2010年9月10日金曜日

転がった先

≪ブログという存在を忘れていたわけではないが、転がっている最中であり更新がストーンと落ちていた≫

前職を辞めた。出戻り職場で2回目の退職。残念な結果であったし、不満もたくさんあるが、出戻りする前に社長の本質を見抜けなかった自分がしょぼいので、もういい。

在職中にお誘い頂いた会社の方々と一通り話をした。

前職と同じ業界の競合会社2社に関しては、自己哲学として、やはり受ける気持ちになれなかった。
産業廃棄物処理業の営業職も労働条件や業界風土面でぴんとこなかった。
ビルメンテナンス業の営業は待遇提示はがんばってくださったものの、これまた何かアンテナにひっかからなかった。
塾に関しては、わが子が出来てから人様の子に熱意をもてないので対象外。
飲食店の店長職はシフト面で日勤希望の部分がどうも譲れなかった。
残ったひとつが損保代理店研修生というお誘いだ。

損保代理店研修生という選択肢は、最初はもっともないものだった。

お誘い頂いた方が個人損保代理店として20年以上されている方だった。
この方への個人的イメージが良かった点(俺の保険加入は別のところにしているが・・・)、また、俺が退職意向であることを話す前にお誘いいただいたことがあり、話を聞くことにした。

退職までのいきさつにもどるが、ある組合の職員としてのお誘いをいただいていた俺は、そこで2年後に定年退職者が出るから、その後に入らせて頂く段取りになっており、それまでは前職でだましだましいるつもりだった。

だが、前ブログでも書いたいきさつで、早まった退職をする。

損保代理店研修生のお誘いを頂いた方に、組合への2年後就職意向であることを伝えると、「それなら、なおさら挑戦してみたらいい」と言う。

損保代理店研修生として1年半過ごせば、見込みがあるかだいたいはわかる。いざダメだとなった時に、再就職先見込みがあるのは、そこに甘えない限りは心強いという。

なるほど?? と半信半疑で話を聞きにいく。

支社長は良い面よりも大変な面を教えてくださる。業界イメージがあまりよくないことも否定されない。
ただ、これからは義理、人情で何とかなる業界でないので、能力を持った方に真剣に関わって欲しいという。

3時間近くに及ぶSPI試験というものを受けた。高得点を出した。当たり前だ、勉強したから。結果を見て支社長は、俺が間違いなく適性があるという。

いろいろ業界について調べた。ネットを見ると悪いことばかり書いている。「食えない」という主旨がほとんどだ。おまけに、研修生として独立できるのはほんの1割くらいで、それ以外は研修期間にノルマを達成出来ずに解雇されるという。

ところが、これらの情報がまったく俺にはドン引き対象とならなかった。

「食えない」と書いている人ばかりがネットにはびこるということは、「食える」人はネットに「食える」とブログアップしないだけだろうと考えた。

独立できるのがほんのわずかということに対しても、当たり前だろうな?としか思わなかった。

俺はKO通信を4年で卒業し大卒資格を得た。入学前にはいろんなマイナス情報ばかりが目に入った。

「通信で卒業できるのはほんの数パーセント」という情報をネットで見た。
また、「卒業できるとしても8年くらいかかる人が多い」という情報も見た。そしてそれは事実でもあった。

でも俺は4年で卒業できた。いや、卒業しようとしてした。

ならば、ネガティブな情報を見る時間をなくし、肝心の業界や商品内容、アクションプランについて考えてみた。

結果、保険のプロとして適切なコンサルティング業務は、持ち前の勤勉さと行動力でできると結論付けた。

今まで培った営業スタンスである、「本当に顧客にメリットがないものは提案しない。」「デメリットこそしっかり話す」
「既存知識にあぐらをかかない」などを実践していって、それで食えなかったり、研修途中で解雇になったりしたら仕方ないと割り切った。

問題は家族を食わせていくことへのリスクである。仕事が頓挫した場合に家族を路頭に迷わせるわけにはいかない。

そこは上記の組合からのお誘いが本当に心強い。組合局長に「結論は早めに出すので、保留しておいてほしい」と伝えると、「入りたがる人がたくさんいるから、お前がだめになってから募集しても欠員にはならないから、ぎりぎりまで席は空けておく」と言ってくださった。

ただ、2年後の逃げ道を持った気持ちで、人様に保険提案することがひっかかった。

だから、どうなるかわからないけれども、自分の気持ち的には、組合の約束がないくらいのつもりでやりぬくという覚悟を出来るか自己対峙した。これには数日要した。

すっかり気持ちを固めたこちらとは皮肉にも、試験を受けてから正式内定をいただくまでに時間を要した。

正式内定まで時間がかかった要因は、一言で言えば、俺の汚れまくった履歴書に対する本社人事部からのツッコミへの答弁に時間を要したということだ。年齢もアウトぎりぎりだ。

ツッコミされるたびに、俺は自分の、世間的には間違いなく汚れに見える履歴を堂々と虚飾なく話した。

試験を受けた後は、損保代理店研修生1つに絞ってしか転職活動をしていなかった俺は、内定までの時間にいらだちもした。

「値踏みするなら入ったらんわい」と、1時間ほどぐれそうにもなった。

そしてついに浮気もした。転職サイトのめぼしい求人に送って、2社の面接段取りを得た今日、内定が正式に来た。

浮気先には「遊びだったの、ごめん」と心を込めて謝るつもりだ。

今回の転職活動を通じて、凹んで、そして学んだことがある。

それは、不惑を目前にする年齢にもなって、転職を、そして社会をあまりにも甘くみていたことだ。

今まで仕事探しで苦労したことがなかった上に、お誘いもいただいていたので、安易に退職したが、
俺の年齢と履歴は一般公募では真っ先にはねられる対象になってもおかしくないものであるという事実を知った。

前職を退職したことは正解だと思っているが、家族の長として最低限、内定をもらってから退職すべきところを、安易に退職日を線引きした。わが嫁だから、ちくちく嫌味で済むものの、普通ならぷんぷん無視の刑に処されるべき事態だ。

今後はとにかく目先の壁に真剣対峙して突き進むつもりだ。そして、できることならもう退職や業種転換はしないつもりだ。

プライドはたくさん持っているが、家族を養うことに1番大きなプライドを持って善処していきたいと思う。

石が転がるには坂道を下に落ちていくのが物理的摂理だ。転がった先が保険の転職先だとしたら、何だか底辺にいる気もする。

だが、違うのだ。 下りきった後に、勢い余って登るくらいの加速をつけた日々を処してきた俺は、ここから坂道を逆ローリンしていくであろう。逆ローリンの速度は徐々に弱まるかもしれないが、ストーンと落ちる時は、どこか素敵なくぼみにでも落ちたらいいと思う。

くぼみはまだ見えないが、そこに立派に育った息子の姿を夢見ている。

転がった先にとりあえず辿りついた。ここでスピードを緩めずに登りたいと思う。

明後日は「ほうるもん」ライブ。浪人気分で当日を迎えなくてよかったと思っている。

新曲、「からから」をやる。転石は音をたてながら、次に向かうのだ。

ブログもまた頻繁に書こうという気にもなっている。

2010年7月13日火曜日

転がる親父

転石のごとく、転籍をくり返してきた俺の今の仕事は、10年ぶりに出戻った会社の営業だ。

昨年4月に30人程の会社に出戻り、社長の腹心として種々の改革を、毒舌を吐いて推進してきた。

個人的な成績もよく(もちろん1番)、立場的にも快適。給与も悪くない。

だが、昨年の夏以降(出戻り4ヶ月後)には、もう、次なる転がり先を考えている自分がいた。

お世話になった社長と会社に不満を垂れるのは嫌なので、細部は言わないが、社長の持っている人間的資質の良い部分と、幼さゆえのしょぼく感じる部分とが相殺出来ずに、後者が目立ってしまって、それに俺がついていけなかったということだ。

昨年秋頃から、何度も社長に対して、建設的意見という名のダメ出しをしてきた。
一例だけ出すなら、毎月、成績行かなかった営業マンのおごりで飲みに行くという企画を社長自らがもちだしてきたことがあった。それに社長自身が参加する。

それに対して、「社長がそれ発案したらダメでしょう? 幼稚すぎます。 懇親は大事だから、毎月営業だけの飲み会を企画するのはいいが、悪くて会費制でしょう???会社的なものを社員に求めときながら、個人商店みたいなことしてたら恥ずかしい。」

ビジネス啓発本からの剽窃ばればれの企業倫理みたいな荘厳なことを語った後に、上記のような幼稚な企画が出てくるので耳を疑う。出張で、ゴチバトルを持ちかけてきた時以来のショボさだ。

思いつきでビジョンを語って酔う。その後に言ったことを忘れる。それでもカリスマがあればいいのだが、気の毒なくらいない。お坊ちゃまで、あるのは金だけだ。


すると毎回、翌日には俺の御機嫌窺いをして、媚を売ってくる社長がいた。俺の肩を叩いて、さりげなくすりよってくる。それがまた重なるといじくらしくなってくる。

ダメ出しはもちろん、会社を良くしようという動機から出たものだ。だが、ダメ出しを重ねていくうちに、本質を突くためには、社長の人間性にまで踏み込んで話さなければならないことが出てくる。そして、その本質が、上記のような幼稚なことから遡らなければならない。

そこでふと考えた。「そんな資格が俺にある??それに、そこまで言う必要ある?」 なんだか、ダメ出しする自分が傲慢だと思って、ダメ出しもしなくなった。

社長に辞表を出した。

すぐに話し合いになり、「どこがだめだった?」と色々問答が続いた。

俺からは、「社員が経営者にいつまでもダメ出しする環境は、越権行為であり、それをいつまでもしたくない。お世話になった恩義の返し方は色々あるけど、社長にダメ出しして問題提起することが、出戻り社員としての俺の役目だと思ったからした。ただいつまでもしたくない。一身上の都合ということで斟酌ください。」と言った。

翌日再度の話し合いがあり、社長から、「退職理由は、一言でいえば、俺が2回目の今回も見切られたということか?」と聞くので、

「言いにくいのですが、そうです。」

これで退職が決まった。退職日は会社優先で協力することにしている。ただ、辞める人間が長くいることが会社にプラスとは思わない。最短で最大限の好意的な引き継ぎをし、だからといって、お人よしにはならないでおこうと思う。

色々活字にしにくい、もっとびっくり仰天のしょぼさもあるが、出戻りを誘われた時点で、それを見抜けなかった俺が未熟だったということだ。

在職中の顧客で、お誘いを頂いているところが6件ある。退職後にゆっくり話を聞いて、ゆっくり考えたいと思う。

嫁は理解してくれた。というか、社長のしょぼさを事実だけを的確に話すと、納得した。

息子を抱っこしながら、「ごめん、お父さん、辛抱できんだ。でも、お前を飢えさせることはないから、安心しとけ。」と小声で言った。

息子は、「う~~~ん、う~~ん、ぶびゃ~~~~」とうめきながら、雲古を垂れた。おむつとズボンの厚みを超えて、俺の腕にその肉感が伝わった。俺の転職を肯定してくれているかのような、まん丸の雲古をしていた。

息子は明日が1歳の誕生日。小走りに近いスピードで部屋から廊下から走り回る。食欲は旺盛。病院嫌い。快便。物を投げるのが好き。本を破るのが好き。寝相が恐ろしく悪い。頭突きが得意。石頭だ。

親父は息子の成長をたくましく見守りながら、父親としての役目を懐深く自覚しながら、再び転がろうとするのであった。こけるわけではない。雅な苔を生しながら、慎ましく生きていくだけだ。


今月25日(日)に野外でライブをする。富山の音楽イベンターの方からお誘いいただいて出演する。

県民の憩いの大型公園内での野外イベントであるし、息子を連れて行こうかと思う。

ライブが終わったら色々次なる職場を求め、転がる先を見つけに話を聞くつもりだ。転がる瞬間のわくわく感が好きだ。同じ山の中で転がるようになりたいとは思うのだが、今はまだ山を飛び越え転がる馬力を宿している。これがファンキーというものだ。

次のライブはファンキーな「ソウルサヴァイバー」で始まり、「苔むす男」で終わるセットリストを予定している。なかなかローリンなメニューだ。

2010年5月23日日曜日

休日雑記

昨夜は「ほうるもん」ライブ。

富山市の「Artist‘s」に出るのはもう5回になるが、以前見て頂いて声をかけて頂いた方との対バンがあったり、初めての方と意気投合したり、ハコで生まれる素敵な交流に感謝する夜であった。ある野外フェスへの打診を頂いたり、バンドマン冥利に尽きる感動を味あわせてもらった。

新曲は2曲、「仔牛の嘆き」「苔むす男」。

どちらも非常に大衆受けしないテイストであるが、骨太ロックを標榜するほうるもんの重要なレパートリーになると思う。

音楽きっちりほうるもん、今後さらにガツンとかましていくので、乞うご期待!

1夜明けた今日は、野球の試合が2試合ある予定だったのだが、雨による中止。

睡眠を取れていない日々が続いていたので、恵みの雨である。

所属している消防団が、「操法」という放水訓練の大会に出場するので、連日19時から2時間の練習がある。

19時にそれに参加するために仕事を逆算していくと、朝は6時頃の出勤になる。

バンド練習はあるし、商工会のある委員会の会合はあるし、飲みのお誘いはあるし、連日息子が寝る時間までには帰ってこられず、母子家庭状態である。

でも、都会のお父さんは、21時以降の帰宅が普通であろうし、車通勤の快適環境にある身分、贅沢はいえまい。むしろ、色んなコミュニティーに参加させてもらえていることを意気に感じてやっていこうと思う。

書店巡りは仕事中にさくっとしている。

解放出版社から出ていて、以前に図書館で借りて読んだ「ホルモン奉行」角岡伸彦 さんの待望の文庫本が新潮文庫より出された。

日本、世界の内臓料理に関する考察とレシピが載った名著だ。

綺麗な霜降りや、柔らかい仔牛もいいのだろうが、生命の根幹を掌る内臓に目を向けて、たくさん食して、わがスタミナに変えていきたい。

といっても、なかなか調理環境と技量がなく、当面はよいホルモンを提供してくれる店のお世話になりたい。

料理がまったく出来ない俺ではあるが、料理人への憧憬は人一倍ある。

「板前修業」 下田徹 集英社新書 を再読。これを読んで魚売り場に行くと、何分でも魚を見つめられる。

無性に魚が食べたくなって、昨日の午前中に、漁港内にある食堂に魚を食べに行った。刺身と汁と焼き魚の1800円定食をがつがつ食べた。

荒くれ漁師のレシピはワイルドだ。汁に魚がそのまま入っている。味噌汁もがぶ飲みの俺は、ぐわっと喉に流し込んだのだが、しっかり小骨が喉に刺さった。1本は取れてくれたのだが、まだ1本、しっかり刺さっている。

ごはんを噛まずに飲み込むと取れる!という先達の知恵を実践するが、かえってしっかり突き刺さってくれたみたいだ。

まあ、もうしばし刺さらせておいてあげようと思う。俺の唾液は骨くらいは溶かすだろう。溶けるまで、チクチクと魚の息吹を感じてあげようと思う。

「人間の建設」小林秀雄、岡潔 新潮文庫 読み応えある雑談集。知の巨匠から飛び出す言葉は、多くの派生する興味を抱かせてくれる。丁寧に拾って書籍巡りしていく時間がなかなか取れないが、再読したい本だ。

畠中恵、高村薫、松尾スズキ、そして文藝春秋・・・、ちびちび読んでいるが、もっと本に触れる時間があれば・・・、それだけが不満だが、日々充実している。

息子は立って伝い歩きをする。上の歯も歯茎を突き破って生えてきた。前髪を切ったら、「FUJIWARA」の原西さんみたいになった。水疱瘡が直った。体調不良時も、ハンバーグみたいないい雲古をしていた。内蔵は強そうだ。さすが我が息子。

2010年5月2日日曜日

たまらん

ネット環境やブログと疎遠になる日々が増えている。

パソコンを開くのは、我ながら笑えるのだが、「サンシャイン牧場」というmixi内の
アプリでの、作物の手入れをするためだけであることが多い。

他人に無関心なわけではない。懇意にさせて頂いている方々の近況は、相変わらず気になるし、一言申したい!という欲求が減ったわけでもない。

だが最近は、ネット徘徊をすることや、主張をブログですることが減った。なぜかはわからない。

最近、口数も減ってきたような気がする。元来、人よりおしゃべりな俺は、何でも気持ちを具現化した言葉に諮詢するかのように垂れ流すことが多かったタイプである。

今でも、一般的な「無口」な人とは対極にあるのであるが、自己基準で明らかに「無口」になってきている。

口数が減ることが、思考する時間が減ったからではないと思う。頭の中でずっと思考することを放棄していないし、いつも何かを考えている。

仕事やプライベートにおいて、言うことはしっかり言う。むしろ、その頑強さは増していると思う。

だが、物理的に言葉を発する時間は、間違いなく減っている。言葉の精度が上がって、的確に放出すべきことを、言葉で放出できているならばいいのだが・・・。

近況はすこぶる充実している。

「ほうるもん」は先日4月29日に、おやじバンドだらけのイベントに出させていただき、それなりに意志ベクトルの濃いライブを出来たと思っている。曲もアルバム2枚を作れるくらい増え、どれもこれもまたいい曲だ。

私生活では、子供がつかまり歩きをし出したり、歯がしっかり生えてきたり、具現化した言葉の萌芽をむにゃむにゃ発するので、毎日感動を運んできてくれる。

今日は、清志郎さんの命日だ。

「多摩蘭坂」の歌詞に、「無口になった僕は ふさわしく暮らしている」というのがある。

ずっと好きでいて、ずっと実感がなかった歌詞なのだが、最近はこの心境が、もちろん清志郎さんとはまた違った感慨なのだろうが、自分にしっくりくる日々を過ごしている。

歌詞は続く、「言い忘れたことあるけれど」

夜に腰掛けながら、たくさんの故人を偲んでいる。たまらん・・・。

2010年3月22日月曜日

Gメンにアーメン

万引き・・・窃盗の一種であり、営業時間中の商店小売店デパートスーパーマーケットコンビニエンスストア書店)等において、販売目的として展示・陳列してある商品(商品見本を含む)および展示・陳列のための備品等を、店側の目を盗んで窃取するものを言う。(Wikipediaより抜粋)

許しがたい行為である。こんなことをする奴は、世の中から間引いてしまいたいくらいだ!

と偉そうに思う今の俺がいる。

だが、俺も万引き経験がある。今でも胸が痛み、慙愧に耐えない。

俺の万引きは、友達との万引き遊戯の一種のような悪質なものであった。本当に欲しいものがあって盗んだのではなく、「俺はこんなに盗んだぜ!」といった武勇伝気取りの万引きであった。

若気の至りでは済まされない、何とも心滅入る過去の悪行である。

中学の時に万引きをしていた級友の1人は、ずっとその悪癖が抜けきらず、10年前に死んだ。風の噂なのだが、黒社会の良くないモノに手を染めて、変死したという。

「賽銭箱にお詫びの手紙と3万円」というニュースがあった。何でも、過去に賽銭泥棒をして、その償いとして、10年後に利子を付けて賽銭箱に手紙と共に入れた人がいるというのだ。

この気持ちがすごくわかる。俺が盗んだ、クイーンのカセット、菊池桃子のカセット、寿司折、ハンバーガー、コーンビーフ、オイルサーディン・・・、償う店を訪ねたが、そこはもう跡形もなく消えていて、俺の償いは終わっていない。

コンビニバイト時代、セブンイレブンで働いていた時に盗んだ牛すじは、辞める時にオーナーに正直に言って給与から払った。だが、ファミマでバイトしていた時に盗んだものの償いは出来ていない。

時効かもしれないが、今後もずっと心に痛みを抱えていくだろう。とげは抜けることはない。

都合のよい解釈だが、万引き撲滅に向けた啓蒙活動をしていくことぐらいしか出来ない。

今の営業仕事のお客さんの1つに警備会社がある。システムコンサルタントと警備部門を併せ持つ会社である。県内だけでなく、県外にも盛んに進出している、儲かっている会社だ。

そこの専務さんから、先日俺に電話があった。

「うちが保安警備部門に参入するので、業務案内パンフの撮影に協力して欲しい。」という。

万引きのGメンとして、私服の張りこみ警備をする保安部門への商い参入に際して、そのイメージ写真を撮り、パンフ、サイト等でアピールされるみたいだ。

俺が働いている会社は、営業とは別に店舗を数個構える。その店舗で、万引き犯を見張る警備イメージ写真を撮りたいというのだ。

社長に断りを入れると、「任せた。」とのことで、先方に快諾した。

すると、俺にも立ち会って欲しいという。 まあ、それもそうだろう。いきなり来て、勝手に写真を撮ると、それ自体が限りなくGメンの捕獲対象となる。警備する側が警備会社に通報されちゃ、しゃれにならない。

俺は時間調整をして、店舗での撮影に立ち会った。少し、嫌な予感はしていた。

専務さんといかつい社員の方が来られた。いかにもGメンである。

どういうシチュエーションで撮影するのか知らなかったので、興味本位で、「どうぞ、どうぞ、ご自由に撮影ください。」と言ったのだが、来店開口1番、「あの~、万引き犯役やっていただけません?」と言われた。

めまぐるしく思考が頭で動きまくっていたのだが、時間にして1秒置かずに、俺は「はい喜んで!」と、威勢のいい料理人のような返答で、カゴを取りに行った。

「カット①」
店内の死角で商品に目をやっている俺、その後方の列にさりげなく潜むGメン。

「カット②」
ポケットに売り物を入れる俺、それを密かに目視するGメン。

「カット③」
店を後にして、駐車場内に足を踏み入れる俺、それを呼び止めるGメン。

万引きのホップ・ステップ・ジャンプを、静止画像で的確に捉えた写真が撮影された。

撮影が無事に終わり、深くお礼をされた俺であったが、「顔にモザイクかかりますか?」と聞いたら、「無しでもいいですか?」と質問返しされた。

気弱な俺は、「はい喜んで」と、またまた威勢の良い店員になってしまった。

保安警備だから、私服警備が必要とされる機関の数だけ需要はある。スーパーや大型店などに幅広く拡販ツールとして出されるのだろう。

高校の学園祭で、デビルにやられる神様役をやって以来の配役であるが、なかなか素敵である。死体役の次に素敵である。

だが、パパとなり、堅気街道まっしぐらの俺としては、素敵な主観に、複雑な客観が混ざる。

会社に戻って、社長に報告すると、「ぴったりの人選や!」と笑われた。

しばらく、社長は無視の刑に処してやるつもりだ。

なんだか不思議な経験をしたものだが、因果応報といった処罰ではなく、過去の悪事に対する償いの機会を与えてもらえたのだと、自己都合で解釈している。

Gメンにアーメン

2010年2月27日土曜日

NPO団体、喫煙描写に噛み付く(笑)

この前の日曜日、実家のおかんを招待して、息子と一緒に飯を食べたり、温泉に行ったりした。生後7ヶ月のかわいい孫を、ばあちゃんに見せてあげたい、見てもらいたいという、俺たち夫婦の企画だ。 

産まれてすぐに対面して以来の孫との対面、俺のおかんも喜んでくれていて、俺もおかんの息子として親孝行出来、息子に対してもばあちゃんに会わすことが出来て、父親としての満足感を抱いた。

1泊2日でばあちゃんが帰った夜、息子は早くに眠った。しかし、すぐにうなされ、暴れ泣きした。きっと彼なりに気を遣っていたのだと思う。その疲れが出たのだろう。嫁の添い乳ですやすやと寝た。

息子を改めていじらしく、愛しく思った。

いつも思う。息子には綺麗な景色や、心ある人との交流、とにかく、すばらしい環境を与えてあげたいと思う。

料亭や温泉や中華料理屋や、行く先々で知らない人から、「あら~なんて可愛らしい!」と声をかけて頂いて、抱っこをせがまれたりした。親としては単純に嬉しい。

中には、柄の悪いように思えるアッパーおやじもいて、煙草を吸いまくった後に抱っこしようとしてくるので、辟易した場面もあったが、そういった人との交流も大切である。もちろん、喫煙中は息子を少し遠ざけたが・・・。

俺は喫煙家だが、煙草の煙による間接喫煙を息子にはさせたくない気持ちがある。当然、息子の前では吸わないし、煙草を吸う大人の前を避けたくなる。

医学的に煙草の害が明らかになってきている今、俺自身も禁煙に懲りずに取り組もうとする意思はある。自分が吸っているのに、息子に間接喫煙させたくないこの心境、自己矛盾である。

未熟な親ではあるが、息子の情操をしっかり育んであげたいと思う。俺自身の価値観だけを押し付けて、偏りがあるのは良くない。幅広い価値観と色んな自然、人間に対面させてあげ、そこから息子なりのアイデンティティを形成する機会を作ってあげたい。

教育における持論は、親の数だけあると思うが、色んな人の色んな価値観があって、
それぞれに持論を持って子供に接するのだと思う。そこに優劣はないであろう。

俺自身ももちろん持論があるが、そこに偏りや怠慢がないか、いつも自己吟味して、マイナーチェンジをくり返している。

最近よく悩むのが、子供が晒される環境に対して、尺度をどこに引いて、どこまで大らかでいられるか?ということである。

例えば、インフルエンザが猛威を奮っている時に、当然のようにうがいをしてから息子に近づく。だが、「菌」というものを恐れて憎むあまりに、平時において、過度なクリーンルームを息子に提供し過ぎていないだろうか?という自己葛藤がある。

すぐに指をしゃぶるのが幼児である。免疫のない彼らが、汚いものを触った手で指しゃぶりをしたら、それなりに生理的な波乱があるのだとは思う。だから大人は、できる限り無菌状態を提供する。だが、それが彼らの免疫力を高める機会を奪うことになっていないか?という葛藤がある。

あえて、菌を提供する必要はないが、昨今の子育て指南の無菌指向は、単なる清潔とは違う潔癖感を抱いてしまう。

子供を思うがあまり、子供をクリーンルームに入れておきたいかのような思考になってしまうと、それは子供が持っている生命力に対しての敬意を欠いているようにも思える。子供は大人が思うより強いと思う。

少し前のニュースで、とあるNPO団体が、福音館の書籍に、煙草好きのお爺さんが孫に話す場面があるのがよろしくないと、発売差し止めを要求し、福音館自身もそれに応じたという、実に悲しいニュースを見た。

つまり、「子供の読む絵本に、煙草を吸うお爺さんが、孫の前で煙を吐いている姿があるのは、教育上よくない。」というのである。

このNPO団体、子供に間接喫煙をさせたくないという主旨で、利益を生み出さなくてよい団体認可を得ているのだが、その主旨はわかる。間接喫煙の弊害は医学的に言われているからだ、

だが、何で絵本の煙草煙場面にまで噛み付くの???? 申し訳ないが、色んな価値観を超えて、こんな大人は間接喫煙の害以上に害であると思う。

物理的な間接禁煙に、絵本内の煙草の煙の絵が関係すると、こいつら本気で思っているのだろうか???? あ? ほ? 

子供に有害なものを避けさせてあげたいという気持ちは尊い。だが、この団体の主旨はちゃうやろ??? この団体は、暇で仕方がなくて、社会に貢献する大義名分が必要で、ついついいちびってしまったのであろうか?

そうとでも思わないと、理解しがたい壊れ方である。価値観とか信条の問題ではないと思う。

多分、この哀れな団体への意見は、ネットに蔓延っているだろうから、俺ごときがどうこうと、多くを言わないが、こんな団体の大人もいる世の中である。

子供に対して、発育に応じた適切な防御はしてあげた上で、色んな免疫を付ける環境をヒステリックに、盲目に排除しないでおこうと思う。子供が免疫をつける過程が心配になるのは、大人の心情である。子供を心配しているつもりが、自分の心配になる心情を心配するということにはなりたくないと思っている。

綺麗で荘厳で残酷で・・・、息子には、色んな自然に触れ、思考力を育み、色んな人との交流を経て、自分を形成していって欲しいが、上記のNPO団体の人のような、偏狭で無思考でヒステリックなのに緊張感のない人にはならないでほしいと思っている。

2010年1月25日月曜日

おまわりさんに感謝

昨日実家のおかんから電話があった。

「ま~ぼ(うちの弟)と連絡が取れない。胸騒ぎがする。」と言う。

よくよく聞いてみると、昨年11月末から、何度連絡して留守電に入れてもかかってこない。少し心配になったおかんは、中国にいる兄貴に連絡して、メールをしてもらったらしい。今までなら、兄貴のメールにはすぐ返信があったのに、今回はないと言う。

弟の音信不通ぶりは今までにも何度もあって、今回が初めてではない。

アメリカがイラクにミサイルを撃ち込んでいる時に、アフガニスタン周辺にいて帰れなかったり、シベリア鉄道の旅に出て、ロシアのどっかで金を盗まれて大使館からおかんに電話があったり、俺が言うのもなんだが、むちゃくちゃである。

デリケートな俺と違ってワイルドな弟は、家族に何も言わずに旅に出る。心配性のおかんはその都度振り回されていたのだが、それでも最近は、おかんからの着信や、兄貴からのメールがあれば、ちゃんと返事をよこしていた。

ところが今回は違った。とにかく連絡がとれないという。俺も、「そういえば????」という嫌な予感があった。おかんは胸騒ぎがして寝られないという。

昨年9月に、2年ぶりに俺に電話があり、俺の息子の祝いを持って富山に弟が来た。久々に2人で魚に舌鼓を打ち、よそよそしくはあるが、兄貴として会話をした。

その時に、「なんか俺、長生きは出来ない気がする。よく心臓苦しくなるし・・・。生きている間に世界の色んなところを見たい。」と言う。

弟の仕事はパソコン関係の俺にはよくわからない仕事であり、が~~~っと働いて、ふらっと旅に出る生活をこれからもしたいようなことを言う。

人それぞれの人生であり、「ふ~~ん」と聞いていたのだが、おかんの今回の捜索依頼の電話を受けて、心なしか、弟のその時の会話が、何だか寂しげに感じた。

アパートで孤独死????  電話はau留守電、アパートは口座残高があれば引き落としされる。冬の気温では、死後2ヶ月くらいまでは、近隣で腐臭もしないだろう??

俺とおかんは、シャーロックな推理を電話で繰り広げ、お互いに「胸騒ぎがする。」と確認した。

俺は弟のアパートの連帯保証人なのだが、どこに住んでいるか知らない。必要書類を捨てていた。

前置きが長くなった。ここからが本旨である。

おかんが東京にいる弟の住所を知っていたので、俺はネットで所轄警察所を調べて、事情を話して交番に取り次いでもらった。正式な捜査願いでもない、個人的な心配事を警察が聞いてくれるとは思っていなかったのだが、胸騒ぎがしたから仕方ない。俺は所轄警察署に電話して交番に繋いでもらった。

交番の警察官の方、名前を聞きそびれたのだが、この方が、実に素晴らしき方であった。

「お忙しいところすみません。こんなことを相談していいものかわからないのですが、実は・・・・。」と遠方に住んでいる俺とおかんの事情を話し、弟のアパート名を言い、近隣で不吉な事件がないか?など、丁寧に説明しながら聞いた。

電話で対応していただいたおまわりさんは、俺の無謀な相談に、実に温かい口調で、「あ~、それは心配ですね。弟さんのお名前は?」と聞いた。俺は告げた。

「弟さんの生年月日は?」と聞かれて、俺は固まった。「お、覚えてないです。昭和49年の6月のような気が??? いや、10月やったかな???」

実に胡散臭い電話である。おまけに俺と弟の苗字も違う。夜更けのプチテロみたいな電話であったのだが、そのおまわりさん、「わかりました。詳細はいいとして、私、今から見てきます。夜分なので、大家さんの立会いをすると近隣の方に目立ちますが、どの程度までをご希望ですか?」とおっしゃってくださる。

俺はすでに、温かいおまわりさんの親身な電話対応に感動していて、「ほんとすみません。ただ、郵便ポストの状況などを見て来ていただけるだけでかまいません。うちの母もその状況見て、明日にでも上京すると言っていますし・・・。ほんとありがとうございます。」
と、涙声で言った。

おまわりさんは、「わかりました。すぐに言って状況を連絡します。」とおっしゃって、俺の連絡先を確認して電話を切られた。

待つこと8分。俺の携帯が鳴った。画面にはアドレス登録した弟の文字があった。

「あにき~?? びっくりしたやんけ! ドア開けたら警察官いるから、なんかと思ったわ。」と言う。

俺はブチ切れて言った。

「ぶぁっかも~~~~~ん! おどれが電話よこさんからやんけ! 何?? 仕事忙しかっただぁ?????? ねぶたいこと言わんと、おまわりさんに謝れ!」と言って電話を切った。

二つ返事で見に行ってくださったおまわりさん。杓子定規ではなくて、実際に会話した者しか再現しようがないくらい、人間性が滲み出た親身な対応であり、お名前を聞かず、ただただお礼を申し上げたくて、再度電話した。生憎まだ、そのおまわりさんは交番に戻ってきておられなかった。

電話に出られた当直の別のおまわりさんにいきさつを話し、「ほんとお手数かけました。親身な対応にただただ感謝です。弟にはよく言って聞かせておきます。ただただ感謝伝えたくて電話しました。」と伝えた。

すると、そのおまわりさんも、「弟さん、無事でよかったです。僕も安心しました。見に行った者ももうすぐ戻ってくると思いますから、わざわざお礼の電話いただいた旨を伝えておきます。遠方にお住まいですから、心配だと思います。安心してお休みください。」とまで言ってくださる。

あまりに感動して、俺は涙が出た。

感謝を言葉で伝えたくて、お礼の手紙を書くつもりだ。

「警察」という単語、カテゴライズされたジャンルに生理的に「高圧さ、傲慢さ、権力」を嗅ぎ取ってしまい、ついつい嫌悪する偏った俺であった。そして、実際に報道されるような、公務としての権限を、個人的な権力と履き違えてしまう人がいるのも事実だと思う。

でも、「警察」を総まとめで見ていた自分を反省した。「こんな心あるおまわりさんがいてくださるならば、俺は少しでも多く税金を払いたい。」と思った。

具体的に出していいのかわからないのだが、東京都板橋区中台交番には、心あるおまわりさんがいた。こんな素晴らしい方がおられる、地域の番人、交番というシステムに感謝した。日本も捨てたものではない! 本気で感動している。

単なる地方の心配性の若輩からの電話に、親身で対応してくださるおまわりさん、こんな方が、世の中を明るくしてくれるのだと思う。

~億円の使い道に言い分考える人や、~億円の小遣いもらう人の報道を垂れ流すより、心ある町のおまわりさんにスポットあてたなら、世の中は明るく、景気もよくなり、悪代官が失業する時代が来ると思う。

このおまわりさんのような方が、国会でビジョンを語って頂けたら、世の中のほとんどの問題は解決するような気がした。

名前も知らない、中台交番のおまわりさん、本当にありがとうございました。おまわりさんがいてくださることに、幸せを感じた俺であった。

心配性の俺とおかんの胸騒ぎも止まった。

「ま~ぼ(うちの弟)」の「魔」を「おまわり」さんのお力で省いて「おわり」

2010年1月11日月曜日

め組の俺

3連休が終わる。連休と言ったものの、土曜日は消防団の出初め式とその打ち上げで終わり、翌日は左義長の防火待機があり、今日もボランティアで友人の雑務手伝いをした。

昨年秋に、取引先の社長(消防団団長)から誘われて入った消防団であったが、最初は無駄な拘束に思えて仕方がなかった。

定期的に当番制で夜回りがあたる。カランコロンと音を鳴らしながら、消防車に乗って街を巡回する。ある程度巡回したら、屯所(消防団の各地域ごとの詰所)に待機して、だらだら時間を過ごす。夜回りは啓蒙活動であるが、基本的に形式的なものである。

消防団という組織に対しては、幼少時からまったく馴染みがなく、全て消防署管轄の人たちという認識でしか見てなかった。

「自分たちの街は自分たちで守る」という、高い意識に根ざした理念が前提にはあるのだろうが、日中に仕事を持っている人たちばかりである。疲れきった仕事後の、緊張感のない啓蒙活動に、気持ちが入るわけはない。

自治集団という性質上、地域に根ざした地元の集団である。昔からその土地で生まれ育ち、「児童クラブ」、「町内会」、「獅子舞などの祭り」といった組織にも入っている人が多く、同世代であれば幼馴染である人がほとんどである。

まして、裏日本の田舎町ことである。町内の住人のことなら、お互いに家族構成から職業まで、ツーツー・カーカーの集落である。小さい頃から何かしらお世話になってきた子供たちが、大きくなって、地域に貢献する舞台としての活躍の場が消防団であるといってもいいと思う。

地縁の強い、そんな組織に、よそ者である俺が入ったのであるが、予想通り、探りを入れるかのような状態がしばらく続いた。1つの消防車に乗って夜回りしながら、俺以外の人たちが、俺が入り込めることのない会話を延々繰り広げる。異邦人と化した俺は、ただただ孤独な時間を過ごしていた。嫌ではなかったが・・・。

だが、それでも毎回1番に集合場所に行き、しっかり挨拶をしていたからだろうか、徐々に俺にちょっかいをかけたりしながら、俺をいじろうとする人が増えてきた。話しかけてくれる人も多く、俺が名前を知らない人が、俺の名前を呼んでくれる。

正直に言うと、最初は、あまり付き合いたくない人の集団だと思った。会話は下ネタ、パチンコ、車、芸能人ネタがほとんどであり、たまに政治に関しての話があっても、実にしょぼい話である。

ところが、関わっていくうちに、地元の小さな世界から1歩も出たことない人たちが、その中でささやかに幸せを感じているのが、この地元集団達との交流であり、関わりであるのだと思うと、なんだか幸せの1つの形に思えてきた。

隣人すら知らない、とかく人と人との交流の希薄さが嘆かれる今、片田舎でこうして残っている地域の交流というのは、ささやかで謙虚で素晴らしいものだと思った。

消防団に関しては、実際の消火活動とはかけ離れた、その形骸化した行事への批判や疑問はある。例えば、ほぼボランティアに近い人たちを、雪が降りしきる屋外で、防寒衣も着せずに、ずっと隊列を組ませる儀式がある。

市町村の長が消防車に乗って通り過ぎるまで、じっと待っている我慢比べみたいな検閲の儀式がある。

「気をつけ!」、「直れ!」等の怒号が飛び交い、それに反応して団員が姿勢を正したり、休めたりする様は、戦時中を思わせるものがある。

形式ばっていて、実務に役立たないことがとかく嫌いな俺ではあったが、火消し集団としての粗野でいて、ここぞという時の縦社会的隊列がなされる様は、江戸の火消し集団としての気風を、今に宿したものであり、何だか粋にも思えてきた。

鳶職中心の江戸の火消し集団は、いろはにほへとで、それぞれ「~組」と名づけられ、それぞれに組織としての優劣を競う気風があり、元来の気性の荒さから、組同士の抗争もよくあったらしい。中でも「め組の人」の喧嘩は有名である。

月に数回、応援出動も含めて、メールに火災の報が入る。「~地内で火災発生!」といったメールがくると、駆けつけることが可能な人たちが、現場に駆けつけ、消火活動、鎮火後の現場保持に協力する。

明け方の火災で出動してから、通常の仕事に行く機会が今後出てくるだろうと思う。

入った以上、防火、鎮火に一躍買えるように、操縦方法の技量習得に努めていきたいと思う。昨日は消火水槽へのホースの繋ぎ方、放水の仕方を少し教わった。

考えてみれば、消防団というのは、よく出来たシステムだと思う。形骸化していて、ほぼ義務的な組織である一面はあると思うが、それは火災が頻繁に起こることのない性質に伴うものである。

普段は、夜警などの緊張感のない行事がほとんどであるが、実際に町内で火災が発生した際に、消防団の存在が大事になってくる。

滅多に起こらない火災に備えて、仮に消防団員を全て常勤の公務員にしていたら、消防隊員の数は今の何十倍、何百倍にもなり、それこそ国家予算を圧迫する規模になるだろう。

消防隊員という常勤公務員が各市町村に配備され、その補充として、ボランティアの消防団員を配するこのシステムは、江戸中期にその創成期があるらしいが、よく出来たシステムであると思う。

もちろん問題は多いと思う。負担が大きく、形骸化した無駄な風習が多いのは事実である。だが、出初め式なんかも、江戸から続く雅な祭りの一種だと思えば風流であり、形骸化した定期的な消防団の集いも、地域のコミュニケーションとしての集い場だと思えば、悪いものでもないと思う。

富山に来て15年近く経つが、やっと真の在の人間になれた気がしている。在一色に染まりきらないような自分のスタンスは保ちつつも、村八分にされないように、地域貢献に我が身を呈していきたいと思った。

余談だが、出初め式の帰り道、俺は車の中で、自らの煙草灰で股間を焼く怪我を負った。冷えまくってかじかんだ手先が、煙草を落とす事態を招き、鎮火が遅れたためのぼや騒ぎだった。貸与された作業服はには、しっかりラッツ&スターの焼け跡があった。

地縁の雰囲気に馴染めずにランナウェイしたい日もあった。ランナウェイしたい火も今後あるだろう。

だが、心にいつも江戸の心意気、「め組」の気風を持って、真面目に関わっていけたなら、俺にも恵みが訪れるだろうと思う。

2010年1月8日金曜日

イッツ・ロック

まずは、ライブ告知から。

1月16日(土) 高岡市「navi」にて、「ほうるもん」ライブ!!! 
20時開場、20時10分開演。 チケット1000円(ワンドリンク付き)

※間に休憩(10分)を挟み、2部構成のライブ。100分以上やります。

自身初の長時間ライブであり、相当気合が入っている。結成3年目、今回のライブで得るものは大きいと思う。都合合えば是非!

「雨垂れ石を穿つ」という言葉があるが、音楽に関しては、この言葉通り、着々と出来てきていると思う。自己基準だが、確実に進歩していると思う。

ところが、仕事に関しては、ここまでの俺の人生、「穿つ」までの持久力がない。仕事に価値観を見出していないわけではないし、すんごく真剣にやってはいるのだが、簡単に言えば、すぐ飽きる、厭きるのである。転職経験はかなり多いほうだと思う。

出戻り職場での営業生活も慣れたもので、成績も良いし、人間関係も快適だし、特別にハードなわけではない。給料もそれなりにもらっている。

基本的にルーティーンな日々に飽きてしまうのだと、自己分析している。お客さんで「うちに来ないか」と誘ってくださる方が何人かいて、ついつい、未体験の場に目移りしてしまう。隣の芝は好奇心を刺激する。

今までの経験上、どこに移っても、そこである程度の成果を上げたら飽きてしまう。

1つのことをじっくり続ける人を尊敬する。羨ましく思う。今の職場で、俺が以前辞めた時に、俺の仕事を引き継いだ人が、今はポスト上、営業トップにいるのだが、社長が彼の不満を俺によく言う。

俺は諌める。「彼は、キャパはあんまりないかもしれんけど、会社に長年尽くしてきた功労者やから、そんなこと言わずに、楽させてあげてもいいんとちゃいまっか?」と。

やっぱ、1つのことを続ける人は偉いのだ。

よく、管理職の人を部下が悪くいう場面がある。「うちの部長、仕事もできんのに偉そうに言う。」とか、「部長なんか、おってもおらんでも会社回るのに。むしろマイナスやわ。」とかだ。

外部からの招へいで、現場経験がない奴、天下りの奴とかに対しては、的確な意見だと思う時がある反面で、たたき上げの人に対しては、仮に仕事が出来なくても、温かく、敬意を持って接してあげるべきだと、最近思う。

長年1つのことを続けた結果としての彼がいるわけで、勤続年数が少ないものが、今の有態だけで簡単に評価出来ることではないと思うからだ。

長年、会社に忠誠を尽くす過程では、それなりに嫌なこともあったのだろうと思う。単なるイエスマンの奴であったとしても、単なる時流に乗っただけの奴であっても、とりあえず会社の礎にそれなりに人柱として尽くしてきた年数、その貢献度合いは、評価してあげるべきであり、それだからゆえ、楽させてあげたいと思うのだ。

やっぱ、「雨垂れでも石を穿つ」人は、それなりに素晴らしい部分があるのだと思う。

俺はまったくない。とにかく飽きる。どこでもポスト的な出世は、最短で登れてきているのだが、根本的に何か欠落している。

困ったものだと言いながら、あまり困っていない。ただ、大人があまり環境変わるのは、地方都市では面倒くさいな~と思うだけだ。

だから、今の仕事を当面はしてみようと思う。ただ、社長には、「いつまた病気出て、どっか行くかわからん。」とは伝えている。

俺が今までの人生で、「穿つ」ってきたことはない。ただ、いつもそれなりの「雨垂れ」は滴り落ちさせてきてはいると思う。

「穿つ」こと、その能力と勤勉さに憧れを抱く。その一方で、「猛烈に垂らす」だけの俺の日々も、それなりに自己評価したいとも思っている。

パパになっても、根本的な生き方に変化がない俺がいる。

団塊の世代の先人は俺の精神状況を見て嘆くだろう。

でも仕方ない。飽きるものは飽きる。金を稼いで、家族を養えればいいだろうと、とりあえず納得している。

息子が1階で寝ているので、起こさないように、トイレに行くときは忍び足をしている。でも流す時に音がする。

そんなこともあって、最近は2階の窓枠に中腰で座って放尿することが多い。かなりアクロバティックな姿勢だ。もちろん家族には内緒である。

連日しているからだろうか、今日見たら、俺の放尿場となる瓦が、少し変色していることに気がついた。
窯物も連日のアンモニ~な責め苦に悲鳴を上げて老けこんだのだろう。今にも溶けそうな按配である。

ははは~~~。穿っている・・。

なんだか自信を持てた今宵の放尿であった。俺も穿つこともあるのだ。通報されるまで雨垂れを落とし続けてみようと思った。

イッツ、ロック! 

2010年1月2日土曜日

頌春

賀正で謹賀で迎春でおめでたいのである。明けました。

「頌春(しょうしゅん)」、この漢字が長年読めないでいたのに、気になりつつも無視していた。形式ばっていって、嫌いな雰囲気を字面から感じていて嫌いだったが、今年初めて読み方を知った。

浅薄な己には慣れた俺であるが、知識を得るのは嬉しいものである。

息子と迎える初正月、溺愛、甘やかし軍団の爺婆と嫁とは違い、俺はワイルドに子育てをしている。

息子を風呂に入れる時、爺が入れる時は、しっかりかけ湯をして体温をお湯に慣らさせてから入れるのであるが、俺は、いきなりジャブっと湯浴みに処す。

湯船の中で俺の太ももから珍子を蹴りまくり、ささやかな抵抗を見せる息子ではあるが、風呂場では俺に涙を見せず、風呂上りに嫁と爺婆が待っている居間で泣きじゃくるのが常であった。

俺の前では、平気なふりをする息子であったが、俺に似て風呂は嫌いであるのは俺も知っていた。特に熱いお湯が嫌いである。

息子を風呂に入れる時、いつも俺が先に身体を洗って、湯船に入り、ぞうさんの温度計で40度弱になった時に嫁を呼び、裸にされた息子が運ばれてくる。そして後はなされるがままの息子がいて、ささやかな抵抗は示すが、それは屁のつっぱり以下のものであり、10分以内に全身をくまなく洗われ、いっちょ上がりの状態で居間に運ばれていくのが常であった。

ところが、今日の息子には男を感じた。

いつも通り、「いいよ~~」の俺の掛け声で、嫁がストリップした息子の脇を抱え、風呂場に連れてくる。

俺が息子の脇を持ち直し、吊るし上げた状態で湯船に足だけ入れようとする。いつもの流れだ。

今日の息子は違った。俺が抱き抱えた瞬間から、マンガみたいに足をバタバタさせる。アニメなら何コマ描かなければならないのであろうか、ものすごい高速である。

湯船につける前に、彼は明らかな抵抗を示しているのである。裸にされて、俺に吊るし上げられた動作が何を意味するか、短いながらの彼の体験で学んだのであろう。

笑えるくらいすごい速さでバタバタするので、俺はあっけにとられながら、微笑みながらも、彼の足をじゃぶんと湯に浸けた。

固まった息子は俺と目を合わさない。その割には抵抗しない。3分ほど湯に浸かって上がりしなに俺の珍子を思いっきり蹴ったのが彼の唯一の抵抗だった。

風呂上り、息子は今までで1番でかい声で泣いた。泣きまくっておっぱい飲んですぐ寝た、

酒量がマックスの俺は、酒臭い息で、彼の耳元で、「ね~んね~んころ~ろ~よ~」と、古典的な歌を野太い声で歌った。

息子はグーの拳をさらに握り締めた。俺はパーで包んだ。

小さくてさささやかで、何気ない正月である。頌春である。

何気ない正月はバタバタと過ぎていく。なかなか良いものだ。

今年もよろしく。笑春