2008年11月11日火曜日

フォルダー管理の違和感

仕事柄、毎日のように教材プリントを作る。入試傾向、入試までに残された日数、現在の生徒の学力をクラス別に天秤にかけて、少しでもよいものを作ろうとする。

1度作成したものが、翌年にそのまま使えることもあれば、入試傾向の変化、その年の生徒の学力水準などによってマイナーチェンジを加えないといけないものもある。そうなると、作成プリントの数は増える一方である。

今日プロパティから見てみたら、900MBあった。ワード、エクセルで作成したプリントがほとんどであり、写真などの挿入もしているが、その大部分は手打ちの文字だけがぎっしり詰められたものである。それで900MBなのだから、すごいプリント量だと思う。

英、国、数のフォルダーに始まり、その中にそれぞれ、小、中、高のフォルダーがある。そしてさらにその中に、数多くのフォルダーが作られている。例えば、中学英語ならば、各学年別フォルダー / 短文 / 長文 / 新傾向問題 / 英作文 / 過去問 / 塾内テスト /
口語表現 / 講習テキスト / リスニング / 教科書プリント / テスト対策プリント / 英問英答 / 単元目標導入プリント・・・といった種類のフォルダーがあり、そしてその中にワード、エクセル文書がぶちこまれている。

今年の初めにフォルダーを整理したのだが、我ながらよく整理されていると思う。どこに何が入っているか、何を作成したかをしっかり覚えているので、適宜取り出しては授業プランを瞬時に組み立てられるだけの素地が出来上がっている。

バックアップに関しては、メモリースティック数本と、Micro SDのダブル体制で取っており、今のところ心配はない。

今のパソコンではスキャナーで、画像や過去問や図表は取り込むのだが、以前の会社時代は切り張りして原始的に作っていたので、パソコン保管ではない、クリアファイル保管のプリントもたくさんある。クリアファイルの数は14冊ある。今は、順次クリアファイル内のプリントをスキャナー取り込みして、パソ保管に移行しつつあるので、まだまだ容量は増えていくだろう。

パソコンは文書保管をするという面では素晴らしく機能的である。整理能力がない俺でも、今のような快適な保管、取り出し環境を維持できているのだから、パソコン普及の時代による恩恵を大きく受けていると思う。

ただ、俺の感覚が変なのかもしれないが、パソコン内に、自分が精魂こめて作ったものが詰め込まれているということに違和感があり、それをずっと拭い去れないでいる。実際に紙にしてプリントアウトすれば、クリアファイルで数百冊になるであろう文書が、画面をクリックしただけで取り出せる画面カバンに収納されていることが、何だか物足りないのである。

実際にクリアファイルに収納して、その膨大なプリント類に囲まれていると、自分が今まで積み重ねてきた成果が残骸と共に、物量として目の前に顕になる。それを俺は欲しているのかもしれない。

音楽にしてもそうだ、パソコンに音楽を取り込んで、クリックして音を取り出す作業が、未だに心地よくない。だから現在の個人パソコンには、音楽データはいっさい無くなっている。重くなるだけだし、CD-Rに焼いたらすぐに消去する。

CDを収納棚から探し出し、それをCDラジカセやカーステにセットする。そして、ジャケットを眺めながら聴く。この作業と、それを通して音楽を聴く心地よさに勝るものはない。だから、アイポッドなるものも興味ない。音楽はレコード屋でCDかレコードで手に入れるに限る。

時代の流れに本当にはついていけていない、偏狭おやじの偏った感慨なのだろうが、どうもパソコン内にものを保管するという習慣にはまだまだ馴染めそうにない。表向きは馴染んで保管もしているのだが、心地よくはない。

結局、大きさを認識できないと充足しない、物欲塗れの幼児心理を俺は未だに持ち合わせているのかもしれない。コンパクトなものよりも大きいものを、単数より複数を、わかりやすい幼児心理が俺を未だに支配している気がする。

そういえば、小学1年生の時のお年玉でもらった1000円札を、俺はおやじの1円玉、5円玉、10円玉、50円玉、100円玉×2枚の硬貨10枚セット(332円)と交換してもらって、かなり喜んだ記憶がある。交換を提唱したのはおやじだ。
おやじはわが息子に詐欺を働きかけたというわけだ。何だか小さいぞ!>おやじ。

完全にだまされたわけだが、紙切れの札1枚が、硬貨10枚に化けた時の感覚は未だに嬉しい記憶として俺の心にある。それが今のパソコン保管に満たされない俺の性質を形作るきっかけとなったのだとしたら、おやじも罪作りなもんだが、現状では自分のこの性質が嫌いなわけではない。

今後もフォルダー内に多くの保管をしていくのだろうが、本質的な部分では、小さなフォルダーにあるものではなく、プリントアウトされた紙のほうに真実と満足を見出していきたいと思う。

2008年11月9日日曜日

冬支度完了

Steve Cropper &Felix Cavaliere のアルバム、Dave Masonのアルバム、Dan Pennのアルバム、 Giant Sandのアルバムをチェックした。どれも最近出たものっぽい。

どれも素晴らしすぎて、久々に当たりアルバムを一挙に手に入れた感じで幸せだ。軽く試聴し終わり、感動しながら今から一枚ずつじっくり聴きこみ体制に入るのだが、かっこいいアルバムをじっくり聞き込む時の幸せといったらこの上ない。

通常の日々に明かりを灯してくれるような、幸せなこの時間の満足感は、子供が新しいおもちゃを手にした時の感動と同じであろう。ジャケットをじっくり眺めて、歌詞カードをじっくり眺めながら、音の輪郭、細部をじっくり聴く。ほんと幸せだ。

名盤に出会えば出会うほど、まだ遭遇していない名盤がまだまだあることに気がつき、それらと出会うための物理的時間が足りないことが悲しくなってくる。だが、数あるアルバムの中から色んな過程を経て巡りあえたアルバムとの出会いを満喫して過ごせばよい。個人的名盤とのめぐり合いは、短期的に見れば偶然だが、長期的に見れば必然なのだろう。

Neil Young の秘蔵音源シリーズがまた今月出されるらしい。日本盤は来年1月なのだが、輸入盤は今月25日である。待ちきれない。早速予約してきた。

何でも68年か、69年のライブ音源らしい。68年といったら、Neil Youngがまだスターダムにのし上がっていない時だ。そんな時期のライブ音源が聞けるとなれば、ドキドキ感はマックスだ。しびれる11月の音めぐりだ。

ニール翁の蔵出しシリーズはどれも素晴らしい。それにしてもニール翁が過去の音源をかくもしっかり管理していたとは驚きだ。ワーナーの倉庫を整理していたら、たまたま見つかったのではないか?とレコード屋のご主人は言っていたが、そうかもしれないが・・・。

なんにしろ、数十年の歳月を経て、正規盤として発売されるのだから、音源が残っていたことに感謝だ。ファンとしては嬉しい限りである。

今日は「騒音寺」が北陸ツアーで富山にやってきた。福井のガンジー君と嫁と3人で見に行ってきた。

ぶちかまされた。初めての富山ライブだったらしいが、動員もよく、とにかくロッキンでロールしていた。久々にかっこいいバンドを見た感じだ。岡さんと久々の再会であったが、相変わらずの愛すべき方で、ライブに熱狂しながら、岡さんの楽しそうな顔に感動した。スピリッツがちょっと違う。日々の生活をストイックにしながら、音楽に身を捧げた方のかっこよさと清さを味わって、涙が出そうなライブであった。騒音寺ありがとうございます。

ほろ酔い気分であるが、今から「24」を見る。昨日から、シーズン2に突入した。案の定、一気に5話まで見てしまった。シーズン1よりさらに絶望感に包まれる展開であり、この先どうなるか・・・。何の根拠もないが、オバマ氏人気の要因の数%は、この「24」のパーマー大統領と重ねて見ているアメリカ国民がいるのではないか?と思ったりもする。それくらい、人間味あふれる大統領だ。その一方で、相変わらず、ジャック・バウアーの娘のキムは腹立たしい。こいつがいなければ、絶望感は減少すると思うのだが・・・。

書籍とのめぐり合わせは最近あまりよくないが、それでも、ぽつぽつと平均レベルにはめぐり合えている。

音楽、映像、書籍に包まれる日々は最高だ。今年の秋は特に実りが多い気がする。暦上はもう立冬を過ぎた。そういえば今朝はめっきり寒くなってきた。すぐれた名盤、名画、名著を携えて、冬にじっくりと情操を鼓舞したい。こたつ蒲団ももう出たのかな? 無頓着であるが、個人的な冬支度は完璧である。素晴らしきものに包まれて日々を過ごしたい。

2008年11月8日土曜日

日米の二大政党

俺は個人的に支持したい議員さんがたくさんいる。そしてその議員さんは民主党に多かったりする。共産党にもいる。自民党は少ないけどいる。

支持する議員さんの数で言うと1番多い民主党なのだが、どうも党を支持する気にはなれない。その理由が何でかが分からずにいたのだが、分かった気がした。政治哲学が民主党になくて、単なる大衆迎合政党だからだ。そして、その大衆迎合性をもっとも露骨に、もっともかっこ悪く出している3人の権力者が民主党に君臨しているのが、たまらなく嫌いなのだ。3人の迎合者は、OとHとKだ。実に節操が無くかっこ悪い。

民主党のかっこ悪さと大衆迎合性をはっきりと示している例がある。昨日のニュースで見たのだが、何でもオバマ氏が買ったことにあやかってか、わざわざ米国から取り寄せていたオバマ氏の選挙ポスターを国会内控室のO沢一郎代表のポスターと並べて掲示したというのだ。

あほか!何の関係があるねん。党名が一緒なだけで、中身はまったく似てもいなけりゃ、スケールも違う。虎の威をかるなんとやら・・・。本気でかっこ悪い。これを発案した奴の頭のスケールが、民主党のかっこ悪さの象徴だ。

アメリカと同じ二大政党といっても、日本とアメリカでは政治哲学の重みが全然違うと思う。

アメリカの共和党と民主党の差異も、本質的な部分では大差なく思える現況ではあるが、それでも、選挙にかける国民の期待の大きさ、政治に携わる人の責任の重さ、誇り、信念というもののスケールが全然違うと思う。保守と中道リベラルという差異だけで括れない現況があるにしても、アメリカの二大政党は宗教的な思想も巻き込んだ、大きな差異が感じられる。

それに比して、自民党と民主党の二大政党を標榜している我が国であるが、自民党と民主党の絶対的な差異をはっきりと、当の党員さんたちは言えるのだろうか? シャッフルして入れ替えても大差ないような、単なる陣取り合戦みたいな中で群れをなしただけの集まりが、自民党と民主党であると思う。

自民党と民主党を良く見渡せる洞ヶ峠で、日和見しては自己の居場所を思案している公明党、社民党なんかは言及するに及ばない。共産党だけが主張の是非は別として、政治哲学というものをしっかり持っていて、軸がぶれていない政党であると思う。

オバマさんの民主党に自己の政党の運命を重ねて、「戦後60年の自民党政権の独裁を大きく転換する流れが出ている」と談話できる、民主党国対委員長も3馬鹿トリオに匹敵する能天気さだ。名前は良いのだが・・・。

民主党を支持しているから投票するのではなくて、自民党ではちっともよくならないから、1度やらせてみようというだけの支持が民主党にいっているだけだ。誰もがわかっているこの基本をもう1度見直して、今こそ謙虚に、ぶれない政治哲学を構築しなければならない時期だというのに、何を呑気にオバマさんのポスターと、悪人代官顔の党首の写真を並べて掲示しているのだろうか?

新聞も、もっとポスター掲示の幼稚さを嘲ってあげないと、奴らは気づかないと思う。民主党の優秀な若手議員が、しっかりその理念を具現化できるように、そろそろ民主党の愚老達は隠居してもらったほうがいい気がする。Kさんも二度目のお遍路にでも出かけたらいいのではないかと思う。そのまま出家しなはれ! 

政治ネタは出来ることならあまり書かないでいようと思っていた。どうしても口汚く罵るのが俺の稚拙な性質だ。改めたいが、オバマさんのポスター掲示に、さすがにピクピク・・・。

ただ、アメリカの大統領選を見ていて思ったのだが、アメリカ国民は、申し込んで、並んでまでして投票に行く。そして、個人個人の政治に対する思いをそれぞれが発言する。そういった国民性に支えられているからこそ、二大政党としての政治哲学が政党にも作られる部分があると思う。

日本も、外野の意見として稚拙であってもかまわないから、とにかく意見すべきだと思う。みんなが政治家を監視して意見するならば、投票率も上がり、能天気な政治家が干される土壌が作られると思う。それまでは二大政党はお飾りの政治家ごっこであり、それにお付き合いするだけの馴れ合い国家であるに留まると思う。

アパが悪い

航空幕僚長の論文が大きな問題になっている。この件に関しては色んな疑問と主張がある。

① そもそも、懸賞論文に航空自衛隊のトップといえども、たった1人の人間が書いたものが、大臣まで処分を下され、総理大臣が「なぜいけないか」を説明して、野党が追及するほどの事態にまでして騒ぎ立てることなのか?言論の自由の範疇ではないか?

② 問題の論文を読んだが、論文と言うにはあまりに稚拙で、大学1回生が書いたレベルの作文である。こんな文章レベルしかない人が、航空自衛隊のトップにいることのほうが問題ではないか?

③ 航空幕僚長だけでなく、自衛隊員がたくさんこの懸賞論文に応募したみたいだが、一体彼らの目的は何なのだろうか? 隊員が揃って応募するほどの熱意を持って取り組むべき懸賞か?

以上3点の疑問が非常に大きくて、野党が追求したり、関係者が尻拭いしたりしている姿がピンとこない日々であった。

3点について少し噛み付いて、自己の毒を出したい。

① 戦争という事態においては、被害者、加害者というのは結果論であって、侵略国とい
う立場は戦争の推移によって変わるものだ。戦争に優勢な国が相手国の領内に入った時点でそれは侵略になる。入ったらそれなりに悪いことするだろう。そして、負けた国が勝った国を侵略国と、悪口にして言うのは当たり前で、喧嘩両成敗が原則だと思う。

この点では、航空幕僚長の言い分も一理あるとは思う。いつまでも被害者としての感情だけで他者攻撃する、自己基準で中華の国があるから、奴らを意識した主張もついつい出てくるとは思う。だが問題は、その内容の稚拙さだ。

② 論文全体を読んだが、引用は曖昧で、自説の発展のさせ方は、単なる作文で、何の根
拠もない。この手の論文を本当に恥ずかしげも無く応募したほうもしたほうだが、入賞させる主催者のほうも???? アバアバ・・幼児レベルの主催者だ。アパだ。女社長の帽子が迷彩柄に思えるほど迷える会社だ。 まじでひどい。こんなレポートが入賞するのだったら、世の中の大学生に落第は発生しないのでは?と思う。

例えば、PDFでコピーの仕方がわからないので、乱暴な抜粋引用だが、「文明の利器である自動車や洗濯機やパソコンは、放っておけば誰かが作る。しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。」といったくだりがある。
まず、「戦争によってのみ解決されてきた。」ってほんまか? 支配、被支配の関係の話し合いでの解決は、多くの市井の場面で見られる気がする。根拠もなく断言できることではない。ブログじゃなくて論文なのだから・・・。もっと論調に強度が必要だ。

それに明らかに稚拙なのが、「文明の利器である自動車や洗濯機やパソコンは、放っておけば誰かが作る。」という前半の主張と、「人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。」という後半が、「しかし」で結ばれている意味がわからない。逆接の関係になっている?? 少し理屈っぽいが知恵の足りない中学生の作文みたいだ。

③ 最後に、航空幕僚長以下隊員が、こぞって応募した事実を考えると、そこに何か目的
があったのだと思うのだが、それは何だろう?という素朴な疑問がある。

本質はどうであれ、これだけ過激な?というか、感情的で偏った意見を組織ぐるみで書き送ろうとするモチベーションは何か?すごく不思議であり、興味がある。この手のレベルの思想教育がなされるほど、偏狭な組織なんだろうか? 

以前のブログでも書いたが、自衛隊という存在を、本音と建前を取っ払って、必要な存在とみなしてあげないから、彼らも自己の存在意義にやっきになって、このような偏狭な思想を強めたのではないかと思う。つまり今回の論文は、存在意義を認められない自衛隊員の稚拙ではあるが、悲しい叫びの微小な発露であると思う。

ただ、タイミングは悪すぎるよな~。こんな論文を主催したアパが悪いという暫定結論にしておく。論調に強度を! 耐震にも強度を!

2008年11月6日木曜日

刈り取りの秋

ニールヤングの「ハ―ベスト」と「ハーベスト・ムーン」ばかり聞いているここ数日だ。秋にはこの2枚が聴きたくなる。秋は収穫の季節だ。せっせこ種を撒いて、真面目な日々を過ごしてきた成果が、実りとなって現れる。秋は実に良い。

俺の愛する季節に愛する名盤に包まれる至福の時間を、邪悪なニュースが妨げる。
そうだ、何も秋の刈り取りは、実りあるものばかりではないことに気づく。「撒いた種を刈り取る」という、キリスト教的な宿命は、悪事に対しても当てはまるべきだ。

「年金特別便」が職員の事務ミスやら印刷ミスで届かないということで、50万通再送だとか・・・。民間企業なら該当部署全員の首が飛んでもおかしくない自体だが、奴らは平気だろう。それに今回が初めてでもない。

社保庁職員全体に罪があるわけではないのはもちろんだが、盗人省庁が犯した罪の尻拭いを、さらに税金を使ってさせてもらえるのだから、何よりも細心の注意を払ってしなければならないのに、よっぽど作業能力がないのだろう。

ふだんから、働く時間をロボットみたいに消化することしかしてこなかった奴らに、人並みの仕事をしろと言っても無理なのだろうが、しょうもないミスで税金が使われたらたまらない。

改ざんするための事務ミスはなかったのだから、出来るだろう。個人がミスしても組織ぐるみで悪事を行える集団のことだ、チェックも集団で行えば、今回のようなミスが起こるはずはないと思う。雑事が増えて大変だとは思うが、そもそも自分らで仕事を増やしたのだから、生きている間に少しだけでも人並みに仕事しろ!と言いたい。

遡って、ずさんな年金管理をした詐欺師の財産を差し押さえるなりして、事態収拾に努めるべきだと思うのだが、この国は組織犯罪に甘いと改めて思う。

「あなたの年金記録はこれでいいですか?確認してください。」みたいな分厚い封書が俺の家にも届いたが。これなんかを年金対象者全員に送っていたら、いったい幾らの金額が必要になるのだろう?計算したらわかるのだが、はっきりと封書に、「~~円のお金を税金から無駄に使わせていただきました。」ぐらいの自己申告と謝罪だけでも、詐欺師にさせないといけない気がするのだがいかがだろう?大臣?? 

年金を管理する部署の職員がする仕事は、文字通り年金管理だ。それがなされていないのならば、奴らの仕事内容はなんだ? しょうもない資金運用という名の博打か? それとも、バブリーな施設を作り出す建設ごっこか?

社保庁職員であることが恥ずかしくてたまらない、まともな職員は、内部告発しまくって、盗人の主犯格の個人名と詳細なデータをを片っ端から列挙してやればいいのだ。
そうして、盗人のあぶり出しに協力した職員は、他省庁で引き受けて、公務員としての地位を保障してあげればいいと思う。

加入記録をパソコンに入力するなんてことは、小学生でもできる。それがしっかりなされていない原因は何か? 

簡単だ。小学生が身につける術もない邪悪な改ざんをした上での入力だからだ。小学生にやらしておけば、今回のような無駄な郵便物送付も、返送する手間も省けたものを、悪知恵だけを身につけた盗人が跋扈しているからいけない。

立派な公金詐欺なのだが、個人でなく組織ぐるみの犯罪だから、責任の所在が定かでない。それをいいことに、こっそり天下りしている盗人もいるらしい。盗人省庁の棟梁が幅をきかしていて、改革もくそもあったものではない。斬首ものの犯罪者を早く出せ!

「赤信号 みんなで渡れば怖くない。」という、けしからん標語が関西にあるが、これなんかもアナーキーな暴挙ではあるが、盗みでないだけましだ。

「人の金 組織で盗めば 怖くない。」という標語が社会保険庁にあったかどうかは知らないが、標語が目指す以上のモチベーションを持って、盗むわ盗むわ、歴史に残る盗賊である。

キャリアの成績アップのための改ざんであり、盗んだという意識が希薄なのがさらに性質が悪い。「消えた年金」と言うが、「盗んだ年金」だ。個人的に使おうが、組織ぐるみで他の名目金にしようが、個人の金を無いことにしたのだから、盗みの範疇だろう。

撒いたものを刈り取るのが世の常だ。ハーベスト・ムーンは悪人にも降り注ぐ。刈り取る内容は千差万別だが誰にでも訪れる。豊かな収穫を盗人が味わえるわけがない。まずはきちり犯人探して、順に身包み剥がして、次年度からの肥やしにでもしてほしい。糞ほど良い肥やしになる。それが実りの秋にすることだ。

2008年11月5日水曜日

休日雑記

まずはライブ告知

【ほうるもんライブ】
11月15日(土) 福野町「さむでい」にて、20時ごろ登場予定
共演:カラスさん、東さん、馬川さん 

※ インストを含め5曲の新曲をひっさげての登場です。新境地の曲から、スタンダードな曲調まで、表現技法に幅が出て色んなテイストを持っていますが、芯はロッキンに貫かれています。乞うご期待!

【チープハンズライブ】
12月28日(日)京都「拾得」にて 18時30分登場予定 
対バン:CHAINS  エンヂン(from 浜松)

※ チープ、フルメンバーでは何年ぶりだろう? 昔は年末恒例だったCHAINSとの拾得対バンで久々の登場です。呼んでくれたCHAINSに感謝です。旧友バンドとの対バンですが、ガチンコ対マン気分で登場します。乞うご期待!!

音楽予定が詰まっているのは何よりの幸せだ。入院後の心の傷も癒え、久々に気分よく休日を過ごした。

昼間は本屋巡り。今日は郷土資料関係を中心に立ち読みをした。家に帰って、恩田陸さん、木下半太さんのジャンク(失礼!)サスペンス推理ものを読んだ。昨日ぐらいから視力がかなり回復してきている実感があり、目の疲労感がかなり和らいでいる。すごくうれしい。読書後は曲作り。

昨日のことだが、高2の男の子の生徒が俺になぞなぞを出してきた。高2になって、なぞなぞを出してくるなんて、ほんまかわいい生徒だ。

「赤い帽子 涙で小さくなるものな~んだ?」と聞かれた。

俺は即答で、「簡単やんけ~、広島カープや。」と答えたのだが、彼は「ブー」と言う。擬音語で不正解を告知されたのは20年ぶりぐらいである。思わず笑った。

答えは、「ろうそく」らしい。なるほど~!と思うような、納得できないような答えであったが、俺は彼の出題文句が気に入った。

「赤い帽子 涙で小さくなる」 なんだか文学的なものを感じた。俺の曲作りセンサーがすぐに反応して、今日曲にした。偲ぶ唄だ。たまたま先日、お世話になった方の不幸があり、通夜、葬儀に参列したばかりだ。故人を偲ぶ唄を作ったのは初めてだが、一筆書きでDメロまである組曲が出来た。

夜は「ほうるもん」の練習。「赤い帽子」と他に3曲をネタ仕込み。ライブ後の練習までに唄メロと歌詞を作るつもりだが、かっこいいネタであり仕上がりが楽しみだ。ベースの御大がコードと曲調アイデアを持ってきてくださるのだが、自分の引き出しにないものであり、後付の作詞、メロ作りが最近たまらなく楽しい。

「航空幕僚長の論文問題」や、「狐憑き泰葉の壊れ方」、「オバマ氏演説」等々、からみたいニュースもたくさんあるが、少し前までは通常であった、個人的なささやかな休日をまた楽しく過ごせたことが今日は嬉しくて、外界の出来事はどうでもよいと思える日だった。こんな日々が続けばいいなと心から思う。

またしばらくしたら、通常体制の日々に不満を覚えたりもするのだろうが、自分にとって穏やかで平均的な日々に喜びを見出せる境地が今は心地よい。眼も健全だ。

2008年11月4日火曜日

栄枯盛衰への興味

昔から、栄えていた人が枯れること、盛んなことが衰えることに興味があった。厳密に言うと、必ずしも枯れなくても良い。1度栄華を極めた人が、その後何をモチベーションとして、どのように生きていくのかということに興味があった。また、残念ながら枯れてしまった場合は、その後どのようにして再度気持ちを盛りたてて人生を処していくのか?という精神状態の変遷に興味があった。

小室氏の詐欺事件の報を聞き、改めて昔から興味があったこの手のトピックに思いを巡らした1日であった。

個人的には小室氏の音楽を1度も良いと思ったことがないし、何で売れるのかが全くわからなかった。氏の音楽が日本の音楽レベルを下げているとまで思ったこともあった。だが、あれだけ強烈な売れ方をしたわけであり需要が高かったのは事実だ。市井の民として、世に出て売れた人には、何かしら選ばれた人のすごさがあると、一目置いて見る様にしているので、個人的な好き嫌いは別としてたいしたものだと思っていた。

だが、ここ数年サッカーのスポンサー料の未払いがニュースになったりするにつけ、大丈夫か?と余計な心配もしていた。

マイケル・ジャクソンにしてもそうだが、庶民とはかけ離れたスーパー・リッチが、再び金欠になるといった報道は、実感としては理解できない。毎年数億円の印税収入があったら、毎年宝くじに当たるようなものだ。何で金欠になるのか???

だが、最近わかるような気がしてきた。もちろん実感として理解できることは一生ないが、理屈ではわかるようになってきた。

身近な例で考えると、平均的な年収を得ているAさんと、その10倍の収入を得ているBさんがいたとする。Aさんから見たらBさんは羨望の的であり、さぞかし金に不自由ない生活をしているのだろうと思いがちだ。

だが、金銭的な充足感と金銭的な切迫感は、AさんもBさんも同じであるような気がする。なぜなら、Aさんが大衆車に乗っていたら、Bさんはその10倍の高級車に乗る。Aさんが2000万円の家に住んでいたら、Bさんは2億円の家に住む。Aさんが1000万円のローンを抱えていたら、Bさんは1億円のローンを抱えている。

つまり、収入の分母が大きくなっても、支出の分子も同じ比率で大きくなるのが、人間の性質に基づいた常であると思うのだ。

もちろん、分母が大きい人が味わう日々と、分母が小さい人が味わう日々には、かなりの相違がある。庶民が味わうことの出来ない次元を金持ちは味わっている。そこで庶民は金持ちに憧れと、時には妬みすら持って、その不満をささやかな明日の活力へと変えていく。

だが、精神的な充足感は同じでないか? 負け惜しみでなく本当にそう思うようになった。いや、むしろ分母が大きな生活をしている人の方が精神的には抱えるものが大きい分、辛いのではないかと思う。

失う恐怖、そして失ってしまった時の喪失感は尋常ではないと思う。生活レベルにしても、庶民がさらなる緊縮財政を味わうのと、金持ちが庶民レベルの生活をするのでは、苦痛の度合いは同じではないと思う。もちろん、人間は慣れる生き物だから徐々に順応するとは思うが・・・。

小室氏が詐欺にまで手を出して金策していた事実を庶民レベルが興味本位で詮索することではないのかもしれないが、あまりに哀れである。氏が今後、どのような光明を見出して人生を過ごしていくのか、不謹慎ではあるが、心理学的に見ていきたいと思ってしまう俺も哀れではあるが、興味あるものは仕方ない。人間の究極のテーマが栄枯盛衰なのだ。生から死への宿命とリンクするテーマだ。興味がわかないはずがない。

個人的に小室音楽は、嫌いの粋を超えて興味がないが、詐欺の件は別として、氏を全否定する気にもならない。香港などでの音楽シーンに進出するための、音楽的投資の失敗がそもそもの金欠の原因であるとの報を読んだ。

音楽人が土地などの投機に失敗したならば、かっこ悪すぎるが、音楽的なことに金をつぎ込んでそれで失敗した点だけは、個人的に非難したくはない。

小室氏が海外に別荘買ったり、高級外車を数台所有したりといった成金的な金遣いはかっこ悪いと思うが、音楽に大部分をつぎ込んだのであれば、小室氏が音楽に取り組む動機はそれなりに純粋なものであったのだと好意的に解釈したい。投機材料として音楽を据えていたように思っていたので、むしろ音楽人の良心を感じて少し安心した面もある。

膨大な負債処理と今回の罪の償いを終えた暁には、エレピかシンセサイザー1台だけを持って、また小室氏なりの音楽を作ればいいと思う。そうして出来た音楽を少し聴いてみたいと思う。初めて氏の音楽に興味を持てる日が来るかもしれない。栄枯盛衰を一巡するだけで人生が終わる事例ばかりではないと思う。一生に栄枯盛衰の輪廻を体感出来る事例も多くあると思う。そこに生まれる音楽は本質的な意味でロッキンで最上のポップスだと思う。浮上するのみだよ小室氏! 初めて小室氏を応援したくなった日であった。



 

将軍の写真に唾を吐く

今日のヤフーニュースで食いついたのは、これだ。

「健康悪化説が提起されている北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)総書記が、北朝鮮軍チームのサッカー試合を観戦したもようだ。 北朝鮮の朝鮮中央通信は2日、金総書記が「第11回人民体育大会の閉幕に関連し、サッカーを観戦した」と伝えた。ただ、先月4日に金総書記のサッカー観戦を報じた際と同様、今回も具体的な観覧日時や場所は明らかにしなかった。人民体育大会は5年ごとに種目別に開かれる体育行事で、今大会は9月末に開幕し、先月31日に平壌体育館で幕を下ろした。」

そしてキム将軍が映っている写真も載っていたのだが、見た瞬間に噴き出しそうになった。
「うそやん! 作りもんやん!」と思わずにはいられなかった。

だいたい、重要な公式行事にも出てこなかったキムさんが、なんでこんな笑顔で観戦しとるねん! それに、側近の視線が誰一人キムさんを見ておらず、キムさんだけ、少し離れてぽつんと座っている光景自体が信じられない。

笑顔は不必要に明るく、体勢は不自然で、背景との大きさのバランスも悪い。これは合成であろう。仮にほんものだとしても、キムさんのそっくりさんがやっている映像だろう。彼のそっくりさんは作りやすいと思う。カリスマ性の欠片もない、柔和なメタボおやじを捕まえて、髪の毛の生え際を広くして、グラサンかけて拍手の仕方だけ教えたら、1日で影武者完成であろう。

滑稽なのが、なんでこの時期にこんな稚拙な写真を発表してまでして、キムさんの健在ぶりをアピールするのかということだ。

嘘を隠蔽して裏細工するやり口は、小学生レベルであると思う。国家戦略や、それに伴う対外的な主張、全てがずれているこの国だが、同じ人間として、どこでどう育ったらこんなショボさを恥ずかしげも無く露見できる奴らに育つのだろうか??? 小学生が武器だけを手に入れて、それをかざして対外的にいきりまくっているようなものである。

この写真を見て、韓国メディアが、「左腕麻痺説」を出しているが、個人的にはそんなレベルではないと思う。左腕が麻痺した状態であれば、あほな側近がもっとたいそうに取り巻いているであろうし、キムさん自身が低キャパの思考回路で、大病を押して演技できる能力も持ち合わせていないだろうと思う。

これをこの時期に発表させた人物が誰かはわからないが、申し訳ないが、北朝鮮という国の恥を晒す以外の役目はない判断だと思う。これを見て、「あ~、やっぱ将軍様は元気なんだ!」と思える人間は、盲目のキムさん信者の奴だけであろう。作業服着て永遠に行進しとけ!

個人的にはキムさんは今頃土に帰っていると思う。海外から医者を呼び寄せたり、ジュニアが色んな国に出没したりしているのも、跡目争いが落ち着くまでの体外的なパフォーマンスであり、体制が彼らのおつむレベルで整ったと思ったら、闘病にまつわる超人的な生命力を捏造し、カリスマ話を作り出してから、死の公表をするだろうと思う。「1度死んだ後息を吹き返して、サッカー観戦までなさった。我らの将軍様はどこまでも超人であり偉大だ。」といった、むちゃくちゃなエピソードなんかを、北朝鮮の童話作家が一生懸命書いている最中の時間稼ぎだと思う。

北朝鮮の国民が本来持っている人間性は、同じ朝鮮半島の韓国の人たちを尺度に考えてみると、とても秀でた素晴らしい民族だと思う。それがキムさん一派の、かくもショボイ人たちに支配されている現況は、あまりに不可解で惨めである。

こんな合成写真を作るエネルギーがあるならば、早く今の体制を終わらせて、悪夢からさめるための力に変える努力をすべきだと思うのだが、かくも人間は幼稚に成り下がれるものなのか、本当に不可思議である。

以前、こんな夢をみたことがある。

北朝鮮がキムさんの呪縛から解けて、韓国や日本と仲良くなる時代が到来していた。そして、北朝鮮のテレビ局でチョゴリを着てヒステリックに検閲の入ったニュースを読み上げる、あの有名なおばはんが、バラエティー番組に出て、お笑い芸人から、過去の映像を披露されてはつっこまれまくるという夢だ。

おばはんは、過去の自分のアナウンサーぶりを自虐ネタとして披露し、あのヒステリックな発音をヒップホップに載せて歌まで出してしまう。それが大ヒットとなり、おばはんは時代の寵児となる。

キムさんがほんまに生きていて、サッカー観戦できるくらいならば、こんな写真を公表する前に、日本との拉致問題解決の交渉テーブルを用意しろ! ともっと日本も怒っていい気がするのだが・・・、何を呑気に北朝鮮の捏造報道を受け売り報道しているのか、北朝鮮と関わるうちに、この国にもアホが移っていくようで気持ち悪い。

何度見ても間抜けな写真であり、間抜けな国の間抜けな戯言だ。拉致被害者を馬鹿にしたかのようなこの報道と写真を見ると、キムさんの緊張感のない笑い顔に唾を吐きかけたくなる。左腕でも顔面でも痺れとけ! 

2008年11月2日日曜日

手帳が欲しい

最近、手帳というものが欲しくなっている。「ほぼ日手帳」http://www.1101.com/home.html 
が第一候補にあるのだが、出来ることならば実際に手にとって、つぶさに吟味して買いたい。

一生使えるものであってほしいし、自分の本当の用途をよく考えて、最も適したものを最初から手にしたいので、いつになく慎重に選んでいる。手帳に合わせて高級筆記用具、出来れば万年筆なんかも買いたいと思っている。

ちょうど来年度の日記が多く店頭に並ぶようになっているので、文房具屋、雑貨屋などをつぶさに回り、「これだ~!」と思えるものとの出会いを求めているのだが、まだひらめくものがない。

今までに俺は手帳というものを使いこなしたことがない。小さな頃は親から、社会人になってからは会社からなどで手にする機会は毎年あったのだが、いつも使いこなすどころか、年が明ける頃にはどこにいったかさえわからず、年に1度の大掃除くらいにどっかから出てきて、そのままゴミ箱行きという関わり方であった。

スケジュールがそんなにつまっているわけでもないし、先々の予定でもほとんど頭で記憶していて、それで何かトラブルが起こることもなかったので、特に不自由はなかった。
よっぽど先の話ならば、家のカレンダーにメモもするが、ほとんどのことは手帳で管理する必要を感じなかったので、手帳に記したり見直したりする時間のほうがもったいなく感じたのである。

時々、ふと曲のメロと歌詞が浮かぶ時には、近くにある紙、例えばそれがレシートの裏でもいいのだが、それらに軽くメモし、ポケットに入れておく。結局どこに行ったかわからなくなることが多いのだが、それでも覚えているものだけを今まで曲にしてきた。忘れるようなアイデアならば、どうせ形にしてもしょぼいだろう、という潔いあきらめがあった。

ところが、最近むしょうに手帳が欲しくなってきた。なぜか? 本当のところはわからない。だが、目にしているもので何か記憶から欠落していくものの中にも、何か重要なことがあるのではないか?と考えるようになってきた気がする。

ちらっと見かけたポップのコピーや日々の何気ない出来事、興味をそそるものはだいたい覚えているのだが、それでも必ず取りこぼしがあるはずだ。それらを逐一メモっては、1日の終わりに見返すこと、そうすることで、今よりもっと色んな視野や興味の対象が広がるのではないかと思ったのだ。

生まれた時の好奇心が100だとしたら、30代後半の俺の好奇心はどのくらい目減りしているのだろうか? 知識がふえ、多くの局面に慣れていくと、悲しいが好奇心は減っていく。それで良いという人もいるのだろうが、俺は好奇心が減ることに対しての潜在的な怯えが昔からある。

好奇心は持とうと思って持てるものではないかもしれないが、何か1つのものを見たときに、その視点の感度を上げる努力をしていくにこしたことはない、という結論に達したのだ。

よって、来年度は毎日手帳を持ち歩き、今までならば控えなかったことまでも逐一メモを取り、そのほとんどは記憶にあるかもしれないが、1日に読み返す時間を作りたいと思っている。一期一会の精神を持った上で、大切な何かを短期記憶ではなく、長期的に記憶に留めていけば、さらなる深い興味と洞察を持って日々を過ごしていけそうな気がする。そうすると、曲として表現する時の懐も深くなるに違いない。創作のたゆまぬ努力の一貫としても、手帳を持ち歩きたい。

ただ、1つ問題がある。俺は昔から手にしたものはどこかに捨ててくる習性がある。俺の手は安物だ。チープハンズだ。グーが苦手で、すぐにパーする習性があるのだ。例えば俺にとって傘は全て使い捨て扱いであり、行きにさしても帰りが晴天であれば置いてくる。いや、忘れてくる。100%だ。

また、今から知り合いのお通夜に行って来るのだが、以前に数珠を葬儀会場に置き忘れてきたこともあった。また、買ったお守りをすぐにパーして捨てて、自分の車で轢いたこともあった。その年に交通事故に遭っている。

手にちょっとしたバッグを持ち歩くのが大人の嗜みであるが、俺は基本的には手ぶらで歩く。ズボンのポケットに入りきらないものを持ち歩く習慣はない。よく大人が財布をセカンドバッグから出すのを見ると、俺は感心する。「よく無くさないな~。」と・・・。

リュックサックならばまだ無くす可能性は少ないが、それでも俺が今までにどこかに置き忘れてきたカバンの個数を数えると、両手両足では足りないと思う。

つり銭なんかを手にして歩いていると、かなりの確率で最初に遭遇する棚などで捨ててしまう。厳密に言うと、捨てるという意識ではなく、無意識にパーしてしまうのだ。今までこうして失った金銭は両手両足×万円以上だ。18歳の時に、親からもらったアパートの礼金数万円を京阪電車のイスにパーしてきたことに始まり、多くの金を失ってきた。

ポケットに入るものだけが常に安全であり、それゆえ俺は常に財布や鍵や携帯はポケットで持ち歩くことを習慣にしている。

手帳があまりに大きいものであるならば、それを持ち歩く時に入れる袋が必要になる。そして、袋をどこかでパーすると・・・・、俺の個人的な胸キュンメモの詰まったブツが、どこか公衆の面前で晒しものになる恐れがある。俺は名前をものに書く性質がある。生きて辱めを受けることはよしとしない。

そんな危惧もあって、今は首から下げられる手帳に見えない手帳がないかを探している。腰に巻くカバンに入れるという方法もあるのだが、ウエストポーチは、昔、おたっき~でキショい級友がつけていて、そのイメージがすごく悪い。I川豚マン君という渾名の奴だったが、彼がウエストポーチからポケットティッシュを出して眼鏡を拭く映像が、俺の記憶にあり、時々吐き気を催す時がある。失礼な偏見だが、なんだか装着したくない。それにスーツにウエストポーチをつけた大人を見たことがない。

まずは、どこに行くにもカバンを持ち歩く習慣をつけるのが先かもしれないが、基本的にカバンを持つ必要性がない。でっかいカバンに手帳だけがぽつんと入っているのも哀れだ。

どうしたものか、手帳の処遇を結構真面目に考えていた。毎日こういう思考過程を書すくらいなら手帳はいらないのかもしれない。来年は無事に手帳を持てるのか! それよりも今から数珠を無くさないことを考えて、通夜に行って来る。

2008年11月1日土曜日

大麻問題を斬る

大麻事件が後を絶たない。ここ数日は慶應、法政、同志社女子など大学生の大麻吸引が一気に表出してきたが、大学生に限らず、相撲界、トヨタ社員、国交省職員など、連日出るわ出るわの大麻吸引事件だ。

俺の家のすぐ近くに一級河川があるが、その上流の河川敷での大麻栽培摘発が、最近のニュースであり、都会だけの出来事ではなく、地方都市にも大麻が身近なものとなっていることがわかる。

俺自身は大麻吸引の経験はもちろんなく、今後も法的に規制されている以上、吸う気はない。その上での個人的見解だが、タバコが合法で大麻が非合法という現況自体はすごくナンセンスだと思う。

一部の国や州で合法なものが、別の国では非合法になる。大麻の依存症がタバコや酒よりも低いという化学的な検証結果がアメリカで報告されていることもふまえると、我が国の大麻に関する処置には根拠がない気がする。

元来、大麻の繊維は神官の装束や山車の綱なんかに使われていた(使われている?)という記事を週間朝日で読んだことがある。つまり、実に崇高で高貴なことに用いられる植物であることがわかる。山車を使う祭りは、そもそも神事と関連して伝統を築いてきたものだ。大麻は古来から身近にあって、重宝されていたことがわかる。

また、現首相の苗字を考えてみると「麻に生きる」と書く。こじつけではあるが、日本有数の良家のおぼっちゃまの苗字に使われているということは、麻自体が決して虐げられてきた草ではないとだけは言えると思う。

大麻が重要な場面で重宝される草であるということはそれを栽培する人がいる。もともと、大麻の種の所持は非合法でないらしい。ただ、栽培は資格制となっていて、無資格者が発芽させた時点で取り締まり対象となるらしい。かわいそうに、大麻は種のまま一部の人にしか栽培してもらえない不幸な草なのだ。無吟味な法律のせいで自生さえも困難な現況は、アサ科の草に対する人間の虐待であるようにも思う。

上記のような理由で、個人的には大麻というもの自体には法規制すべきではないと考えている。だが、大麻に手を出す奴に関しては、全面的に否定だ。現行の法律が否定している以上、法律を変える努力、主義主張を述べてもいいと思うが、何の目的があるにせよ、違法なものに手を出す奴を肯定できる理由は少しもない。現行法規で過ごすことができないならば、自分が求める法規のある国に飛び出すがよい。

まして、大学の小僧が、恥じらいも無くキャンパス内で取り引きしているなんて現状には目をふさぎたくなる。こっそりと自己の弱さから手を出してしまうならば、若気のいたりというか、まだわからないでもないが、後ろめたさも感じない慶應の内部進学の小僧は、人間として壊れている。人に迷惑かけないうちにこっそり逝ってほしい。チンピラはキャンパスを離れて野垂れ死にするのが似つかわしいと思う。

1番疑問なのは、大麻が本当に有害であるかについて、どうして国家レベルの議論がなされないのか?ということだ。薬に手を出す奴はたくさんいる。法も守れないそいつらは議論の中に入る資格はないが、合法、非合法の定義基準に関する議論がしっかりとなされているかといえば、否であろう。

しっかりとした議論がないまま、大麻を非合法とする現状が、逆に大麻の有害性質を作り出していると思う。つまり、大麻をきっかけとして、覚醒剤などに徐々に手を染めていくという悪い流れを作る入り口としての有害性だ。愚かな奴は非合法のレッテルを貼られたものに、無目的に手を出す性質がある。

大麻は東洋医学の薬草でもある。西洋医学のケミカルドラッグもそうだが、効果的な使い方(例えば痛み止めのモルヒネなんかがそうだが)がなされる一方で、それを幻覚目的で使う一部の奴がいる。こういう奴らが減ることは残念ながらないと思う。生まれながらにして、非合法で生きることを欲する奴はたくさんいる。

有害なドラッグへの手引きとなる可能性から、大麻を非合法にするというのならばそれでよい。だがそれならば、タバコの処遇はどうなる? 草をそのまま吸引するのと違い、有害なフィルターを通して吸引するタバコが、かつては専売として売られていた事実がある。その事実があるものだから、いつまでも有害なことに目をつぶって非合法に出来ないでいるお上の基準というのはどうかと思う。

無害なものが悪事を誘発するという理由で非合法になり、有害なものが国家自らのミスを認めたくないために合法のままで存在する。なんか違う気がする。

面と向かってタバコを非合法にすると、過去の矛盾をつかれるものだから、徐々に嫌煙ブームを作り出し、JTには徐々にタバコ以外の産業(食品など)への転換を助長するという姑息な政府の対応には辟易するのだ。

違法である大麻に手を出す奴は愚の極みだ。 一方で、大麻の是非について目を逸らしている政府も愚の極みだ。好奇で手を出す奴と、目を逸らす奴、両者の愚眼にさらされて、アサ科の植物は汚されていく。これも一種の自然破壊だ。