に身につけるアスリート、その訓練の過酷さと怪我と背中合わせの環境、それらを考えて見てみると、意外とメジャーじゃないスポーツほど、常人との差異は際立つような気がするのだ。

卓球にしてもそうだ。あのスピードで反復して打ち合う環境が、原始時代から今まで、競技を離れて必要となったことがあるだろうか? せいぜい、ビンタの打ち合いファイトで擬似体験できるぐらいであろう。

普段の生活にはない動き、負荷のかかる動きを中心にアスリート観戦をしようとしている俺がいる。

訓練の凄さを感じる今日この頃である。なぜか、股割りをしながら観戦した。今、股が裂けたような痛みを抱えて書す。

アスリートってすごい。

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