2007年10月10日水曜日

どや




練習風景と使用機材でおます。ドラムの家の地下がスタジオなっているので、そこで曲作りをしています。

エフェクターはトレモロを不気味な曲の色物に、バッキングの歪を黄色君、ソロの歪を青君、無性に歪みたい時は両方でやってます。

36歳にして、初めて、自分なりの音作りと、エフェクターをしっかり踏むことが出来るようになりました。アンプ直結道は、まだまだ難しいですわ。

ギター・ドラムの都合がなかなかつかないので、ドラムと、別のギターの人とでベースレスで当面はやります。今月末に少しライブもやったりします。曲はチープとのかぶりはなく、やるとしても「うつせみ」ぐらいですわ。早く音源もこしらえますので、乞うご期待!!!!

2007年10月9日火曜日

寄り道

僕は寄り道が大好きだ。毎日の出勤においてでも、9割の確率で寄り道をする。それは図書館であったり、本屋であったり、レコード屋であったり、銭湯・温泉であったり、色々であるが、寄り道が好きだ。

買いたい本や調べたいことがあって、図書館や本屋に行く。ところが入ってみると、調べたいことに直結した書棚を探す前に、別の書棚に時間を割いてしまう。これは音楽も然り、買いたいCDを探す前に、いろんな棚を物色してしまい、目的を果たせずに帰ることもしばしばだ。寄り道途上でまた寄り道を重ねるのだ。

実に非効率であるかに思えるが、僕は満足している。それは、寄り道の途上で見つけたり、出会ったものとの結びつきのほうが素晴らしかった経験がたくさんあるからだ。

ところで、このネット環境。調べ物をするには随分と便利なものが出てきた。実際、多くの情報をネット上で得てきて、恩恵も受けている。まさかというキーワードもヒットする。

でもしかし、僕はネットでせっかく調べたことを書籍で確認しに、今日も寄り道をする。

ネット上で寄り道が出来ないわけではない。むしろ道は多く開かれている。でも僕は素敵な寄り道が出来ない。これはネットが悪いのではない。僕の嗅覚がおかしいのだ。

ネットに無数に張られているクリック一発の無数の扉。どれでも開けられるのに、僕は魅力的な匂いを感じない。くり返すが、嗅覚が優れていないのだ。

自分の嗅覚の劣性を卑下したくない。だから、もっともな理由をつけてみる。

指先だけで辿る行き先には、道がないのだ。体全てで辿らないのに道があるわけがない。こんなのしょせん「どこでもドア」だ。僕は「タケコプター」が好きだ。

ドラ君は、自分の持っている道具の使い方に関して自己矛盾を抱えている。うまく使いこなせていないのだ。でも未来の世界には、使える道具はたくさん備わっている。要は使いこなし方だ。

ドラは僕と同じで、未来の道具を使いこなせていない、だめな奴だ。使いこなせているやつは、耳を齧られて過去には来ない。その証拠にドラ妹は、究極のヘルプしかしてこない。彼女は未来の世界でしっかり泳いでいるのだ。彼女は完璧だ! 

でも僕は、使いこなせなくて、耳をかじられても、ドラ氏の世界を尊ぶ。
負け惜しみではない。ただ、ドラ氏よりは、少し秀でていたいと思う。

ドラ氏は、猫型ロボットだ。僕は人間型ロボットになろう! ドラ焼きを食べた。一個だけだ。

2007年10月8日月曜日

チープのベースは明君

うちのベースの明君、彼の好調な時は、「たわいのないことを、しっかり用件として確立してから電話をしてくる」という傾向が見られたのですが、それがここんとこめっきりなくて、心配していたのですが、
今日ありましたよ。萌芽が!

思えば、志知君の手術、須佐君の引きこもりと、ここ2年半の間、バンドメンバーが揃って音を出したことがないのですが、ようやく復活の兆しが、まじで見えてきました。
どんな音が出るのか今から楽しみです。

別ユニットでやっている練習方法なり、曲なり、メンバーが揃わない間に身につけた色々なノウハウはありますが、チープでは、個人的な力量アップ以外の、価値観は持ち込まずに、今までどおりのやり方が、次に会ったときにできるかが、大きなポイントになりそうです。

今まで通りのやり方とは???、①コード進行を口頭で伝えて、1時間で新曲をライブ演奏できる形に持っていく。②既存の曲は、ライブでやる曲を一通り演奏するだけ。③曲のテンポは志知君が俺のペースに合わせて、全体で走ったり、もたったりしてくれる。④ブレイク、展開の切れ目は、初出しで合わせてくれる。⑤ふれでいが、ギーソロを一回目からはめてくれる。⑥ふれでいが、コーラスを初聞でやってくれる。⑦全体の音がデカイので、1時間で声が枯れて、あとは歌わないのに、曲が出来る。⑧須佐、ライブでも曲の一番大事な所でミスしてくれるが、神がかり的なマジックが起こる(これ大事!)

まだ色々ありますが、良し悪しは問わないしわからない。ただ、これでバンドが続いてきて、積み重ねてきた年輪を大事にしたいと思います。

明君が「クレ556」の変わりに「凍結防止剤」をベースに振りかけようとして、テリーさんが止めてくださった光景が、今でも笑えます。

最後に明君が僕に送ってくれた今日のメールを引用します。

Hi, I ‘ m tired of working for a digital heart company, and miss previous way of living. So after all, computer , machine, or all digital things are not my cup of tea.
I seek something creative, something analog, something impressive from human power, I want a way of living to create music
train Martial arts, having good communication with others. According to my philosophy, I want to live, I want to create,
I want to teach, So what is the most important is not knowledge or skill, but experience and spirits, I believe.

明君の文章好きだな~。彼のロックな叫びがチープの土台を支えていたのです。

2007年10月7日日曜日

神様の美的感覚

今日、つめを切っていたら久々のフカヅメ・・・。痛いの。

そこでふと考えた。なんで爪ってあるのやろう?いや、あるのはいいけれど、何で伸びるんやろう?

さらに考えた。他に伸びるものである髪や髭、これらの目的は何?
大事な部分を保護するためにあるという説明を昔読んだことがあるが、又の裂け目にある毛はわかりるが、髪の毛や髭がなければ、保護ができないのであれば、スキンヘッドは無防備丸出しですな。

さらにさらに考えた。髪の毛は年とともに蛍の光が流れていくが、股下のギャランヘアーが脱毛している御仁を見たことがない。剃毛した痕は見たことあるが・・・。

きっと伸びるものを作った神様の心は、その伸びるものを通して、人がおしゃれを楽しんだり、年の経過を味わうためのものであろうと!そして、切る・伸ばすの楽しみを味わうことが出来るようにするためであろうと! 

ならば、生ある限り、切る・伸ばすを楽しもうではないか。神様はおしゃれな方なんだと思いますな。
ただ1つ、俺に関しては、神様の美的感覚が少し迷惑な気が・・・。
僕にはもみ上げの産毛(チャリ毛)がないのです。せめて、同じ設備を備えて欲しかったっす。

深爪→毛→切る・伸ばす→神様の美的感覚・・・。 分裂気味の文は伸ばしません。カット!

2007年10月6日土曜日

書評①

『夜を賭けて』梁石日(幻冬舎文庫)

梁さんの書籍は数冊読んだことあるのですが、退廃さが僕の好きな感じではなく、あまりのめりこんで、著作をおっかけてなかったのですが、これはテーマが素晴らしい

アパッチ部落について話なのですが、文庫の裏書にもある通り、「戦後50年の総括」という意味では、描写に迫力もあり、戦後生まれの僕らの代が是非読みたい一冊だと思います。

アパッチ部落に関しては、開高健さんの著作等で、数冊調べていたことがあったのですが、この本が一番インパクトありました。

僕は小学生の時から電車にのるのが好きで、いつも窓からの眺めを楽しみに乗っていたのですが、
大阪環状線、片町線(学研都市線)や、京阪電車車窓からの景色には、幼心ながらに、たくましさ、温かさを内包した猥雑さ、錆びた空気を感じました。あれはきっと、まだ復興が完成されていなくて、途上の活力が漲っていた空気があったからだと思います。

今、上記の沿線からの車窓は、一部手付かずで香りを感じるところもありますが、ほぼ隠されていて、文明都市としての誇りだけを漲らせた景色に変わりつつありますな。

いたずらに懐古する気はないですが、ほんとに美しい町の風景とは、生命の息吹が根ざしている、昭和の風景だと思います。今は、どこも無機質でいかんです。感覚がずれているだけかもしれませんが、錆びたトタン、長屋、狭い路地、凹凸だらけの砂利道、田んぼの畦道、これらは壊滅に向けて進行中ですな。いつの日か、お金をかけて、これらの景色を再現して、「昭和博覧会」みたいな行事がなされるのだろうと思いますが、馬鹿げているな~。 仕方ないのかな?? 

話は戻り、『夜を賭けて』。 何が感動するって、汚い言葉に込められた温かさ、むき出しの感性、活力ですな。なくしてはいかん気が・・。 僕の生きている間に総括してほしくないっす。

最後に「アパッチ」って言葉はインディアンの部落名らしいです。この言葉をどうとるか難しいですが、かみ締められる余韻がある響きですな。      

2007年10月5日金曜日

詠み人知らず

富山県高岡市は大伴家持さん縁の土地でして、毎年、古城公園という場所で、数日に渡り万葉集を朗誦する行事が行われています。衣装から本格的で、全国からその筋(893みたいやな)、もとい、「言の葉」に見せられた御仁が朗誦に来られます。昨年見に行ったのですが、夜の暗闇の公園内の湖上(池上、沼上)の特設ステージにて行われる幻想的なステージは、ファンが多いみたいです。

万葉集つながりで、「万葉歴史館」という粋な社も高岡にあるのですが、そこのボスに当たられる方が、「かぐらうた」元締めの恩師であり、そこで働く方が、前の会社で仲良かった方の親戚であることを、ここ一週間の間に知り、何かの縁を感じています。

通信教育で大学の勉強をしていた時、「国文学」のレポートで、「万葉集の名前の由来について、4000字で書け」みたいな課題があり、取り組んだことがあったのですが、結論は有力な説が複数あるだけで、実際のところはわからないというものでした。多分、単なるオムニバスが膨れていって、アカデミックにまとめあげらえただけだと思うのですが、「万葉集」で何が感動したかというと、数々の文献で見られる「詠み人知らず」という表記です。

「作者不明」「伝承」ではなく、「詠み人知らず」・・・。

この言葉をずっと曲で使いたくて、詩の言葉の一部に自然に降臨してくれる機会をうかがっていたら、「あるべく」という曲で、ついに降臨してくれました。

一部紹介 「冬のイマジン 雪解け知らず  紡いだ言葉 詠み人知らず」

何がどうと説明する気はないのですが、ここの部分を歌う時に、得体の知れない感情の高ぶりを覚えます。きっと「言の葉」が僕にだけもたらすプレゼントのような気がします。

「あるべく」・・・、名曲ですよ。手前味噌ながら、音のない絶賛レビューでした。

2007年10月4日木曜日

役職名に思う

nakaさんから、ここで書いたブログが、mixiにも案内行く処理の仕方を教えて頂きました。実は、昨日から、まさにそれを望んでいたのですが、こちらが思うツボをしっかりと読み取ってくださる、氏の感性に敬服です。ほんと、naka兄貴は、コメントがタイムリーでいて、恩着せがましくなくて、コメント内容もすごく分かりやすいのです。氏みたいな人が教職につくべきだと思います。個人的に「naka先生」です。

いんちき塾講師も3年目、色々な教える立場の人間を、学校、塾問わず見てきましたが、はっきりと言えることは、大学時代から家庭教師、塾講師の職にあり、そのまま継続してこの仕事に携わった人よりも、社会人経験をしてからなった人の方が、力量ははるかに上だなということです。何が「講師」だ、何が「先生」だ!

「先生」って言葉を文字通り取れば、「先に生きてきた人」なので、小・中・高で携わる分には、確かに「先には生きて」ます。でも、この言葉は、なんか嫌いですわ。言葉としては無茶苦茶正しいので、これを使う生徒側には問題がないのですが、教える側が、自分を「先生」という言葉で認識している、裏にある思想が嫌いです。また、「講師」って言葉も、「師」の響きの深遠な意味が嫌いです。
学校も、塾も、その他教育機関も、聖職名を冠せられるほど、全分野で完成された人はいないから、「職業的教科指導者兼、情操教育先達見本員」って言葉が適切です。   長いか・・・。

社会的な役職の肩書きにしてもしかり、「会長」「理事長」「社長」「専務」「部長」・・・、
「内閣総理大臣」「大臣」「事務次官」「警視総監」・・・・。

個人的な理想をいえば、「~さん」「~様」「~君」「~兄貴」「~ちゃん」「~氏」「~殿」って言葉だけでいい気がしますわ。

「~さん」って言葉一言に、尊敬、親しみ、軽蔑等、±の両方の意味を込めて、表現できて、それを味わうだけの感覚が本来あるのだろうと思うので、言葉の裏に込められた意味をお互いが理解して、時には感情的になって、日々を過ごしていくことが、大事なのではないか?と思います。

思いっきりメンチを切りながら、「社長のおっしゃることは理にかなっております。」というのと、尊敬の眼差しが満ち溢れた表情で、「~さんが言っていることはすばらしい。」と言われるのでは、後者のほうが清いと思うのですが、社会的には前者が支持されますな。

何が言いたいかというと、人間同士のがちんこ勝負に、役職名がないと、表現できない感覚と、役職に込められた本来の意味を感覚的に味わうことを忘れ、ただ響きだけに慣れている感覚が嫌だなと!

美しい日本語、儒教的な感覚に基づく尊敬の念を表す言葉、言葉は大事です。でも、生み出された言葉を使う使わないは、個人対個人の関係であって、社会的な定義語として、あまりにも安易に流通している気がするのですよ。言葉は残して、役職は排除! 本当に使う必要がある方に巡りあったら、嫌でも言葉は生まれるし、復活しますぜ。 

連日の大げさな記述、俺は誰だ!

2007年10月3日水曜日

インターネッター

mixi という共和国への招待を頂きまして、登録しまして、色々仲間との交流をふかめております。
男まえけん、ここ数日は、ブログ作成といい、共和国への国籍登録といい、えげつなく、インターネッターしておりますよ(笑)
インターネッターって言葉いいやろ? 新種のウイルスか、弱い怪獣みたいな響きが・・・。

積極的に関わるのはもちろんのことですが、音楽を聴いたり、読書をする時間を少なくしてまで、のめりこむ気はございません。リアルタイムな情報を知ることも大事なのかもしれませんが、個人的には、世の中に流通している音楽、書籍の0.1パーセントでもいいから、死ぬまでに多く触れたいですな。

特に書籍に関しては、膨大な書籍の1つ1つに、それなりのフェロモンが出ていて、求愛の時期を逃すと一生、深く付き合えなかったり、こちらから求愛感知レーダーが出ていなかったら、せっかく本屋に行っても、その棚に足を向かわせなかったりすることがあるのだと思います。

だから、書店巡りを欠かさないこと! 棚全体を見渡して、俺を呼んでいる奴等の背骨に目を向けること!これをする時間は確保していきたいですな。

どんなに名著だって、知り合う時期(自分の感性と合っている時)を逃すと、春本にもなりゃしません。
つきあうタイミングは運命的なものかもしれません。

ちゅうことで、再度mixi共和国。   旧知の仲であったり、あまり知らない仲であっても、人間同士の繋がりの縁は、しっかり感謝して、真剣に付き合わないといけませんな。出会い、つきあい、再会するタイミングは運命的ですわ。だから、このタイミングで僕を誘ってくださった、N兄貴には感謝します。

このネットの世界がこれから辿る先に、得体の知れない恐怖を感じるのですが、だからこそ、この進展を、しかとこの目をネットにして、受け止めますぜ。俺はインターネッターだ! 

2007年10月2日火曜日

「ブログ炎上」 怖い????

ブログとやらを初めて、早くも一週間ぐらい! 何を目的に書いているのかが、まったくわかりませんが、人に見られる前提として、多少は文章としての完結を目指しているのかもしれません。それがいいのか、悪いのかはわかりませんが、何故か前向きで、それに楽しくもあります。

ただ、もし、ここが長いこと続いて、僕のパソ文字が膨大な量になって、そしてその後に、サーバーかなんかしらないけど、この日記を保管している倉庫が消失したら、その時に嘆き悲しむような自分であって欲しくはないと思います。バックアップというのは自分のパソ全体にかけるのかもしれませんが、残るか残らないかは大した問題ではない気がします。

ブログという体裁ですが、基本的にスタンスは掲示板で始めたのです。
数年前に管理鹿さんが、チープハンズのサイトを作ってくださって以来、掲示板に対する僕のスタンスは、文字通り「掲示板」、つまりメモ書きであり、白墨で書いて、黒板消しで消される運命の文字の羅列です。だから、一筆書きで、推敲せずに書いてきました。それに「蜩日記」という別の窓も、「文字の羅列の長文版」という位置づけでした。

でも、ほぼ毎日書いて、それが続いた場合、それは立派な日記となりますな。日記となると少し複雑です。僕は中学生から高校3年生まで、欠かさず日記を書いていました。今でもその時のノートがあります。でも、一度も読み返したことがなく、この日記は僕が死んだら焼かれますし、死ぬまで見直すこともないでしょうし、本当に愛おしい記憶は、日記に記録しなくても覚えているのです。

では、なんで日記帳を捨てられないかというと、日記帳という塊が物理的に存在することだけが愛おしいような気がするのです。昔のある時期に、僕が毎日書いていた(そのエネルギーがあった)という事実を目の当たりにさせてくれるだけの存在です。それでも、日記帳は僕が死ぬまで存在して欲しいのです。

なんでだろう?  僕なりの答えは、
犬が縄張りを誇示するためにションベンを電柱にぶっかけるように、生きてきた証をどっかで残したいという本能が、人間はどっかにあるのではないか? それが無意識になされる場が昔の日記であり、それが、自己顕示欲も満たしてくれて、操作も楽であるから、何となく前向きになれるのが、ブログである気がします。

死んだ親父は、日記を30年以上書いていて、日記帳を保管するためだけの鍵つき書棚がありました。その日記は、親父が死んだ後、家族の誰も読まずに捨てました。でもその中の一部だけを僕は盗み読みしました。内容は書きません。でも、そこには飾り気のない排泄物のションベンがしっかりと染みを作っていました。紙魚も存在できないほどの清さで。

今日は親父の命日。 ブログを始めた僕は、純度の高い排泄物を書くことを墓前に誓います。

「ブログ炎上」 怖くない!!!  といえる自分でありたい   半月の夕べに思う。

2007年10月1日月曜日

夢でガス・ガス・ガス

今日の夕方から、腹が張ってしょうがないです。
この症状は、塾稼業をしだしてからは定期的に訪れまして、原因はわかっているのです。
ガス抜き失敗・・・。 

御屁を嗅ぐわせることへの恥じらいを、僕は未だに持っているのです。特に思春期の少年少女にガスタンクからの芳香とノイズを体感させてはいけない! この使命感は聖人並! この恥じらいは乙女並!
だから、定期的にガス抜きをしているのですが、前日のアルコール摂取量によって、ガス抜きのテクに差が出るのです。きっちり抜けないと、腹は・・・・・・ぷっくら妊婦仕様!

「屁を出すこと」に僕がやたらと神経質な原因はわかっているのです。

高校1年の4月、入学間もないクラスで、僕は授業中に居眠りをしていました。まだ、友達もあまりいない時期に、こっくりこっくり夢の世界に入っていたのですが、そこで、僕は「屁爆弾」の投下を指揮する軍曹になっておりまして、屁を充満した風船を、ワルサーP38で打ち抜く夢を見ていたのですが・・・。

僕は、生まれて初めて、自分の屁音で目が覚めました。それは寝ぼけた感覚ではなく、瞬時に現実の状況が飲み込めました。「クラスのみんなが驚きの沈黙」→「苦笑が部分的に発生」→「大爆笑」

この瞬間、僕は寝たふりをぜずにはおれなくなり、授業終了のチャイムも聞こえないふりをして、机に臥しておりました。その後の展開は・・・。

次の日、僕は野球部入部による丸刈り期日を守り、頭を丸めて登校ですよ。
「頭を丸めたスカンク」 

屁のない世界へ、       シャングリラ~~~~~~~~~ 。そして僕は途屁~にくれる。