2008年5月20日火曜日

言語巡礼(感情との対峙)

数日前のブログでもふれたが、擬音語・擬態語といった繰り返し言葉が好きだ。中でも感情を表す言葉と連動する擬態語の効能は計り知れないと思う。

「気分がすぐれない」時、そのすぐれない感情の原因が何であるか、自己認識するために擬態語は有用だ。

「いらいら」、「むかむか」、「きりきり」、「きゅんきゅん」、「じめじめ」・・・、種々の擬態語で感情を不快にさせる原因を無意識に突き詰めながら、解消をめざしていく。

赤ちゃんが泣く。おむつをしているのだが、小水があふれんばかりにイン・パンパースしてしまって、湿っておしりが気持ち悪い。気持ち悪いから何とかしてほしい。だけど、自分でどうにかする術はまだ持っていない。

だから泣く。泣いたら、母親が自分の障害を取り除いてくれることを本能的に知っている。自分では何が起きているかわからないが、とにかく気持ち悪い感情を解消する矛先を外部に向けて泣くことで満たす。

ところが、言語を習得しだすと泣く機会は減少していく。自分が今抱いている感情は「じめじめ」することによる、「いらいら」であり、それを取り除くためには、ある一定の場所で小水を垂らせばよい。そしてオムツが外れていく。

腹が減ったら「ぺこぺこ」と親に意思表示する。そうすることで不快な感情をそのままにしなくてすむようになる。自分のあらゆる感情を外部に対して表すため、また、自分自身で認識するために、暫定的とはいえ素晴らしき言語に置き換えることで解決を図れるようになる。

もし、自分が抱いている不快でたまらない感情が、言語で表現できなかったとしたら、そこは闇の世界だろう。自分の中で起こっている得体のしれない感情の一つが、「いらいら」という言葉で定義される感情だということを、「いらいら」という言葉と「いらだつ」、「悲しい」などといった言葉の習得とともに、知ることができて初めて、その感情の状態を認識し、解決策を模索することが出来る。

もし、感情が言葉に表れなかったら、闇の恐怖が彼らを包み、何が起きているかわからないまま、警報を泣くという行為で外部に示すしかなくなる。それが赤ちゃんの泣くという行為の理由だ。

①ある感情が起こる   ②感情を言葉で定義する  ③心地よい感情ならばそれを持続
できる方向を探す   ④不快な感情ならば解決策を探す。

これら①~⑤は言語を媒介しないと不可能な過程だと思う。

昨今増加傾向にある、「鬱」という感情、これらは、鬱屈した感情を的確に表現できる言葉がないために起こっている現象ではないかと思う。もし、そこに的確な言葉が生み出され、当てはめて定義できたならば、解決の糸口があるような気がする。

言葉を生み出すといっても、新たな造語を生み出すという意味ではない。言葉を定義するためには、自己との深い対峙が必要だ。自分の閉じた感情の扉を言語で1つ1つこじ開ける対峙が必要だ。

でも、大人になってからこの自己対峙をしようと思っても、なかなか困難だと思う。自分の感情を表す言葉1つ1つに対する深い吟味がないまま、たた語彙を増やしただけでは、言語を武器に深い思考は出来ないと思う。

だから心療内科医は、幼少時に身につけるような易しい言葉を使って、患者が1つ1つ心の殻をはがす作業を補助していくことしかできない。時間がかかるのは仕方ない。

哲学なんて堅苦しい学問名でなくても、昔は常に哲学的問いが教育にあったと思う。「なぜ」に対して、「なぜならば」という1問1答だけですぐに答えを出すのではなく、答えは結局曖昧なままでも、そこを目指すまでの過程を重視する教育が幼少時に施されていたと思う。

ところが、知識量だけが優先され、無機質な数字の操作が深追いされるようになると、吟味なされない言語知識が増え、言語タワーの内部は手抜き工事の空洞といった状態が増えたのではないかと思う。

哲学なんてものは、学問にすると、議論をこねくり返すだけで好きではない。本来、全科目の根底に流れているものであり、それだけを抜き出して学問にするべきではないような気がしていたが、哲学的な問いかけは必要だと思う。感情にリンクしない哲学は屁理屈と紙一重だが、感情に関する対峙は徹底して幼少時にすべきであるように思う。

とはいったものの、自己対峙を極めすぎるのがいいとは思わない。文人の多くが自殺しているが、その原因は過剰な自己対峙だろう。自分の、もしくは人間の限界というものを言語を通して早めに認識しておくことも大切なんだろうと思う。そうすれば、自己対峙の果てに見える絶望感の処方箋が死でなくても済むはずだ。

最近の自殺には遺書が残されていることが少ないように思う。統計の力を借りたわけではないが、間違いなく減っていると思う。自分の命を処する段階になって、言語発露を見ないまま死んでいく人の魂は無念だ。昔の人は、処し方は賛同しかねるが、その人の感情を言語媒介で書することで、ピリオドを打った。ピリオドの打ち方が独断的で浅はかだとは思うが、とりあえず句切りはあった。今の自殺はピリオド無しで未完成なままだ。言語媒介なしの暴挙だ。言葉の力が彼らを思いとどまらせてくれる事態があったような気がしてならない。

何を言っているのかわからない論調が続く。言葉は複雑だ。感情も複雑だ。だから対峙したい。言語に対して胎児から対峙へ、そしていつかは退治へ! いや、退治はしなくてよい。ふわふわ漂いながら記す。

0 件のコメント: