2010年10月9日土曜日

研修後記

研修を終え、昨日帰ってきた。

前ブログで触れたような恐怖とは対極の、実に充実した内容の研修であった。

さすが売上業界ナンバーワンの会社だけあって、研修施設はちょっとしたリゾートホテル並みであった。

全員個室(ツインルーム形式中心)が与えられ、研修も9時から18時まで、後は自由というタイムスケジュールであり、最低限のルールだけが求められる大人の集団を前提としたものであった。

トレーナーの方々の姿勢は、このご時世に損保業界での独立を目指す稀有な人たち、それぞれが背負い込んだものや気概に対しての充分な敬意や配慮を伴ったものであり、参加させていただく立場の俺は、すごくそれに感謝の念を抱いた。

研修内容に、業界や会社への洗脳や、威圧的な態度はまったく感じられなかった。人間味溢れるインテリジェンスだけを感じて、俺はこの業界が好きになった。

厳しいのは間違いなく厳しいのであり、それを承知で飛び込んだ俺は、とにかく研修内容を吸収するために勤勉に励んだ。

同期の同じ立場の方々と色々同じ心境を語る機会も貴重であった。

使命と責任は感じるが、基本的に不安中心の俺に対して、皆さま、よくもまあ自信に満ちておられて、羨ましいというか、刺激であった。

生保業界、自動車ディーラー系、銀行系等出身の方々がほとんどであり、損保取り扱いへのノウハウや経験がない人間は俺以外にいるの???というくらい少数であった。

面白い発見があった。

お互い立場は同じといえども、初対面の初日、談笑の場をしきっているのは、こてこての関西人であった。

よくもまあ言葉が連続して出るものだと思うくらい、人の心に土足で踏み込んでくる。

イントネーションは地方都市のフォーマルではない。

俺自身は当たり前に体験して、当たり前に体現していた世界であり、懐かしくて心地よく、また頼もしくもあったのだが、人によっては、強烈レベルを超えて、入り込めない結界を感じてしまうのでは?と思う俺がいて、それが新鮮だった。

大学に入った18歳の時、初対面の同級生が、「強烈! こてこての関西人」と俺を評していたのを思い出し、場合によっては、強烈な土足厳禁の方々に上履きで踏み込んでいたのではないかと、冷や汗ものの反省をした。

土着のカルチャーは離れてみてわかるものである。

そういう意味でいえば、息子の生誕地富山に根ざしてきている自分に嬉しさも感じた。

とはいったものの、自己紹介で「富山から来ました」と言ったにも関わらず、「言葉関西ですよね?」と周囲から多々突っ込みが入った。その辺の自覚はないが、明らかに関西人のイントネーションを客観的に感じられるようになってきた自分が、カミユの気分をアンニュイに宿しながらも学者的で実に楽しい。

関西人として25年、富山人として14年を過ごした俺が、我が出目を客観的に振りかえる機会にもなった。

だいたい研修とか、初対面の人が集う場では、会話の中心に君臨することを使命(迷惑に感じる人もいたであろうし、望まれた立場であったわけでもなかろうが・・・)に感じていて、実際に君臨していた(これまた強烈な佇まいであったが・・・)俺であったが、今回はばりばり影の薄い存在であった。

自己主張もせず、かといって場を乱すわけでもなく、淡々と交流し、淡々と自分のやるべきことをこなした。

夜はちゃんと勉強した。もちろん、誰よりもビールを買い込んでの飲酒勉強ではあったが、人生で1番勉強したと間違いなく言える。

19時くらいから、間に喫煙、入浴を挟んだとはいうものの、座学が苦手な俺が4時間は机に向かった。これは自らを褒めてよいと思う。新境地だ。やれば出来る男である。

「保険」の世界、学べば学ぶほど面白くなってきた。フリークになりそうな気配である。

生保のおばちゃんが、強烈なバイタリティーで活躍してきたおかげや、せいでイメージが形作られた「保険」業界であるが、この業界は、本当のコンサルティングが出来るプロがまだまだ成長していない、緩い業界だとも感じた。

難解で落とし穴の多い保険、基本的にあらゆるケースへのリスク対応は後付で発展してくるものだと思うので、現業プロ代理店を標榜している人でも、変わり行く現状や商品変化にまでついていけていないのが現状だと思う。

単純な俺、ツボに入ると学習意欲が涌く俺は、本当の意味でのコンサルティングが出来るプロになろうと思った。そして、プロになる過程で、わからないところをしっかり補い続ける勤勉性を持とうと思った。

一応、勉強の仕方に関して、経歴的にもキャリア者である。勤勉性も人一倍ある。

問題になる未熟な俺の性格は、「噛み付く姿勢」である。

噛み付く先が業界に向かないためにも、相互扶助に根ざした保険の発生由来と、ある意味国の銀行的な役目である金融事業としての性質を鑑みて、保険成り立ちの背景からしっかりと学習した。

サラリーマンのように同僚はいない。ある意味孤児一匹狼である。

塾を同僚と立ち上げた時は、一匹での意思決定を全てしていたわけではない。だが今回は、会社の商品力と社会的認知度は借りるが、実質自営業者である。人生で初めて自己言い訳が出来ない環境に身を置いた。

養う者がいる。大きな使命と責任がある。そして大きなモチベーションを運んでくれる存在だ。

今の俺の環境に、なんだかうっとりする。

ずっとうっとりしていたい。だからやる。根本姿勢と哲学はもはや変わらない。根本姿勢と哲学はむちゃくちゃ商いには向かないのかもしれないが、とにかくやる!!

20代後半までの俺は、退廃的な思想に惹かれ、破滅願望を宿した青二歳であった。

それがいまや、保険でリスクへの備えを真剣に考え、守るべきものを守ろうとしている。その上でかっこいい音楽を作りたいという衝動にだけ忠実である。

ニール・ヤングの「キーポン・ロッキン・イン・ザ・フリー・ワールド」という曲における「フリー」という言葉、今なら俺は平成の時代に正しく脳内変換をして、適切な脳内訳語を用意できる気がしている。

ノルマの世界がある。だが、ノルマはやらされる数値だ。俺は自分の使命のために数値に立ち向かう。散ったら散った時、地表で考えたらいい。今の時点では散らない万年桜を描いている。

研修を終えて、今までの俺の過去を検収する機会を持った。

今後、検収した自分を検察レベルにまで高め、「頭脳検察」(注:ズー&ケンからなる音楽団。巷を騒がしているM田検事がなりたくてなれなかった世界の脳内実現者。江戸在住のかっこいいアコ検察ユニット。「頭脳検察」の2人が発する言霊と音霊を俺は賢察した。)する域にまで達し、職務を全うしたい。

2010年10月3日日曜日

宿泊研修前夜

今日は午前中びっしりと、消防団の新入団員研修で講義を受けてきた。

昨年10月に消防団に入ったのだが、年に1回しかない研修の2日後の加入で、1年遅れの研修受講。

各種号令に対する動作の指導やら、法令関係、消防団の処遇や権限について講義を受け、修了書をもらって終了。

年々消防団員数が減少してきている現況に関しては、確かに心配になる。
しかもサラリーマン団員の増加で、日中の火災への出動人数が少ないのが問題である。

自警団的要素の強い組織なので、自らの居住区の安全確保という大きな名分を真面目に考え直した次第である。




明日から1週間、千葉方面へ新しい仕事の宿泊研修で家を空ける。

宿泊の研修は過去に2回経験がある。

① 23歳・・・・某ハンバーガーチェーンでの1ヶ月の浦和での研修。
② 29歳・・・・某S急便での1週間の富山での研修


① のハンバーガー屋での研修は楽しかった。最低限の規律と厳しさがあったというものの、
自由時間がしっかりあり、同期の仲間と毎日酒を飲み、トランプ博打をし、お江戸見物も出来た。おまけに毎日昼食は好きなハンバーガーをたらふく食べた。

ところが、俺にとって宿泊研修としてトラウマになっているのが、②の研修である。

S川急便の研修はすごかった。

まず教官にパンチ頭×1、そり込み×1、経済ヤクザ風味×1がいて、入所した瞬間から、俺は視覚的に硬直した。

内容は凄まじかった。何が凄まじいかといえば、発声が全てマックスボリュームであることだ。

「おはよう・・・」「ありがとう・・」「いただきます・・・」といった牧歌的な言葉が、全て毛筆書道体のフォント最大のニュアンスで発声させられる。「押忍!」と言う時に発するボリュームと語調が全ての言葉にあてはまる。

簡単に言うと、研修生皆、応援団員的質量の発声を要求されるである。

プライベートな時間はもちろんない。風呂、就寝、全てにおいて厳格で、就寝しているかどうかの見回りもある。

修学旅行でも今から思えば大らかであったな・・・と感慨に耽りたくなるような、ゴシックど迫力の就寝見回りが、この研修ではなされていた。

万が一就寝時間を過ぎて声が出ていると、罵声懲罰の対象となる。パンチ教官に至近距離で威圧懲罰されるのだ。被かつあげ時の恐怖に近い。

全てがグループ行動だ。初日に班を編成され、以後は全て班単位で行動する。

食事前には、班ごとに配膳を最短で分担して行い、テーブルに食べる準備が整うと、班長が教官に報告に行く。

「報告します! ~班、ただ今配膳終了いたしました!!」

すると教官がにやにやして、「は?? 聞こえんな~~~」といった表情をする。実にヤ~~~さん的な雰囲気で示すその表情は、「発声やり直し!」の合図である。

やり直しを経てやっと食事にありつける。量はありえないくらい多い。食器の音をたてたり、くちゃくちゃ音を出したりすることは許されない。まして残すことは許されない。班単位で食べられない奴の分があれば、誰かが食べて、とにかく食器を空にしなければならない。

「最後の晩餐」でも、もう少し穏やかな光景であったと思う。

食べ終わったら「下膳(げぜん)」の報告が同じようにある。

この「下膳」という言葉、俺は「下げ膳」は知っていたのだが初めて聞いた言葉であったのだが、とにかく機敏に食器をまとめて報告しなければならない。

風呂時間も分刻みであり、明らかにムショ生活をより体力重視にしたかのような研修であった。

常に大声を出す為に、帰る時にはみな声がつぶれている。

俺の声質に元々備わっていた数少ないスイート部分は、この研修で確実に失われた気がする。

朝起きてから集合までの時間が1分でも遅れると、人間ぎりぎりの罵声で懲罰を告げられる。元来、枕が変わると寝られない俺はこの1週間、人生で1番寝ていなかった。布団のたたみ方をはじめ、部屋が散らかっているかも抜き打ち検査され、乱れた部屋の研修生はまたまた連帯責任で懲罰を受ける。

睡眠不足の中で、運転研修や肉体的研修はまだいいものの、講義になると眠たさがマックスである。おまけに教官はテキストの漢字読み間違えが多いので、苦笑したくなる瞬間もある。

ところが、不穏な表情や、こくりこくりとするなんて動作が許されるわけはない。しょっちゅうメンチみたいな視線が突き刺さる。

朝の早くから夜の遅くまで1週間、常に極度の緊張下に置かれる研修であり、少しでも油断してだらけようものならば、罵声を浴びせられて、心的暴力をくらう。

研修初日に普段の地が出たのであろう、教官からの問いに、「あん?」と返事した若い研修生がいた。

凄まじいまでの個人攻撃を食らい、そいつは個室に呼ばれてしばらく戻ってこなかった。戻ってきた後は、そのグループ全員が連帯責任を負わされていた。

厳しい1週間を過ごして、やっとシャバに戻れる希望が見えた最終日、この世であの時ほどわかりやすい希望を感じた時はなかった。糞をゆっくり出来る幸せ、ナチュラルトーンで会話できる幸せ、自分のペースで食事を楽しむ幸せ、日常の何気ない全てが幸せに思えた。

最終日は仕組まれた感動に包まれていた。

あれほど怖かった教官が1人1人を個室に呼び、握手を求めてきては、聞いたことないような穏やかなトーンで問いかける。

「目を閉じてみろ。 どや? 研修しんどかったやろ? よく頑張ったな。これから頼むぞ。」

ここで研修生はいちころである。

苦しかった1週間の緊張が、鬼教官の優しい言葉で一気に緩む。そしてそれは涙を誘発する。

全研修生が泣いたという。もちろん俺も泣いた。

「パンチとそり込みと経済ヤクザ様、そしてS川急便様、あなた方の為なら命を捧げます!」といった心情になった(帰り道のコンビニでマインドコントロールからさめたが・・・)。

俺の研修時はまだこれでもましだったみたいだ。S川急便の先輩に聞くと、「俺の時は研修室に竹刀があって、しょっちゅう床を教官がどついてた。」やら、「22時頃に連帯責任でグランドを20週させられた。」やら、「教官の腕から墨が見えた」という話があった。

どこまでほんとかわからないが、竹刀があったのは間違いないと思える研修内容だった。

俺達は竹刀で打たれるほうが楽だと思えるくらい、顔面真近で「は~~、聞こえんな~」と発声にダメ出しされたのだから・・・。堅気な威圧感ではない恐ろしさが教官にはあった。

今となっては懐かしく思える瞬間もあるが、やはりトラウマはトラウマである。

俺はこの研修を23人中1番の成績で終了し、最後に決意なるものを代表者として発表させられたのだが、既に声は出ず、電波の悪い異国のラジオ放送を大音量で聴いているかのような表明であったと思う。内容も、見事にマインドコントロールされた信者のお手本のような、妙に熱くて偏狭に近いものであったと思う。



40歳目前にして、明日から人生3回目の宿泊研修である。

今回の研修は、保険代理店研修生を対象としたものであり、さすがにS川急便さんのようなガテンな威圧感はないであろうが、外出時間は夜の1時間であり、近隣にはコンビニしかない環境らしく、それなりにストレスも感じるであろう。

ただ、上記の地獄研修を経験した俺には、楽勝である。こちらも1番の成績で必ず修了したいと思う。

同じ釜飯の同期の絆というものも味わえるであろうし、こんな機会をこの年齢で体験できるのは、なかなか贅沢な環境というものであろう。

前向きに受講してきたいと思う。

息子としばらく離れるし、それなりに旅立ち前夜にうるうるくる部分もあるが、たかが1週間、しかもインテリジェンスよりの研修内容、何も怖くない。

おまけに明日は久々に飛行機に乗れる。窓側をしっかりキープした。

研修後にゆっくりお江戸滞在でも??? と思ったが、金曜日の夕方にはこちらの支社に戻るので、それは叶わなかった。

仕方ない、仕事の研修として行くのだから・・・、お江戸滞在は日を改めて、くつろいだ気分で気の置けない友と語りたいものである。

「心配はない! パンチもそり込みも経済ヤクザもいない!」と心には言い聞かせてみるものの、スキンヘッドに顔面近づけられて、「自分いくつや?」と小声で聞かれる夢を見た。

旅立ち前夜に少しちびちびしている俺である。

2010年10月1日金曜日

夜警

転職初日は淡々と過ぎて、不必要に気兼ねや遠慮もなく、かといって失礼もなく、無難に過ぎた。

仕事用パソコンへの専用ソフトのインストールとかのインフラ整備、後は膨大なドキュメントの概観把握で終わった。

支社長に昼飯をおごっていただき、和やかな雰囲気で終えられて、まずはやれやれ。
来週は1週間の宿泊研修があり、本格的な実務始動は再来週からとなる。

何はともあれ、やはり仕事といった拘束がある環境は心地よく、久々に食欲も出て快活に過ごせた。

消防団の夜警当番があたっていたので、19時頃にお先に失礼させていただき、消防団屯所に向かう。

消防団に入ってほぼ1年。明後日は新人消防団員の研修があり、その概要も団長に教えて頂く。

この夜警であるが、1つの分団員の中で居住区による3つの区分があり、それぞれの地域ごとに毎月夜警が割り当てられる。今月は俺の住む居住区の当番であり、消防車に乗って、あのチリンチリンといった音を響かせながら、担当地域の道路を回る。防火への啓蒙活動の一環だ。

少し遅れて行ったので、もう夜警に出発した後であり、俺は屯所で一服できると思っていたが甘かった。

「待ってたぞ! 運転役とっといてあげたぞ。」とガラ悪おやじが俺に言う。

消防車を1回運転したことがあるが、わが分団の消防車はパワステではなく、とにかくハンドルが重い。好奇心を満たす為の運転は1回で十分であり、出来ることなら運転したくなかった。

おまけに、年々鳥目がひどくなり、夜はかなり視力に難点がある。

おまけに、ベテラン団員は俺にわざと狭い道を走らせようとする。俺のビビリを楽しんでいる。そしてそれに応えて遠慮なくビビル俺がいる。

お調子者の俺は、「余裕っす!」と言いながら、3速以上に入れないビビリ運転で走り出した。

すぐに軽い坂道発進の踏み切りがある。俺は一時停止をしっかり無視して坂道発進を避ける。

狭いクランクでは他の同乗団員に「これ無理っしょ?? 落ちるっしょ?」と車幅を確認しながら、「あほ、全然行けるわい!」と罵声を浴びせられながら、「あの~、もう運転席からの絵的には用水に落ちてるんっすけど・・・交代希望っす。」とつぶやきながら、回転数をあげて急発進する。

げらげら笑われる。 それが嬉しくもある。

ほんまに車幅が見えない。地元とはいえ勘で走れるほどよく走っていない道を練り走るのである。

30分程走ったところで、巡回コース1番の難所に差し掛かる。

両側に幅広の排水溝があり、車は軽自動車以外は快適に走れない道、電柱もあって標識もある。

そんな難所で右折した直後に対向車・・・・。

譲り合い命の優しい俺、無意識に車を止め、今苦労して曲がった直後の道を、巻き戻すかのようにバックし出した。

同乗の団員は大うけである。

「道譲る消防車、初めて見たわ。お前だら(富山便で「あほ」の意)か! バックすな!」とガチ笑いで俺の体をピシャピシャする。

俺も何だか嬉しくなって、対向車が俺の前を横切った瞬間に、軽くクラクションを鳴らすつもりで、ウォーニングな轟きをかます。

爆笑はますます大きくなる。

「道譲ってもうたほうが鳴らすのはわかるけど、どこに道を譲ってクラクション鳴らすだらおるねん! おまけに、ブオ~~~ンって押しすぎ!!!」

確かに、俺の人生を振り返って、消防車に道を譲ってもらったり、お礼のクラクションを鳴らしてもらった経験はない。

ますます楽しくなって、適当に車を走らせていたら、警察の検問に遭う。

ひき逃げ事件捜査の警官による聞き込みなのだが、消防団歴が長い団員も、「夜警で警察に止められたの初めてや!!! お前すごい星におるな~。」とまたまた爆笑。

こちら鳥目マックスでポリスを轢きそうになったというのに・・・。

無事に夜警を終えて、22時前に帰宅。

家の中はまっくら! 夜が早い我が家では22時はミッドナイトだ。

久々に外的拘束に包まれた日であったが、気分はいい。

家の2階、高くはない窓から見る1眼レフサイズの夜景は綺麗であり、漆黒の闇に蛍のスカ屁みたいな点々があるだけだったが、充足感と安心感を俺に運んできてくれた。

チリンチリンと夜警の残響を感じながら、程よい疲れを焼酎で癒し、ゆっくりまどろみたい。

タバコは今日も止めれなかった。

火の用心!!

2010年9月30日木曜日

温かい風

明日は新しい仕事の開始日である。

もう何回目かわからない稼業変更に伴う節目である。

不思議と今回は、はちきれんばかりの自信もなければ、楽観的観測もない。
不安が大きく、プレッシャーも感じている。

人並みのまともな神経になってきたことかと、それなりに自己肯定してはいるが・・・。

明後日は亡き父親の17回目の命日だ。

俺は23歳になる年に父親を癌で亡くした。酒飲みの父親が、「阪神・巨人」の試合を見に行って飲んだたった1杯のビールで吐くということから、異常を感じて検診に行って癌が判明。

判明から2ヶ月で、52歳での逝去だった。

亡くなった直後から、父親の死に関しては恐ろしく無感情な俺がいた。恐らく、父親の死に対する想像力の欠如が俺にあり、悲しみの感情が涌くだけのハートが備わっていなかったのだと思う。

淡々と命日を重ねた。10周忌の時も冷静に他人事のように親戚の故人を偲ぶ言葉に耳を傾けていた。

ただ、頑なに父親の写真を見ることを避けていた。

今までも実家にあるおかんと一緒に写っているフォトスタンドを見てはいたのだが、父親の顔を像として見てはいたのだが、直視していなかった気がする。

今日、たまたま押入れを整理していて、俺の生まれた時からのアルバムが出てきた。
息子と俺の赤子時代がどのくらい似通っているか、そんな単純な動機で自らの写真をほとんど初めてといっていいくらい、じっくりと見た。

途中から俺を抱く父親の写真に目が止まり、写真の上に「生後8ヶ月 自宅にて」といった具合に張り紙されていた父親の文字に目が行った。

記録魔の父親は万年筆以外の筆記用具を用いなかった。

記録媒体の罫に忠実で、右下がりで、無感情で卑屈に思える父親の字は嫌いだった。

父親は無口で不器用で、わかりやすい愛情を示してくれるタイプではなかった。俺自身、父親と遊んだ記憶や、父親の愛情に包まれた豊穣感を抱いた記憶がなかった。

ところが、今日見たアルバムで俺を抱いている父親の表情、添え書きしてくれている父親の文字・・・・。

写真の父親は今の俺より若い。

感情を出すことが苦手であったのだろう、固まった表情、すかしたポーズであったが、今まで俺の頭になかった父親との記憶が滲み出てくるような感覚が俺を襲い、一瞬にして感情が高ぶった。

父親の俺への愛情を、俺は40歳を目前にしてしっかりわかった。

倉庫の隅で埋もれていた記録媒体が蔵出しされたかのように、俺の頭の記憶貯蔵室に埋もれていた父親の愛情が、取り出し可能なライブラリーにラインナップされたような感じである。

そうすると、今まで記憶に上らなかった色んな父親との愛憎共々の思い出から、愛情だけがピックアップされて頭を支配する。

生前に父親の愛情を感じることが出来ず今になってわかったこと、そして今になって心から感謝を伝えたいと思うのに父親がいない状況が、初めてはっきりと認識されて、胸を鷲づかみされてひねくり回されているかのようなパニックになり、呼吸困難を覚えた。

本当に俺は父親の愚息子だ。40歳前にして息子を授かり、俺自身が父親となったのに、父親である以前に息子としての自らのショボさが悔恨で片付けるには大きすぎる衝撃となって襲い掛かってくる。

泣ききった後に改めてアルバムを見る。

自責の念が不思議な温かさで包まれ、何だか力が涌いてくる気がした。全て生きている俺の自己都合の起こした現象かもしれないが、本当に温かく感じた。

俺は息子を抱っこする。息子につぶやく。

「お父さんな、・・・・・」色々話したいことはあったのだけれど、ただただ色んなことがありがたくて、息子を前にして、何も言葉にならず、上がりきった体温を息子にこすりつけるだけだった。

不安な転職初日だが、次の日が父親の命日、とても心強い支えとなって、また新しい環境に身を置いいける気がしている。

本当は今日、明日からのタバコの値上がりに伴い、息子に禁煙を誓って止めるつもりだったのだが、「お父さんタバコ止めるわ」の一言は言えなかった。

息子は「禁煙」の主旨を理解する年齢ではないが、俺自身が止められる自身がないから、せめて嘘はつかないでおこうと思ったまでだ。

相変わらず確固たる意志と意思がなく、我慢強さも習得できない俺ではあるが、温かい風を力に、少しでもマイナーチェンジしていけたらと思う。

2010年9月27日月曜日

晩夏の夢

「しとしと降り注ぐ雨音の調べは 赤子をすやすや眠らせる」

まだ赤子を授かるどころか、伴侶もいない22歳の時に書いた詞であるが、ほんまに赤子は雨が降るとよく眠る。

「少し湿って冷たい布団が気持ちいいのだろう」

ほんまに気持ち良さそうに、顔をすりすりしては沈没しなさる。

息子を授かって1年3ヶ月目、毎日感動を運んできてくれる。

閑話休題

俺は自分の血液型を知らない。両親の血液型は共にAと知っている。

今まで血液型を書いたり、聞かれたりする機会があった時は、その時の気分でAやらOやら書いていた。

「生物」の授業でか、A型同士の親からは、AかOしか産まれないと習った記憶があったので、2分の1で合っているのだろう。

最近、たまたま書類に血液型を書く機会があって、いつもなら適当に書くのだが、何だか虚位記載を嫌う俺がいて、おかんに聞いた。

おかんは答えた。

「あんな~、あんたら3人共(俺と兄と弟)、知らへんねん。あんたら産んだ時、特に調べることもなかったし、その後機会なかったからわからへんねん。」

との回答。

血液型にこだわらない俺は、おかんの回答ももっともな気がした。

だが、昔「金八先生」でだと思うが、Rh-の奴が輸血するのに苦労する話を思い出し、たしか、知っておかねばと思った夜に、息子が事故で輸血を必要とする夢を見た。

看護婦に「RH+ですか? RH-ですか?」と聞かれ、

「多分、AかOです。」と答えて、ビンタされたところで夢は終わる。

不慮の事態になってから、血液型を調べていてはロスが大きいので、息子の血液型は知っておきたいと思い、嫁に聞くと、

「わからん。」と言う。

まだ調べる機会がなかったという。

そこで疑問だ。

みんないつ、どのような機会で血液型を認知したのだろう???

献血すればわかるらしいし、採血の時に申し出たら、それなりにめんどうな手続きも経ずに調べられるのだという知識はあるが、「知りたい!!!」という欲求があまりに少ないために、いつも健康診断の時には依頼を忘れてしまう。

俺の血液型が気になって、俺が捨て子でなければ、遺伝学的に該当するであろうAかOの性質を調べた。

どちらもあてはまり、どちらも笑えた。ただ、AとOのどちらも内包している性格の気がした。

血液型ごときによって、人の性質が区分されることには否定的な俺であったが、それなりに理を持っているというか、的確な分析がなされていたもので、やはり、「血は争そえぬ」のであろうか? 

我が遺伝子を継承した息子のために、分析と対策が必要かとも思いながら、レバーをたらふく食べて、獣の血を我が身に宿し、血便で消化痕を残すのか疑問のまま、悶々と血液分析考をネットでサーフィンし、注射されることの恐怖を天秤にかけながら、何とか採血無しに判別する方法がないかと思案した。

そんな時、我が腕に、蚊があの発砲スチロールをすかこすりしたような音を立てて止まった。

生類哀れまない俺、また、ゴキブリサイズ以下の生き物にはめっぽう強い俺、すぐにぴしゃりと殺めた。

腕に残るは大量の血・血・血。

俺が捕獲した蚊奴は、窓とドアを締め切った部屋に潜んでいた蓄虫であり、紛れもないドミナント・モスキートである。

つまり、奴の体内から吐き出された血は、100%が、俺の体内から採血されたものであろう。

俺は閃いた。

この手、この殺戮現場を現況維持のまま、お近くのドクターに実況見分してもらえば、俺の血液型というものがわかるのではないか????

俺は、右手を伸ばしたまま、指紋も付けずに、粛々と医者に向かって車を走らせた。
車の前ガラスに右手を伸ばしたまま、左手だけで、左利きヤンキーみたいな運転をして、開業医に向かった。

開業医の先生は、とてつもなく正義感の強い人で、俺の殺生を問い詰めた。生類憐れみまくり、綱吉レベルではなく、あらゆる生き物への憐れみを持ったパラノイアであった。

「採血してあげる・・・」と、むふふと笑う先生に、割りばしみたいな針を刺されそうになった瞬間に夢から覚めた。

転職目前の俺は、昼間からうたた寝しながら、生産性のないまどろみに時間を費やしていた。

湿った布団は気持ちよかった。すやすや眠って引っ掻いた俺の顔には、おできからこぼれた汁があった。

血液型を調べよう! なぜだか強く思いながら俺は、雨音を聞きながら、また布団に沈没した。

その後に夢は見なかった。

2010年9月25日土曜日

東シナ海に平和を

尖閣諸島のあの事件に絡み、種々の穏やかでないことが起こっている。

中国側の対応は、どう考えてもいわゆる「逆切れ」というもので、幼稚極まりないものに思うのだが、ここまできたら、怒りというよりは、中国人の根底に流れる中華思想というもののすさまじさに驚愕する。

圧倒的な人口増による市場を背景に、強烈なスピードで経済発展を遂げている。だが、あくまで中国の経済発展は、グローバリズムの恩恵に預かっているだけだ。

自国ではなく、他国の企業が、魅力ある市場を求めて現地法人を作り、中国人を教育し、その結果もたらされている経済発展だ。

そして元来の器用さからか、模倣を得意とする。模造品が本家以上に蔓延っていて、どちらがコピーかわからない。そして、コピーしている意識もなくなり、全て源流は我らにありといった、中華思想をさらに強固なものにしていく。

ただ、広大な国土と豊富な天然資源、都市部だけとはいえ生活水準の向上に伴う世界的市場の魅力、諸々を加味すると、やはり今の中国は世界に名だたるキー国家である。

だが、悲しいことに中華思想は世界基準に適合しないまま、彼らの自己矛盾を増幅し、駄々っ子がそのまま大きくなったような悲哀を産んでいくだろう。

絶対に世界をひっぱるリーダー国とはならないだろうし、世界中の経済大国から市場価値だけを抜き取られ、用済みになったら、バブルパトロンみたいに捨てられて衰退するといった結果になるだろう。彼らは4000年それをくり返してきているのだから、その筋の本物である。

これは中国人自体の批判ではない。また、あれだけの数の人々を1つの「中国人」という範疇で括れるものではない。

だが、少なくとも世界に出たことのない、ずっと中国だけで人生を過ごしている中国人には、悲しいかな致命的な欠如があると思う。

コモンセンス(常識)が備わっていないのだ。だから世界的なコミュニティではエイリアンとしかなりえない。

経済水準が世界基準に達していても、常識が世界基準とかけはなれているので、どれだけいきがっても中華とはなりえないのだと思う。

1番不思議なのは、中国人のこの根本的な世界基準への不適合があるにも関わらず、大国がこびへつらって、彼らの機嫌をとっていることだ。

本当に中国人に敬意を持つのであれば、彼らの常識も世界基準になるように、教育してあげる姿勢が必要だと思う。

中国人自体に罪はないような気がする。彼らは本気で悪いと思っていないのだ。領土というものへの認識がない人、相手に危害を加えたと思っていない人を相手に、常識で対応してもわかるわけがない。

それなのに、日本人VS中国人という感情のもつれが市井レベルで起こると、お互いに何ひとついいことが生まれない。争いをしたくないのはお互いであるが、何で争いになるのかがわからない人たちにとっての不快さは、日本人以上であると思う。

もっともかわいそうなのは、常識面で少なくとも日本人並みには世界基準を身につけたであろう在日中国人である。彼らまで一般的な「中国人」で括られて蔑みの対象となる。

赤ちゃんが他人のおもちゃを取った時に、粛々と厳罰を用意する親はいないであろう。

他人のものを勝手に自分のものにすることを「盗む」ということ、そして人のものを盗むことがいけないこと、それは、自分が盗まれた立場にたったらわかることを懇々と話し、次の改善につなげるだろう。そうして赤子は成長する。

同じように、中国人に対しても、少なくとも常識では世界基準に近いであろう国々が、彼らを教育していくべきだと思う。

今のアメリカや日本の中国への姿勢は、金持ちのぼんぼんに媚びて恩恵に預かる、さもしい餓鬼のようである。

尖閣諸島の問題なんかは、全世界の国々に映像を見せて、「中国の船がこんな状況で領海に入ってきて、日本の巡視船にぶつかってきたので、我が国の法律で処させて頂こうかと思ったのですが、中国の温さんまでもが抗議してきたので、どうしたもんですか?我が国日本の対応はおかしいでしょうか?」と公開したらいい。

ネット投票の「そう思う」「そう思わない」みたいに投票を募ると、そこに自ずと世界基準の常識が反映される。

そうすると、温君も、「ひょっとして俺たちずれてる???」と、逆切れしながらも徐々に修正していくだろう。

中国に同情するわけではないが、中国人的気質というものが育まれたのも仕方ない気もする。

4000年の歴史を持ち、漢詩や水墨画の優れた文人を輩出し、大帝国を築いて世界の中心の華であった国が、後から出てきた欧米にボコボコにされて、それでもなんとか矜持を保っていく過程では、世界基準の常識を育めない何かがあっても仕方ないと思う。

赤子のように無垢で、すごく純真な人たちだと思う。日本人が見習うべき資質を数多く持っている中国人が、ただ1つ致命的に欠如している常識だけで裁かれるのは理不尽だと思う。

今こそ本当に彼らとわかりあいたいのであれば、媚びたりせずに、しっかりと世界基準を教えてあげるべきだと思う。

それをしないで、彼らの市場だけを利用することこそが、本当の意味で、中国人への敬意の欠如であり、文明発祥国の1つへの冒涜だと思う。

余談だが、うちのおやじの働く鉄工所に中国人が数名いる。共同生活をして、母国へ仕送りをしている勤労若人だ。非常識なところはよくあるが、致命的ではなく、とにかくよく働くらしい。

うちのおやじが風呂に入っている時に、その中国人勤労若人から電話があった。俺が出た。

中国人:「あの、AAAAAさん(うちのおやじ)いますか?」
俺:「あ、今風呂入っていますが、急ぎますか?」
中国人:「だいじょうぶだいじょうぶ。 困った」

※ 「どっちやねん!」と思った俺は、「どうされました?」と聞いた。

中国人:「あの・・・、  溶接機燃えてるね。消えないよ。困った困った」

俺はすぐにおやじを呼び、おやじは着る物着ずに会社に飛んでいって、幸いにしてことなきを得た。

中国人はおやじに、「だいじょうぶだいじょうぶ」と笑顔で言ってたらしい。

実に小島よしおである。

一世風靡した「オッパッピ~」は「オーシャン・パシフィック・ピース」の略語らしいが、

今はただ、「東シナ海の平和」を願わずにはおれない。

2010年9月20日月曜日

帰省する

大阪の実家に帰省していた。

息子にとっては初の長旅、大阪のばあちゃんとの対面は、まだハイハイをして前に進まずに後退していく時期以来であるから、半年ぶりである。

初日は実家に行く前に、近江八幡の親戚のところに寄る。俺の伯父さんにあたる人で、個人的に1番気が合う人である。

この伯父さん、定年退職後からカメラと俳句をはじめ、新聞でも取り上げられるようになり、公的施設の展示ブースを借りて、初の個展を開催中というので、帰省の途中に立ち寄った。

B5くらいの紙に墨で句をしたため、そこに俳句の生まれた原風景をイメージしてカメラで撮った写真をを貼って、1枚の紙に作品としている。俳句と写真のコラボというものだ。すべて手作業であり、ダイソーで買ってきた色紙を使っての作品である。 これが60点、展示作品として並んでいる。

伯父さんの個展にかける意気込みはすさまじいものがあったらしい。準備段階からすごいエネルギーを使ったのだろう。「これが終わったら死んでもいい」と、妹である俺の母親に言っていたらしい。先日には来客対応の気疲れからか、夜に点滴を打っていたという。

伯父さんの体調に配慮して、作品をじっくり鑑賞させて頂くのは個展終了後の楽しみにして、とりあえずお土産を渡して、かっこいい伯父さんへの個人的賛辞だけを述べるつもりで伺った。

「雪やまず  バッハのチェロは 無伴奏」
「春雨や 大地の息吹 膨らみぬ」
「稲刈りの 留守をあづかる 土間の猫」

素人か玄人かはどうでもよいが、句の題材が幅広く、伯父さんの自然を感じる力の強さを感じた。

息子にもいつか味わってもらいたい世界がそこにはあった。

近江八幡から大阪へ。実家から5分の所に高速インターがあり、1時間ちょっとで
到着。

息子は人見知りする。近所のおばちゃん、親戚、だれかれかまわず、話しかけられたらまず泣く。
女子高生に話しかけられた時だけにやにや上機嫌であるが、それ以外は間違いなく泣く。

おばあちゃんを覚えているわけはないのだが、意外や意外、泣かなかった。ばあちゃんに抱っこされるとエスケープの意思を示し、こちらに手を伸ばしてくるが、心配していた大泣きを避けることができて、親としては一安心。

実家には老猫「ニール」がいる。生後16年目でとにかく気が弱い。ドミナントキャットであり、野生の香りがまったくない猫だ。

ただ、俺は動物アレルギーが強く、実家に泊まると鼻炎がひどくなる。ニールに触れるのはもちろん、近くを通るだけでも嫌だ。掃除機で念入りに毛をとってもらい、空気清浄器をかけた部屋(もちろん終日ニール禁制)でしか寝ることができない。

息子を動物園とかに連れて行ったこともあり、俺の動物アレルギー自体は遺伝してないのを確認
済みではあったが、それでも屋内での動物との触れ合いにどんな反応を示すか、楽しみ半分、不安半分であった。



杞憂であった。猫を見つけると、興味を抱いてじっと観察したかと思うと、勢いよく駆け寄っている。息子の足音にニールのほうがびびって逃げるのであるが、どこまでも追っていく。机下に潜り込んだら息子も潜り込み、カーテン裏に隠れたらカーテンをめくり、尻尾や体を触りまくる。

そして、普段見たことないような、「二ヤ~~」とした表情を見せる。奇声をあげ、けらけら笑う。

動物嫌いの親の無念を晴らしてもらうべく、もっと大きな動物とのふれあいをさせてあげられないか? 思案して妙案を思いついた。

翌日は奈良公園の鹿を見に連れて行った。

「鹿せんべい」を買って鹿を近くに呼ぼうとする。息子に言う。

「今から鹿さん来るけど、噛んだりしないからびびらんでいいからな。おとうさんがついとるからな。」

そして鹿せんべいを頭上に翳すと、目ざとい3匹がすぐにみつけて小走りでこちらにくる。
息子がどんな反応をするか楽しみだった。

大人的余裕をかましていた俺ではあったが、近くに来てからの奴らの野生の圧力というか、食い気に圧倒された俺は、恐怖を感じた。

びびったのである。「や、殺られる!!!」

鹿せんべいを空中に放り投げ、「ちょ、ちょっつ、苦オラ~~!!!! こわいこわいこわい!!!!」と大声あげて、抜ける寸前の腰で数歩退散しようとした瞬間、そこは父親、「あ、息子を助けなければ!」と、我に返る。

息子は自分より背丈のある3匹の鹿に取り囲まれ、鼻で頭や胴をつつかれ、今まさに集団リンチをくらいそうになっていた。

しっかり抜けた腰をはめ直し、四つんばいで救出に向かおうと視線を息子に送る! 

視線の先には見たことないくらいの嬉しそうな笑みを浮かべる息子がいた。 そして、あふれんばかりの嬉しそうな奇声をあげていた。そして、頭や顔に触れてくる鹿を叩いていた。おまけに逃げ出す鹿を走って追いかける。

「Oh my Junior!」 なんだか照れくさいお父さんであった。

夜もぐっすり、食欲も旺盛。うんこもばっちり! 機嫌も悪くない。

見慣れない家、景色、人、生き物、チャイルドシートでの長旅、1歳2か月の子供にはそれなりにストレスになることもあったのではないかと、大人都合で思うのだが、彼らはもっとたくましかった。

旅に出て、息子の新たな一面を見て、なんだか頼もしく感じた。

今まで帰省した時は、ライブがメインであった。または、俺のライフワークであるアングラ&アッパー&ダウナーな土地探索がメインであり、さんざん探索して夜は、気の置けない友との酒宴があって、実家は寝床を借りるだけといったものであった。

だが、今回からは、孫をばあちゃんに見せる、息子にいろんな景色や事物を見せるといった、父親的役割の帰省になる機会が多い。

役割に応じた帰省目的があるし、時間的制約もあるが、今回の息子のたくましさを見る限り、次回からは実家に息子を預けて、お父さんは自由に旅立とうかとも思っている。

個人的に歩くのが好きなスラム、赤線跡、任侠ストリートを子連れで歩くほど、俺は狼ではない。

息子にはばあちゃんと一緒の時間を与えて情操を育み、俺は俺で、大人の情操を満たす。

今後、何度も帰省するわけであるが、いろんな帰省バリエーション持って旅路につきたい。

それにしても、奈良公園は鹿のうんちっちの多いこと多いこと・・・。避けて歩くのは困難であり、いっぱい踏みしめて歩いた。


「鹿糞を 触った後の 指しゃぶり」 (「まえけんジュニア全集第1巻」『初めての接糞(せっぷん)』より)

「腰抜かし ついたお尻に 糞感じ」 (「まえけん全集第6巻」『お尻で奏でるセレナーデ』より)

2010年9月16日木曜日

ニューパソ購入。

代理店研修生として10月1日に入社する損保会社より、ノートパソコンを用意するように言われている。

家にあるパソもノートではあるが、最近やたらとスピードが遅い上に、たくさんの個人的データが入っているので、やはり仕事用とは分けたい。

昨日からパソ物色に精を出した。

会社のほうから、ノートパソコンの機能に対する指示がいくつか書面であったのだが、専門用語だらけの文字は外国語を見るより奇怪な感じであり、店員に体当たり市場調査をした。

「あの~、仕事で使うんっすけど、ある程度ちゃんとしたやつで、64という数字があかんみたいで32で、マニアックなやつもあかんで、容量がでかいやつで、いっちゃん安いやつちょうだい。あ、それから、家にもう一個パソコンあるねんけど、それと線を抜き差しするのめんどっちいから、電波でビューっと飛んで繋げる機械もちょうだい。」と言った。

Y田電器のあんちゃんは、「え~とそれでしたら、こちらの東芝はいかがでしょうか? これでした、・・・・・が・・・ありますし、::::もたっぷりございます。32と64に関しては、切り替えが出来るんですよ~!、え~~とこれはどうだったかな??  よいしょ!っと、  あ、これ初期設定は32っすね。オッケ~オッケ~!  ;;;;は;;;;ありますから間違いないっしょ! 」

他にもたくさん、3分くらい独白されたのだが、話している意味の1キロバイトも理解できない。

アナログおやじである旨を伝え、話し終わった後に、もう1度やり直してもらったが、それでも1メガバイトの理解力。

あんちゃんがかわいそうなので、理解したふりをして、電波でビューっと飛ぶブツについて商品を選んでもらった。

「え~っとそれでしたら、これがおすすめです。モデムと繋いで・・・・・・、 1台目のパソコンはLANケーブルで繋いでもいいですし、無線にしてもいいです。・・・・・・」

1分半ほど話してくれたが、またやり直しさせた。

「モデムて何け?????」という俺の質問の後、彼は先に述べた説明をほぼ完コピで復唱していた。

俺は彼が話している最中に、説明に飽きて、ウイルスソフトの値段を流し見しながらチェックしていた。

そして、最終的に、全部の金額を聞くと、15万くらいだという。

それより安い予算だと、ノートパソコンのバッテリー時間が短いという。

よくわからないが、わかったふりをした。そして少しでも安くなるように、他にも何店舗か市場調査に出かけた。

どこでもだいたい上記のやりとりをくり返すうちに、暗号めいた専門用語の意味もそれなりにわかってきた気になって、専門用語を使って質問するとスルーされた。

専門用語の配置が正しくないかったのかもしれない。

安いものもあるのだが、メーカー名がローマ字読みでしか発声出きないメーカーであり、やはり日本男子、男は東芝!(別に富士通でもいいのだが・・)、漢字で表記できるメーカーに決めた。

嫁にお金をメール打診した。

「あの~、無職の身分で申し訳ございませんが、先日言ってたパソ、なんだかんだで15万程必要みたいです(あえて他人事風味に言う)。 どうせ買うなら、早く慣れたいし、マウス使わんですりすりするのも難しそうやし、 明日には買いたいので、お金御願いします。」

とメールした。

嫁から、「お金おろしとけってことけ?」と返信が来た。

なんだか怖くなった。だから、細心の注意を払い、「はい、すみませんが、一生懸命働きますよってに、よろしく御願いします。」と敬語で応えた。

嫁の名誉のために言っておくと、これは別に嫁が切れているわけではない。今日ちゃんと快く銭をくれた。

ただ、元来気弱な俺、まして今は無職の身。転職で波風を運んだ上の金の無心である。それに、給与も締め日、支給日の兼ね合いでブランクがある。

この状態での15万は、在職中の50万せびりくらいの威圧感を感じてしまうのだ。

ともあれ、パソが無事に手に入った。

夕方帰ってきてから、セッティングをした。1時間で挫折。 15分後に再起。 また30分で挫折。30分後に再起・・・・・・。

何とか、従来のパソを電波でビュっと飛ばしてネット環境設定できた。

明日はニューパソにも電波をビューっと飛ばして繋がなければならない。

おまけに、パソ画面整理整頓が得意(意外だが)の俺には忌むべき、3列ものアイコンがニューパソ画面に踊っていた。

色んなお助けページへのショートカットみたいだが、これらをいつ、どこに収監すべきか、獄死さすべきかを考えていたら、「また、明日にしよう。」と潔く先延ばしした。

Windows7 とやらの画面は、わかりやすいのかわかりにくいのか、それさえもまだわからない。
エクセル、ワード、パワポに関しても、今まで使ってた年代物とは部品が違う気がする。

俺は一応、使わなきゃならなくなったら使える自信はある。塾時代に、入試説明会でパワポプレゼンする時に、パワポ画面を作ったが、なかなか好評だった。画面の上下左右からの文字カチコミ技も使ったし、じゅわじゅわ涌いてくる文字カチコミも使いこなした(とりあえず出せた)。

明日から、ぼちぼち入社までに触っていこうと思う。

今はニューパソに触れるよりも、自動車、火災、傷害、諸々の保険についてのテキストを読んで勉強することの方が楽しい。

交通事故完全被害者を2回経験した俺だ。実にリアルに保険を感じる。

まだ2週間ほど浪人期間がある。

保険勉強とパソ勉強、どちらも専門用語だらけで大変だが、いい機会だ。どんなOSに際しても、逃げずにHDDを大きくして、CPUも上げていきたいと思う。

↑ なんだか、専門用語をさくっと使う自分に惚れる。

言葉の使い方が合っていなければメモリー容量を上げて出直すつもりだ。

パソに疲れてフリーズしそうな頭を再起動させて、明日またギガっと努力したいと思う。

2010年9月13日月曜日

そ~~っと戯言

昨日の「ほうるもん」ライブにお越しくださった方々、ほんまありがとうございます。
個人的には今まで出1番集中できたライブで、曲世界への没頭がすごいライブだったと思う。

お客さん、対バンの方々(米やん、感謝)からも色々声をかけて頂いて、幸せに満ちた時間であった。早速明日から次のステップに向けてスタジオ入り。今後ますますレベルアップしていきたいと思う。

夢のような世界を終えて、今日は現実の試練をこなす。

転職することをまだ同居の両親に話していなかったのだ。一昨日、昨日と機会を窺っていて、あるにはあったのだが、元来気弱な僕・・・、びびってちびってエスケープ。

実は昨日の俺がライブに行っている間に、嫁から両親に話しておいてもらうようにお願いするという姑息な手段に出たのだが、たまたま祖父の病状変化といった緊急事態があり、嫁も言い出せなかったようだ。

昼間に家に帰り、母親にびびってちびって言う。「あの~、僕、転職します。」
沈黙の後に母が一言、「またけ?? 」
数年ごとに転職する俺の性質が心配で、孫に遺伝しないかを心配している雰囲気。

数年前の俺ならば、ここで、「どあほ、俺の生き様じゃい! がたがた抜かすなボケ! あ、抜かしてないな・・・、 あん、文句あるんやったら言ったらんかい! 牛でももっと自己主張するど! も~~!  あ、なんや、無視の刑かい! あん、その懲罰嫌いなんじゃい! 口あけんかい! あんみゃ~~~ な~まくさんだ~~~!」と心でつぶやき、顔ですねたであろう。

ところが加齢に伴う社会の一般的感覚を、嫌でも荒波で身につけさせられた俺は、母親の思いも仕方ない、当然だと思うようになった。

そして、転職理由や経緯も一切言わず、「心配かけてすみません。息子のためにしっかりやります。」とだけ言った。いや、それしか言えなかった。

嫁という1人娘しか育てていないし、父親はプロレタリアーッティックなガテン作業一筋の男である。転職は我が家の辞書にない。転職するくらいなら、倒産やリストラの憂き目に遭った被害者のほうをよしとする家庭的風潮がある。

養子として契りを結んだ俺の経歴、趣味、行動、すべてにおいてカルチャーショックを超えた、黒船レベルの衝撃を食らい続けてきた母である。まして実母でないだけに、50前にして浦賀に立つようなものである。

うん、よくわかる。君の気持ちよ~くわかるよ僕・・・。

転職を初めとする俺の経歴全てにおいて、その時々の意志や目的を話して、自己アピールすることは簡単である。だが、今の俺にその発言権はない気がした。

この「発言権」というものをここ数年意識するようになった。

自分の哲学を伴った思いを言葉にして主張をするのは、俺は得意な方だ。だが、主張するにはそこに発言できるだけの環境が配備されてなくてはならない。

その環境は、やはり積年の自らの行動と、相手の哲学との相関性にしかないと思う。

連日ワイドショーで公共電波の浪費対象となっているあの、お薬すけべのO塩君、彼がどんな語録を残そうとも、どんな弁明をしようとも、やはり素面な人々には響かない。
響くどころか、塩蒔きの対象となる。

まあ、O塩君と俺を比べるのは俺と俺の先祖に失礼だが、やはり発言できるかどうかは、経緯はどうであれ、客観的事実の履歴に支配される側面があるのは、シャバで生きる限り仕方がないと思う。

ぐっとこらえて、今後の自分に期待して、ぐだぐだのテンションを高めるためにMDMAやらよくわからん錠剤を使わずに自己覚醒させて、誰に話すわけでもなく、誰を恨むわけでもなく、全て自分の内面に放射しては被爆して、回復しては自分でまた諌めて、あふれんばかりの煩悩を頭でシャッフルしては取り出して、出てきたハズレを踏みつけて、身代わりを要求するわけでもなく、ダサい歌を歌ってブランドを自己完結状態で構築するわけでもなく、髪を整え、身体を綺麗に保ち、安物でも清潔なシャツを着て、何とか自己矜持を保っている。

発言権は今の俺にはない。ぐっとこらえる我慢強さも自信ない。だが、発言をぐっとこらえる。

どうなるかわからないが、テンパイしているわけでもない。鬱々とした気分を沸々としたマグマで持ち上げ、コアからマントルから中心部からの炸裂を待っては休火山。

それでもいいのだ、燃え尽きもしないし錆も出さない。平成のロッキンおやじ、しぶとく渡世を心に決めた。いや、今まで決めていたことを再度肝に銘じた。

意味不明だ・・・・。発言権はないが、書する権利はあるのだ     

と思う。

『プラネタリウムのふたご』いしいしんじ(講談社文庫)を読んだ。大好きないしい氏の中で唯一読んでいなかった本。

もう泣きまくった後に乾燥機にぶちこまれたような衝撃を受けた。個人的に今世紀で1番感動した。救済された。

『星の王子様』の匂いを感じた。多分俺だけであろう、この感慨は・・・。

夜にお父さんに話した。

「お父さんすみません。俺また転職します。」

お父さんは、「ほ~~ん。そうなん。」とだけ言って、孫をあやしにいった。

つれないのではあるが、発言権的欲求に意識がいくまでもなく救済された気がした。

今はただ、そっとしておいてほしいの僕・・・。

2010年9月10日金曜日

転がった先

≪ブログという存在を忘れていたわけではないが、転がっている最中であり更新がストーンと落ちていた≫

前職を辞めた。出戻り職場で2回目の退職。残念な結果であったし、不満もたくさんあるが、出戻りする前に社長の本質を見抜けなかった自分がしょぼいので、もういい。

在職中にお誘い頂いた会社の方々と一通り話をした。

前職と同じ業界の競合会社2社に関しては、自己哲学として、やはり受ける気持ちになれなかった。
産業廃棄物処理業の営業職も労働条件や業界風土面でぴんとこなかった。
ビルメンテナンス業の営業は待遇提示はがんばってくださったものの、これまた何かアンテナにひっかからなかった。
塾に関しては、わが子が出来てから人様の子に熱意をもてないので対象外。
飲食店の店長職はシフト面で日勤希望の部分がどうも譲れなかった。
残ったひとつが損保代理店研修生というお誘いだ。

損保代理店研修生という選択肢は、最初はもっともないものだった。

お誘い頂いた方が個人損保代理店として20年以上されている方だった。
この方への個人的イメージが良かった点(俺の保険加入は別のところにしているが・・・)、また、俺が退職意向であることを話す前にお誘いいただいたことがあり、話を聞くことにした。

退職までのいきさつにもどるが、ある組合の職員としてのお誘いをいただいていた俺は、そこで2年後に定年退職者が出るから、その後に入らせて頂く段取りになっており、それまでは前職でだましだましいるつもりだった。

だが、前ブログでも書いたいきさつで、早まった退職をする。

損保代理店研修生のお誘いを頂いた方に、組合への2年後就職意向であることを伝えると、「それなら、なおさら挑戦してみたらいい」と言う。

損保代理店研修生として1年半過ごせば、見込みがあるかだいたいはわかる。いざダメだとなった時に、再就職先見込みがあるのは、そこに甘えない限りは心強いという。

なるほど?? と半信半疑で話を聞きにいく。

支社長は良い面よりも大変な面を教えてくださる。業界イメージがあまりよくないことも否定されない。
ただ、これからは義理、人情で何とかなる業界でないので、能力を持った方に真剣に関わって欲しいという。

3時間近くに及ぶSPI試験というものを受けた。高得点を出した。当たり前だ、勉強したから。結果を見て支社長は、俺が間違いなく適性があるという。

いろいろ業界について調べた。ネットを見ると悪いことばかり書いている。「食えない」という主旨がほとんどだ。おまけに、研修生として独立できるのはほんの1割くらいで、それ以外は研修期間にノルマを達成出来ずに解雇されるという。

ところが、これらの情報がまったく俺にはドン引き対象とならなかった。

「食えない」と書いている人ばかりがネットにはびこるということは、「食える」人はネットに「食える」とブログアップしないだけだろうと考えた。

独立できるのがほんのわずかということに対しても、当たり前だろうな?としか思わなかった。

俺はKO通信を4年で卒業し大卒資格を得た。入学前にはいろんなマイナス情報ばかりが目に入った。

「通信で卒業できるのはほんの数パーセント」という情報をネットで見た。
また、「卒業できるとしても8年くらいかかる人が多い」という情報も見た。そしてそれは事実でもあった。

でも俺は4年で卒業できた。いや、卒業しようとしてした。

ならば、ネガティブな情報を見る時間をなくし、肝心の業界や商品内容、アクションプランについて考えてみた。

結果、保険のプロとして適切なコンサルティング業務は、持ち前の勤勉さと行動力でできると結論付けた。

今まで培った営業スタンスである、「本当に顧客にメリットがないものは提案しない。」「デメリットこそしっかり話す」
「既存知識にあぐらをかかない」などを実践していって、それで食えなかったり、研修途中で解雇になったりしたら仕方ないと割り切った。

問題は家族を食わせていくことへのリスクである。仕事が頓挫した場合に家族を路頭に迷わせるわけにはいかない。

そこは上記の組合からのお誘いが本当に心強い。組合局長に「結論は早めに出すので、保留しておいてほしい」と伝えると、「入りたがる人がたくさんいるから、お前がだめになってから募集しても欠員にはならないから、ぎりぎりまで席は空けておく」と言ってくださった。

ただ、2年後の逃げ道を持った気持ちで、人様に保険提案することがひっかかった。

だから、どうなるかわからないけれども、自分の気持ち的には、組合の約束がないくらいのつもりでやりぬくという覚悟を出来るか自己対峙した。これには数日要した。

すっかり気持ちを固めたこちらとは皮肉にも、試験を受けてから正式内定をいただくまでに時間を要した。

正式内定まで時間がかかった要因は、一言で言えば、俺の汚れまくった履歴書に対する本社人事部からのツッコミへの答弁に時間を要したということだ。年齢もアウトぎりぎりだ。

ツッコミされるたびに、俺は自分の、世間的には間違いなく汚れに見える履歴を堂々と虚飾なく話した。

試験を受けた後は、損保代理店研修生1つに絞ってしか転職活動をしていなかった俺は、内定までの時間にいらだちもした。

「値踏みするなら入ったらんわい」と、1時間ほどぐれそうにもなった。

そしてついに浮気もした。転職サイトのめぼしい求人に送って、2社の面接段取りを得た今日、内定が正式に来た。

浮気先には「遊びだったの、ごめん」と心を込めて謝るつもりだ。

今回の転職活動を通じて、凹んで、そして学んだことがある。

それは、不惑を目前にする年齢にもなって、転職を、そして社会をあまりにも甘くみていたことだ。

今まで仕事探しで苦労したことがなかった上に、お誘いもいただいていたので、安易に退職したが、
俺の年齢と履歴は一般公募では真っ先にはねられる対象になってもおかしくないものであるという事実を知った。

前職を退職したことは正解だと思っているが、家族の長として最低限、内定をもらってから退職すべきところを、安易に退職日を線引きした。わが嫁だから、ちくちく嫌味で済むものの、普通ならぷんぷん無視の刑に処されるべき事態だ。

今後はとにかく目先の壁に真剣対峙して突き進むつもりだ。そして、できることならもう退職や業種転換はしないつもりだ。

プライドはたくさん持っているが、家族を養うことに1番大きなプライドを持って善処していきたいと思う。

石が転がるには坂道を下に落ちていくのが物理的摂理だ。転がった先が保険の転職先だとしたら、何だか底辺にいる気もする。

だが、違うのだ。 下りきった後に、勢い余って登るくらいの加速をつけた日々を処してきた俺は、ここから坂道を逆ローリンしていくであろう。逆ローリンの速度は徐々に弱まるかもしれないが、ストーンと落ちる時は、どこか素敵なくぼみにでも落ちたらいいと思う。

くぼみはまだ見えないが、そこに立派に育った息子の姿を夢見ている。

転がった先にとりあえず辿りついた。ここでスピードを緩めずに登りたいと思う。

明後日は「ほうるもん」ライブ。浪人気分で当日を迎えなくてよかったと思っている。

新曲、「からから」をやる。転石は音をたてながら、次に向かうのだ。

ブログもまた頻繁に書こうという気にもなっている。