2008年5月31日土曜日

文字表記による言語イメージ




ガソリンがまた上がる。リットル170円代突入が現実に。まだまだ上がり、200円も十分にあり得る。

俺のボロ車はリットルあたり7キロぐらいしか走らない。7キロ走るために170円使っていたら、マラソンを車で走ったら1000円超えだ。毎日最低45キロは車に乗る俺は、毎日最低、交通費1000円以上が必要になる。ほんまに毎日マラソン通勤したろうかと思う。

ガソリン価格に対する不満を言うのが今日の主旨ではない。ガソリン→車→自動車メーカー→社名→固有名詞→イメージの変遷について、ちょっと思ったのでお絵かきついでに記す。

国内自動車主要メーカーの車名を見渡すと、トヨタ、ホンダ、マツダ、スズキ、三菱だ。
三菱以外は人名だ。

トヨタは創業者の豊田佐吉さんの苗字、同じくホンダは本田宗一郎さん、マツダは松田重次郎さん、スズキは鈴木道雄さんに由来する社名だ。三菱は財閥として苗字に関連ない社名を用意しているが、ほとんどが苗字由来の社名だ。

苗字を冠したメーカーが世界に名だたるメーカーになり、カタカナ、アルファベットでの表記の方がイメージがわいてくるようになる。

同じ音であるにも関わらず、人名とは離れて社名が認知されるようになってきている。この変遷は面白い。

俺は、豊田さん、本田さん、松田さん、鈴木さんという名前の知り合いがそれぞれいる。ところが、車の話をしている時に、彼・彼女の名前が頭に浮かぶことはない。

「お前何の車乗ってるん?」
「俺? 俺な、~やわ。」  と言うときの~は、豊田でも本田でも松田でも鈴木でもなく、トヨタ、ホンダ、マツダ、スズキだ。漢字認識ではなく、カタカナ認識だ。

日常会話の中で、同じ音を持つ固有名詞が、瞬時に頭で漢字、カタカナに変換され、そのイメージで事物として認識し、変換する言語に対する脳のシステムを凄いと思う。

そして、人名が社名としてブランド化した人たちを、やはり素晴らしいと思いたくなる

人名にまつわる固有名詞を例として出して恐縮だ。同名の方には申し訳ないが、これら自動車メーカーの人名が社名として、カタカナイメージを持つに至れたのは、人名の音が元々優れていたからか、それとも、どんな人名でも発展を遂げれば、別イメージを持つことが出来るのだろうか?

例えば(同姓の方申し訳ないです)、「馬場さん」という人が起業し、それが発展を遂げ、市場を得たとする。そうすると、馬場はババ、BABAになり得るのだろうか?

「お前、何の車乗ってるん?」
「俺? 俺な、ババやわ」という会話は自然になされるのだろうか?

他の苗字にしても同じだ。

「お前な~、やっぱ車は、コイズミやで~、長持ちすんで!」

「あほ! コイズミはガキが乗る車じゃ!改造しまくりのガキが見た目に騙されるんじゃ! 団塊の世代はやっぱオザワやで!」

「そうかな~? エンジン良いのはわかるけど、よく壊れへん? いまいち信頼おけんわ。 エンジン弱いアベも嫌やけど・・・。」

「そやな~、どこのメーカーがいいか迷うな~? フクダはどない?」

「フクダはもうすぐ倒産するで! おもろいのはモリ! めっちゃファンキーやで! 燃費めっちゃ悪いけど・・・。」

といった具合の会話が、個人名を連想せずに成り立つようになるのだろうか?

固有名詞が偉大になる過程で、色んな文字表記の変遷がイメージにリンクして表れ、ある程度の発展を遂げた時点で、最初の人名には思いも至らないようになる。実に面白い。

文字表記によるイメージ変換がスムーズになされることは素晴らしい。同じ音に複数のイメージと認識を持ち、場面に応じて瞬時に必要な情報を取り出せる力は、人間の素晴らしさを感じる。もし、この機能が壊れてしまったら?????  上の芸術的な絵を見よ!

2008年5月30日金曜日

禁煙格闘録

もう何回目だろうか? 禁煙したいと思ったことは両手両足でも足りない。意志の弱さは三ツ星マークだ。自信がある。

最近の嫌煙ブームの過激さと、喫煙者への風当たりは尋常ではない。しかし、その迫害に屈して止めたいのでは断じてない。むしろ迫害する奴らの顔面に直接吹きかけてやりたいくらいだ。
ここで言う迫害者とは、単にたばこが嫌いというレベルの奴ではなく、たばこ吸う奴の人格を全否定し、吸う奴と同じ空間にもいたくないといったレベルのヒステリアンのことだ。
「誰にも平等な空気が、喫煙者のせいで汚されるのが許せません。」とほざいていたナオンがいたが、そこまで憎む奴を俺は憎む。

なんで定期的に止めたくなるかというと、歌のためだ。最近は定期的にスタジオで歌っているので、声のスタミナはだいぶついてきた。ハスキーさの中に美しい声が顔を出す時もある。しかし日々の空咳に消耗した喉は、本来の俺のパフォーマンスを最大限に引き出してくれない。やめたい。

止めて、節約した金でギターを買うのも良い。ハープを買うのも良い。全てをバンドのためと思えば、決して止められないはずはないのだが、1日伸ばしにし続け日々が過ぎる。

禁煙方法はたくさんある。まずは本数を減らしていく方法だが、これはまず無理だ。

俺は昔から、「一生に一度のお願い」を週に1回ぐらい言う奴だった。たばこを減らすにしても、「次の1本吸ったら、必ず5時間あける。」という誓いを日に10回はする。

だからといって、意志薄弱マスターの俺が、完全にすぱっと止めることが出来るわけがない。減煙無理で、完全に止めるのも無理で、どうしたらいいのだろうか。

不味いたばこを吸ったら止められると思い、毎日銘柄を変えて吸っていたこともあるが、どれも止めるほどの不味さはない。

ならばと、吸いまくって気持ち悪くなったらやめられないか? そう思い立ち、試したこともある。たばこを3本口に一気に吸い込み、むせるくらい吸い込む。目から涙を垂れ流し、「もうやめてください。」というくらいまで自分を虐めた。その光景を見ていた犬が軽蔑した目で俺に吠えた。「ワンワン」 彼の言うとおりだ。1本でよいのだ。

さすがにこの方法は少しの効果があった。5時間くらいは吸わずにおれた。しかし、5時間後に無意識にたばこをくわえていた。禁煙していることを体も心も忘れてしまっていた。虐待も俺には無理だった。犬に軽蔑されただけだったワン。

禁煙に対する厳粛な気持ちが足りないと思い、最期の1本と決めたたばこに真剣対峙したこともあった。
たばこを1本、感謝の気持ちをぎゅっと込め、しっかり味わった。「たばこさん、たばこさん、今までありがとうございました。今日から僕はあなた無しでも生きていけます。たばこさんも元気でね。安らかにお眠りください。」との文を何度も御経のように唱えながら、3分みっちり味わった。

吸い終わった後、陶器に吸殻と手紙を入れた。戒名もつけた。「草煙院安本痰(そうえんいんあんぽんたん)」だ。陶器を紙で包み、表面に「ラスヤニ(最後のヤニ)」と記し、日付を記して川の下流に流したこともある。今頃どの海原をさまよっているだろう。

厳粛な儀式も効果があった。17日間止めることが出来た。しかし、坊さんやっている歌い手と対バンした日に、再度吸い始めた。戒名の宗派が違ったので、安らかに成仏出来なかったのだろう。

他にも色々試した。「24時間かみ続けられますか?」と題して、1日にガムを600円分くらいかんだこともある。最後はかみながら吸っていた。

「人の吐息嗅げますか?」と題して、1日に10回、喫煙者に煙を吐きかけてもらい続けることもあった。最後は吐き続ける人のたばこを略奪していた。

知り合いと金をかけて禁煙を競ったこともある。最後には微笑みあって一緒に仲良く吸い出した。あうんの呼吸で一服! 俺たちは友達だった。

本当に方法がない。いっそのこと、禁煙を誓った人達用に、過激な装置を作ってくれないだろうか?吸ったら自爆する発火装置を内蔵したギブスみたいなものをはめていたら、まさに命がけで止められると思う。

これが発明されても止められなかったら、俺は「草煙院安本痰(そうえんいんあんぽんたん)」を自らにつけ、喜んでお隠れする。俺は本気だ。誰か俺を止めてくれ!

2008年5月29日木曜日

お菓子

最近、生徒が食べているお菓子を見るにつけ、すごく妬み心が出る。羨ましさと悔しさを禁じえない。なぜなら彼、彼女たちが食べているお菓子が、高級で渋いからだ。

グミやスナック菓子を食べているのは許せる。しかし、高級チョコレートを遠足などのハレの日でもないのに食べているのに、少しぴくぴくする。

梅ねり、わかめ、中野の昆布、袋入りの高級和菓子なんかを食べているのを見ると、「おっさんか!」と突っ込み入れて、怒りは最高潮になる。これらは、お菓子道上級者が食すものであり、じゃりん子が食べるものでは断じてない。

おまけに、1度侮辱されたことがある。俺が「ムーンライト」という高級お菓子を見せつけるように食べていたら、キッズが俺に、「ムーンライトは口の中でもごもごするから、あんまり好きじゃないんだよね、ゴーフルなら好きだけど」とぬかしやがった。

「源氏パイ」を食べていた時も、「パイはやっぱり浜松のうなぎパイが一番ですよ」と言いやがった。この無念・・・・、貝柱で満たした。おつまみを食すことで、俺は大人の優越感を保った。

幼少時代、俺はお菓子に飢えていた。おかんがスーパーから帰ってくると、袋をすぐにあさり、おかんの目を盗んではお菓子を引き抜いた。かっぱらい状態だ。
兄貴や弟の目に触れる前に俺は全部食した。

おとんが、梅酒を作るために買ってきた氷砂糖が2袋あった。俺は夜通し1袋食べた。虫歯を恐れていては、お菓子道は究められない。噛んで舐めて、ひたすら血糖値を挙げた。

俺のお菓子強奪は、わが家で問題になった。おかんはお菓子を隠すことにエネルギーを費やし、おとんは氷砂糖は梅酒を作る直前に買うようにした。

俺は負けなかった。おかんが新しい隠し場を見つけた日に、アジトを見つけ、襲撃した。それは、米びつを前にした襲撃事件にまで及んだ。

どうせ屋外に隠すことはない。どこにいても俺の公安魂が、アジト発見を助けた。

しばらくたって、おかんが兄貴と弟と会話している声が耳に入った。兄貴と弟は、俺がお菓子を食すもんだから、自分たちが食べられないことをクレームしたようだ。おかんは答えていた。「おかあさんも難儀してるんやで。ほんまあいつはゴキブリみたいやな~。」

Pardon me?  ゴ・キ・ブ・リ???

色んな親子関係があるが、おかんにゴキブリを冠された息子はいないだろう? 俺はどうせゴキブリなら、ゴキブリ道を極めようと思った。

九州のおばあちゃんの家に一人旅することがあった。おかんがお土産を持たしてくれた。
船の一人旅で、小学生高学年時代の出来事だ。

深夜の二等船室、眠たいわけがない。ゴキブリは暗闇に動き出す。俺は腹が減ってきた。
追いはぎするほどの悪人でもない。人様のお菓子に手をつけるほど、ゴキブリとしての完成度はなかった。俺はわが荷物を見回した。持たしてもらった350円分の道中用のお菓子は、南港に着くまでの電車内でたいらげた。

あった!! お土産だ。 生八橋24個入りが2箱あった。

ゴキブリ迷わない! 人目も気にせず俺は1箱を船中で食べた。そしてもう1箱を、おばあちゃん家に着くまでの電車とバス内で食べた。

着いた。おばあちゃんが作ってくれた料理は田舎くさい上に、お菓子で腹が一杯で食べられなかった。しかし、めったに飲めないサイダーを3本おねだりし、一気飲みした。

その夜吐いた。夜もすがら洗面器を枕元に置いては、おばあちゃんに看病させた。ゴキブリの満腹中枢は壊れていたが、内臓は正常だった。吐いて吐いて・・・。

次の日からお菓子が嫌いになった。以前なら涎たらしていた仏前のお下がり菓子にも見向きしなかった。

帰るとき、おばあちゃんがお土産を持たしてくれた。九州名物「ひよこ饅頭」だった。

饅頭こわくはない。その時にはゴキブリはゾンビと化して復帰していた。

帰りの船中で完食した。

家に帰って、また吐いた。こっぴどく叱られた。おかんはそれ以来、お菓子を兄貴と弟に手渡しし、俺には少量しか与えてくれなくなった。

俺はお菓子を自分で作ることにした。クッキーを10人分ぐらい作った。クッキーといっても、材料がふんだんにあるわけではなくて、小麦粉焼きみたいなものだった。砂糖をふって食べた。おかんはほめてくれた。

家中の片栗粉を使って、わらび餅を土鍋いっぱいに作った。最初ほめていたおかんは布団たたきで俺のお尻をぶった。

幼少時、「大人になったら、毎日お菓子を買ってやる! マクドのポテトをランドセル一杯ぐらい食べてやる!」と思っていた。そのエネルギーを胸に今に至る。

こんな思いを抱いていた俺のお菓子にまつわるゴキブリ精神を、今のキッズはいざ知らず、上級者向けのお菓子をパクパク食べやがる。

でも、時々くれる。迷わずもらう。素直にうれしい。「おかわり」することもある。拒否されることもある。妬み心は服従心にすぐに変わることもあれば、対抗心に変わることもある。おかわりに失敗したら、帰り道のコンビニで、そのお菓子を2袋買う。

買って帰って食べたら美味しくなかったりする。ゴキブリの本懐は、人のお菓子にだけ向けられていたのかもしれない。

今日も夜の台所を徘徊しよう。

2008年5月28日水曜日

明日のために寝る

自慢じゃないが、俺は筋肉がある。特に腕筋は、細身のわりにいいもん持っている。腕相撲も勝率が高い。

ところが今の俺の筋肉は柔軟さにかけている。俺は体が固い。前屈したら「7」の数字ぐらいまでしか曲がらない。

昔は体の固さは気にならないくらいだったのだが、ライブ後の体の張りなんかが強くなってきたので、色々考えた末、体が固いことが原因じゃないかと思い立った。

今日のイチロー選手のファインプレーを見て、城島選手がコメントしていたが、イチロー選手が怪我をしないのは、力の抜き方を知っているかららしい。実にうなずける。だが俺はそれにプラスして、体が柔らかいことが彼の怪我を無くしていると思う。イチロー選手は体が柔らかい。毎回の柔軟体操をしっかりやっている姿も映像でよく見る。

お相撲さんも体が柔らかい。そうじゃないとあれだけの衝撃を毎日くらって耐えていけないだろう。

アスリートまでとは言わないが、やはり人並みに体を柔らかくしておかないと、これから年々怪我をする確率が高くなるだろう。最近は階段の2段飛ばし登りも目測を誤り失敗して、俺のあんよを強打することがある。もし転んだ時に体が柔軟じゃないと、骨ポキもあり得る。

体の柔軟性だけでなく、体力の劣化にも気を使う。俺はたいがいタフマンだと思っていたが、先日、生徒と競争して路上で100メートル走をしたら、走った後に口の中で血の味がした。吐血寸前の疲労だ。足は確実にニヒルに笑っていたし、振る腕のスピードに足がついていけてなくて、体勢が変だった。100メートル完走も危ぶまれるほどだった。これは情けない。

バッテイングセンターに行っても、以前なら1000円分は打ち込めたのに、今は400円が限界だ。1回素振りすると、体のどこかの繊維が裂けているような音がする。

バランス感覚も悪くなっている。自宅近くの用水べりを歩いていて落ちそうになった。
とにかく体が劣化している。頭に残る若かりし頃の動きの残像と、実際のパフォーマンスのギャップがあり、余裕で飛び越えたつもりの用水が、ぎりぎりだったりすることもある。

体には気を使って、もっと維持・回復することに努めようと思ったりもする。おそらく、劣化する体にケアをすることに目覚め出すのが俺の年頃からなのだろうと思う。

このように思っている人が多いせいか、健康志向の商品や、健康志向の番組は多い。
だが、いきなりのトレーニングは危険である。

俺の親友はビリーズブートをやって、廃人寸前になるほど体を痛めた。準備体操もせずにハイテンションで飛ばしたのだろうが、実に危ない。

30代でこれだ。歳が上になるほど、安易な健康志向は悲惨な結果を招く。いつまでも昔の体のイメージがあるものだから、現実とのギャップを認識していない場合、大怪我につながることがある・

今日のニュースにこんなのがあった。

「毎日放送(大阪市北区)制作のバラエティー番組「ランキンの楽園」で紹介された健康チェック法を試した視聴者がけがをした問題で、同社は27日、新たに8人が骨折などのけがをしていたと発表した。足のむくみをチェックするため、両足にティッシュペーパーの箱をはさみ、ジャンプしながら前に飛ばせるかを検査するもので、23日に放送された。愛知県の50代の女性は腰骨と両手首を骨折し入院しているという。」

怪我された方には申し訳ないが、この番組を見て、実際にチェックする前に、「待て、今のお前は無理だ」と、脳が警報を鳴らさなかったのかが不思議だ。脳内イメージの修正が必須だ。

腰と両手首骨折って・・・、笑ってはいけないが笑う。入院理由を聞かれるの恥ずかしいだろうと思う。

今の自分の体力が若かりし頃とは違うということを頭にまずインプットし、華麗な残像を消してからトレーニングにかからなければならないと思う。

最近、職場でラジオ体操を始めた。真面目にラジオ体操をしたら、口の中でまた血の味がした。体力以前に内臓が心配だ。

俺は内臓チェックをする際の自己目安として、毎朝自分自身に問いかける。朝起きた瞬間にだ。

「今のお前、コーラがぶ飲みできるか、おい!」 と 「今のお前焼肉食えるか、おい!」という問いかけだ。

寝床から立ち上がった瞬間にこの問いかけをしているが、幸いにして、今でも即答で、「押忍!」と答えられる。内臓はまだ元気なようだが、いぼつきサンダルを履くと痛く感じるポイントが増えてきている。慢心は禁物だ。

ライブを生涯にわたりするためには、内臓機能はもちろん、体力、柔軟性、全てを維持していかないとならない。ヘッドバンキング中に死去とかは嫌だ。歌っている途中に吐血も嫌だ。全ては明日のために、今日からラジオ体操に柔軟体操を取り入れる。

今体を曲げてみた。鈍い音がした。尾骶骨が痛んだ。可動範囲が昔の調合金並みしかない。

頭の体力イメージからリセットしよう。準備体操の準備体操が必要だ。柔軟体操前の柔軟体操が必要だ。足を伸ばしてメニューを考えていたら・・・攣った。

俺に明日はあるのか? 明日のための第一章、何からしようか? 考えてブログ書いたら指が攣った。寝ることからはじめよう。明日のために寝る。

2008年5月27日火曜日

個人情報

塾業界に身を置いて早4年、前職場では、生徒獲得のために種々の活動をしていた。
それらが実にしょぼい。

① DM発送、②電話勧誘、③学校前ビラまき。

会社の方針とはいえ、個人的に①~③全てを糞活動と名づけ、入社早々、上司に文句ばかり言っていた。何度も反論されたが、嫌なものは嫌、というより、こんなくそ活動を生徒獲得手段と考える会社方針に、入社早々疑問を感じ、事あるごとに反抗し続けた。

2年目に校舎長になってからは、自分のいる校舎は断固として上記の活動を拒否し、しょっちゅう部長と衝突していた。

嫌な理由は簡単だ。上記の活動が安っぽくて、一方通行で、生徒指導という仕事の主旨と何一つ相容れないからだ。大きな会社だから、生徒数の増減に敏感になる気持ちも今では少しはわかるが、逆に言えば、こんな活動をしないと生徒を増やせない時点で、その会社は下り坂だと思っていた。だから、当然今の職場では一切上記の活動はしない。しようという発想自体が全くない。

DMにしても、電話にしても、個人情報の獲得の仕方はいやらしいものだ。名簿屋から買うか、生徒にクラス名簿を見させてもらって入手する場合もあった。エネルギーとお金のかけ方を間違えていると思う。

とは言ったものの、俺は、個人情報を勝手に入手して、一方的に営業DMを送りつける行為自体は嫌いだが、自分のもとにDMが届くことには平気である。発信者にはなりたくないが、受信者は苦にならない。不快感もない。

個人情報というものに、世間が敏感になっているから、自ら人々の心情を逆なでする行為はしたくないが、俺本来は、個人情報に大らかなほうだと思う。守秘義務的なものはもちろん守るし、相手の個人情報意識にも配慮する。でも自分自身の個人情報は、あまり気をはっていない。

個人情報に関する意識が強くなりだしたのは、パソコンの普及が大々的なものになってからだと思うが、これもちと行き過ぎ、ヒステリックになりすぎな気がする。

例えば、病院において、患者を番号で呼ぶことが徹底されてきているが、これなんかも、実に無機質で嫌な感じがする。俺はいつも病院に行くたびに、個人情報に関する世間の風潮に疑問を感じる。同じ病気という立場、病院内で個人情報を隠す必要もないと思うし、個人情報と言ったって、名前だけだ。番号で呼ばれるほうが気持ち悪い。俺は識別番号をふられた機械か?

DMにしても、送ってきたところで、ほとんどの場合はゴミ箱直行だ。それを承知で通信費を払って出す発信者にたいして、哀れみの情は抱いても、いらつく気にはならない。迷惑メールは、正規のメールが紛れるから嫌いだが、DMに紛れて正規の手紙を誤って捨ててしまうなんてことは、数量的にもありえない。だから、別に困らない。

どうやって、自分の住所を知りえたかたということに、気持ち悪さを抱くのだと思うが、住所が知られたからといって、具体的に何が困るのだろう? 本当に突き詰めて考えたら、何も具体的には困らないし怖くないのだ。

本来、日本人は昔から相手に対して性善説に基づいて、大らかに行動してきた気がする。日本人に限らないかもしれない。相手が自分に危害を加えたり、不利益をもたらすなんてことを考えて人と接していたら、人的交流は生まれないからだ。

それが、インターネットの普及が性悪説に基づく行動を人々に課すようになった。これも一部の屈折した輩が起こした行動が扇動的にあおられた結果だと思う。

小学3年生まで、公務員官舎である長屋で暮らしていた。その後はマンションで暮らした。どちらもパソコンがほとんど家庭に普及していない時代だ。

この時代は、個人情報に大らかであった。近所の家の家族構成、職業、学力なんかが筒抜けであっても、別に隠し立てする意識も希薄だったと思う。基本的に相手に対する信頼があったんだと思う。こんな時代だからこそ、よその子が悪い行いをしていたら町全体が監視役になれる素地もあったと思う。

今じゃ、隣に住む人のこともしらないマンション生活者が増え、極力、人との接触を拒む環境が整った。そんなに人と接することが面倒くさいのかな?

その一方で、メールの世界の通信量は増えている。個人情報を悪用しやすい環境にあるインターネット上の取引を行う人の多くは、個人情報に敏感な人だという逆接も多く見受けられる。

著名人への実名興味本位記事も減らない。個人情報の尺度が曖昧なまま、ある一面の恐怖感だけが定着したまま、世界全体は何を目的に、どこに向かおうとしているのか、時々不安になることもある。

個人情報は大事だ。大事だが敏感になりすぎる必要もない。人と人との交流がある以上、個人個人の情報を互換させながら、交流の和が広がってきたからだ。迷惑に思えるDMでも、その中に有用と思えるものがあれば、その人にとってそのDMは福音にもなりうる。

個人情報を過度に守りたくなる心境について、しっかり考えるべきだと思う。個人情報を恐れるあまりに組み立てられたシステムで、個人情報を悪用した犯罪が多く起こっているという事実と照らし合わせ、もう少し大らかな日々の到来を期待している。

2008年5月26日月曜日

著作権

大手予備校が出版している国語の過去問題集、それらの中にはたくさんの著名な作家や学者の論説文が載せられているが、著作権を管理する団体の締め付けが強くなってきているらしい。

著作権協会は、「塾業界は著作権に無頓着するぎる。と言うし、予備校側は、「掲載するのに必要な適切な料金も支払ってきたし、あまり過度な締め付けによって被害を受けるのは受験生だ。」という。

どちらの意見も一理あり、今後もこじれていきそうな問題だ。

以前、県内模試の問題を3回、書店販売の問題集の問題を2回作成したことがある。その時に一番頭を悩ませたのは、この著作権だった。著作権団体の会員名簿を見ては、頭を悩ませた。

自分が使いたいと思う文章がある。そして、それを会員名簿で照会するのだが、その中に、「全面委託」となっている作家の文章は使って良いことになっている。ところが、「部分委託」とある場合は、教育委託が可能かどうかを、協会を通じて作者に確認しなければならない。

問題作成にそんなに多くの時間は割けない。協会とのやり取りをしていては、締め切りに間に合わないため、どうしても「全面委託」のみで作らざるをえない。

「全面委託」だからといって、宇能鴻一郎さんなんかを問題原文に選べるわけではない。未成年の教育に官能はいらない。

全体的には「全面委託」が多いのだが、全作家が会員になっているわけではなく、俺が参考にしたのは「日本文藝家協会」のものだが、別の団体に入っておられる作者もいる。
また、肩書きが作者ではなく、学者の場合、協会員になっているわけもなく、文章選びは困難を極める。

個人的な考えだが、もう少し大らかになれないものかと思う。著作権は大事だ。しかし、過敏に反応している方に限って、著作権による利益には遠縁のような気がする。

問題集である作家の文章を読む。その文章を気に入ったとして、「問題集で読んだからいいわ。」と作者の著作を買わないことに繋がるだろうか? むしろ、「他の作品も読んでみよう」という気になる部分の方が多いと思う。

勝手な推測だが、著作権に過敏になる作家は、自分の文章を使うことで利益を得る予備校が妬ましいのだと思う。気持ちはわかる。そりゃそうだ。でも、予備校が問題集で取り上げてくれなければ、若者がまずは目にしないであろう文章が受験問題には多い。ならば、自分の作品を教育の土俵で紹介されることは、むしろ効果的な宣伝であり、作者冥利に尽きると思うのだが、どうだろうか?

俺は今でも一応、著作権を守ることを考えている。教材を作るときは、全面委託の中から、題材を選び問題を作っている。塾業界でこれだけ著作権を意識している人は少ないと思う。出来合いの問題集からの抜粋で授業をするほうが楽だからだ。

著作権を突き詰めて考えたら、国語教材に限らず、えげつない混乱が起きるだろう。アマチュアバンドが好きなバンドのコピーを著作権料を払わずに無断でしたら、手入れが入り、追徴金まで課されるような事態がきたら・・・。オリジナルバンドが増えるから良い面もあるが、なんだか・・・。

本来は、表向きの著作権があっても、暗黙の了解があって、その範囲内であれば大らかでいられるべき種類のものだっただと思う。

ところが、何でも話しをややこしくするのは、金儲けの上手な奴らだ。自分の文章が換金できることになれば、ついつい、その利潤を減らすものを追求したくなるのは人情だ。何でも暗黙のマナーを守っていれば問題にならないのに、逸脱して利潤追求に走る奴らが全てをややこしくする。

1人の馬鹿が多くの犠牲者を作り出す現況、奴らの処分も全面委託で司法に委ねたいものだ。

俺のブログは全面委託だ。需要がないが、使ってもらえたら、こちらがお金払いたい。金儲けは苦手だ。

2008年5月25日日曜日

高校野球観戦

中間テストもおおかた終わり、今日の自習室は空き空き。出勤とはいうものの、自習室開放と電話番目的であり、穏やかな日曜日。この業界のこの時期は、1年で1番落ち着いていて楽だ。

わが塾の隣では高校野球の練習試合が頻繁にあり、今日は絶好の観戦日和。2階の窓から堪能した。

ちょうど練習試合のチームが、前職場で教えていた子がいる学校で、久々の再会。2年見ない間に、すっかりおっさん顔。高校生時期には、一気に子どもっぽさが抜けて、かっこいい雰囲気になってくる。

進学校同士の対決だが、考える野球を見るのは楽しい。体が特別大きいわけでもなく、練習時間も限られた中で、しっかり野球をするためには、日々の練習に工夫を凝らしているのだろう。

わが塾横の高校の練習を見ていて、いつも思うのだが、非常に練習密度が濃い。集中力がすさまじく、目的意識がはっきりしている練習を見るのは気持ちよい。

キャッチボール1つにしても、全員が、試合での捕球場面を想定した動きであり、捕ってから投げるまでの動きも素早い。一般的な全体練習はごくわずかで、それぞれの立場ごとに、細かな練習がなされている。バントをひたすら練習する者、ゴロの捕球だけを練習する者、自分のポジションと役割をよく理解し、練習時の目つきはすごく真剣だ。

甲子園に出場したチームとは思えないほど体は小さいし、すごいピッチャーがいるわけでもない。ところが試合になったら、ずるくてそつのない野球が出来るのは、日頃の練習の成果だろう。見ていて本当に気持ちよいチームだ。

わが高校野球児時代を振り返ってみて、非常に反省することも多い。もっと目的意識を持って練習しておけばよかったと思っている。

とはいったものの、大阪の高校野球は、化け物みたいな選手を擁した私立がごろごろある。いくらチーム力が高くても、個人能力の差が違いすぎて、冗談でも甲子園を目指すなんて言葉は出てこなかった。最初から負け組みだったのだ。ひと夏の思い出作り、不謹慎にも俺はそう考えていた。

「何食べてるねん!」というくらい体がでかい奴らが、3回戦クラスのチームにもごろごろいたし、私立の甲子園行く可能性があるチームの奴の打球なんて、守りたくないくらい速かった。

俺の高校は運がよかった。3年生の大会では、激戦大阪で3回勝ったのだ。地方の大会なら準決勝戦に行くくらいだ。
負けた瞬間、みんな泣いていた。悔しがって泣くのは強い奴らがする泣き方で、俺は違った。今まで練習してきたしんどさから開放されることへの嬉し涙も混じっていたような気がする。負けた悔しさは全くなかった記憶がある。嬉しい安心泣きを悲しい泣き顔に、周囲を窺いながら加工していた。

迷子になった子どもが、お母さんに出会った瞬間に流す涙と同じ性質のものだったと思う。

俺の高校はさらに運がよいことがあった。大阪大会の開会式の並びが、2年の時は、立浪選手がいたPLの横、3年の時は、元木選手のいた上宮の横だったのだ。種田選手もいたが、当時からミラクルなオーラが出ていた。

激戦区の雄たるチームの奴らは、出ている雰囲気が違う。体つきも同じ高校生とは思えない。「相手も同じ高校生だ。勝てないはずがない。思い切っていけ!」という大人の指導者の檄を、「んなあほな!大人は嘘つきだ」と冷めて聞いていた記憶がある。

同じ土俵というよりは、一種の年長者へ抱く憧れみたいなものを感じて、彼らの動きに見とれていた気がする。勝てるわけがない。他の部員には申し訳ないが、俺は戦意よりも観光気分の方が大きかった気がする。

入場行進は面白かった。高校野球の追っかけギャルの黄色い声援とカメラのフラッシュが、俺たちの前では異常に飛び交う。そして俺たちを避けるように素通りしていく。人気というものの絶対的な差を感じ、清清しくさえあった。

この体験はバンドにも生かされている。対バンの客が自分たちに冷たい時ほど、不思議と冷静でいられる。戦う気はないのだ。逆に好意的に見られると変な意識が出る。照れるのだ。俺は高校野球で負け犬根性を培った気がする。

今日の高校野球観戦、負け犬根性がない高校生の息吹を堪能し、少しは強い犬になった気がする。

2008年5月24日土曜日

まったり過ごす

今日は休みだが、一日中室内で、まったり過ごした。この「まったり」という言葉だが、すごく好きだ。

京都の旅館でバイトしていた時、女中さんが頻繁に使っていた記憶がある。料理の食感に関して用いていたので、なんだか「やんわり、とろけるような」というニュアンスで理解していたのだが、今じゃ、「まったり」は、「ゆったりと」といった使い方で多く使われているような気がする。

もともとは方言なのかな? 詳しいことは知らないが、食感を表す「とろけるような」といったニュアンスの言葉を、人の生態模様の一部に使いだした人のセンスは素晴らしいと思う。

特に予定のない休日、何にも束縛されることなく時間が緩やかに流れていく時、その流れにのっかる状態は、語感的にも「まったり」というニュアンスがぴったりだ。
日本語のやわらかさと雅さを改めて感じる。

今日は、まったり過ごした。

作品社から出ている「日本の名随筆全100巻」を読んだ。このシリーズ、タイトル通りの名随筆をキーワードごとに編者を変え、編集しているのだが、実に味わい深い。

「花」、「鳥」、「猫」といった漢字1字のキーワードにまつわる随筆を、著名でセンスあふれる編者が集め、編纂されている。作家名しか知らなかった人も多く、色んな出会いを短時間で味わえる。素晴らしき随筆集だ。

今日読んだのは、このシリーズの「貧」と「女」。編者はそれぞれ、小沢昭一氏と大庭みな子さんだ。

両編者ともに大好きな人であり、彼、彼女の編集、悪いはずがない。この随筆集でしか出会えない、入手困難な作品も多くあり、時間をわすれて楽しんだ。

大庭みな子さんを好きになったのは、3年前だ。それまでは読もうと思って読まなかった人なのだが、前の会社が県内のかなりの生徒が受ける模試を主催していて、その国語の問題作成を請け負った時に、文章題材に使わせていただいてから、じっくり読むようになった方だ。同じパターンの出会いに竹西寛子さんもいる。

随筆よりも、長編の作品を好む傾向が続いていたので、かなり新鮮な時間だった。昔の人の文章は桁違いに味わい深い。言語が色と音を持っているかのようだ。

読んで眠くなったら、薄手の掛け布団を抱いてゴロゴロ転がる。この時期の蒲団のひんやり感は、1年で1番だ。ずっと触っていたい温度と肌触りに包まれて、数十分眠っては起き、読んではまどろみをくり返す。「まったり」という言葉にぴったりの時間だった。

読破を目指していた在日文学集は、メジャーな梁石日氏の巻で完了。次なる興味を探していた時の、上記の随筆シリーズとのめぐり合い、当面は随筆読みが続きそうだ。といっても浮気もするから小説も読むだろうが・・・。

夕方からは雨。雨音にも負けずに鳴き声を響かせる蛙が、なんだか愛しくもある。あの小さなボディーに搭載したアンプの出力は素晴らしい。アンプメーカーに研究して欲しい響きの良さだ。

ギターは触って5分。音との出会いに今日は恵まれなかった。

「まったり」過ごせる日々の幸せを感じることもなく、その対極の状態でせわしなく、生き急いでいるかのように過ごしてきたけれど、こんな日々を喜びとして味わえる最近は、個人的に悪くないと思う。

「随筆」、「エッセー」は、その内「ブログ」と無機質に名前を変えるだろう。その時が来ても時間はゆるやかに流れて欲しい。良い休日だった。

2008年5月23日金曜日

~の日

数日前だが、奇妙なのぼりを見つけた。通勤途上の道に立っていたものだが、「毎月20日は犯罪抑制の日」というものだった。

すごいキャッチコピーだと思い、数日気になっていた。

「抑制」という言葉がすごい。毎月20日には犯罪は辛抱しなあかんで~!意地でも抑えるで~~! といった滑稽さを感じずにはおれなかった。どこの団体が出しているのぼりかをしっかり確認すればよかったのだが、今日見たらなくなっていた。きっと20日前後数日だけ立てるんだろう。

おそらく、町内会レベルのものだと思うが、もうちょいましなスローガンはないものか?
大人が数人集まって出した知恵の結晶がこのコピーじゃ、町内のレベルを疑われる。交通安全協会のものならば、しっかり噛み付きたいくらい稚拙だ。来月確認しようと思う。

「~の日」といったコピーが民間でも安易に垂れ流されるようになったのはいつ頃からかはわからないが、最初にやりだしたのはパチンコ屋のような気がする。わけのわからないイベント名だらけで、毎日イベントだ。

最近はパチンコに行くことはなくなったので、実情は知らないが、CMや新聞で毎日垂れ流される、軽薄な特別日設定に少し辟易している。

「毎月1日はメガトンデー」みたいなコピーがあって、翌日には「水曜日はミラクルデー」といった具合だ。両日の違いは何??? いっそのこと「~の日」を設定しないほうが良いような気がするのだがどうだろう?

パチンコ屋に始まり、スーパー、ガソリンスタンド、ドラッグストアが、やたらと「~の日」を作っている。

「今日は冷凍食品特売日」みたいなことをのぼりまで用意してアピールされると、ついつい買いたくはなるが、よくよく考えると、それ以外の日はしっかり儲け取ってますで!というアピールの裏返しだ。
エブリデイ・ロー・プライスといったシンプルなコピーを通年で示す店か、いっそのこと「~の日」アピールのない店の方が、間違いなく良心的な気がする。

ドラッグストアなんかは、「本日ポイント2倍日」なんてものに、のぼりまで用意しているが、ポイントよりディスカウントに出来ないものか? アピールの仕方としてはしょぼくて情けない。ポイント欲しさにシャンプーまとめ買いするかな~? 
うちの嫁はしていたみたいだ・・・・。おい! 

だいたい、派手な広告ほど胡散臭い。「~の日」という主旨からはそれるが、全国チェーンの紳士服屋の定番となっている、「2着目1000円」みたいなイベントも気にくわない。

2着目1000円なるんやったら、1着安くせんかい! 誰も好き好んで2着も、おべべ買いたいわけじゃない。以前買ったことがあるが・・・・。おい!

それにだ、紳士服業界、閉店セールしすぎ! つぶれるんや?と思わせて生き返り、その度にびっくり値引きをかましてきやがる。

「9割引き」とかあかんやろ? お前らなんぼ乗せとったんや!と言いたくなる。
この業界も普段からほとんど値引きをしない店のほうが、信頼がおけると思う。

ただ、色んな商売の方法があって、「~の日」や「閉店セール」なんてものが多いのは、それだけ効果があるからだろう。まあ、よしとしよう。

ところが、冒頭に戻るが、「毎月20日に犯罪抑制の日」というのぼりとスローガン、効果は限りなくゼロだろう。むしろ、しょうもない経費をかけてのぼりを作成したことの方が犯罪であるような気がする。

強盗を犯そうかと思っていた奴が、偶然みかけたのぼりを見て、「そうか~、今日は抑制せなあかんわ。」と思うだろうか? 仮に思うような人情味あふれる唐草風呂敷の泥棒さんがいたとしても、20日を過ぎたらやつらは決行するだろう。奴らの性質だからだ。

何の目的を持って考えたスローガンかは知らないが、犯罪を抑えるために特定の日を設けることのナンセンスさを誰1人正さなかったのだろうか? お笑いコントのネタにもなりゃしない。ばかばかばか!

どうせ作るなら、もっと気の利いたものを作って欲しい。

「毎月20日は、懲役割り増しの日」とか、「毎月20日は留置延長の日」とか、「毎月20日はポリチャカ解禁日」とかならば、ユーモア分かる泥棒は、犯罪の根本自体を見直さないか? ユーモアは大事だ。

ユーモアといえば思い出したが、以前働いていた会社のボスが、全体会議の訓示で交通安全にふれ、「飲んだら飲むな 乗るなら乗るな」と言っていた。どうせ~っちゅうねん!

主旨がそれてきたところで終わる。俺のブログはエブリデー雑文の日だ。良心的だ。

2008年5月22日木曜日

幼少時の読書

勤務中といえども、昼間は暇だったので、職場に置いてある、ブックオフで105円で仕入れた児童書関係を読む。「子どものための世界文学の森」というシリーズだ。

「シートン動物記」、「若草物語」、「ガリバー旅行記」、「赤毛のアン」、「十五少年漂流記」などなど、名作が充実のラインナップ。

原書を子供用にアレンジを加え、ルビをふり、ていねいにコンパクトにこしらえられた児童書は、大人になってから読むといっそう面白い。原書を読んだことがある作品は、話のへし折り方に「なるほど~」と思う部分もあるし、筆足らずな印象を受けることもあるが、子どもに物語の世界に入り込ませるための構成は、全体として見事だと思う。

挿絵と文章のバランスも見事で、大人の方が興味深くじっくり見てしまう絵が多い。児童書は古本屋でも結構な値段がついているので、いつも立ち読みしているのだが、子どもが出来たら、俺の小遣いのほとんどを費やしてでも与えてあげたいくらいだ。

俺は幼少の頃、まったくといっていいほど本を読まなかった。じっくり文字を追うなんて落ち着いた行動を出来るわけがなく、ひたすらアウトドア、ひもの切れた凧のように、1度外出すると、強制的に引き戻されるか、遊び相手がいなくなるまで家に帰ってこないガキだった。もっと幼少のころに、すぐれた名作に多くふれていたらよかったと思う。

おかんも、あまり児童文学は与えてくれなかったように思う。読みたければ移動図書館で借りて来いというスタンスであったので、親が自ら選んだ書籍を与えるということはなかった気がする。だから、家にある蔵書は、おやじが好きだった歴史書関係だけで、幼少の子が読めるしろものではない。

そんな環境だったが、風邪で学校を休んだ時、すぐに治って、暇で暇で仕方ないことがあった。じっと寝ていないと怒られるわ、目はぱっちりやわで、天井の模様を目でなぞったり、紙に迷路を書いて見たりしていたが、それも飽き、仕方なしに、おかんに、「暇で死にそうや、何とかしてくれ」と言ったことがある。

おかんは、兄貴が読んでいた「へっこき山の大統領」という児童文学書を俺に放り投げ、「それでも読んどき!」と言った。

ストーリーはあんまり覚えていない。猿山のボス猿の孤独なんかを書いた作品だったようにも思うが、確かではない。ただ、なんともいえない悲哀の情をその時作品に感じた記憶だけがある。

だいぶ前にネットで調べたら、絶版でオークションにも出ていなかったのだが、これも一期一会で、変に読み返さないほうが良いような気がしている。

「へっこき山の大統領」をきっかけに読書に目覚めればよかったのだが、本を読んだ記憶はそれっきりで、学校の教科書以外のものは全くといっていいほど読まなかった気がする。

中学・高校時代になっても、音楽関係の雑誌は隅々まで読んだが、それ以外は読んだ記憶がほとんどない。20歳過ぎたくらいから、少しずつ本を読むようになり、現在の濫読状態になってくるのだが、今から思えば、幼少期の読書時間が少なかったことが悔やまれる。

名作という名作を、子供用にかみくだいた平易な文章で幼少期に読んできた人と、読んでいない人とでは、なんか素地が違うような気がする。20代前半ぐらいは、幼少時の読書数の少なさを自分で卑下していたような気もする。読書家に憧れながら読書家になれない自分、読み落としてきたものへの回顧があり、取り返すためにひたすら書を漁ってきたような気がする。

30歳を超えた頃から、自分のペースで本当に読書を楽しめるようになってきたと思うが、それまでは、「今読んどかなければならない本」みたいなカテゴリーをこしらえては、サプリメントを採るように脅迫観念に近いものを抱いて読書していたような気がする。

活字に触れる喜びを、遅くに見出した俺だからこそ、児童文学に幼少時に多く触れられることの素晴らしさを思う。子どもに押し売りする気はないが、至る所に本を転がして、手にとる機会を多く与えていければと思う。

あ、まずは、子作りだ。わが家にコウノトリまだ来ず。どうしたら来てくれるんやろうか? シートンさんにでも聞いてみたい。

「シートン動物記」にはコウノトリはなかった。オオカミばっかりだ。コウノトリの生態は俺がいずれ書く。