2008年5月22日木曜日

幼少時の読書

勤務中といえども、昼間は暇だったので、職場に置いてある、ブックオフで105円で仕入れた児童書関係を読む。「子どものための世界文学の森」というシリーズだ。

「シートン動物記」、「若草物語」、「ガリバー旅行記」、「赤毛のアン」、「十五少年漂流記」などなど、名作が充実のラインナップ。

原書を子供用にアレンジを加え、ルビをふり、ていねいにコンパクトにこしらえられた児童書は、大人になってから読むといっそう面白い。原書を読んだことがある作品は、話のへし折り方に「なるほど~」と思う部分もあるし、筆足らずな印象を受けることもあるが、子どもに物語の世界に入り込ませるための構成は、全体として見事だと思う。

挿絵と文章のバランスも見事で、大人の方が興味深くじっくり見てしまう絵が多い。児童書は古本屋でも結構な値段がついているので、いつも立ち読みしているのだが、子どもが出来たら、俺の小遣いのほとんどを費やしてでも与えてあげたいくらいだ。

俺は幼少の頃、まったくといっていいほど本を読まなかった。じっくり文字を追うなんて落ち着いた行動を出来るわけがなく、ひたすらアウトドア、ひもの切れた凧のように、1度外出すると、強制的に引き戻されるか、遊び相手がいなくなるまで家に帰ってこないガキだった。もっと幼少のころに、すぐれた名作に多くふれていたらよかったと思う。

おかんも、あまり児童文学は与えてくれなかったように思う。読みたければ移動図書館で借りて来いというスタンスであったので、親が自ら選んだ書籍を与えるということはなかった気がする。だから、家にある蔵書は、おやじが好きだった歴史書関係だけで、幼少の子が読めるしろものではない。

そんな環境だったが、風邪で学校を休んだ時、すぐに治って、暇で暇で仕方ないことがあった。じっと寝ていないと怒られるわ、目はぱっちりやわで、天井の模様を目でなぞったり、紙に迷路を書いて見たりしていたが、それも飽き、仕方なしに、おかんに、「暇で死にそうや、何とかしてくれ」と言ったことがある。

おかんは、兄貴が読んでいた「へっこき山の大統領」という児童文学書を俺に放り投げ、「それでも読んどき!」と言った。

ストーリーはあんまり覚えていない。猿山のボス猿の孤独なんかを書いた作品だったようにも思うが、確かではない。ただ、なんともいえない悲哀の情をその時作品に感じた記憶だけがある。

だいぶ前にネットで調べたら、絶版でオークションにも出ていなかったのだが、これも一期一会で、変に読み返さないほうが良いような気がしている。

「へっこき山の大統領」をきっかけに読書に目覚めればよかったのだが、本を読んだ記憶はそれっきりで、学校の教科書以外のものは全くといっていいほど読まなかった気がする。

中学・高校時代になっても、音楽関係の雑誌は隅々まで読んだが、それ以外は読んだ記憶がほとんどない。20歳過ぎたくらいから、少しずつ本を読むようになり、現在の濫読状態になってくるのだが、今から思えば、幼少期の読書時間が少なかったことが悔やまれる。

名作という名作を、子供用にかみくだいた平易な文章で幼少期に読んできた人と、読んでいない人とでは、なんか素地が違うような気がする。20代前半ぐらいは、幼少時の読書数の少なさを自分で卑下していたような気もする。読書家に憧れながら読書家になれない自分、読み落としてきたものへの回顧があり、取り返すためにひたすら書を漁ってきたような気がする。

30歳を超えた頃から、自分のペースで本当に読書を楽しめるようになってきたと思うが、それまでは、「今読んどかなければならない本」みたいなカテゴリーをこしらえては、サプリメントを採るように脅迫観念に近いものを抱いて読書していたような気がする。

活字に触れる喜びを、遅くに見出した俺だからこそ、児童文学に幼少時に多く触れられることの素晴らしさを思う。子どもに押し売りする気はないが、至る所に本を転がして、手にとる機会を多く与えていければと思う。

あ、まずは、子作りだ。わが家にコウノトリまだ来ず。どうしたら来てくれるんやろうか? シートンさんにでも聞いてみたい。

「シートン動物記」にはコウノトリはなかった。オオカミばっかりだ。コウノトリの生態は俺がいずれ書く。

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