バドミントンのオグシオが初戦突破! 中継を見ていて、冷や冷やしたが良かった良かった。我が県はバドミントンが盛んである。現在の教え子の中にも地区大会で優勝している子がいるので、興味深く観戦していた。実業団企業の資金提供意欲の増加に繋がってほしいと思っている。
観戦しながら、自分の中で興味をひかれるポイントが変化してきていることに気がついた。
オリンピックが始まる前の野球中継なんかを見ていても、かなり見る視点が従来とは異なってきている。
一般的なスポーツ観戦の視点というのは、こんな感じだと思う。野球を例にする。
最初は、ホームラン、剛速球といった、誰の目にも分かりやすい大型のプレーに魅せられる。
ところが、自分がその競技を実際にしたり、または、観戦歴が長くなったりするにつれて、そこには評論家としての渋い視点が加わり出す。速い球、ホームランだけでは満足できず、投手なら緩急の付け具合、打者なら選球眼の良さや、狙い球以外のボールをカットする技術なんかにも目が行き出す。野手の何気ないグラブ捌きなんかにもいぶし銀を見出すようになる。
俺はこの2番目の時期が長く続いていた。野球に限らない。サッカー、バスケ、相撲、ボクシングなどなど、色んなスポーツを見る機会が増えるにつけ、テレビ解説者の受け売りの知識を無意識に貯めこみ、そこに新たな興奮のツボを見出してきていた。
しかし、今年に入ってからだろうか? 少し自分のスポーツ観戦の視点が変わってきていることに気がついた。アスリートの動きの細部も細部、微妙な筋肉の妙に興奮を覚えるようになってきた。
オグシオのバドミントンの試合を見ていた。腕を上から下に振り下ろす豪快なスマッシュというのだろうか? ああいったプレーや、凄い速度のシャトルに対する反応の速さにアスリートの凄さを感じるのではない。
俺が凄いと感じたのは、地面に着地しそうなシャトルを足を踏み出してラケットで下からすくいあげて、相手の陣地に返す場面だ。
その足を踏み出して手を伸ばした場面がスローモーションでリプレイされると、一流選手の凄さを感じてしまう。エロティックなフェチの視線ではない。鍛えられた人間の凄さを感じてしまう。
もし、オグシオなどと同じ角度の足の開き、手の伸び具合、足が地面に着く負荷の衝撃、それらと全く同じ動きを30代以上の素人が1回でも偶然したとしよう。3回に1回は何か体に支障をきたしそうな気がする。ある人は腰を痛め、ある人は膝をやられ、ある人はアキレス腱が切れるだろう。運動不足とかいう問題ではない。人間に本来備わった動きではないような気がするのだ。
人間の体に元来備わっている筋肉の可動範囲と適応力は、生存のために必要なものに限られて設計されていると思う。食物を確保するため、敵と戦うために必要な動きは誰でもがある程度は出来るような気がする。
野球の投げる、打つなんかは、食料を確保するため、木の実を取る時に必要な動作であったような気がする。 サッカーの蹴る、ヘディング、格闘技全般なんかは、ガチンコステゴロファイトに必要な動きだ。
だが、落下しそうなものを着地寸前に何かですくって上に上げるという動作が、人間が生きていく上で一般的に必要な動作であるわけがない。それも股をびしっと開いて、片手ですくいあげるのだ。木の実が落ちてきてもそこまで必死にならない。日常の動きではない。
人間の体に設計されたものにはない動きを後天的に身につけるアスリート、その訓練の過酷さと怪我と背中合わせの環境、それらを考えて見てみると、意外とメジャーじゃないスポーツほど、常人との差異は際立つような気がするのだ。
卓球にしてもそうだ。あのスピードで反復して打ち合う環境が、原始時代から今まで、競技を離れて必要となったことがあるだろうか? せいぜい、ビンタの打ち合いファイトで擬似体験できるぐらいであろう。
普段の生活にはない動き、負荷のかかる動きを中心にアスリート観戦をしようとしている俺がいる。
訓練の凄さを感じる今日この頃である。なぜか、股割りをしながら観戦した。今、股が裂けたような痛みを抱えて書す。
アスリートってすごい。
2008年8月9日土曜日
夜の虫
レンタルビデオ屋といえば、活況を呈しているのは、ツタヤ、ゲオといった全国的フランチャイズ展開をしているところだけだろう。それ以外の小規模店舗は、軒並み淘汰されてしまったのが現状だと思う。
わが町でも、10年ほど前には数店舗の個人レンタル屋があったが、その当時から凋落ぶりは明らかで、アダルト色を強くしたりして何とか延命していたが、既に無くなってしまっている。
こんな状況の中、個人商店であるにも関わらず、今でも営業を続けているだけでなく流行っている店がある。駐車場には車が常に一杯であり、俺はずっとその店が気になっていた。
きっと、他所にはないような渋い品揃えがあるのだろう? 専門性を高めて、大型店との差別化を図っているに違いない! 専門性がアダルトに特化したものである可能性が高いが、今のレンタル市場で商いを継続している元気店舗、何か素晴らしい秘密があるに違いない! そう思っていた。
先日、初めてその店に行くことが出来た。相変わらず駐車場は一杯であった。どうも、ヤンキー風味の車が多いことが気になっていた。
店内に入った。ぱっと見わたすところ、何の変哲もないレンタルビデオ屋である。棚の整理が細かくされていることは目についたが、それだけで活況を呈するようにも思わない。特にアダルト色が強いわけでもない。
店内の奥に入っていった。すると、明るい店内の奥の一角に、照明が落とされた別のスペースがあった。機械音が賑やかに聞こえ、人であふれている。
20台並べられたスロットマシーンにびっしりと人が座り、後ろで順番を待っている奴もいる。全員、眼光が鋭いチンピラで、入ってきた俺にきっちりメンチをきってくる。
スロットマシーンは、今ではパチンコ屋で見かけることが出来ない、規制が入る前のものだ。それを黙々と打ち込むチンピラ、チンピラ以外は40代以上のおっさんばかりだ。
「なんなんだ? この邪悪な雰囲気は?」 俺は気持ち悪くなって店外に出た。
スロットマシーンは、金がかかるから夢中になれるのであって、ゲームとして必死で楽しめるものには思えない。それとも、何か非合法な換金システムがあって、それは一見者には知らされていないだけなのだろうか?
22時頃に行ったのだが、その店は24時間営業だった。きっと彼らは深夜までスロットマシーンの前でエナジーを費やすのだろう。
色んな価値観があるが、何たる時間の浪費! たまたまゲームセンターに訪れてスロットマシーンで楽しむという、娯楽的な関わり方とは明らかに違う。明らかに彼らの日常の1コマに、ゲームセンターでのスロットマシーンが入っているのだと思う。
昔、夜になると集まってくるチンピラの集会場は、コンビニ前だった。しかし、営業妨害要素が強く、経済界からの陳情も多かったのだろう。警察の取締りが機能して、今じゃコンビニ前でのヤンキーミーティングをほとんど見かけなくなった。
俺は昔、コンビニに夜になると集まる彼らのことを「夜の虫」という曲で揶揄した。揶揄していたつもりだが、何となく無目的な彼らに対する憐憫と親愛の念も入っていた気がする。嫌いでなかった。人生の一時期、何をするでもなく、無為に夜更かしする彼らの気持ちがわからないでもなかった。
夜に明かりの元に集い、朝方に得体の知れない充足感と焦燥感とを両者抱えながら家路に帰る虫たち、集い方は違えど、俺も立派な「夜の虫」であった気がする。好きな曲だった。
ところが、今の時代の「夜の虫」は、レンタルビデオ屋の片隅にいた。時代の変遷が虫の集い場にも変化を与えたようだ。
コンビニ前にたむろしていた昔の虫たちと違い、今の虫たちには、正直、忌諱感を覚えるだけだった。
「夜の虫たちはどこに消えたの 同じ寝顔で今頃眠っている また今夜 きっときっと会えるね 僕は明るく笑顔で迎えるからね」
夜の虫にたいする感情が変わった今、最後の歌詞は、「僕は明るく笑顔で無視するからね」に変化するだろう。
何だか悲しい光景だった。夜の虫のばかばか!
わが町でも、10年ほど前には数店舗の個人レンタル屋があったが、その当時から凋落ぶりは明らかで、アダルト色を強くしたりして何とか延命していたが、既に無くなってしまっている。
こんな状況の中、個人商店であるにも関わらず、今でも営業を続けているだけでなく流行っている店がある。駐車場には車が常に一杯であり、俺はずっとその店が気になっていた。
きっと、他所にはないような渋い品揃えがあるのだろう? 専門性を高めて、大型店との差別化を図っているに違いない! 専門性がアダルトに特化したものである可能性が高いが、今のレンタル市場で商いを継続している元気店舗、何か素晴らしい秘密があるに違いない! そう思っていた。
先日、初めてその店に行くことが出来た。相変わらず駐車場は一杯であった。どうも、ヤンキー風味の車が多いことが気になっていた。
店内に入った。ぱっと見わたすところ、何の変哲もないレンタルビデオ屋である。棚の整理が細かくされていることは目についたが、それだけで活況を呈するようにも思わない。特にアダルト色が強いわけでもない。
店内の奥に入っていった。すると、明るい店内の奥の一角に、照明が落とされた別のスペースがあった。機械音が賑やかに聞こえ、人であふれている。
20台並べられたスロットマシーンにびっしりと人が座り、後ろで順番を待っている奴もいる。全員、眼光が鋭いチンピラで、入ってきた俺にきっちりメンチをきってくる。
スロットマシーンは、今ではパチンコ屋で見かけることが出来ない、規制が入る前のものだ。それを黙々と打ち込むチンピラ、チンピラ以外は40代以上のおっさんばかりだ。
「なんなんだ? この邪悪な雰囲気は?」 俺は気持ち悪くなって店外に出た。
スロットマシーンは、金がかかるから夢中になれるのであって、ゲームとして必死で楽しめるものには思えない。それとも、何か非合法な換金システムがあって、それは一見者には知らされていないだけなのだろうか?
22時頃に行ったのだが、その店は24時間営業だった。きっと彼らは深夜までスロットマシーンの前でエナジーを費やすのだろう。
色んな価値観があるが、何たる時間の浪費! たまたまゲームセンターに訪れてスロットマシーンで楽しむという、娯楽的な関わり方とは明らかに違う。明らかに彼らの日常の1コマに、ゲームセンターでのスロットマシーンが入っているのだと思う。
昔、夜になると集まってくるチンピラの集会場は、コンビニ前だった。しかし、営業妨害要素が強く、経済界からの陳情も多かったのだろう。警察の取締りが機能して、今じゃコンビニ前でのヤンキーミーティングをほとんど見かけなくなった。
俺は昔、コンビニに夜になると集まる彼らのことを「夜の虫」という曲で揶揄した。揶揄していたつもりだが、何となく無目的な彼らに対する憐憫と親愛の念も入っていた気がする。嫌いでなかった。人生の一時期、何をするでもなく、無為に夜更かしする彼らの気持ちがわからないでもなかった。
夜に明かりの元に集い、朝方に得体の知れない充足感と焦燥感とを両者抱えながら家路に帰る虫たち、集い方は違えど、俺も立派な「夜の虫」であった気がする。好きな曲だった。
ところが、今の時代の「夜の虫」は、レンタルビデオ屋の片隅にいた。時代の変遷が虫の集い場にも変化を与えたようだ。
コンビニ前にたむろしていた昔の虫たちと違い、今の虫たちには、正直、忌諱感を覚えるだけだった。
「夜の虫たちはどこに消えたの 同じ寝顔で今頃眠っている また今夜 きっときっと会えるね 僕は明るく笑顔で迎えるからね」
夜の虫にたいする感情が変わった今、最後の歌詞は、「僕は明るく笑顔で無視するからね」に変化するだろう。
何だか悲しい光景だった。夜の虫のばかばか!
2008年8月8日金曜日
軽トラが欲しい
学生時代に、京都「拾得」に必ず見に行っていたバンドがある。「さんれんぷす」というバンドだ。表記はアルファベットかカタカナだったかもしれないが、無茶苦茶かっこよかった。三重県のバンドだったが、情報誌をチェックして、ブッキングされていたら必ず行った。
残念なことに、ベースの方だったと思うが、事故死されて解散してしまったのだが、今でも曲をよく覚えている。
「何ヶ月もたまってるローン、2人は取り残された。 あの子は笑ってる 線路伝いに歩くのが とてもとても好きだった。」という唄物には涙した記憶もある。
あと、ジャニス・ジョップリンの「ベンツが欲しい」を「軽トラが欲しい」と変えて演奏されていた記憶もある。これがまたかっこよくて、今でもはっきり音と映像を覚えている。
何で急にこのかっこいいバンドを思い出したかというと、今日、軽トラックをまじまじと観察し、魅せられたからだ。
我が塾の生徒の保護者で、子どもの送迎に毎回、軽トラで来られる方がおられる。
たまたま送迎時に車の前で立ち話をする機会があり、どういう展開でそうなったのかはわからないが、軽トラの話題になった。
俺が興味津々でその方の軽トラを見つめているものだから、詳しく車内も見せてくださった。
びっくり! 軽トラとあなどることなかれ! 見た目はどこにでもいるあの軽トラ、白くて小さくて4速までしかなくて、ギアチェンジがうるさくて・・・なのだが、どうしてどうしてハイテクなこと・・!
驚いたのが、オートマであったこととCDも聞けることだ。軽トラといえば、ミッションで、高齢者が下手糞なギアチェンジで、かっくんかっくん跳ねながら転がすイメージがあったのだが、最近の軽トラはそういや、あまり跳ねながら走るのを見ないと思っていたら、オートマだったのだ。
また、CDも標準装備のように見受けられた。軽トラといえば、ラジオのみ、それも感度の悪いアンテナでAMのみ受信可!といった偏見を抱いていたが、FMももちろん、CDも聞ける。普通車と変わらない装備だ。
普通車にあって軽トラにないもの、それはリクライニングだけであろう。それ以外は何不自由ない。欲しくなった。
軽トラが家にあることは何を意味するか、それは、彼らには田畑があるってことだ。
肥料を積んだり、稲を積んだり、重機を積んだり、軽トラ大活躍である。うらやましい。
今の時代、何が1番幸せかというと、野菜や米を自給自足できるということだと思う。
家の畑から野菜を採ってきては、それを調理する。何て幸せな光景だ。
もちろん、田畑を抱えた人なりに、農作業の苦しみなんかもあるのだろうが、刈り取る幸せと比べたら小さいと思う。毎日自分の糞尿も青空の下で垂れられるし、開放感も抜群だ。
俺は都会育ちの洗練された男だ(笑うな)。だから、土の香りもしなければ、土の知識もない。
最近まで、パイナップルは南国の木になると思っていた。ヤシの実の親戚と思っていたのだ。落花生は木になると思っていた。木の実だと思っていたのだ。ミョウガは、なんかの花が枯れたものやと思っていたし、蓮根の葉っぱがあの、お釈迦様が乗っている葉だとは、漢字で表記する機会を得るまで気づかなかった男だ。
土に塗れて、戯れて、日々を過ごす。晴耕雨読という理想の生活をするためには、耕す土壌がないといけない。
誰か親戚に頼んで、畑嫌いな人の土地をもらえないか? もしくは奪おうか? そんな良くない企みもしつつ、幸せな妄想にふける。天気が良ければ、ハイ装備の軽トラで毎日菜園に出かけ、自分で作った野菜をつまみに酒を飲む。
くあ~、痺れる。想像しただけで痺れる。
ずっと頭で「さんれんぷす」の「軽トラが欲しい」が鳴っている。記憶を頼りに弾き語りする。家庭再演だ。軽トラ欲しい、畑も欲しい。
残念なことに、ベースの方だったと思うが、事故死されて解散してしまったのだが、今でも曲をよく覚えている。
「何ヶ月もたまってるローン、2人は取り残された。 あの子は笑ってる 線路伝いに歩くのが とてもとても好きだった。」という唄物には涙した記憶もある。
あと、ジャニス・ジョップリンの「ベンツが欲しい」を「軽トラが欲しい」と変えて演奏されていた記憶もある。これがまたかっこよくて、今でもはっきり音と映像を覚えている。
何で急にこのかっこいいバンドを思い出したかというと、今日、軽トラックをまじまじと観察し、魅せられたからだ。
我が塾の生徒の保護者で、子どもの送迎に毎回、軽トラで来られる方がおられる。
たまたま送迎時に車の前で立ち話をする機会があり、どういう展開でそうなったのかはわからないが、軽トラの話題になった。
俺が興味津々でその方の軽トラを見つめているものだから、詳しく車内も見せてくださった。
びっくり! 軽トラとあなどることなかれ! 見た目はどこにでもいるあの軽トラ、白くて小さくて4速までしかなくて、ギアチェンジがうるさくて・・・なのだが、どうしてどうしてハイテクなこと・・!
驚いたのが、オートマであったこととCDも聞けることだ。軽トラといえば、ミッションで、高齢者が下手糞なギアチェンジで、かっくんかっくん跳ねながら転がすイメージがあったのだが、最近の軽トラはそういや、あまり跳ねながら走るのを見ないと思っていたら、オートマだったのだ。
また、CDも標準装備のように見受けられた。軽トラといえば、ラジオのみ、それも感度の悪いアンテナでAMのみ受信可!といった偏見を抱いていたが、FMももちろん、CDも聞ける。普通車と変わらない装備だ。
普通車にあって軽トラにないもの、それはリクライニングだけであろう。それ以外は何不自由ない。欲しくなった。
軽トラが家にあることは何を意味するか、それは、彼らには田畑があるってことだ。
肥料を積んだり、稲を積んだり、重機を積んだり、軽トラ大活躍である。うらやましい。
今の時代、何が1番幸せかというと、野菜や米を自給自足できるということだと思う。
家の畑から野菜を採ってきては、それを調理する。何て幸せな光景だ。
もちろん、田畑を抱えた人なりに、農作業の苦しみなんかもあるのだろうが、刈り取る幸せと比べたら小さいと思う。毎日自分の糞尿も青空の下で垂れられるし、開放感も抜群だ。
俺は都会育ちの洗練された男だ(笑うな)。だから、土の香りもしなければ、土の知識もない。
最近まで、パイナップルは南国の木になると思っていた。ヤシの実の親戚と思っていたのだ。落花生は木になると思っていた。木の実だと思っていたのだ。ミョウガは、なんかの花が枯れたものやと思っていたし、蓮根の葉っぱがあの、お釈迦様が乗っている葉だとは、漢字で表記する機会を得るまで気づかなかった男だ。
土に塗れて、戯れて、日々を過ごす。晴耕雨読という理想の生活をするためには、耕す土壌がないといけない。
誰か親戚に頼んで、畑嫌いな人の土地をもらえないか? もしくは奪おうか? そんな良くない企みもしつつ、幸せな妄想にふける。天気が良ければ、ハイ装備の軽トラで毎日菜園に出かけ、自分で作った野菜をつまみに酒を飲む。
くあ~、痺れる。想像しただけで痺れる。
ずっと頭で「さんれんぷす」の「軽トラが欲しい」が鳴っている。記憶を頼りに弾き語りする。家庭再演だ。軽トラ欲しい、畑も欲しい。
北京開催の不安と楽観
いよいよ明日から北京オリンピックが始まる。マラソンコースの問題、排ガス、渋滞問題、施設建設の問題、種々の不安が叫ばれながらも、何とか明日の開催にこぎつけた感じだ。
この北京オリンピックだが、2001年の7月には、明日からの日程が決まっていたみたいで、08年8月8日スタートというのは、中国人にとって福を呼ぶとされる「8」にちなんで、8並びの日程設定がなされたと2001年のニュースで聞いた記憶がある。
実際には、ハード面の危惧はおおかた解消されたみたいで、最先端のすばらしき競技場もあり、排ガスも一時よりはましになっているとも報もあった。
ただ、中国という国民性がどうもひっかかる。1人1人の中国人を非難する気はないが、中国の国家体制自体が、世界的なイベント、なかでも五輪開催地としては不適切に思えて仕方がない。
まず第一に、テレビなんかで見る、五輪関係のスタッフ映像を見ると、どうも高圧的で、他国の人をもてなそうとする精神のかけらも見えないように感じる。
海外メディアの人が、「ニイハオ」と挨拶しているのに、にこりともしない奴の映像も見た。
愛想が悪いのは、彼らの国民性の問題だろう。もてなそうなんて気は全くなくて、むしろ、俺たちが開いてやっているといった態度が根底にあるような気がする。
報道規制なんかもなされていると聞く。基本的に、民主国家としての体制がない国が、開催地としての重責を果たせるわけがないような気がする。
ともかく選手や関係者が無事で競技に集中できて、最小限のトラブルですむことを願うのみだ。そして、経済的な利益が四川復旧に使われることを願いたい。
もし、開催国の不手際があって、何か問題が生じたとしても、謝ることをしらない国民とのやり取りがなされるのは、報道を聞いている外野の立場でもうっとうしい。
いっそのこと、中国側の不手際が問題になって、それでも非を認めない彼らが、世界中の笑いものになるきっかけとなる、適当な規模の事態でも起きたほうがいいのかもしれない。
中国の餃子問題があった。中国で製造された餃子を食べた日本人が嘔吐などの症状を訴え、調べてみたら、有毒物質が食品に混入していたというあの事件だ。 どう考えても、中国側の落ち度で、日本側は100%被害者なのだが、中国側はあくまで非を認めなかった。
笑えるぐらいの強情さ!
いつもの中国のパターンだ。自分たちが非難されたら、まず最初に反論ありきである。いや、反論ならまだいい。彼らは逆切れして、非難された事由を捏造非難で仕返しする。
ギョーザ問題ならば、「日本で有毒物質が混入されたに違いない」というから驚きだ。
孔子や孟子やらの偉い中国の先祖さんは、謝ることを法度としていたのか?と不思議に思う。
こんな対応をしていた中国だが、今日の新聞で、日本人が食中毒を起こしたギョーザを作っていたのと同じ製造会社が作ったギョーザで、中国人が食中毒を起こしたとの報があった。食中毒を起こした中国人には気の毒だが、ざま~みろ!という不謹慎な感想も抱いた。
さすがに言い訳ができない事態があったにも関わらず、彼らは淡々と事実を第三者目線で報道するに終わったみたいだ。もし謝るとしても、政府首脳から首脳へ、こっそり活字にならない謝罪をする程度だろう。実際にしていて、日本も日本でその事実をサミット絡みだろう、今日まで公にしなかったというから驚きだ。弱気になるからつけあがるのだ。ペチっといわせる時はいわせないとだめだと思う。頼むで山拓!
こんな国でオリンピック???
だが、彼らの強情さは負けず嫌いに繋がる。自国開催が彼らの負けん気にさらに火をつける。いつも以上に手ごわい開催国競技者だ。勝ちを欲するために、なにか汚いプレーが飛び出さないかが不安だ。競技者自体は悪くない。家族愛に満ちた自己犠牲の精神を持ったアスリートが多いのが中国の特徴だ。
だが、内なるものへの愛情だけで、彼らの愛情は外に開かれていないのが問題だ。いや、問題というか、国民性としてそれはそれでありなのだが、世界規模の大会の開催国として、自国基準を曲げないDNAは、やはり開催国には向いていないと思う。
散々、中国非難をしてきたが、開催地なんか忘れるくらいの素晴らしい競技が見られることを期待したい。
そして、あまり期待していないが、中国人のホスピス精神が、思ったよりもよくなっていて、民主的になっている姿が、捏造報道ではなく、一般中継の落し物として発見できた時には、中国自体にも拍手を送りたい。
現時点で俺は、もろこし嫌いだが、色眼鏡では見ないようにしたい。
8並びは中国では縁起が良いのだな? ハハハ! 俺は笑って競技観戦をテレビで楽しもうと思う。頼むで北京!
この北京オリンピックだが、2001年の7月には、明日からの日程が決まっていたみたいで、08年8月8日スタートというのは、中国人にとって福を呼ぶとされる「8」にちなんで、8並びの日程設定がなされたと2001年のニュースで聞いた記憶がある。
実際には、ハード面の危惧はおおかた解消されたみたいで、最先端のすばらしき競技場もあり、排ガスも一時よりはましになっているとも報もあった。
ただ、中国という国民性がどうもひっかかる。1人1人の中国人を非難する気はないが、中国の国家体制自体が、世界的なイベント、なかでも五輪開催地としては不適切に思えて仕方がない。
まず第一に、テレビなんかで見る、五輪関係のスタッフ映像を見ると、どうも高圧的で、他国の人をもてなそうとする精神のかけらも見えないように感じる。
海外メディアの人が、「ニイハオ」と挨拶しているのに、にこりともしない奴の映像も見た。
愛想が悪いのは、彼らの国民性の問題だろう。もてなそうなんて気は全くなくて、むしろ、俺たちが開いてやっているといった態度が根底にあるような気がする。
報道規制なんかもなされていると聞く。基本的に、民主国家としての体制がない国が、開催地としての重責を果たせるわけがないような気がする。
ともかく選手や関係者が無事で競技に集中できて、最小限のトラブルですむことを願うのみだ。そして、経済的な利益が四川復旧に使われることを願いたい。
もし、開催国の不手際があって、何か問題が生じたとしても、謝ることをしらない国民とのやり取りがなされるのは、報道を聞いている外野の立場でもうっとうしい。
いっそのこと、中国側の不手際が問題になって、それでも非を認めない彼らが、世界中の笑いものになるきっかけとなる、適当な規模の事態でも起きたほうがいいのかもしれない。
中国の餃子問題があった。中国で製造された餃子を食べた日本人が嘔吐などの症状を訴え、調べてみたら、有毒物質が食品に混入していたというあの事件だ。 どう考えても、中国側の落ち度で、日本側は100%被害者なのだが、中国側はあくまで非を認めなかった。
笑えるぐらいの強情さ!
いつもの中国のパターンだ。自分たちが非難されたら、まず最初に反論ありきである。いや、反論ならまだいい。彼らは逆切れして、非難された事由を捏造非難で仕返しする。
ギョーザ問題ならば、「日本で有毒物質が混入されたに違いない」というから驚きだ。
孔子や孟子やらの偉い中国の先祖さんは、謝ることを法度としていたのか?と不思議に思う。
こんな対応をしていた中国だが、今日の新聞で、日本人が食中毒を起こしたギョーザを作っていたのと同じ製造会社が作ったギョーザで、中国人が食中毒を起こしたとの報があった。食中毒を起こした中国人には気の毒だが、ざま~みろ!という不謹慎な感想も抱いた。
さすがに言い訳ができない事態があったにも関わらず、彼らは淡々と事実を第三者目線で報道するに終わったみたいだ。もし謝るとしても、政府首脳から首脳へ、こっそり活字にならない謝罪をする程度だろう。実際にしていて、日本も日本でその事実をサミット絡みだろう、今日まで公にしなかったというから驚きだ。弱気になるからつけあがるのだ。ペチっといわせる時はいわせないとだめだと思う。頼むで山拓!
こんな国でオリンピック???
だが、彼らの強情さは負けず嫌いに繋がる。自国開催が彼らの負けん気にさらに火をつける。いつも以上に手ごわい開催国競技者だ。勝ちを欲するために、なにか汚いプレーが飛び出さないかが不安だ。競技者自体は悪くない。家族愛に満ちた自己犠牲の精神を持ったアスリートが多いのが中国の特徴だ。
だが、内なるものへの愛情だけで、彼らの愛情は外に開かれていないのが問題だ。いや、問題というか、国民性としてそれはそれでありなのだが、世界規模の大会の開催国として、自国基準を曲げないDNAは、やはり開催国には向いていないと思う。
散々、中国非難をしてきたが、開催地なんか忘れるくらいの素晴らしい競技が見られることを期待したい。
そして、あまり期待していないが、中国人のホスピス精神が、思ったよりもよくなっていて、民主的になっている姿が、捏造報道ではなく、一般中継の落し物として発見できた時には、中国自体にも拍手を送りたい。
現時点で俺は、もろこし嫌いだが、色眼鏡では見ないようにしたい。
8並びは中国では縁起が良いのだな? ハハハ! 俺は笑って競技観戦をテレビで楽しもうと思う。頼むで北京!
2008年8月6日水曜日
居抜き物件
今ほどのガソリン価格の高騰以前から、全国的にガソリンスタンドは利益が出にくくなっていたのだろう。人件費を削るために、セルフスタンドにする店舗が多くなっていた。
本格的に到来する価格競争時代を乗り切るために、資金力のあるうちにセルフへの移行を済ませたスタンドはまだいい。
セルフ志向への波に乗り遅れたガソリンスタンドが、次々と廃業、倒産していっている。凄まじいスピードでの淘汰が全国的になされている。
「居抜き物件」という不動産用語がある。什器などの設備が残された状態の物件のことを指す。この状態での賃貸契約を結ぶと、新規開業者は初期投資費用を少なく抑えることができる。
什器などの設備が残った状態で次の経営者に引き継がれるという性質上、居抜き物件というのは、前経営者が廃業、事業失敗をした、つまり、「つぶれた店の跡地と残された設備」である。
新規事業にジンクスなどを気にする人にとっては、いくら安くてもなかなか手を出せない物件なのだろうが、気にしない人にとっては、かなり魅力のある物件である。
わが町でも、1つの店舗がつぶれた後に、ちょっとした外装工事だけを加えただけで、次の新規出店がなされている事例は、1年スパンで見ただけでも結構な件数ある。
居酒屋がつぶれた後に、また別に居酒屋が開業する。そしてまたつぶれ、三度別の居酒屋が開業する。
悲しいことに、いくら経営者が変わっても、呪われているのか、短い間に姿を消す立地というのもある。その一方で、前は全く流行らなかったうえに、立地もよくないにも関わらず、経営者が変わった後に大繁盛を遂げる店もある。
立地の力が商売に大きな力をもたらすこと、また、本当に優れて需要がある商売と商売人の店は、立地を選ばないのだという事実、両者を見ることができて、居抜き物件観察も楽しい。
この居抜き物件だが、コンビニがつぶれた後には、歯医者、皮膚科などの個人開業医や、個別指導を売り物にするフランチャイズ塾が入ることが多い。業種変えというわけだ。
坪数といい、内装といい、駐車スペースといい、コンビニ廃業後の店舗は結構需要があるみたいだ。厳密な意味での居抜き物件とはいえないかもしれないが、コンビニ独特の事務所スペースなんかは、新規内装工事を施さなくても使える事例が多いと思うし、窓の配置も多いので、優れた居ぬき物件の一種であろう。
夜の町に目を向ける。いつ通っても、新規開業の花輪が置かれている。ということは、同じ店舗が短いスパンで、経営者が変わっていることを意味している。夜のチャン姉商売も、経営者の才覚が大きく左右するのだろう。
コンビニ跡や、夜の飲み屋はまだいい。居抜き物件の買い手がたくさん見つかる。
ところが、ガソリンスタンドがつぶれた場合、居抜き物件として買う経営者は、100パーセントガソリンスタンド経営者だろう。地中にタンクが詰め込まれた所を消防署が買うわけもなければ、飲食店が買うこともない。設備、面積ともに、居抜きの対象となりにくい物体を抱えての倒産、廃業・・・、経営者の無念と、倒産後の過酷さがしみてくる。
解体するだけでいくらお金がいるのかしらないが、普通の民家を解体するだけで、数百万かかると聞いたことがあるので、ガソリンスタンドだと、1千万円越えの解体費用がいるのだろうと思う。
資本主義社会だから、商売の栄枯盛衰は仕方ないと思う。ただ、誰の名義になっているにせよ、もともとは、自然の大地のある一角に店舗があったわけであり、それが倒産後いつまでも、廃墟のまま、野ざらしで買い手がつかない状況が多く続く現状、これは景観保護の観点からも好ましくないと思う。国策レベルで何とかしてほしいと思う。
ガソリンスタンドだけでなく、パチンコ屋の跡も惨めなものだ。もう5、6年、買い手が見つからないまま放置されているパチンコ跡地も散見する。これ以上放っておいたらどうなるか?
間違いなく、心霊スポットとして評判になる。 有効な大地が減って、心霊スポットが増える。そうなるとその土地が有効利用されるのは、行政レベルの土地再開発の時流を待たねばならない。
心霊付き・・・こんな居抜き物件はいらない。
本格的に到来する価格競争時代を乗り切るために、資金力のあるうちにセルフへの移行を済ませたスタンドはまだいい。
セルフ志向への波に乗り遅れたガソリンスタンドが、次々と廃業、倒産していっている。凄まじいスピードでの淘汰が全国的になされている。
「居抜き物件」という不動産用語がある。什器などの設備が残された状態の物件のことを指す。この状態での賃貸契約を結ぶと、新規開業者は初期投資費用を少なく抑えることができる。
什器などの設備が残った状態で次の経営者に引き継がれるという性質上、居抜き物件というのは、前経営者が廃業、事業失敗をした、つまり、「つぶれた店の跡地と残された設備」である。
新規事業にジンクスなどを気にする人にとっては、いくら安くてもなかなか手を出せない物件なのだろうが、気にしない人にとっては、かなり魅力のある物件である。
わが町でも、1つの店舗がつぶれた後に、ちょっとした外装工事だけを加えただけで、次の新規出店がなされている事例は、1年スパンで見ただけでも結構な件数ある。
居酒屋がつぶれた後に、また別に居酒屋が開業する。そしてまたつぶれ、三度別の居酒屋が開業する。
悲しいことに、いくら経営者が変わっても、呪われているのか、短い間に姿を消す立地というのもある。その一方で、前は全く流行らなかったうえに、立地もよくないにも関わらず、経営者が変わった後に大繁盛を遂げる店もある。
立地の力が商売に大きな力をもたらすこと、また、本当に優れて需要がある商売と商売人の店は、立地を選ばないのだという事実、両者を見ることができて、居抜き物件観察も楽しい。
この居抜き物件だが、コンビニがつぶれた後には、歯医者、皮膚科などの個人開業医や、個別指導を売り物にするフランチャイズ塾が入ることが多い。業種変えというわけだ。
坪数といい、内装といい、駐車スペースといい、コンビニ廃業後の店舗は結構需要があるみたいだ。厳密な意味での居抜き物件とはいえないかもしれないが、コンビニ独特の事務所スペースなんかは、新規内装工事を施さなくても使える事例が多いと思うし、窓の配置も多いので、優れた居ぬき物件の一種であろう。
夜の町に目を向ける。いつ通っても、新規開業の花輪が置かれている。ということは、同じ店舗が短いスパンで、経営者が変わっていることを意味している。夜のチャン姉商売も、経営者の才覚が大きく左右するのだろう。
コンビニ跡や、夜の飲み屋はまだいい。居抜き物件の買い手がたくさん見つかる。
ところが、ガソリンスタンドがつぶれた場合、居抜き物件として買う経営者は、100パーセントガソリンスタンド経営者だろう。地中にタンクが詰め込まれた所を消防署が買うわけもなければ、飲食店が買うこともない。設備、面積ともに、居抜きの対象となりにくい物体を抱えての倒産、廃業・・・、経営者の無念と、倒産後の過酷さがしみてくる。
解体するだけでいくらお金がいるのかしらないが、普通の民家を解体するだけで、数百万かかると聞いたことがあるので、ガソリンスタンドだと、1千万円越えの解体費用がいるのだろうと思う。
資本主義社会だから、商売の栄枯盛衰は仕方ないと思う。ただ、誰の名義になっているにせよ、もともとは、自然の大地のある一角に店舗があったわけであり、それが倒産後いつまでも、廃墟のまま、野ざらしで買い手がつかない状況が多く続く現状、これは景観保護の観点からも好ましくないと思う。国策レベルで何とかしてほしいと思う。
ガソリンスタンドだけでなく、パチンコ屋の跡も惨めなものだ。もう5、6年、買い手が見つからないまま放置されているパチンコ跡地も散見する。これ以上放っておいたらどうなるか?
間違いなく、心霊スポットとして評判になる。 有効な大地が減って、心霊スポットが増える。そうなるとその土地が有効利用されるのは、行政レベルの土地再開発の時流を待たねばならない。
心霊付き・・・こんな居抜き物件はいらない。
2008年8月5日火曜日
車を乗り換える
一昨年の事故以来乗っていた俺の愛車レガシーが少々へばりぎみで、ガッツがなくなったので、乗り換えることにした。ダイナモとかいう部分がへばったらしい。どんな理由があるにせよ、根性がない車は嫌いだ。廃車の刑だ。俺は昨日までの愛車に躊躇いもなく勘当を言い渡した。
知り合いの車屋に、車検を通した状態で30万円ぐらいという条件で探してもらっていた。
この車屋さんが、実にロッキンなおやじで、実に良い仕事をしてくれる。バッテリーが逝かれた時も、ただで現場にかけつけてくれ、無料の中古バッテリーを用意してくれたし、腕も目利きも良い。オイル交換なんかも含めて、もう10年の付き合いだ。
今日、その車屋さんから連絡を頂いた。条件に合う車が見つかったという。
平成9年式のステップワゴンだ。車検を今から通して、スタッドレスタイヤとCDチェンジャーを付けたうえで、30万くらいでいけるという。走行距離は11万キロ超えだが、18万キロぐらいまでは大丈夫だという彼の判断で決めた。納車は10日後くらいだ。
この車屋さんに色々話を聞いたのだが、普通、10万キロを超えた車は、もうだめだと思う人が多いらしいが、実はそんなことを思っているのは日本人だけであり、海外では20万キロでも平気だという。
海外の人は、走行距離で寿命を判断するのではなく、あくまでエンジンなどを含めた車の状態で判断する。
そういえば、日本で10万キロを超えた車がロシアに大量に輸出され、そこで元気に走っているということも以前に聞いた。
日本の自動車メーカーが買い替え意欲を煽るために、言い出したのが、この「10万キロ乗り換え時期」という言葉らしい。
タイミングベルトを10万キロ以内に交換することは避けられないが、あとはオイル交換をしっかりしている車ならば、十分に20万キロはいけるそうだ。
20万キロ、変な故障なく長生きさせるためには、前オーナーがどんな人だったかということが、かなり大事らしい。
だから、この車屋さん、中古車を売るときには、エンジンルーム全体と、車体下部のオイル漏れなどを見た後で、さらに、前オーナーの乗り方に注目するらしい。
外装ではなく、車の内部に注目して、清潔に乗っている人ならば、まずはOK,次にエンジンルームを見て、頻繁に開けているかどうかの形跡を、汚れ具合からチェックして、オーナー自らがエンジンルームを見ている形跡があれば、第2チェックポイントをクリアする。
次に、前オーナーの名前を見るらしい。1番良いのは、昭和初期の香りする男の名前であり、次に良いのが昭和初期以前の女性のカタカナ名らしい。
何でも年配の方は、車好きの方はこまめにメンテするし、自分でメンテをしない人でも、ガソリンスタンドでメンテ打診があった時に、言いなりでしてもらっている確率が高いらしい。
当然、オイル交換なども必要以上に頻繁にしているし、色んな種類の栄養ドリンク(水抜き剤など)も飲んでいる。だから、エンジンの状態はばりばり良いらしい。
車屋さんの話では、俺みたいな奴が乗った車は、例え3万キロくらいしか走行距離がいってなくても、他のお客さんには勧めたくなくなるそうである。何だか悲しい。ワハハ・・・。
前オーナー名から判断する基準に照らし合わせて車を探す場合に、もっともネックになるのが、車種の問題らしい。
状態が最高に良い車はセダンのスプリンター、サニーなんかがダントツで多いらしい。
たしかに、町を走っていると、高齢者マークをつけたこれらの車を良く見る。
俺自身、車は動けば良いと思っている。だが、初老の香り漂う車は、さすがに気乗りしない。
昔、銀のスプリンターに乗っていたことがある。諸々込みで18万円だった。走行距離は14万キロを超えていたが、何の問題もなく3年間乗れた。
だが、俺の愛車を見る人見る人が同じ言葉を口にした。「渋い車乗ってるな~~。」と・・・。
この「渋い」という言葉だが、人によってニュアンスは色々で、一番蔑み度合いの強い奴が吐く「渋い」は、「趣味わる~」と変換された。
元気で渋い、愛車スプリンターには申し訳なく思ったが、蔑みを食らわない程度に渋い車を探して、今回縁があったのが、ステップワゴンというわけだ。
しっかりメンテをして、20万キロまでは乗ってあげたいと思う。この車でお盆に志賀高原方面に夫婦旅行に出かける。
知り合いの車屋に、車検を通した状態で30万円ぐらいという条件で探してもらっていた。
この車屋さんが、実にロッキンなおやじで、実に良い仕事をしてくれる。バッテリーが逝かれた時も、ただで現場にかけつけてくれ、無料の中古バッテリーを用意してくれたし、腕も目利きも良い。オイル交換なんかも含めて、もう10年の付き合いだ。
今日、その車屋さんから連絡を頂いた。条件に合う車が見つかったという。
平成9年式のステップワゴンだ。車検を今から通して、スタッドレスタイヤとCDチェンジャーを付けたうえで、30万くらいでいけるという。走行距離は11万キロ超えだが、18万キロぐらいまでは大丈夫だという彼の判断で決めた。納車は10日後くらいだ。
この車屋さんに色々話を聞いたのだが、普通、10万キロを超えた車は、もうだめだと思う人が多いらしいが、実はそんなことを思っているのは日本人だけであり、海外では20万キロでも平気だという。
海外の人は、走行距離で寿命を判断するのではなく、あくまでエンジンなどを含めた車の状態で判断する。
そういえば、日本で10万キロを超えた車がロシアに大量に輸出され、そこで元気に走っているということも以前に聞いた。
日本の自動車メーカーが買い替え意欲を煽るために、言い出したのが、この「10万キロ乗り換え時期」という言葉らしい。
タイミングベルトを10万キロ以内に交換することは避けられないが、あとはオイル交換をしっかりしている車ならば、十分に20万キロはいけるそうだ。
20万キロ、変な故障なく長生きさせるためには、前オーナーがどんな人だったかということが、かなり大事らしい。
だから、この車屋さん、中古車を売るときには、エンジンルーム全体と、車体下部のオイル漏れなどを見た後で、さらに、前オーナーの乗り方に注目するらしい。
外装ではなく、車の内部に注目して、清潔に乗っている人ならば、まずはOK,次にエンジンルームを見て、頻繁に開けているかどうかの形跡を、汚れ具合からチェックして、オーナー自らがエンジンルームを見ている形跡があれば、第2チェックポイントをクリアする。
次に、前オーナーの名前を見るらしい。1番良いのは、昭和初期の香りする男の名前であり、次に良いのが昭和初期以前の女性のカタカナ名らしい。
何でも年配の方は、車好きの方はこまめにメンテするし、自分でメンテをしない人でも、ガソリンスタンドでメンテ打診があった時に、言いなりでしてもらっている確率が高いらしい。
当然、オイル交換なども必要以上に頻繁にしているし、色んな種類の栄養ドリンク(水抜き剤など)も飲んでいる。だから、エンジンの状態はばりばり良いらしい。
車屋さんの話では、俺みたいな奴が乗った車は、例え3万キロくらいしか走行距離がいってなくても、他のお客さんには勧めたくなくなるそうである。何だか悲しい。ワハハ・・・。
前オーナー名から判断する基準に照らし合わせて車を探す場合に、もっともネックになるのが、車種の問題らしい。
状態が最高に良い車はセダンのスプリンター、サニーなんかがダントツで多いらしい。
たしかに、町を走っていると、高齢者マークをつけたこれらの車を良く見る。
俺自身、車は動けば良いと思っている。だが、初老の香り漂う車は、さすがに気乗りしない。
昔、銀のスプリンターに乗っていたことがある。諸々込みで18万円だった。走行距離は14万キロを超えていたが、何の問題もなく3年間乗れた。
だが、俺の愛車を見る人見る人が同じ言葉を口にした。「渋い車乗ってるな~~。」と・・・。
この「渋い」という言葉だが、人によってニュアンスは色々で、一番蔑み度合いの強い奴が吐く「渋い」は、「趣味わる~」と変換された。
元気で渋い、愛車スプリンターには申し訳なく思ったが、蔑みを食らわない程度に渋い車を探して、今回縁があったのが、ステップワゴンというわけだ。
しっかりメンテをして、20万キロまでは乗ってあげたいと思う。この車でお盆に志賀高原方面に夫婦旅行に出かける。
2008年8月4日月曜日
不正を無くす環境作り
中央省庁と独立行政法人の、2006年度のタクシーチケット代は約93億円だとか・・・。
役人様が何人いるのかわからないが、どうやったら93億円分もタクシー乗れるねん!とつっこまざるをえない。そら、タクシー会社にしたら、役人様様で、タクシー接待したくなるのもわかる。
内訳を詳しく見ると、1回あたりの利用額平均は6000円台らしい。これは妥当な気もする。しかし、1回の利用で3万円を超えるタクシーチケットは、一般会計では全体の2割しかないのに対して、特別会計分では、全体の半数を超えているらしい。
道路特定財源などの特別会計のチェックが甘い、もしくはなされていないのが浮き彫りだ。
素朴な疑問だが、1回あたり3万円を超えるタクシー料金が必要な場合とはどんな場合なのだろう?
終電がなくなる時間まで役人様が何をしているかといえば、飲食している場合が多いとは思うが、それは今回目をつぶったとして、残業で終電時間を越えたとしよう。
その時に、3万円かかる距離の家に帰る必要があるだろうか? カプセルホテルとはいわず、綺麗なビジネスホテルに泊まっても1泊に3万円はかからない。3日分の宿代が出る。
それでもタクシーで帰らなければならない事由というのは、親族の不幸とかしか考えられないし、それだったら、私費でまかなうべき事由であり、まったく必要性がわからない。
中には、3万円どころか、7万円の支出もあったらしい。一般企業ならば、いくら大企業の役員でも決済がおりないタクシーチケット精算が、特別会計ではノーチェックに等しい扱いを受ける。
タクシーに乗り放題ということは、お抱え運転手がいるような者だ。その上、お抱え運転手からビールも飲ませてもらえる。昨今は、チンピラでもこんな生活はしていないと思う。一部の役人による、バブル野郎のような生活ぶりを、道路特定財源が支えているかと思うと、さすがにガソリン価格の高騰に不満がつのる。
それにしても、省庁がよくこんな資料を提出したものだ。正直に出すとも思わないので、もしかしたら、隠蔽を精一杯図った結果、改ざんされた数字がこの数字なのだろうか?
これ以上は改ざんできなくしても、これだけの数字がはじき出されてしまったのか?
何度も過去ブログで述べたが、俺は公務員や政治家や役人様全体に対しては、敬意を持っている。公務に一生懸命に従事しておられる方々のおかげで、俺たちの平和な暮らしがあると思っている。
ところが、一部の悪人には跋扈しやすい環境がそこにあるから良くない。公費と私費を混同する悪人にとって、資料改ざんや、収入を得るための大義名分を立てるのは容易い。その知恵を学ぶために、彼らは学歴を積んだのだから・・・。
この資料を今回、各省庁から提出させたこと、これは民主党の力だ。あっぱれである。
ただ、民主党全体としては、なんでもかんでもイチャモンありきの姿勢が、悲しいことに蔓延しているので、ここらで、強烈な資料開示と同時に、改善策もしっかり打ち出すべきだと思う。
改善策は簡単なことだ。タクシーチケット使用に関して、使用者と経路と料金などをPDFなどにして、一般閲覧できるようにしたらいいだけだ。
タクシーチケットを使用した奴が、次の日に、その報告書を打ち込み、一般にアップする。役人様の処理時間も、民間のサラリーマンの出張旅費精算と同じくらいの事務作業はあってしかるべきだ。
特別会計全体をなくせと言っているわけではない。何でもきれいごとだけではいかず、闇に処する金も必要なのはわかる。
ただ、役人の通勤旅費まで裏会計させる必要はない。使用した奴が使用した分を堂々と報告すればよい。公務で一生懸命残業した結果の精算なのだから、胸を張って公開してほしい。
彼らに一番必要なのは、第三者の目だ。いくら公務に忠実たろうとしても、第三者の目がないと、誰でもついつい使える特権は乱用してしまう可能性がある。彼らが浪費できる環境を無くしてあげることが、一番大切なことであり、無駄遣いが明るみに出た部門、項目から順次、一般公開を義務づけたらよいと思う。
彼らが悪いことが出来る環境をなくすことを考えずに、彼らの悪だけを追及するから、政治家はうさん臭いのだ。誰だって人間、楽な環境と使える特権があれば、タクシーチケットも使えば、接待も受ける可能性がある。
そのこと自体を追及しても、表層を変えただけの別の追及事案がすぐに出てくるだけだ。聖人はいない。聖人である必要もない。一部の役人の悪知恵には、政治家の悪知恵で、防止環境を作ってほしいものだ。
役人様が何人いるのかわからないが、どうやったら93億円分もタクシー乗れるねん!とつっこまざるをえない。そら、タクシー会社にしたら、役人様様で、タクシー接待したくなるのもわかる。
内訳を詳しく見ると、1回あたりの利用額平均は6000円台らしい。これは妥当な気もする。しかし、1回の利用で3万円を超えるタクシーチケットは、一般会計では全体の2割しかないのに対して、特別会計分では、全体の半数を超えているらしい。
道路特定財源などの特別会計のチェックが甘い、もしくはなされていないのが浮き彫りだ。
素朴な疑問だが、1回あたり3万円を超えるタクシー料金が必要な場合とはどんな場合なのだろう?
終電がなくなる時間まで役人様が何をしているかといえば、飲食している場合が多いとは思うが、それは今回目をつぶったとして、残業で終電時間を越えたとしよう。
その時に、3万円かかる距離の家に帰る必要があるだろうか? カプセルホテルとはいわず、綺麗なビジネスホテルに泊まっても1泊に3万円はかからない。3日分の宿代が出る。
それでもタクシーで帰らなければならない事由というのは、親族の不幸とかしか考えられないし、それだったら、私費でまかなうべき事由であり、まったく必要性がわからない。
中には、3万円どころか、7万円の支出もあったらしい。一般企業ならば、いくら大企業の役員でも決済がおりないタクシーチケット精算が、特別会計ではノーチェックに等しい扱いを受ける。
タクシーに乗り放題ということは、お抱え運転手がいるような者だ。その上、お抱え運転手からビールも飲ませてもらえる。昨今は、チンピラでもこんな生活はしていないと思う。一部の役人による、バブル野郎のような生活ぶりを、道路特定財源が支えているかと思うと、さすがにガソリン価格の高騰に不満がつのる。
それにしても、省庁がよくこんな資料を提出したものだ。正直に出すとも思わないので、もしかしたら、隠蔽を精一杯図った結果、改ざんされた数字がこの数字なのだろうか?
これ以上は改ざんできなくしても、これだけの数字がはじき出されてしまったのか?
何度も過去ブログで述べたが、俺は公務員や政治家や役人様全体に対しては、敬意を持っている。公務に一生懸命に従事しておられる方々のおかげで、俺たちの平和な暮らしがあると思っている。
ところが、一部の悪人には跋扈しやすい環境がそこにあるから良くない。公費と私費を混同する悪人にとって、資料改ざんや、収入を得るための大義名分を立てるのは容易い。その知恵を学ぶために、彼らは学歴を積んだのだから・・・。
この資料を今回、各省庁から提出させたこと、これは民主党の力だ。あっぱれである。
ただ、民主党全体としては、なんでもかんでもイチャモンありきの姿勢が、悲しいことに蔓延しているので、ここらで、強烈な資料開示と同時に、改善策もしっかり打ち出すべきだと思う。
改善策は簡単なことだ。タクシーチケット使用に関して、使用者と経路と料金などをPDFなどにして、一般閲覧できるようにしたらいいだけだ。
タクシーチケットを使用した奴が、次の日に、その報告書を打ち込み、一般にアップする。役人様の処理時間も、民間のサラリーマンの出張旅費精算と同じくらいの事務作業はあってしかるべきだ。
特別会計全体をなくせと言っているわけではない。何でもきれいごとだけではいかず、闇に処する金も必要なのはわかる。
ただ、役人の通勤旅費まで裏会計させる必要はない。使用した奴が使用した分を堂々と報告すればよい。公務で一生懸命残業した結果の精算なのだから、胸を張って公開してほしい。
彼らに一番必要なのは、第三者の目だ。いくら公務に忠実たろうとしても、第三者の目がないと、誰でもついつい使える特権は乱用してしまう可能性がある。彼らが浪費できる環境を無くしてあげることが、一番大切なことであり、無駄遣いが明るみに出た部門、項目から順次、一般公開を義務づけたらよいと思う。
彼らが悪いことが出来る環境をなくすことを考えずに、彼らの悪だけを追及するから、政治家はうさん臭いのだ。誰だって人間、楽な環境と使える特権があれば、タクシーチケットも使えば、接待も受ける可能性がある。
そのこと自体を追及しても、表層を変えただけの別の追及事案がすぐに出てくるだけだ。聖人はいない。聖人である必要もない。一部の役人の悪知恵には、政治家の悪知恵で、防止環境を作ってほしいものだ。
2008年8月3日日曜日
夏バテ対策と好臭改革
今日は全国的な猛暑日だったようで、猛暑地の常連、豊岡は38度だったとか・・。
いつも不思議に思うのだが、低温サウナに入っている時は快適で疲れがとれるような気がするのだが、どうして、部屋内の30度後半は不快なのだろうか? 疲れが取れるどころか、体を悪くしそうな暑さに感じる。
単なる時間の問題かとも思っていたのだが、40度ぐらいの低温サウナを療法として取り入れている施設では、80分くらい寝そべるらしい。俺自身も低温サウナで1時間くらい寝そべっていたことがあるが、快適そのものだった。
冷気にしてもそうだ。夏の26度は冷房になり、冬の26度は暖房になる。着こんでいる服の枚数だけの問題でもない気がする。 不思議だ。
とにかく暑い。夏バテしないためには、なんといってもスタミナがつくものを食べたい。
今日は餃子を食べた。昨日はニンニクを丸かじりした。臭ったら臭ったまでだ。
サッカーなどの世界大会で見る、韓国人のスタミナを考えると、どう考えてもニンニクがそのパワーの源だと思える。隣国であるにも関わらず、どうしてこうも臭い文化が違うのだろうか?
俺が昔から望んでいることがある。韓国人のようなキムチを中心としたニンニク摂取が日常の食文化が日本にも訪れないかということだ。みんながニンニクを食べていれば臭いを心配することもない。焼肉が広く普及した国内で、未だにニンニク臭が嫌われるのが残念でならない。
そのニンニクの臭いだが、俺がニンニクの臭いがどんな臭いかを、初めて知ったのは中1の時だ。
いつも月曜日になると臭い先生がいた。俺達はその先生に「マンデー臭男(くさお)」と渾名をつけていた。俺はその先生の臭いが何の臭いかわからなかった。
ある時友人に聞いた。「あの先生の臭いって、痰の臭い?」
俺は、その先生が痰づまりの人で、それが臭っているような気がしていて、なんだか結核病棟にいるような気持ち悪さを感じていた。それにしても月曜日しか臭わないのが不思議だった。
その時に友人が教えてくれた。「あの臭いがニンニクの臭いで、うちのおかんが、多分、先生は週末か日曜日に焼肉をたくさん食べはるのやって言ってたで。」
すごく嬉しい発見だった。その時から、俺は痰臭と思って忌み嫌っていた先生の近くに立ち寄ることを避けなくなった。 また、ニンニク自体の臭いが強烈であることも知った。
大人になってから、他人のニンニク臭を感じることは多々あるが、俺自身はあまり気にならなくなっている。むしろ、スタミナ臭を遠慮なく吐き出す人たちを、同士だと思い、親愛の情さえ抱く。
みんなが、ニンニク臭を恐れなくなった時、日本人のスタミナ値はレベルアップすると思う。その先駆けとして、喜んで、率先して臭いを撒き散らしていきたい。
スタミナだけが効能ではないのだろうが、酢もなかなか良いらしい。昔、嫁とアパートで2人暮らししていた時、俺は、酢が体にいいことを聞き、毎日飲むことを決めた。
筆ペンで白紙に「酢飲」と書き、居間の1番目立つところに貼った。
今でこそ、黒酢の飲料がコンビニでも売られているが、俺は時代の先を行っていた。
ミツカン酢のロックだ。毎日コップに半分、ミツカンを注ぎ、一気飲みする。
全身から馬力がみなぎってくるのがわかった。
ところが、嫁はこの臭いに強烈なダメだしをした。「近寄るな」の一言で、ニンニクに対しては大らかな嫁が、不快感を示した。
俺もうすうす気づいていた。飲んだ後、自分の体全体が、最初は「寿司太郎」みたいな匂いなのだが、徐々に小便臭に変わってくるのだ。
「人間やめますか? それとも 酢飲やめますか?」
俺は3日で酢飲を止めた。無念であった。
スタミナをつけるには、臭いとの戦いが必要だ。そのためには、日本人の鼻の改革が必要だ。日本人の臭いに対する好み改革を企む俺が、臭いにまいっていてはいけない。
今日からまた、酢飲を始めようかとも思っている。お猪口一杯くらいならいいだろう。
そんなことを考えてパソコンを開いたら、トップ画面に面白いものがあった。俺の好みにぴったりのものが開発されていたのだ。
http://www.suntory-kenko.com/yahoo/square/d/
気に入った。サントリー、贔屓にしようと思う。ドリンクでないのが不満だが、すごくタイムリーに目にした商品で、試してみようと思う。臭いは気にしない。
好臭改革だ!
いつも不思議に思うのだが、低温サウナに入っている時は快適で疲れがとれるような気がするのだが、どうして、部屋内の30度後半は不快なのだろうか? 疲れが取れるどころか、体を悪くしそうな暑さに感じる。
単なる時間の問題かとも思っていたのだが、40度ぐらいの低温サウナを療法として取り入れている施設では、80分くらい寝そべるらしい。俺自身も低温サウナで1時間くらい寝そべっていたことがあるが、快適そのものだった。
冷気にしてもそうだ。夏の26度は冷房になり、冬の26度は暖房になる。着こんでいる服の枚数だけの問題でもない気がする。 不思議だ。
とにかく暑い。夏バテしないためには、なんといってもスタミナがつくものを食べたい。
今日は餃子を食べた。昨日はニンニクを丸かじりした。臭ったら臭ったまでだ。
サッカーなどの世界大会で見る、韓国人のスタミナを考えると、どう考えてもニンニクがそのパワーの源だと思える。隣国であるにも関わらず、どうしてこうも臭い文化が違うのだろうか?
俺が昔から望んでいることがある。韓国人のようなキムチを中心としたニンニク摂取が日常の食文化が日本にも訪れないかということだ。みんながニンニクを食べていれば臭いを心配することもない。焼肉が広く普及した国内で、未だにニンニク臭が嫌われるのが残念でならない。
そのニンニクの臭いだが、俺がニンニクの臭いがどんな臭いかを、初めて知ったのは中1の時だ。
いつも月曜日になると臭い先生がいた。俺達はその先生に「マンデー臭男(くさお)」と渾名をつけていた。俺はその先生の臭いが何の臭いかわからなかった。
ある時友人に聞いた。「あの先生の臭いって、痰の臭い?」
俺は、その先生が痰づまりの人で、それが臭っているような気がしていて、なんだか結核病棟にいるような気持ち悪さを感じていた。それにしても月曜日しか臭わないのが不思議だった。
その時に友人が教えてくれた。「あの臭いがニンニクの臭いで、うちのおかんが、多分、先生は週末か日曜日に焼肉をたくさん食べはるのやって言ってたで。」
すごく嬉しい発見だった。その時から、俺は痰臭と思って忌み嫌っていた先生の近くに立ち寄ることを避けなくなった。 また、ニンニク自体の臭いが強烈であることも知った。
大人になってから、他人のニンニク臭を感じることは多々あるが、俺自身はあまり気にならなくなっている。むしろ、スタミナ臭を遠慮なく吐き出す人たちを、同士だと思い、親愛の情さえ抱く。
みんなが、ニンニク臭を恐れなくなった時、日本人のスタミナ値はレベルアップすると思う。その先駆けとして、喜んで、率先して臭いを撒き散らしていきたい。
スタミナだけが効能ではないのだろうが、酢もなかなか良いらしい。昔、嫁とアパートで2人暮らししていた時、俺は、酢が体にいいことを聞き、毎日飲むことを決めた。
筆ペンで白紙に「酢飲」と書き、居間の1番目立つところに貼った。
今でこそ、黒酢の飲料がコンビニでも売られているが、俺は時代の先を行っていた。
ミツカン酢のロックだ。毎日コップに半分、ミツカンを注ぎ、一気飲みする。
全身から馬力がみなぎってくるのがわかった。
ところが、嫁はこの臭いに強烈なダメだしをした。「近寄るな」の一言で、ニンニクに対しては大らかな嫁が、不快感を示した。
俺もうすうす気づいていた。飲んだ後、自分の体全体が、最初は「寿司太郎」みたいな匂いなのだが、徐々に小便臭に変わってくるのだ。
「人間やめますか? それとも 酢飲やめますか?」
俺は3日で酢飲を止めた。無念であった。
スタミナをつけるには、臭いとの戦いが必要だ。そのためには、日本人の鼻の改革が必要だ。日本人の臭いに対する好み改革を企む俺が、臭いにまいっていてはいけない。
今日からまた、酢飲を始めようかとも思っている。お猪口一杯くらいならいいだろう。
そんなことを考えてパソコンを開いたら、トップ画面に面白いものがあった。俺の好みにぴったりのものが開発されていたのだ。
http://www.suntory-kenko.com/yahoo/square/d/
気に入った。サントリー、贔屓にしようと思う。ドリンクでないのが不満だが、すごくタイムリーに目にした商品で、試してみようと思う。臭いは気にしない。
好臭改革だ!
2008年8月2日土曜日
火遊びの思い出
花火の季節だ。連日県内の各市町村主催の花火大会が行われ、夏の情緒を醸し出してくれる。
結婚したての頃、住んでいたアパートのすぐ横が河川敷であり、納涼花火を部屋からよく眺めたものだ。懐かしい思い出である。
この花火大会だが、俺は正直そんなに興味は持っていない。率先して行きたいとも思わない。重要な行事としてとらえていないので、たまたま見かけたら、「あ、花火だ。」と軽く感動するだけである。
元来、チックロマンな俺だが、花火にチックロマンを感じない。もちろん鎮霊の気持ちも抱かない。
花火大会の渋滞、花火大会になったら湧き出して張り切るチンピラに辟易することがその原因の1つだと思うが、それ以前に、やはり花火は自分でチャッカマンしないと面白くない。受動的に火薬の祭典を見ることよりも、能動的に火薬に触れたくなるのだ。
やはり、手持ち花火に限る。
とは言ったものの、線香花火を見て綺麗に思ったり、詩心を感じたりもしない。チックロマンのツボはとことんずれている。
手持ち花火を1本1本楽しむなんてこともしない。5本くらいまとめて火をつけ、一気にバチバチさせる。線香花火の子袋ごと火をつけて、怒られたこともある。
俺と手持ち花火をすると、減り方が激しいので、小学高学年になる頃には、家族も友達も俺を誘ってくれなくなった、苦い思いでもある。
1番好きな手持ち花火の処し方、それは、ロケット花火を手で持って人に向けて発射しあうやり方だ。友達と決闘するのだ。
大阪の枚方は牧野に住んでいた小学校2年生の頃、俺は昼間から友達とロケット花火を雪合戦のような処し方で着火しまくった。岩橋君という、クリーニング屋の息子と、駄菓子屋で爆竹とロケット花火だけを大量に買占め、重機置き場で暇さえあれば決闘した。
重機や土管のある空き地を、戦場に見立て、相手に気づかれないように近づく。相手が至近距離であれば爆竹を、遠い時はロケット花火をぶちまける。
爆竹にしても、ロケット花火にしても、着火してから手を離すタイミングが難しい。すぐに手を離すと、意図する方向に行ってくれないばかりか、時に自爆に繋がる。右手で着火し、左手で持ったまま爆発させたことも多数ある。俺の左手には、当時の傷がまだある。
最も熱中した遊びであったが、案の定というか、事件が起きた。
俺が着火したロケット花火が、岩橋君の額に命中してしまったことがある。彼は泣き出し、戦闘は中止になった。戦勝の俺ではあったが、戦後処理は敗戦扱いだった。
岩橋君の両親に呼びつけられ、思いっきりしばかれた。花火を買うお金をお互いに親からくすねていたことも原因であり、岩橋君の両親は、わが子と俺を両方しばきあげた。
「目に当たっていたら取り返しがつかない。」やら、「盗人にお前を産んだ覚えはない」やら言われて、3時間くらい、正座して、色んな角度からビンタをくらった。
岩橋君のおでこは、火傷でただれ、こぶもできていた。ところが、不思議と怪我をさせたことに、申し訳ない気持ちはわかなかった。
俺も彼のミサイルを首と額に食らっていたからだ。俺の首と額には焦げ痕が一時残ったが、こぶもできず、今、跡形もない。岩橋君がひ弱すぎたのだ。
今から思えば、決してキッズにさせてはいけない遊びである。怪我に対する想像力がなかった時分に、すれすれの遊びをして、今無事でいられることを神様に感謝せずにはおれない。
花火、爆竹が好きだった俺だが、突き詰めて考えたら、火遊び全般が好きだったのだと思う。
九州の祖父の家は、五右衛門風呂だった。風呂を沸かす作業を嫌がる孫の中で、俺だけが率先して毎日火をくべた。新聞紙を丸めたものから徐々に木に火が着くまでの過程が何より楽しかった。
大人になると、なかなか火遊びはする機会がない。火遊びは別の意味合いを持ってしまう。モナモナっとした関係だ。俺はモワモワっとした煙と、手に染み付いた火薬の残り香、服についた焦げた臭いが好きで火遊びをしたいだけだ。
爆発音も好きだ。ポン菓子が出来上がる瞬間の爆発音にも興奮する。俺のDNAは何を欲しているのだろうか?
鉄砲伝来以来の歴史がある日本の花火であるが、最近は戦死者への鎮霊要素が強いものが多いみたいだ。
綺麗な花火の文様を見て、爆発音を聞いて、火薬臭を嗅ぐ。遺族に思いをはせる人、恋人に思いをはせる人、幼少の遊びに思いをはせる人、色んな思いをのせて、今日も花火が空を彩る。
暑さだけではない夏模様が本格化しだした。夏の記憶をたどるには、花火が、か~ぎ~や~。
結婚したての頃、住んでいたアパートのすぐ横が河川敷であり、納涼花火を部屋からよく眺めたものだ。懐かしい思い出である。
この花火大会だが、俺は正直そんなに興味は持っていない。率先して行きたいとも思わない。重要な行事としてとらえていないので、たまたま見かけたら、「あ、花火だ。」と軽く感動するだけである。
元来、チックロマンな俺だが、花火にチックロマンを感じない。もちろん鎮霊の気持ちも抱かない。
花火大会の渋滞、花火大会になったら湧き出して張り切るチンピラに辟易することがその原因の1つだと思うが、それ以前に、やはり花火は自分でチャッカマンしないと面白くない。受動的に火薬の祭典を見ることよりも、能動的に火薬に触れたくなるのだ。
やはり、手持ち花火に限る。
とは言ったものの、線香花火を見て綺麗に思ったり、詩心を感じたりもしない。チックロマンのツボはとことんずれている。
手持ち花火を1本1本楽しむなんてこともしない。5本くらいまとめて火をつけ、一気にバチバチさせる。線香花火の子袋ごと火をつけて、怒られたこともある。
俺と手持ち花火をすると、減り方が激しいので、小学高学年になる頃には、家族も友達も俺を誘ってくれなくなった、苦い思いでもある。
1番好きな手持ち花火の処し方、それは、ロケット花火を手で持って人に向けて発射しあうやり方だ。友達と決闘するのだ。
大阪の枚方は牧野に住んでいた小学校2年生の頃、俺は昼間から友達とロケット花火を雪合戦のような処し方で着火しまくった。岩橋君という、クリーニング屋の息子と、駄菓子屋で爆竹とロケット花火だけを大量に買占め、重機置き場で暇さえあれば決闘した。
重機や土管のある空き地を、戦場に見立て、相手に気づかれないように近づく。相手が至近距離であれば爆竹を、遠い時はロケット花火をぶちまける。
爆竹にしても、ロケット花火にしても、着火してから手を離すタイミングが難しい。すぐに手を離すと、意図する方向に行ってくれないばかりか、時に自爆に繋がる。右手で着火し、左手で持ったまま爆発させたことも多数ある。俺の左手には、当時の傷がまだある。
最も熱中した遊びであったが、案の定というか、事件が起きた。
俺が着火したロケット花火が、岩橋君の額に命中してしまったことがある。彼は泣き出し、戦闘は中止になった。戦勝の俺ではあったが、戦後処理は敗戦扱いだった。
岩橋君の両親に呼びつけられ、思いっきりしばかれた。花火を買うお金をお互いに親からくすねていたことも原因であり、岩橋君の両親は、わが子と俺を両方しばきあげた。
「目に当たっていたら取り返しがつかない。」やら、「盗人にお前を産んだ覚えはない」やら言われて、3時間くらい、正座して、色んな角度からビンタをくらった。
岩橋君のおでこは、火傷でただれ、こぶもできていた。ところが、不思議と怪我をさせたことに、申し訳ない気持ちはわかなかった。
俺も彼のミサイルを首と額に食らっていたからだ。俺の首と額には焦げ痕が一時残ったが、こぶもできず、今、跡形もない。岩橋君がひ弱すぎたのだ。
今から思えば、決してキッズにさせてはいけない遊びである。怪我に対する想像力がなかった時分に、すれすれの遊びをして、今無事でいられることを神様に感謝せずにはおれない。
花火、爆竹が好きだった俺だが、突き詰めて考えたら、火遊び全般が好きだったのだと思う。
九州の祖父の家は、五右衛門風呂だった。風呂を沸かす作業を嫌がる孫の中で、俺だけが率先して毎日火をくべた。新聞紙を丸めたものから徐々に木に火が着くまでの過程が何より楽しかった。
大人になると、なかなか火遊びはする機会がない。火遊びは別の意味合いを持ってしまう。モナモナっとした関係だ。俺はモワモワっとした煙と、手に染み付いた火薬の残り香、服についた焦げた臭いが好きで火遊びをしたいだけだ。
爆発音も好きだ。ポン菓子が出来上がる瞬間の爆発音にも興奮する。俺のDNAは何を欲しているのだろうか?
鉄砲伝来以来の歴史がある日本の花火であるが、最近は戦死者への鎮霊要素が強いものが多いみたいだ。
綺麗な花火の文様を見て、爆発音を聞いて、火薬臭を嗅ぐ。遺族に思いをはせる人、恋人に思いをはせる人、幼少の遊びに思いをはせる人、色んな思いをのせて、今日も花火が空を彩る。
暑さだけではない夏模様が本格化しだした。夏の記憶をたどるには、花火が、か~ぎ~や~。
2008年8月1日金曜日
連帯責任
甲子園出場が決まった代表校の野球部員の不祥事があった。
高校野球児による不祥事といえば、喫煙、暴行、窃盗の3本柱であったが、今回は強姦だそうだ。
ベンチ入りメンバーではないこともあり、野球部は甲子園への出場辞退はしないとのこと。
学校のトップが決めたことだから、それがその高校の校風であり、外野が是非をどうこういうことではない。
喫煙で出場辞退する高校もあれば、強姦でも出場辞退しない高校もある。これらを当事者で無い有識者ごときが裁く場ではない気がする。学校の教育理念が事後処置の決定にリンクするだけである。一般的な裁きは高校進学を控えている生徒、保護者の判断に任すだけでよいと思う。
その学校を進学先として選定する際の尺度に、間違いなく今回の不祥事も入るであろうから、その学校が数年先も存在するか、淘汰されるかといった、時間だけが今回の処置を裁き、風化させてくれるだろう。
もし、会社の1社員が不祥事を起こした場合(不祥事の種類にもよるが)、会社はその社員を懲戒解雇するが、辞めてもらったからといって、単なる個人の事件で済むかというとそうではない場合が多い。少なからず会社のイメージ自体にも影響は与える。
ある特定の集団には、多少なりとも連帯の責任があり、それから逃げられない。1人が不祥事を起こすと、集団全体に悪いイメージが残ること、それは仕方ない。
だから、高校野球の不祥事に際して、「社会の中での個人の責任を体感させるためには、出場辞退というのが正しい選択である。」という有識者もいる。
たしかに、一理あるとも思う。甲子園に出られなかったからといって、命をとられるわけでもないし、悔しさを通して学べることの大きさの方が、後の彼らの人生にとっては、意味のあることのようにも思える。連帯責任を若いうちから体感させることが有益な面は否めない。
ただ、連帯責任というものをあらゆる事例に当てはめる必要はないと俺は思う。連帯すべき不祥事と、連帯とは関係ない不祥事があると思う。
不祥事を起こした個人を抱えた集団への連帯責任が必要な事例というのは、部室内での集団喫煙などの場合だ。これは、レギュラーであるなしの関係はなく、吸ったほうも、吸わないにしろ見ていたほうも、確かに悪い。連帯で責任をとるべきだろう。
大人の社会でも、飲酒運転をする人とそれを知っていた人とが両成敗を食らうのと同じだ。
一方、連帯責任がない事例というのは、今回のような強姦といった凶悪犯罪を個人が起こした場合だ。この場合にはむしろ、不祥事を起こした個人を抱えてしまった集団への憐憫の情を周囲が持ってあげるべきだと思う。連帯対象になるものではないと思う。
未成年者の喫煙と強姦、両者の差は大きい。誰しもが陥る可能性がある犯罪か、一部の人間ではない化け物しか犯さない犯罪かの差だ。
連帯責任というのは、個人の罪を集団みんなの責任としてとらえ、再発を防止するために集団で努力しようとするものであり、当然のことながら、人間が犯す可能性のある罪全般があてはまる。
ところが、強姦なんかは人間の所為ではない。化け物のなせる所為だ。秋葉原事件を犯した化け物の予備軍的な族であり、人間は化け物退治をすることだけが必要だ。化け物は迅速に埋立地にでも捨てれば良い。人権は人間にあるもので、化け物にまで権利を認めるほど人間は寛大ではない。
だから、今回の不祥事を起こした高校側の処置、俺は妥当だと思う。どういう思想で処置を決めたかはわからないが、辞退しなかったというのは、よかったと思っている。
マスコミはすぐに、化け物を抱えた集団への批判を興味本位で加えるが、相手は化け物であって人間ではないことをしっかり理解して、化け物に忌諱の念だけを持っていれば、集団に負の影響は与えないと思う。 忌み嫌う相手を見極めて欲しい。桐生第一高校を今回は弁護したい気持ちでいる。
内閣改造組閣がなされるが、ポストに就く人、去る人には連帯責任をもう少し持ってもらいたい。彼らは個人が犯した罪を、別の集団になすりつけるから、性質が悪い。内閣は内閣で、国会は国会で、社会保険庁は社会保険庁で、集団ごとに連帯責任を負ってほしいものだ。負える大きさの責任ではないけれど・・・。
高校野球児による不祥事といえば、喫煙、暴行、窃盗の3本柱であったが、今回は強姦だそうだ。
ベンチ入りメンバーではないこともあり、野球部は甲子園への出場辞退はしないとのこと。
学校のトップが決めたことだから、それがその高校の校風であり、外野が是非をどうこういうことではない。
喫煙で出場辞退する高校もあれば、強姦でも出場辞退しない高校もある。これらを当事者で無い有識者ごときが裁く場ではない気がする。学校の教育理念が事後処置の決定にリンクするだけである。一般的な裁きは高校進学を控えている生徒、保護者の判断に任すだけでよいと思う。
その学校を進学先として選定する際の尺度に、間違いなく今回の不祥事も入るであろうから、その学校が数年先も存在するか、淘汰されるかといった、時間だけが今回の処置を裁き、風化させてくれるだろう。
もし、会社の1社員が不祥事を起こした場合(不祥事の種類にもよるが)、会社はその社員を懲戒解雇するが、辞めてもらったからといって、単なる個人の事件で済むかというとそうではない場合が多い。少なからず会社のイメージ自体にも影響は与える。
ある特定の集団には、多少なりとも連帯の責任があり、それから逃げられない。1人が不祥事を起こすと、集団全体に悪いイメージが残ること、それは仕方ない。
だから、高校野球の不祥事に際して、「社会の中での個人の責任を体感させるためには、出場辞退というのが正しい選択である。」という有識者もいる。
たしかに、一理あるとも思う。甲子園に出られなかったからといって、命をとられるわけでもないし、悔しさを通して学べることの大きさの方が、後の彼らの人生にとっては、意味のあることのようにも思える。連帯責任を若いうちから体感させることが有益な面は否めない。
ただ、連帯責任というものをあらゆる事例に当てはめる必要はないと俺は思う。連帯すべき不祥事と、連帯とは関係ない不祥事があると思う。
不祥事を起こした個人を抱えた集団への連帯責任が必要な事例というのは、部室内での集団喫煙などの場合だ。これは、レギュラーであるなしの関係はなく、吸ったほうも、吸わないにしろ見ていたほうも、確かに悪い。連帯で責任をとるべきだろう。
大人の社会でも、飲酒運転をする人とそれを知っていた人とが両成敗を食らうのと同じだ。
一方、連帯責任がない事例というのは、今回のような強姦といった凶悪犯罪を個人が起こした場合だ。この場合にはむしろ、不祥事を起こした個人を抱えてしまった集団への憐憫の情を周囲が持ってあげるべきだと思う。連帯対象になるものではないと思う。
未成年者の喫煙と強姦、両者の差は大きい。誰しもが陥る可能性がある犯罪か、一部の人間ではない化け物しか犯さない犯罪かの差だ。
連帯責任というのは、個人の罪を集団みんなの責任としてとらえ、再発を防止するために集団で努力しようとするものであり、当然のことながら、人間が犯す可能性のある罪全般があてはまる。
ところが、強姦なんかは人間の所為ではない。化け物のなせる所為だ。秋葉原事件を犯した化け物の予備軍的な族であり、人間は化け物退治をすることだけが必要だ。化け物は迅速に埋立地にでも捨てれば良い。人権は人間にあるもので、化け物にまで権利を認めるほど人間は寛大ではない。
だから、今回の不祥事を起こした高校側の処置、俺は妥当だと思う。どういう思想で処置を決めたかはわからないが、辞退しなかったというのは、よかったと思っている。
マスコミはすぐに、化け物を抱えた集団への批判を興味本位で加えるが、相手は化け物であって人間ではないことをしっかり理解して、化け物に忌諱の念だけを持っていれば、集団に負の影響は与えないと思う。 忌み嫌う相手を見極めて欲しい。桐生第一高校を今回は弁護したい気持ちでいる。
内閣改造組閣がなされるが、ポストに就く人、去る人には連帯責任をもう少し持ってもらいたい。彼らは個人が犯した罪を、別の集団になすりつけるから、性質が悪い。内閣は内閣で、国会は国会で、社会保険庁は社会保険庁で、集団ごとに連帯責任を負ってほしいものだ。負える大きさの責任ではないけれど・・・。
登録:
投稿 (Atom)