2008年8月28日木曜日

漁師を守れ!

俺は魚が大好きだ。酒の肴も魚を好む。肉より断然、魚派であり、鯵、秋刀魚、鰯、鰤、鯖・・・、想像しただけでもよだれが出る。大阪から富山に移住して、1番良かったと思ったことは、魚が美味しいということだ。

ふだん何気なく食べているが、美味しい魚に舌鼓を打てるのも、漁師が魚を安定供給してくれるからだ。遠洋漁業、近海の定置網、漁法は色々あれど、あらゆる種類の魚が、日々魚屋、スーパーに並ぶ。

漁師の仕事がガテンであることは想像に難くない。船酔いしない、もしくは、船酔いを克服できる資質、迅速なチームプレーと個人の筋力の強さ、体内時計に逆行する生活リズム・・・、彼らはガテン中のガテンだ。

天候や運に左右されるので、計画的な収入保証があるわけではない。昔、氷見漁港で知り合った網元の御仁に面白い話を聞いた。

2隻の漁船が、仕掛けた定置網から、ぶりの引き上げに向かうとする。2隻の間の距離は数キロしか離れていない。条件、規模はほぼ同じである2隻の船と網であるが、ある1日で、1つの網には、ぶりが大漁で1億円規模の水揚げがあるのに、もう1つの網には、カワハギだけしか入っていないなんてことが、よくあるらしい。

言ってみれば、毎日がギャンブルだ。収入をグラフにするならば、鋭角のカクカクしたものになるだろう。大雑把で豪快に見える漁師だが、網元になれば、大きな実入りを浪費せずに回していく金銭感覚も必要になる。決して刹那的には生きられない商売だ。

そんな漁師が悲鳴をあげているというニュースをよく聞く。石油価格の値上がりによる船の燃料代アップが、彼らをじりじりと追い詰める。初めての一斉休漁も行われた。
「もう、漁師をやめたい」とこぼす人もいる。

不思議に思ったことがある。これだけ、燃料費が上がって、漁に対するコストが上がっていると言うわりには、市場の魚価格が上がっていないことだ。むしろ、安くなっている気がする。どんなからくりがあるというのか? 疑問に思っていた。

その答えは、今月号の「文藝春秋」に載っていた。漁師には魚の市場価格を決める権力がないというのだ。海ではなく、浜で価格が決められるという。

これはおかしな話だ。自動車会社は鉄鋼資材の値上がりを車の販売価格に反映する。小麦が上がればパンの値段が上がる。コスト増に対する精一杯の企業努力をした上で、それでもどうしようもない場合は、値上げするしか方法がない。イレギュラーなコスト増ならば、経営努力により乗り切れるが、長期的なコスト増をかぶり続けるならば、経営基盤自体を揺るがしかねない。苦肉の策だが、会社が存続するためには、値上げも立派な策だ。

だが漁師は浜値を上げたくても決定権を持たない。漁に出れば出た分だけ赤字が積み重なる構造を打破できずに、貯蓄崩しの経営を強いられているところがほとんどだという。
いくらなんでもかわいそうだ。

この状態が続けば、漁師の廃業が現実になる。ただでさえ、漁師の高齢化と後継者不足が叫ばれている。身近な船乗りを見ても、齢70近くの人がうじゃうじゃいる。若い人でも40代後半の人が中心に思える。また、海洋、水産系の高校に進学した子供が、漁師にならずに工場に働きに出るという。

「日本の食卓から魚が消える?」といったセンセーショナルな危機感の煽られ方は好きではないが、本当に無策であれば、その事態は起こりうるだろう。漁師にしても赤字を垂れ流す漁をずっと続けられるわけがない。

北島さぶ、山川、鳥羽、・・・、海を歌うこぶしの男たちは、こんな時こそ立ち上がらないといけないのに、どうもモーションが遅い! 自分らのこぶしに、漁師の抵当権があることに彼らは気付いていない。

魚が安く食べられる環境はありがたい。だが魚価格は、漁師さんの生活と生業が維持できた上での価格であるべきだ。漁師さんの生活どころか、生業自体の存続危機にある今、魚の価格は漁師さんに決定権を持たせてあげるべきだ。

漁師という存在はプライスレスだ。彼らの存在を守るために払う魚価格もプライスレスだ。

0 件のコメント: