一部の方には伝えていたのだが、我が家で昨年10月末に待望の懐妊があった。ちょうど、緑内障の手術を終え、退院する前日の懐妊診断だった。バイオリズムは、俺の目の手術が底だったのだろう。神様は粋な計らいをなされると思った。
結婚13年目半ばで初の懐妊であり、お医者様からそれを告げられた時の喜びは尋常ではなかった。自分が今見ている、全ての色が、一瞬にして塗り替えられたかのような、新しいステージを発見したような興奮に包まれた。
何と形容していいかわからなかったので、俺はずっと、ムフフな心境として気持ちをぼかして、ブログでも書いていたのだが、ほんと、ムフフなのだ。
初めてわが子の写真を見たとき、たった3センチしかなかったのだが、その写真を見る度に泣けてきた。単なる嬉し泣きとも違うのだが、狂おしく愛しくてたまらなかった。
たった3センチ、しかもまだ胎内だというのに、大人に喜びと新しいステージをくれる、新しい生命の偉大さを思い知り、身震いすら覚えた。
ムフフな感情は、涙と希望と責任感を俺に与えてくれた。
でも、その後、無事に生まれてくれるか、長い10ヶ月の胎内生活を思うと、得体の知れない不安感にも包まれた。
毎回の定期検診は、我が家にとって、神様の裁きを受けるような気分だった。
だが、今のところ幸いにして、順調に発育してくれていて、今日は検診だったのだが、種々の検査結果も全て安心できるもので、鼓動も聞こえたらしい。胎内で万歳して寝ていた我が子の写真は、いまいち形が分かりにくいが、感動のメーターを吹っ切るのには十分だった。
予定日は7月25日だ。まだ5ヶ月もある。でも、これから後は、1つの新しい命が誕生を欲するか、欲しないか、我が子の生命力に敬意を表して、あまり過度な心配はしないでおこうと思う。何があっても運命として受け止められる心境に、今の俺はなりつつある。
40前の大人を教育してくれるのだから、胎内のわが子に感謝である。
懐妊に際して、そしてこれから来てくれるであろう出産、そして子育て・・・、新しい命に対して、つくづく男は無力だな~とも思った。
懐妊までが長くて、一般的には辛い苦悩もあったのかもしれないが、それを味わったからこそわかる境地もある。
今、こうして子供を授かった(まだ胎内だが)けれども、子供が出来なければ出来ないで、結婚していなければいないで、全ての立場を、肯定して受け入れられる境地になっている。
全てはやはり、運命なのであり、子供を授かる運命にあるならば、その立場で生きるし、出来なければ出来ないで、その立場で生きる。どの立場でも、それに意義を持って、他人を妬まず、羨ましがらず、自分の今に誇りを持って生きていけるような強さを、俺は結婚後13年間で培った気がする。
懐妊があったから言えるのかもしれないが、子供を授からなければ授からないだけの、素晴らしい生き方がある。
今俺は、授かった身、嫁を見ていて人間的に強くなったというか、たくましい側面を初めて見ている。俺もパパになる運命ならば、その立場として精進したい。
どんな事態が来ても、いつもムフフで、決してトホホにはなりたくないと思っている。
2009年2月10日火曜日
定番とスポット
お菓子好きの俺である。中でもポテトチップスの新味、季節限定物は、定期的にチェックする。最近は、カルビーの「しょうゆマヨ」味を贔屓にしている。
天下のカルビーのこと、新発売の商品は、やはり美味しい。大きく外さず、仮に不慣れな味であっても、またもう1度食べてみようという気にさせる。
だが、一時的に種々の新商品、色物に走ったとしても、ある時期が来たら、塩味、コンソメ味に戻りたくなる。
インスタントラーメン好きの俺である。結婚してからはあまり食べさせてもらえないのだが、それでも、小遣いで買ってでも食べる。コンビニでさえ、あらゆる種類の即席めんに目が眩む。新商品チョイスに悩み悩んで、優先順位を決め網羅する。
だが、一時期、新商品、色物に走ったとしても、ある時期が来たら、カップめんなら日清カップヌードル、シーフードヌードル、鍋で調理?するものならば、サッポロ1番の味噌か塩に戻る。
インスタントヤキソバならUFO,缶ビールならエビスか黒ラベル、蚊取り線香なら金鳥、マヨネーズはQP・・・、「定番」(個人的、一般的、多少のずれはあるが)に戻るサイクルがある。
この「定番」になり得る商品、素材、味覚・・・のすごさをいつも感じる。
コンビニの陳列棚を見ると、毎週のように新商品が大幅な売り場を占めるが、その多くは売り切りで短い命を終える。セミほど鳴ければよいが、鳴かず飛ばずで叩き売りの末路を辿る商品も多い。
アイテム数の多さでは、定番をはるかにしのぐスポット商品が、束になってかかっても、定番には定番の貫禄と、実数の需要がある。
この差は何なのだろうか?
定番の中には、早いもの勝ちというか、人間の普遍的な嗜好を商品として1番早く供したからゆえに、帝王の位置を占めるものが多い。
芋には塩をかけるのが1番普遍的であったのだろう、その普遍性を乾燥芋に応用して商品化した、カルビーポテトチップスの塩が、やはり1番偉い。(最初という点で、湖池屋の方が早いのかどうかの考証は無視させていただく)。
しかし、所属するジャンルに後発ながら、いまや定番になった商品もある。ポテトチップスのコンソメ、日清カップヌードルのシーフードがこの部類に属する。
これらの後発商品は、発売段階においては、色物的要素があったはずだ。消費者にとっても、単なる一新商品に過ぎなかったはずである。
だが、これらの商品は、消費者の味覚の価値観を覆し、彼らに新たな味わいを提供して、後の定番となった。その過程で、消費者に対して創造と教育を施しながら、徐々に定番の冠を得るようにっている。
そして、後発組ながら、後に定番商品となる商品が初めて市場にお目見えしたときには、それは旋風を巻き起こす。時には世相を巻き込んだムーブメントとなり、市井に大きな風を吹かす。発売元にとっては、神風ともいうべき現象を巻き起こす。
俺は定番フォロワーである。また、定番にはなれないものの、隙間を細く長く埋める商品も好きである。そういった商品は、売り場は限定されるものの、慈しむ機会は持てる。
ところが、製造中止となってしまった商品に関しては、いくら自分が求めたところで、手に入らない事態が多い。
だから、食品以外に関しては、一部のコレクターによって、コレクターアイテムとして、高値でマニア売買されることもある。
そこで、ふと思ったのだが、音楽にある定番というものに対して、俺はどう関わっているのだろうか?
色んな筋の定番がいて、俺の好きな筋では、ビートルズ、ツェッペリン、ストーンズ、ニール・ヤング、ボブ・マーリー、J・Bがいる。
その一方で、これらの定番に対してたくさんのスポット商品(音源を商品として、陳腐に括った場合だ)がある。
音楽以外の商品に対しては、俺は定番のみでも満足出来るのだが、音楽に関しては、俺は定番以外のスポット商品に対して、異常な興奮と衝撃を受ける事例が多い。
俺の敬愛するミュージシャンが、商業的にはスポットで終わる事態は多い。
ところが、そのスポットの中に、とてつもなく好きな音楽が多い俺にしてみれば、定番になれなかった彼らの音源を手に入れて、それに触れることがたまらなく幸せである。
定番とスポット、両者の立場を分けるものは一体何なのだろうか、また、音楽だけは個人的に、どうしてかくもスポットに良さを感じるのだろうか?単なる好き嫌いの問題だろうか?
ふとした思案を定番の乱文に載せ、今日というスポットでアップする。思案は続く。
天下のカルビーのこと、新発売の商品は、やはり美味しい。大きく外さず、仮に不慣れな味であっても、またもう1度食べてみようという気にさせる。
だが、一時的に種々の新商品、色物に走ったとしても、ある時期が来たら、塩味、コンソメ味に戻りたくなる。
インスタントラーメン好きの俺である。結婚してからはあまり食べさせてもらえないのだが、それでも、小遣いで買ってでも食べる。コンビニでさえ、あらゆる種類の即席めんに目が眩む。新商品チョイスに悩み悩んで、優先順位を決め網羅する。
だが、一時期、新商品、色物に走ったとしても、ある時期が来たら、カップめんなら日清カップヌードル、シーフードヌードル、鍋で調理?するものならば、サッポロ1番の味噌か塩に戻る。
インスタントヤキソバならUFO,缶ビールならエビスか黒ラベル、蚊取り線香なら金鳥、マヨネーズはQP・・・、「定番」(個人的、一般的、多少のずれはあるが)に戻るサイクルがある。
この「定番」になり得る商品、素材、味覚・・・のすごさをいつも感じる。
コンビニの陳列棚を見ると、毎週のように新商品が大幅な売り場を占めるが、その多くは売り切りで短い命を終える。セミほど鳴ければよいが、鳴かず飛ばずで叩き売りの末路を辿る商品も多い。
アイテム数の多さでは、定番をはるかにしのぐスポット商品が、束になってかかっても、定番には定番の貫禄と、実数の需要がある。
この差は何なのだろうか?
定番の中には、早いもの勝ちというか、人間の普遍的な嗜好を商品として1番早く供したからゆえに、帝王の位置を占めるものが多い。
芋には塩をかけるのが1番普遍的であったのだろう、その普遍性を乾燥芋に応用して商品化した、カルビーポテトチップスの塩が、やはり1番偉い。(最初という点で、湖池屋の方が早いのかどうかの考証は無視させていただく)。
しかし、所属するジャンルに後発ながら、いまや定番になった商品もある。ポテトチップスのコンソメ、日清カップヌードルのシーフードがこの部類に属する。
これらの後発商品は、発売段階においては、色物的要素があったはずだ。消費者にとっても、単なる一新商品に過ぎなかったはずである。
だが、これらの商品は、消費者の味覚の価値観を覆し、彼らに新たな味わいを提供して、後の定番となった。その過程で、消費者に対して創造と教育を施しながら、徐々に定番の冠を得るようにっている。
そして、後発組ながら、後に定番商品となる商品が初めて市場にお目見えしたときには、それは旋風を巻き起こす。時には世相を巻き込んだムーブメントとなり、市井に大きな風を吹かす。発売元にとっては、神風ともいうべき現象を巻き起こす。
俺は定番フォロワーである。また、定番にはなれないものの、隙間を細く長く埋める商品も好きである。そういった商品は、売り場は限定されるものの、慈しむ機会は持てる。
ところが、製造中止となってしまった商品に関しては、いくら自分が求めたところで、手に入らない事態が多い。
だから、食品以外に関しては、一部のコレクターによって、コレクターアイテムとして、高値でマニア売買されることもある。
そこで、ふと思ったのだが、音楽にある定番というものに対して、俺はどう関わっているのだろうか?
色んな筋の定番がいて、俺の好きな筋では、ビートルズ、ツェッペリン、ストーンズ、ニール・ヤング、ボブ・マーリー、J・Bがいる。
その一方で、これらの定番に対してたくさんのスポット商品(音源を商品として、陳腐に括った場合だ)がある。
音楽以外の商品に対しては、俺は定番のみでも満足出来るのだが、音楽に関しては、俺は定番以外のスポット商品に対して、異常な興奮と衝撃を受ける事例が多い。
俺の敬愛するミュージシャンが、商業的にはスポットで終わる事態は多い。
ところが、そのスポットの中に、とてつもなく好きな音楽が多い俺にしてみれば、定番になれなかった彼らの音源を手に入れて、それに触れることがたまらなく幸せである。
定番とスポット、両者の立場を分けるものは一体何なのだろうか、また、音楽だけは個人的に、どうしてかくもスポットに良さを感じるのだろうか?単なる好き嫌いの問題だろうか?
ふとした思案を定番の乱文に載せ、今日というスポットでアップする。思案は続く。
2009年2月9日月曜日
受験指導に対する自己矛盾
県内公立高校推薦入試が、来る火曜日にある。塾という仕事の性質上、この選抜システムに向けて、面接、作文練習をする。
予想される質問、小論課題を事前に与え、それに対して準備をさせた上で、模擬面接、作文添削をする。前塾でもずっと、作文添削、面接練習の、最終ご意見番は俺が担う。これは、傲慢なようだが、適任であるとも思う。
生徒達の面接返答を聞いていたり、作文を見ていたりして、感動することはない。いつも個人的な情として、感情や敬服感を得る生徒でも、この面接、作文においては、どうも均一化で、その子なりの個性を感じない。
台本が事前に準備されていて、それに対して忠実たろうとする子供たちの姿勢は清い。だが、自分の言葉として、聞き手に響く何かを持った子は少ない。ほんと少ない。
でも、それが悪いとは思わない。高校入試における推薦入学者選考というのは、決して個性や適正を重視したものではなく、無難なものが求められるのは必然だからと知っているからだ。
没個性で大いに結構、求められるのは個性ではなく、画一化された、フォーマットに適する生徒像であり、無難に試験官との時間をやり過ごしたものから優先に、合格切符を与えられる場が、高校推薦入試の場であると思うからだ。
色を消して、組織に同化する、一般的な社会縮図のミニチュアとも思える、この推薦選抜システムは、大人、俺の価値観からしたら、すごくくだらない選抜システムであり、いっそのこと、数字だけで評価される一般入試の方が、なんぼか潔いシステムに思えるのだが、それでも、この指導に臨むに際して親身でありたいと思う。
でも、親身でありたいと思うこちらに求められるスタンスは、すごく葛藤がある。
没個性で、優等生的な発言台本を用意してあげるべく、指導するのが、塾という立場上は不可欠な姿勢である。時に、殺し文句的なテクニックを用意してあげることは必要であるが、それも、奇抜を排した中でのぎりぎりの苦策だ。
でも、心にもないことを入れ知恵して言わせて、模擬練習で、それに対して合格サインを出す自分に凹むことがある。
中学生の子供たちにとって、「志望理由」「最近のニュースで気になったこと」なんかを答えさせる、この推薦入試システム自体が、時に残酷にも思える。
14、5歳のキッズが、どうしてもその学校でなくてはならない理由は、本質的な意味ではないと思う。「1番偏差値が高いから。」「周りが進めるから」「部活が活発だから」という、3つくらいの意思表示だと思う。
志望校に対してこだわりがある生徒にしても、その学校でなくてはならないと思う動機の根源を本気で答えたら、「憧れの先輩が行っているから。」とか、「1番偏差値が高いから」、「周囲が薦めるから」、そして「なんとなく」といった理由ぐらいだと思う。
でも、この本当の動機を言えなくさせるのが、この推薦入試という場なのだ。
「私は、~~高校の先輩方を見ていて、何事にも全力で取り組む素晴らしさを感じました。私の夢は、~~になることです。その夢を叶えるためには、この学校に入ることが1番だと思いましたので志望しました。」といった志望動機が、強要されるのが現状だ。どうやって選抜する方も、彼らに判断基準を化すのだろうか?
「家から近かったから。」「好きな先輩が行っていたから」「受かりそうな気がしたから」等が、本心だと思うのだが、それでは推薦入試は成り立たない。
音楽科とか、調理科といった、特殊なコースへの推薦入試はわかるのだが、普通科の推薦入試に、その学校でなきゃならない必然性なんか、あるならばその理由を聞いてみたいくらいだ。中学生の時点で、その必然感を持つ子がいないわけではないが、そんな殊勝な子は、一般入試で楽勝で受かるのが現況だ。
中学生において、進路決定なんていうのは、ミーでハーなものであって当然だと思う。ただ、将来の漠然として希望に向けて、幹線、バイパス、どちらの進路をとるかを選ぶだけの機会に、彼らなりに真剣であることだけを求められるものであると思う。
理想論と現実がずれているのは世の常だが、キッズに、推薦面接用、作文用の模範解答という名のレトリックを指導することに対して、俺は良心の呵責がある。
でも、精一杯のキッズ用レトリックを用意する自分がいる。
塾で働いているが、本当にその子の事を思うならば、受験に失敗して、志望校以外の学校に進学することが良いと思える子がたくさんいる。でもそれは立場上、言えない。
仮面をかぶって指導しながら、俺がかろうじて良心を保っていられるのは、お世辞を言わないこと、一般的偏差値の尺度を彼らの個別数値の変動に換算しなおすこと、個人的な価値観を強要しないことを実践することくらいである。
受験システムを俺は大肯定する立場だ。篩いにかけられることも大切だ。詰め込み教育も全て歓迎だ。
でも、せっかくのこのテスト選抜システムを、大人のエゴや、まやかしを教える場にしたくはないとも思っている。
しょせん、ビジネスの場で知り合った人の子だ。センチメンタル、独りよがりな感情移入をしているつもりもない。ただ、彼らと接する時に、自分の価値観、社会システム、個人的な情、という3つのベクトルの中で、その指針を合わせることに、非常に悩むことがある。
塾業界で仕事をしてきて、合格という成績に関しては、非常に高い実績を残してきたと数値的にも実感的にも思う。でも、その過程でキッズと関わった俺の姿勢がよいのかどうかは、非常に難しい。
といっても、しょせんは、人の子、良い意味での無責任でいるつもりなのだが、悩んで、その悩みに高尚さを求め、酔ってみたい時もある。水洗便所に流したい自己矛盾だ。
予想される質問、小論課題を事前に与え、それに対して準備をさせた上で、模擬面接、作文添削をする。前塾でもずっと、作文添削、面接練習の、最終ご意見番は俺が担う。これは、傲慢なようだが、適任であるとも思う。
生徒達の面接返答を聞いていたり、作文を見ていたりして、感動することはない。いつも個人的な情として、感情や敬服感を得る生徒でも、この面接、作文においては、どうも均一化で、その子なりの個性を感じない。
台本が事前に準備されていて、それに対して忠実たろうとする子供たちの姿勢は清い。だが、自分の言葉として、聞き手に響く何かを持った子は少ない。ほんと少ない。
でも、それが悪いとは思わない。高校入試における推薦入学者選考というのは、決して個性や適正を重視したものではなく、無難なものが求められるのは必然だからと知っているからだ。
没個性で大いに結構、求められるのは個性ではなく、画一化された、フォーマットに適する生徒像であり、無難に試験官との時間をやり過ごしたものから優先に、合格切符を与えられる場が、高校推薦入試の場であると思うからだ。
色を消して、組織に同化する、一般的な社会縮図のミニチュアとも思える、この推薦選抜システムは、大人、俺の価値観からしたら、すごくくだらない選抜システムであり、いっそのこと、数字だけで評価される一般入試の方が、なんぼか潔いシステムに思えるのだが、それでも、この指導に臨むに際して親身でありたいと思う。
でも、親身でありたいと思うこちらに求められるスタンスは、すごく葛藤がある。
没個性で、優等生的な発言台本を用意してあげるべく、指導するのが、塾という立場上は不可欠な姿勢である。時に、殺し文句的なテクニックを用意してあげることは必要であるが、それも、奇抜を排した中でのぎりぎりの苦策だ。
でも、心にもないことを入れ知恵して言わせて、模擬練習で、それに対して合格サインを出す自分に凹むことがある。
中学生の子供たちにとって、「志望理由」「最近のニュースで気になったこと」なんかを答えさせる、この推薦入試システム自体が、時に残酷にも思える。
14、5歳のキッズが、どうしてもその学校でなくてはならない理由は、本質的な意味ではないと思う。「1番偏差値が高いから。」「周りが進めるから」「部活が活発だから」という、3つくらいの意思表示だと思う。
志望校に対してこだわりがある生徒にしても、その学校でなくてはならないと思う動機の根源を本気で答えたら、「憧れの先輩が行っているから。」とか、「1番偏差値が高いから」、「周囲が薦めるから」、そして「なんとなく」といった理由ぐらいだと思う。
でも、この本当の動機を言えなくさせるのが、この推薦入試という場なのだ。
「私は、~~高校の先輩方を見ていて、何事にも全力で取り組む素晴らしさを感じました。私の夢は、~~になることです。その夢を叶えるためには、この学校に入ることが1番だと思いましたので志望しました。」といった志望動機が、強要されるのが現状だ。どうやって選抜する方も、彼らに判断基準を化すのだろうか?
「家から近かったから。」「好きな先輩が行っていたから」「受かりそうな気がしたから」等が、本心だと思うのだが、それでは推薦入試は成り立たない。
音楽科とか、調理科といった、特殊なコースへの推薦入試はわかるのだが、普通科の推薦入試に、その学校でなきゃならない必然性なんか、あるならばその理由を聞いてみたいくらいだ。中学生の時点で、その必然感を持つ子がいないわけではないが、そんな殊勝な子は、一般入試で楽勝で受かるのが現況だ。
中学生において、進路決定なんていうのは、ミーでハーなものであって当然だと思う。ただ、将来の漠然として希望に向けて、幹線、バイパス、どちらの進路をとるかを選ぶだけの機会に、彼らなりに真剣であることだけを求められるものであると思う。
理想論と現実がずれているのは世の常だが、キッズに、推薦面接用、作文用の模範解答という名のレトリックを指導することに対して、俺は良心の呵責がある。
でも、精一杯のキッズ用レトリックを用意する自分がいる。
塾で働いているが、本当にその子の事を思うならば、受験に失敗して、志望校以外の学校に進学することが良いと思える子がたくさんいる。でもそれは立場上、言えない。
仮面をかぶって指導しながら、俺がかろうじて良心を保っていられるのは、お世辞を言わないこと、一般的偏差値の尺度を彼らの個別数値の変動に換算しなおすこと、個人的な価値観を強要しないことを実践することくらいである。
受験システムを俺は大肯定する立場だ。篩いにかけられることも大切だ。詰め込み教育も全て歓迎だ。
でも、せっかくのこのテスト選抜システムを、大人のエゴや、まやかしを教える場にしたくはないとも思っている。
しょせん、ビジネスの場で知り合った人の子だ。センチメンタル、独りよがりな感情移入をしているつもりもない。ただ、彼らと接する時に、自分の価値観、社会システム、個人的な情、という3つのベクトルの中で、その指針を合わせることに、非常に悩むことがある。
塾業界で仕事をしてきて、合格という成績に関しては、非常に高い実績を残してきたと数値的にも実感的にも思う。でも、その過程でキッズと関わった俺の姿勢がよいのかどうかは、非常に難しい。
といっても、しょせんは、人の子、良い意味での無責任でいるつもりなのだが、悩んで、その悩みに高尚さを求め、酔ってみたい時もある。水洗便所に流したい自己矛盾だ。
2009年2月7日土曜日
達人への敬意不足
百姓性質の俺が親近感はないけれど、侍スピリッツを感じて好きな、元メジャーリーガーの野茂選手に関する、個人的に不愉快な報道があった。メディアに対する不満が募る報道である。
見出しは、
「野茂に早くもNO!! 選手「あまり参考にならない」」
記事本文は
「「野茂さんからフォークの握りを教えてもらったけど、このタマを投げる人間はそのような握りは誰でも知っているし、試してもいる。その中で、自分に最も適した握りを使う。はっきり言わせてもらえば、野茂流がすべて正解とはいえないでしょうね」(某投手)首脳陣が口説いて招いたTAだけに、選手が声を大にして言える内容ではないが、宮古島来訪2日目にしてこういう声が出はじめたことは紛れもない事実だ。 「今後、高知での第2次キャンプなどで野茂の考え方がチーム内に浸透していくでしょう」と佐々木コーチは口にするが、昼夜問わず…の詰め込み方式は今の若手には抵抗があるのかも。ノモ効果が浸透するには日時を要しそうだ。」
少し長いが、上記の内容である。
この報道に関して、不愉快だと思う点は2つある。①上記コメントを残した選手の対話における思考力の無さに対して。 ②このような報道を正規の記事としてアップする記者と会社の薄っぺらさ。 である。
① このコメントを残した奴が誰であるかはどうでもいいが、こいつはプロ野球選手として
はまず大成しないであろうし、実社会においても・・・・だろうと思う。
「野茂流がすべて正解とはいえないでしょうね」と、雑魚が生意気に言っているが、当たり前であり、野茂選手自信も、野茂流を強調、強要したくて言っているのではないと思う。文章における、行間を読む力というか、同じ握り方、同じ理論を言われていても、表層に現れない部分を感じ取って、吸収できるのが、野茂選手のような侍であり、その世界の本当のプロだと思う。
匠の技というのは、言語表現可能な粋を超えた、呼吸のようなものだと思う。ギター教室に行ったとする。いや、俺は行ったことがないので、ギターを敬愛する師匠から、教えてもらう時があったとする。師匠が教えることは、何も劇的な魔術の秘策ではない。教則本に書いてあることと、言語的にはほとんど変わらぬ表現を、身振りを交えて教えてくれるだけだ。
10人達人がいたら、10人とも、本筋では教則本のセオリーと同じことをしている。でも、10人の音色は違う。それが何であるかを嗅ぎ分ける力があるかどうかで、テクニック(この言葉の定義も広いが、一般的な「技能」と暫定的に訳しておく。)というものの差が出る要因だと思う。教える側にテクニックはもちろんある。問題は、教わる側が、言葉に表れない部分を嗅ぎ取れるかだけが、師匠に教えを請う場合の、弟子の上達、レッスンの成否を決めると思う。
俺は、正規の教室に行ったことはないが、好きなボーカリスト、ギターリストに、ワンポイントアドバイスを受けたり、聞いたりすることがある。でも俺は、教わる立場で嗅ぎ分けられないことが、多々あり、それが何であるかを真似て、思考して突き詰める過程で、自分の現状の技量が形成されてきた。そして、辿りつけない境地に対しての羨望と、欲求を抱えて、日々を処している。
俺には、優れたギターリスト、ボーカリストの技量に対して、その教えを受けて、吸収するだけの素地が備わっていないのだと思う。
だが、敬愛するギターリスト、ボーカリストの教えを、「それだけが正解ではないでしょうね。」という、極めた人だけが言えるセリフは、とんでもじゃないが言えない。当たり前だが、俺は、「それだけ」をまだ理解、体現できていないのだからだ。
それを、表面的なことしか理解できる頭がないにも関わらず、さも悟ったかのような口調で、記者にオフレココメントする奴、こいつは間違いなく消えるだろうが、こいつを発掘したスカウトも眼力がしょぼいと思う。
侍、野茂選手から教えを受けるには、教えを受けるだけの資質が本来必要だ。それを、師匠が資質を問わず、接してくださっているにも関わらず、こいつの言動ときたら・・・。早期に野球界から消えて、過去の栄光にしがみついて、草野球でいきがってくれたらいいと思う。お前の理論は、へぼいから、誰でも理解できるであろう!そして、教え子から、「お前流は、全ての1つにもならない。」と言われた時、本質を悟って逝けば、冥土の肥やしにでもなるだろう。
② コメントをする選手も選手なら、そんなオフレコ発言を、「某選手」との括りで報道す
る記者も記者だ。目的がわからない。コメントをくれない野茂選手に対する嫌がらせとしか思えない。雑魚にコメントするほど、野茂選手は魚に飢えていないことを知れ!
①、②の俺の論調は、俺が野茂選手のことを好きだからという理由で、彼に対する批判的な意見に噛み付いているのではない。また、野茂選手が、人間的に優だか劣だかを俺ごときが裁いているのではない。もちろん、個人的に知らない方だし、人間的な性質は知らない。
ただ、報道される人が、取り扱われるフィールドで残した実績に対しては、誰しもが敬意を持つべきだと思うのだ。
野茂選手が、町の居酒屋で飲んでいて暴れたりして、刑事的・民事的な事件になったのなら、何でも言われるのも、仕方ないと思う(著名人のプライバシーの問題、そして彼らを公人扱いするかの問題はおいておく)。伊良部選手のような事例を指している。
今回の報道は、野茂選手が、実績を残した野球界というフィールドでのコーチとして接していた場面でのことだ。
監督ならば、采配責任がそのフィールドで負わされるべきであり、成績が悪ければ、それに付随して、外野の論評が多少、辛口になるのも、わからないでもない。でも、今回は、野茂選手が意気に感じて参加している、いわば、ボランティアみたいな場面での出来事とそれに対しての報道だ。
彼に対して、感謝の言葉はあっても、マイナス意見を公にする権利を誰が持つというのだろうか。全く持って、達人に対しての敬意が欠けていると思う。個人的にすごく不愉快になった。
それぞれのフィールド内での達人に対する敬意、これは、好き嫌いを超えて持つべきだと思う。もし、どうしても持てないならば、ふれなければいい。
見出しは、
「野茂に早くもNO!! 選手「あまり参考にならない」」
記事本文は
「「野茂さんからフォークの握りを教えてもらったけど、このタマを投げる人間はそのような握りは誰でも知っているし、試してもいる。その中で、自分に最も適した握りを使う。はっきり言わせてもらえば、野茂流がすべて正解とはいえないでしょうね」(某投手)首脳陣が口説いて招いたTAだけに、選手が声を大にして言える内容ではないが、宮古島来訪2日目にしてこういう声が出はじめたことは紛れもない事実だ。 「今後、高知での第2次キャンプなどで野茂の考え方がチーム内に浸透していくでしょう」と佐々木コーチは口にするが、昼夜問わず…の詰め込み方式は今の若手には抵抗があるのかも。ノモ効果が浸透するには日時を要しそうだ。」
少し長いが、上記の内容である。
この報道に関して、不愉快だと思う点は2つある。①上記コメントを残した選手の対話における思考力の無さに対して。 ②このような報道を正規の記事としてアップする記者と会社の薄っぺらさ。 である。
① このコメントを残した奴が誰であるかはどうでもいいが、こいつはプロ野球選手として
はまず大成しないであろうし、実社会においても・・・・だろうと思う。
「野茂流がすべて正解とはいえないでしょうね」と、雑魚が生意気に言っているが、当たり前であり、野茂選手自信も、野茂流を強調、強要したくて言っているのではないと思う。文章における、行間を読む力というか、同じ握り方、同じ理論を言われていても、表層に現れない部分を感じ取って、吸収できるのが、野茂選手のような侍であり、その世界の本当のプロだと思う。
匠の技というのは、言語表現可能な粋を超えた、呼吸のようなものだと思う。ギター教室に行ったとする。いや、俺は行ったことがないので、ギターを敬愛する師匠から、教えてもらう時があったとする。師匠が教えることは、何も劇的な魔術の秘策ではない。教則本に書いてあることと、言語的にはほとんど変わらぬ表現を、身振りを交えて教えてくれるだけだ。
10人達人がいたら、10人とも、本筋では教則本のセオリーと同じことをしている。でも、10人の音色は違う。それが何であるかを嗅ぎ分ける力があるかどうかで、テクニック(この言葉の定義も広いが、一般的な「技能」と暫定的に訳しておく。)というものの差が出る要因だと思う。教える側にテクニックはもちろんある。問題は、教わる側が、言葉に表れない部分を嗅ぎ取れるかだけが、師匠に教えを請う場合の、弟子の上達、レッスンの成否を決めると思う。
俺は、正規の教室に行ったことはないが、好きなボーカリスト、ギターリストに、ワンポイントアドバイスを受けたり、聞いたりすることがある。でも俺は、教わる立場で嗅ぎ分けられないことが、多々あり、それが何であるかを真似て、思考して突き詰める過程で、自分の現状の技量が形成されてきた。そして、辿りつけない境地に対しての羨望と、欲求を抱えて、日々を処している。
俺には、優れたギターリスト、ボーカリストの技量に対して、その教えを受けて、吸収するだけの素地が備わっていないのだと思う。
だが、敬愛するギターリスト、ボーカリストの教えを、「それだけが正解ではないでしょうね。」という、極めた人だけが言えるセリフは、とんでもじゃないが言えない。当たり前だが、俺は、「それだけ」をまだ理解、体現できていないのだからだ。
それを、表面的なことしか理解できる頭がないにも関わらず、さも悟ったかのような口調で、記者にオフレココメントする奴、こいつは間違いなく消えるだろうが、こいつを発掘したスカウトも眼力がしょぼいと思う。
侍、野茂選手から教えを受けるには、教えを受けるだけの資質が本来必要だ。それを、師匠が資質を問わず、接してくださっているにも関わらず、こいつの言動ときたら・・・。早期に野球界から消えて、過去の栄光にしがみついて、草野球でいきがってくれたらいいと思う。お前の理論は、へぼいから、誰でも理解できるであろう!そして、教え子から、「お前流は、全ての1つにもならない。」と言われた時、本質を悟って逝けば、冥土の肥やしにでもなるだろう。
② コメントをする選手も選手なら、そんなオフレコ発言を、「某選手」との括りで報道す
る記者も記者だ。目的がわからない。コメントをくれない野茂選手に対する嫌がらせとしか思えない。雑魚にコメントするほど、野茂選手は魚に飢えていないことを知れ!
①、②の俺の論調は、俺が野茂選手のことを好きだからという理由で、彼に対する批判的な意見に噛み付いているのではない。また、野茂選手が、人間的に優だか劣だかを俺ごときが裁いているのではない。もちろん、個人的に知らない方だし、人間的な性質は知らない。
ただ、報道される人が、取り扱われるフィールドで残した実績に対しては、誰しもが敬意を持つべきだと思うのだ。
野茂選手が、町の居酒屋で飲んでいて暴れたりして、刑事的・民事的な事件になったのなら、何でも言われるのも、仕方ないと思う(著名人のプライバシーの問題、そして彼らを公人扱いするかの問題はおいておく)。伊良部選手のような事例を指している。
今回の報道は、野茂選手が、実績を残した野球界というフィールドでのコーチとして接していた場面でのことだ。
監督ならば、采配責任がそのフィールドで負わされるべきであり、成績が悪ければ、それに付随して、外野の論評が多少、辛口になるのも、わからないでもない。でも、今回は、野茂選手が意気に感じて参加している、いわば、ボランティアみたいな場面での出来事とそれに対しての報道だ。
彼に対して、感謝の言葉はあっても、マイナス意見を公にする権利を誰が持つというのだろうか。全く持って、達人に対しての敬意が欠けていると思う。個人的にすごく不愉快になった。
それぞれのフィールド内での達人に対する敬意、これは、好き嫌いを超えて持つべきだと思う。もし、どうしても持てないならば、ふれなければいい。
2009年2月6日金曜日
すっぽんのパカ!
仕事上での関わりのある方と、ひょんな時に、ひょんな場所で会うことはよくある。塾業界で仕事をしだして5年以上が過ぎたが、生徒の保護者と、仕事以外の時間にばったり会うことは多い。
それ自体はいたって自然なことなのであるが、会う場所、会うタイミングによっては、非常に気まずい時がある。おまけに、悪いタイミングは重なることが多い。
今日は出勤前に、薬局に寄った。お風呂グッズのシャンプーが切れていたので、購入目的で行った。個人的な買い物傾向として、チェーン店では買わないことが多い。こだわりをもった商品を置いて、価格競争で戦いを挑んでくるチェーン店に負けずに、それなりに繁盛している店が好きだ。
お気に入りの薬局があり、そこに行った。色んなサプリメント、漢方なんかの販促ポップも充実していて、やる気に満ち溢れている。陳列も完璧。綺麗な店内を、シャンプー片手に流し見ていた。
30代後半くらいからだろうか、種々の健康商品に興味がいく。といっても、全く服用はしていないのだが、効能をうたうパッケージや、店側が作った健康アドバイスなどのコピーと値段を見るのが好きだ。
マカもプロポリスもアガリクスもウコンも北の人参もみんな興味をひかれるが、1番ひかれるのは、すっぽん大王様である。どの病気にも効きそうな気がする。「養命酒」よりも用命したくなる。大王様の生命力をなめてはいけない。
すっぽん大王様と、韓国の食文化が身近にあれば、日本のサプリメント販売会社は需要が減るのではないかと思うくらい、すっぽん大王様とにんにく魔王の効能を、日頃から、なぜか信じている俺である。
「ひざの痛みにはこれ!」とか、「肝臓をいたわるあなたにエキス注入!」といったポップがたくさんある。非常に疑わしい効能はさておき、売る気になっている商品模様を見るのが好きだ。
店内はほどよく混んでいて、色んな商品を流し見する環境は悪くない。順番に片っ端から見て回った。
「尿もれでお悩みの方に!」というポップと共に、頻尿などの改善サプリメントが置いてあった。俺は商品を手に、何が入っているかをじっと読んでいた(※注:俺は漏れてない)。その横には「みなぎる快感! 精力回春」という、いかしたコピーがあった。
この手のサプリメントには必須であり、俺の敬愛する、すっぽん大王様のコーナーがあった。このコーナーが用意してあるだけで、その店はみなぎっている。俺は、視線を「尿もれ」から、「みなぎる」方に向けた。
俺は幸いにして、ED傾向ではないが、いつまでも精力あふれる男ではいたいものである。
ジュニアの問題ではない。あらゆるヴァイタリティーの源として精力は必須だ。
男の潜在心理として、「精力増強」というのは、女性の「美肌 うるおい」に匹敵する、魅せられる字面だと思う。
俺はすっぽん大王様の、みなぎる解説に魅せられて、一字一句見落とさずに読んでいた。読み終わって、商品パッケージを見るために、顔を上げた時、知っている保護者の顔があった。
とぼけようがないくらい、ガン見状態で目が合った。 大王様!助けて! 俺は心で願ったが遅い。
「あら~先生、お世話になっております。ご自宅、この近くですか? あ、ちょうどよかった、うちのMね、お友達のK君と一緒に今日から合宿なので、2人とも塾休みますね。また補習お願いします。」との言葉と共に、そのお母様の視線がコーナーを軽く捉えた。
その後、何だか、悪霊を見たかのような目で、お辞儀して立ち去った。
すっぽんを凝視する中年の男、横には「尿もれ」コーナー・・・。そして彼の職業はわが子の塾講師・・・。保護者視点で考えると????
時にレミゼラブルであり、時にアンタッチャブルなのである。同情と忌諱を両方くらう運命になる。
俺は、ちはやぶる大王様を怨んだ。枕言葉にもなりゃしねえ・・・。
この気まずさをどう表現したらいいのだろう。弁解するには話題の必然性がない。だが、EDだとも思われたくない。もちろん、もれていない。 頭で色んな思案が、スッポン、スッポン、スリッポンしていく。たまらんの~。
俺はシャンプー「TSUBAKI」のボトルを買って、傷心で店を後にした。
「つ~ば~き咲く~ は~る~なのに~♪♪」と、なぜか「釜山港へ帰れ」のメロが頭に鳴り出した。
帰りたいのは釜山ではない。オモニとアポジとアネの待つ家だ。 すっぽんのパカパカ!
それ自体はいたって自然なことなのであるが、会う場所、会うタイミングによっては、非常に気まずい時がある。おまけに、悪いタイミングは重なることが多い。
今日は出勤前に、薬局に寄った。お風呂グッズのシャンプーが切れていたので、購入目的で行った。個人的な買い物傾向として、チェーン店では買わないことが多い。こだわりをもった商品を置いて、価格競争で戦いを挑んでくるチェーン店に負けずに、それなりに繁盛している店が好きだ。
お気に入りの薬局があり、そこに行った。色んなサプリメント、漢方なんかの販促ポップも充実していて、やる気に満ち溢れている。陳列も完璧。綺麗な店内を、シャンプー片手に流し見ていた。
30代後半くらいからだろうか、種々の健康商品に興味がいく。といっても、全く服用はしていないのだが、効能をうたうパッケージや、店側が作った健康アドバイスなどのコピーと値段を見るのが好きだ。
マカもプロポリスもアガリクスもウコンも北の人参もみんな興味をひかれるが、1番ひかれるのは、すっぽん大王様である。どの病気にも効きそうな気がする。「養命酒」よりも用命したくなる。大王様の生命力をなめてはいけない。
すっぽん大王様と、韓国の食文化が身近にあれば、日本のサプリメント販売会社は需要が減るのではないかと思うくらい、すっぽん大王様とにんにく魔王の効能を、日頃から、なぜか信じている俺である。
「ひざの痛みにはこれ!」とか、「肝臓をいたわるあなたにエキス注入!」といったポップがたくさんある。非常に疑わしい効能はさておき、売る気になっている商品模様を見るのが好きだ。
店内はほどよく混んでいて、色んな商品を流し見する環境は悪くない。順番に片っ端から見て回った。
「尿もれでお悩みの方に!」というポップと共に、頻尿などの改善サプリメントが置いてあった。俺は商品を手に、何が入っているかをじっと読んでいた(※注:俺は漏れてない)。その横には「みなぎる快感! 精力回春」という、いかしたコピーがあった。
この手のサプリメントには必須であり、俺の敬愛する、すっぽん大王様のコーナーがあった。このコーナーが用意してあるだけで、その店はみなぎっている。俺は、視線を「尿もれ」から、「みなぎる」方に向けた。
俺は幸いにして、ED傾向ではないが、いつまでも精力あふれる男ではいたいものである。
ジュニアの問題ではない。あらゆるヴァイタリティーの源として精力は必須だ。
男の潜在心理として、「精力増強」というのは、女性の「美肌 うるおい」に匹敵する、魅せられる字面だと思う。
俺はすっぽん大王様の、みなぎる解説に魅せられて、一字一句見落とさずに読んでいた。読み終わって、商品パッケージを見るために、顔を上げた時、知っている保護者の顔があった。
とぼけようがないくらい、ガン見状態で目が合った。 大王様!助けて! 俺は心で願ったが遅い。
「あら~先生、お世話になっております。ご自宅、この近くですか? あ、ちょうどよかった、うちのMね、お友達のK君と一緒に今日から合宿なので、2人とも塾休みますね。また補習お願いします。」との言葉と共に、そのお母様の視線がコーナーを軽く捉えた。
その後、何だか、悪霊を見たかのような目で、お辞儀して立ち去った。
すっぽんを凝視する中年の男、横には「尿もれ」コーナー・・・。そして彼の職業はわが子の塾講師・・・。保護者視点で考えると????
時にレミゼラブルであり、時にアンタッチャブルなのである。同情と忌諱を両方くらう運命になる。
俺は、ちはやぶる大王様を怨んだ。枕言葉にもなりゃしねえ・・・。
この気まずさをどう表現したらいいのだろう。弁解するには話題の必然性がない。だが、EDだとも思われたくない。もちろん、もれていない。 頭で色んな思案が、スッポン、スッポン、スリッポンしていく。たまらんの~。
俺はシャンプー「TSUBAKI」のボトルを買って、傷心で店を後にした。
「つ~ば~き咲く~ は~る~なのに~♪♪」と、なぜか「釜山港へ帰れ」のメロが頭に鳴り出した。
帰りたいのは釜山ではない。オモニとアポジとアネの待つ家だ。 すっぽんのパカパカ!
2009年2月5日木曜日
左脳と右脳
一般的な脳科学では、左脳は、「科学・技術脳」、「分析脳」であり、右脳は、「詩・芸術脳」、「全体的把握脳」であると言われている。石田春夫氏の「セルフ・クライシス」(出版社忘れた)で得た知識だが、石田氏によると、
左脳には、言語中枢が存在していて、言語を道具とする分析的な思考に強く関与しているらしい。
一方、右脳は、人の顔や物の形の認識と把握することに強く関与していて、音楽や芸術においての直感的、総合的な思考を支えるらしい。
左脳と右脳の機能度が、100:0という極論はないにしても、時々、どちらかに偏っていすぎだと思わずにはおれない人もいる。そして、それが右脳に偏っていれば、天才と呼ばれ、左脳に偏っていれば、狂人と呼ばれるのかもしれない。
解剖生理学的な考証を100%信じる気はないが、著名人や俺が今まで出会った人たちと照らし合わせて考えてみると、なるほどと思う部分がある。
例えば、ミスターこと、長島さん。直感的能力、感覚的能力を野球に応用して築きあげた長島さんの野球技術は、考えて真似られる技ではない。そして、直感的能力に長けた長島さんの名言は、全て、言語分析の結果の言葉とは思えないすごさを持っている。音楽や芸術方面に進まれていても、世界の長島となれたのではないかと思う。右脳に秀でた天才の典型的な例だと思う。
一方、有名大学に入り、言語を使った分析の修練だけに日々を費やした人たち、つまり、左脳訓練だけに偏ってしまった人たちが多くいる。人生のある一時期だけの言語分析への傾倒で終わればいいのだが、それで終わらず、言語分析が現実世界の他のことを凌駕してしまった人たちの、総合的なずれ方は、彼らのファッションセンスにも滲み出ている。
「どこの店で売ってるねん」という突っ込みや、「どうやったら、その着こなしできるねん。」と、ファッションセンスのない俺がダサいと思うほどの輩がいる。
あらゆる学問、文化、人間にふれて、右脳と左脳を両方とも鍛えなければならない時に、言語をこねくり回すことだけ、左脳だけの訓練に終始してしまった人たちが、言語を使った教義という名の言葉遊びに翻弄されて、教団信者となる事例は多いと思う。オーム真理教の信者たちの、ファッションセンスの無さと、言語能力の高さとの対比は、この左脳限定訓練の弊害であると思う。彼らの死刑をする前に、脳解剖をしてみれば面白い結果が出るのではないかと思う。
高学歴の人の中には、官僚になるタイプと学者になるタイプがいる。乱暴な分析だが、学者になるタイプの人は、比較的良家の出身が多いと思う。一方、官僚になるタイプは、中流家庭からの努力で学歴社会を勝ち抜いてきた人が多いと思う。苦労という点では、官僚のほうが多かったと思うのだが、文化的素地の上に教養としての学問が用意された良家の出と違い、どうしても官僚になる人には、失われた何年間かが存在する。
学問に対する遊び心がある、学者を輩出する家柄に対して、学問が競争社会を勝ち抜くための言語分析と暗記の修行場であり、それを勝ち抜くためには、他の文化的なことに目を背けなければならなかった、官僚を輩出した家柄・・・、という構図は立てられないだろうかと思う。
一般的に大学教授などの学者は、言語分析の訓練を繰り返して、彼らの専門性を築いてきた人たちだ。つまり、左脳訓練を恒常的にこなしている人たちだ。その割には、芸術方面への理解、興味、造詣が深い方が多い。こうした右脳的要素も多く持ちえる方々が多いのは、きっと、幼少時に良家のご子息として、文化的教育もされた方が多いからだと思う。つまり、右脳的な発育があった上で、左脳を訓練していった人が多いのだと思う。
一方、官僚は・・・。官僚の非常識さが信じられず、憤慨することも多いのだが、こう考えると、少し彼らに同情したくもなる。右脳も適度に育むべき時期に、左脳訓練に日々を費やした、競争社会の犠牲者といえるかもしれない。右脳教育の犠牲者が国を牛耳る構図というのも、芸術性に乏しいわが国を上手く象徴している気もする。
こうは分析してみたものの、脳科学は色んな側面から見ることができるので、極論自体は、出しにくいのだが、ルックス、思考面において「官僚的」なるものが見受けられるのは確かなので、あながち間違った分析とも思わない。
自分自身の分析をしてみれば、右脳、左脳共に、実に並みであると思う。時に、右脳による能力を欲したり、左脳による能力を欲したりして、そしてそれが手に入らない過程で、自らに合掌したくなる時があるが、まあまあ、バランスよく身につけているほうではないかと思う。少し右脳が弱い気もするが・・・。
合掌ということで思い出した。たしか、冒頭の石田氏は、同じく冒頭の「セルフ・クライシス」の中で、「右手と左手を合わせる合掌は、右脳と左脳をバランスよく補い合わせる必要性を象徴した行為だ」といった主旨のことを述べておられたと思う。
合掌は脳バランスが中庸であることを象徴しているのであれば、脳科学的には、俺は幸せかもしれない。
左脳には、言語中枢が存在していて、言語を道具とする分析的な思考に強く関与しているらしい。
一方、右脳は、人の顔や物の形の認識と把握することに強く関与していて、音楽や芸術においての直感的、総合的な思考を支えるらしい。
左脳と右脳の機能度が、100:0という極論はないにしても、時々、どちらかに偏っていすぎだと思わずにはおれない人もいる。そして、それが右脳に偏っていれば、天才と呼ばれ、左脳に偏っていれば、狂人と呼ばれるのかもしれない。
解剖生理学的な考証を100%信じる気はないが、著名人や俺が今まで出会った人たちと照らし合わせて考えてみると、なるほどと思う部分がある。
例えば、ミスターこと、長島さん。直感的能力、感覚的能力を野球に応用して築きあげた長島さんの野球技術は、考えて真似られる技ではない。そして、直感的能力に長けた長島さんの名言は、全て、言語分析の結果の言葉とは思えないすごさを持っている。音楽や芸術方面に進まれていても、世界の長島となれたのではないかと思う。右脳に秀でた天才の典型的な例だと思う。
一方、有名大学に入り、言語を使った分析の修練だけに日々を費やした人たち、つまり、左脳訓練だけに偏ってしまった人たちが多くいる。人生のある一時期だけの言語分析への傾倒で終わればいいのだが、それで終わらず、言語分析が現実世界の他のことを凌駕してしまった人たちの、総合的なずれ方は、彼らのファッションセンスにも滲み出ている。
「どこの店で売ってるねん」という突っ込みや、「どうやったら、その着こなしできるねん。」と、ファッションセンスのない俺がダサいと思うほどの輩がいる。
あらゆる学問、文化、人間にふれて、右脳と左脳を両方とも鍛えなければならない時に、言語をこねくり回すことだけ、左脳だけの訓練に終始してしまった人たちが、言語を使った教義という名の言葉遊びに翻弄されて、教団信者となる事例は多いと思う。オーム真理教の信者たちの、ファッションセンスの無さと、言語能力の高さとの対比は、この左脳限定訓練の弊害であると思う。彼らの死刑をする前に、脳解剖をしてみれば面白い結果が出るのではないかと思う。
高学歴の人の中には、官僚になるタイプと学者になるタイプがいる。乱暴な分析だが、学者になるタイプの人は、比較的良家の出身が多いと思う。一方、官僚になるタイプは、中流家庭からの努力で学歴社会を勝ち抜いてきた人が多いと思う。苦労という点では、官僚のほうが多かったと思うのだが、文化的素地の上に教養としての学問が用意された良家の出と違い、どうしても官僚になる人には、失われた何年間かが存在する。
学問に対する遊び心がある、学者を輩出する家柄に対して、学問が競争社会を勝ち抜くための言語分析と暗記の修行場であり、それを勝ち抜くためには、他の文化的なことに目を背けなければならなかった、官僚を輩出した家柄・・・、という構図は立てられないだろうかと思う。
一般的に大学教授などの学者は、言語分析の訓練を繰り返して、彼らの専門性を築いてきた人たちだ。つまり、左脳訓練を恒常的にこなしている人たちだ。その割には、芸術方面への理解、興味、造詣が深い方が多い。こうした右脳的要素も多く持ちえる方々が多いのは、きっと、幼少時に良家のご子息として、文化的教育もされた方が多いからだと思う。つまり、右脳的な発育があった上で、左脳を訓練していった人が多いのだと思う。
一方、官僚は・・・。官僚の非常識さが信じられず、憤慨することも多いのだが、こう考えると、少し彼らに同情したくもなる。右脳も適度に育むべき時期に、左脳訓練に日々を費やした、競争社会の犠牲者といえるかもしれない。右脳教育の犠牲者が国を牛耳る構図というのも、芸術性に乏しいわが国を上手く象徴している気もする。
こうは分析してみたものの、脳科学は色んな側面から見ることができるので、極論自体は、出しにくいのだが、ルックス、思考面において「官僚的」なるものが見受けられるのは確かなので、あながち間違った分析とも思わない。
自分自身の分析をしてみれば、右脳、左脳共に、実に並みであると思う。時に、右脳による能力を欲したり、左脳による能力を欲したりして、そしてそれが手に入らない過程で、自らに合掌したくなる時があるが、まあまあ、バランスよく身につけているほうではないかと思う。少し右脳が弱い気もするが・・・。
合掌ということで思い出した。たしか、冒頭の石田氏は、同じく冒頭の「セルフ・クライシス」の中で、「右手と左手を合わせる合掌は、右脳と左脳をバランスよく補い合わせる必要性を象徴した行為だ」といった主旨のことを述べておられたと思う。
合掌は脳バランスが中庸であることを象徴しているのであれば、脳科学的には、俺は幸せかもしれない。
書籍巡り(1月末~2月初)
いつものごとく本屋巡りをする。最近結構、文庫本でいいのが出ている気がするのだが、気のせいか。立ち読み、購入、色々選り好みしながら読んだ。
新潮文庫のラインナップがどうも気に食わない近頃であったのだが、今月の新刊は、久々の個人的ヒットだ。
『映画「黒部の太陽」全記録』:熊井啓 ・・・ わが居住区ものであり、自然と興味がいく。石原裕次郎さんの映画は見たことがないのだが、その映画の舞台裏を監督が明かした作品だ。
黒部ダムの建設を巡っては、種々のドキュメント番組も作られているし、隧道工事に従事した人たちの壮絶な記録は、読んでいて震える。吉村昭さんの『高熱隧道』(新潮文庫)を読んでいたので、だいたいのことはわかったつもりになっているのだが、このトピックは目が留まる。多くの危険作業従事者の犠牲のもとに、今の黒部ダムがあるのだが、どうもこの手のトピックは、建設会社の現場監督からの視点が多い気がするのが不満だ。だが、読むべき作品だと思う。購入候補に入ったのだが、もうしばしは書棚にあるだろうとの読みの元、後回しにする。でもいつか買う。
『狂人三歩手前』:中島義道 ・・・ 大好きな中島氏の新作。これだけで今月の新潮文庫は当たりだ。いつも思うのだが、元々低価格気味の新潮社においても、中島氏の著作は価格設定が低すぎないか?と思う。362円って、著者の意向なのだろうか?迷わず購入。
中島氏に関しては、『私の嫌いな10の言葉』、『カイン』、『うるさい日本の私』等々、ほぼ全著作を読んだのだが、反応ポイント、哲学的思考のベクトルが、個人的に同じような気がして(そういう気になっているだけなのだが)、読んでいて興奮する。また、この方の著作には適切な引用が多いので、他の名著へのきっかけとなることも多い。
『残虐記』:桐野夏生 ・・・「今読みたい新潮文庫」といった帯につられて、個人的に失敗した経験は数多い。でもこの作品は、以前から候補にあったので、今回を機に購入を決意。桐野さんの著作は、ほぼ知らない。たぶんこの作品が、今後桐野さんを読むか読まないかの分かれ目になる、大事な作品になる気がする。
他の文庫を見る。中公文庫から『犬が星見た』武田百合子 さんの作品が出ていた。これは、だいぶ前に古本屋で立ち読みした記憶があるのだが、夫である武田泰淳さんの著作に触れる契機となった作品であり、読み返す必要を感じて、即買い!
好きな幻冬舎文庫の棚に行って、立ち読み半ばになっていた、『闇の子供たち』:梁石日 を完読する。さすがに話題作だけあって、強烈で面白くてたまらないのだが、トピックを信じたくないほどの衝撃で、読んでいて気持ち悪くなった。梁さんの作品は結構読んだが、いつも、読み終わった後味は悪い。車谷長吉氏の作品と同じく、すごく読みたくて読むのだが、後味が悪い、不思議な作家だ。 永江氏の作品解説が、無難で面白くなかった。読み返すことはないと思ったので、立ち読みでようやく読み終える。
幻冬舎文庫の棚に、『ララピポ』:奥田英朗 が、やたらピックアップされている。映画化されるみたいで、カラーの帯がついている。
映画化される著作を読むことは、偏見から避けることが多いのだが、軽く立ち読みしたら、意外と面白いので購入。昨日買って昨日読み終わった。
奥田氏の作品は好きでもなく、安っぽい印象を持ちながらも、なぜか結構読んでいる。登場人物の関連付け、再登場の仕方といった、プロット構成に、プロ作家の技巧を感じるからだと思う。
『ララピポ』も典型的な、俺が思うところの奥田ワールドであったが、この作品は、なぜか心に沁みた。登場人物の設定に、高学歴低収入フリーライター、AVスカウトマン、デブ専AV熟女女優、といった、どうしようもなないジャンク感があるのだが、以外と奥深い作品だと思った。社会の最底辺で生きる人たちが、それぞれの立場で矜持と希望を持って生きている様は、多少、強引なプロットや、陳腐なセリフがあっても、社会の今を描写するという、大衆小説の心意気を感じた。背表紙に書かれていた、「下流文学の白眉」というコピーにしびれた。まさにそうだ。芸の細かい作家だと思う。
『ララピポ』が意外と面白かったので、続けて奥田氏の『ガール』を読む。立ち読み30分で完読したが、全く面白くなかった。そのわりに絶賛だ。わからない。一般的な女性心理と俺は対極にあるのだろう。
新書は相変わらず、時流に乗って一気に売らなければ存在価値のないような著作ばかり。いつから新書レベルは、かくも落ちたのだろうか? 個人的にそう思う。
ハード・カバーの新作にも結構興味を惹かれたのだが、貴重な図書カード、現金を費やしている場合ではない。誘惑を断ち切った。
文庫本で発表されている書籍だけとの関わりでも、網羅するには人生は短い。いつもながら、永遠の命を手に入れて、書籍に埋もれていきたいと思う。
海外文学邦訳もの、難解な書籍、時代劇もの、相変わらず手を出さない。自分にとって大切な、がっつりと、かじりついて格闘すべき本があるであろうに、気持ちは書籍に娯楽性と大衆好奇心を求めてしまう。結構、最近の書籍選びは、意思が弱い気がする。何だか満たされない部分がある。通過地点としての本屋があり、ジャンクな出会いを昇華できない未熟さも感じる。
「ジャンクション」という曲が頭に沸いた。さびまで詞も一気に出来た。浮かんだ発想の源は、日々のジャンクな書籍との出会いの賜物だ。これが深長でたまらないのだ。
新潮文庫のラインナップがどうも気に食わない近頃であったのだが、今月の新刊は、久々の個人的ヒットだ。
『映画「黒部の太陽」全記録』:熊井啓 ・・・ わが居住区ものであり、自然と興味がいく。石原裕次郎さんの映画は見たことがないのだが、その映画の舞台裏を監督が明かした作品だ。
黒部ダムの建設を巡っては、種々のドキュメント番組も作られているし、隧道工事に従事した人たちの壮絶な記録は、読んでいて震える。吉村昭さんの『高熱隧道』(新潮文庫)を読んでいたので、だいたいのことはわかったつもりになっているのだが、このトピックは目が留まる。多くの危険作業従事者の犠牲のもとに、今の黒部ダムがあるのだが、どうもこの手のトピックは、建設会社の現場監督からの視点が多い気がするのが不満だ。だが、読むべき作品だと思う。購入候補に入ったのだが、もうしばしは書棚にあるだろうとの読みの元、後回しにする。でもいつか買う。
『狂人三歩手前』:中島義道 ・・・ 大好きな中島氏の新作。これだけで今月の新潮文庫は当たりだ。いつも思うのだが、元々低価格気味の新潮社においても、中島氏の著作は価格設定が低すぎないか?と思う。362円って、著者の意向なのだろうか?迷わず購入。
中島氏に関しては、『私の嫌いな10の言葉』、『カイン』、『うるさい日本の私』等々、ほぼ全著作を読んだのだが、反応ポイント、哲学的思考のベクトルが、個人的に同じような気がして(そういう気になっているだけなのだが)、読んでいて興奮する。また、この方の著作には適切な引用が多いので、他の名著へのきっかけとなることも多い。
『残虐記』:桐野夏生 ・・・「今読みたい新潮文庫」といった帯につられて、個人的に失敗した経験は数多い。でもこの作品は、以前から候補にあったので、今回を機に購入を決意。桐野さんの著作は、ほぼ知らない。たぶんこの作品が、今後桐野さんを読むか読まないかの分かれ目になる、大事な作品になる気がする。
他の文庫を見る。中公文庫から『犬が星見た』武田百合子 さんの作品が出ていた。これは、だいぶ前に古本屋で立ち読みした記憶があるのだが、夫である武田泰淳さんの著作に触れる契機となった作品であり、読み返す必要を感じて、即買い!
好きな幻冬舎文庫の棚に行って、立ち読み半ばになっていた、『闇の子供たち』:梁石日 を完読する。さすがに話題作だけあって、強烈で面白くてたまらないのだが、トピックを信じたくないほどの衝撃で、読んでいて気持ち悪くなった。梁さんの作品は結構読んだが、いつも、読み終わった後味は悪い。車谷長吉氏の作品と同じく、すごく読みたくて読むのだが、後味が悪い、不思議な作家だ。 永江氏の作品解説が、無難で面白くなかった。読み返すことはないと思ったので、立ち読みでようやく読み終える。
幻冬舎文庫の棚に、『ララピポ』:奥田英朗 が、やたらピックアップされている。映画化されるみたいで、カラーの帯がついている。
映画化される著作を読むことは、偏見から避けることが多いのだが、軽く立ち読みしたら、意外と面白いので購入。昨日買って昨日読み終わった。
奥田氏の作品は好きでもなく、安っぽい印象を持ちながらも、なぜか結構読んでいる。登場人物の関連付け、再登場の仕方といった、プロット構成に、プロ作家の技巧を感じるからだと思う。
『ララピポ』も典型的な、俺が思うところの奥田ワールドであったが、この作品は、なぜか心に沁みた。登場人物の設定に、高学歴低収入フリーライター、AVスカウトマン、デブ専AV熟女女優、といった、どうしようもなないジャンク感があるのだが、以外と奥深い作品だと思った。社会の最底辺で生きる人たちが、それぞれの立場で矜持と希望を持って生きている様は、多少、強引なプロットや、陳腐なセリフがあっても、社会の今を描写するという、大衆小説の心意気を感じた。背表紙に書かれていた、「下流文学の白眉」というコピーにしびれた。まさにそうだ。芸の細かい作家だと思う。
『ララピポ』が意外と面白かったので、続けて奥田氏の『ガール』を読む。立ち読み30分で完読したが、全く面白くなかった。そのわりに絶賛だ。わからない。一般的な女性心理と俺は対極にあるのだろう。
新書は相変わらず、時流に乗って一気に売らなければ存在価値のないような著作ばかり。いつから新書レベルは、かくも落ちたのだろうか? 個人的にそう思う。
ハード・カバーの新作にも結構興味を惹かれたのだが、貴重な図書カード、現金を費やしている場合ではない。誘惑を断ち切った。
文庫本で発表されている書籍だけとの関わりでも、網羅するには人生は短い。いつもながら、永遠の命を手に入れて、書籍に埋もれていきたいと思う。
海外文学邦訳もの、難解な書籍、時代劇もの、相変わらず手を出さない。自分にとって大切な、がっつりと、かじりついて格闘すべき本があるであろうに、気持ちは書籍に娯楽性と大衆好奇心を求めてしまう。結構、最近の書籍選びは、意思が弱い気がする。何だか満たされない部分がある。通過地点としての本屋があり、ジャンクな出会いを昇華できない未熟さも感じる。
「ジャンクション」という曲が頭に沸いた。さびまで詞も一気に出来た。浮かんだ発想の源は、日々のジャンクな書籍との出会いの賜物だ。これが深長でたまらないのだ。
2009年2月3日火曜日
相撲界の品格
朝青龍の優勝で、相撲界にも久々に活気が出てきて、個人的に喜んでいたら・・・。
優勝翌日からは、「横綱のガッツポーズがよくない」やら、「モンゴル帰国許せない。」やら、この世界は本当に進歩がない。品格という言葉の意味を更新できていない奴らがご意見番にうじゃうじゃいるものだから、自己矛盾を抱えたまま進歩がない。
表立っては言えないが、根本に、外国人力士に角界を支えてもらっていることに対して、消化できない苛立ちと不満があるようにも思える。
ガッツポーズを安っぽいという価値観をわからないでもない。本来、日本人がもともともっている感情表現の身ぶりではないと思うからだ。粛々と勝利を享受する奥ゆかしさが古来、伝統だったのかもしれない。
それならば、ずっと外国人力士に開放しなければよかったのだ。開放した以上は、いくら帰化しようがしよまいが、その力士の持った素の部分として、噛み付くべきではないと思う。こちらが、それぞれの力士の価値観などを理解してあげればよいと思う。
「ガッツポーズがよくない。」「メンチがよくない。」と思う考え自体は否定しない。ただ、こういった思想の背景が、相撲道という名の偏った品格感を育んできたことに、そろそろ気づいて、対処すべき時期にきていると思う。
しょうもないいちゃもんをつける前に、もっとやるべきことがあるだろう!と思う。
弟子を稽古という名のリンチ状態にする。八百長が定期的に疑惑として上がる。こんな世界に品格があるのだろうか。品格を語りたければ、もっと先に目を向けて改善してから、大いに相撲界の品格を強要したらいいと思う。
種々の問題が露見してきた角界に、ダメ押しのような事件が起こった。日本人相撲力士の大麻吸引事件だ。
昨年も大きく取りざたされた大麻問題であったが、昨年は、外国人力士の大麻吸引ということで、深刻に捉えたふりをしながらも、何か他人事、違う文化がもたらした悪癖の被害者であるかのような、言い逃れに終始していたような気がする角界のご意見番たちであるが、今回は、角界品格の純血、日本人の吸引だ。
個人的には、大麻を吸う人間が角界にいても驚かない。若くして相撲界に入り、食う→寝る→稽古だけを繰り返してきた人たちだ。相撲道に邁進する上で、何か社会人的な資質が欠損したり、身につかなかったりしたまま大きくなる力士がいるのは必然だ。
角界が、品格を大きく語りたいのであれば、このような事件が起こらないための、しっかりとした教育課程から手をつけるべきだ。多くの力士が公的教育を早期に放棄して入ってきているのだから、学校になりかわるだけの、相撲稽古以外の部分でのフォローが必要であったはずだ。
893組織の下足番から首領への道に行く過程と、相撲界はどこか似ている気がする。
稽古という名のリンチが起こるのも納得できる気がする。893組織と同様、一般社会からは閉ざされた集団であろう。
そのような集団でのし上がってきた横綱に対する敬意も持たず、「ガッツポーズ」で噛み付くかと思えば、末端の弟子の教育も出来ていない。どこから手をつけていいかわからないほど、自己矛盾を持った集団だ。なんとかならないか、せめて、幼稚な噛み付きだけはやめて欲しい。
それから、相撲経験者でもないのに、偉そうに訓示をたれる、やくくん達、君ら何もの???
やく君は相撲以外のことへの意見は、時に鋭くて、勇気ある発言も多く感じるのだが、角界の品格に関する意見と、亀田パパに対する意見との温度、思想背景が同じレベルにあるような気がしてならない。
不満だらけの角界だが、俺の好きな尾車親方の昨日の行動には感激した。
弟子が起こしたことに対して、同部屋の弟子達に対して謝罪したという。「迷惑かけてすまん。家宅捜査を受けたりして大変だったろう。」といった謝罪だったらしい。
なかなか出来ることではないと思う。甘すぎるといえば甘いのかもしれないが、日頃接している愛弟子に対して投げかける言葉としては、深い愛を感じる。
いくら監督責任が問われる立場とはいえ、また、十数人の弟子しかいなかったとはいえ、24時間体制で彼らを監視しているわけにはいかない。彼らのプライベートな行動で、大麻吸引があったとしても、尾車親方を責めるのは酷だと思う。
監督者責任を問われても仕方ないと思うのは、実の親だけだと思う(親でも問う必要のない事件もあるが)。
日本は監督者責任追及が得意だ。だから、上司にまで処分が及び、上司が謝罪会見を行うのが世の常だ。そして、監督責任を問われた上司は、世間的には謝罪、部下に対しては訓示を行うのが通例だ。
ところが、親方は、謝罪会見をして、世間に対してわびるのは定番だとしても、部下にもわびた。これがすごいと思う。親方の人間性を如実に表していると思う。
尾車親方の相撲解説が好きだった。解説している時に、本当に楽しそうに話す。心から相撲を愛し、後輩力士に対する敬意と愛情がいつも感じられた。野球界でいえば、掛布さんと同種の清い性質を感じていた。あくまでテレビ越しの主観だが、この親方は、人間的に素晴らしいと、常日頃思っていた。
大麻問題が発覚した日の尾車親方の謝罪会見、涙を見て、俺は感動したが、「役者やのう」といった中傷もあったようだ。
本当に監督責任を言うならば、角界の理事クラスが処分されるのが筋であると思う。ところがそうではない。本来ならば、理事クラスの奴は、親方の無念さを思って、親方、同部屋の力士に対する配慮に労を注ぐべきであると思うのだが、俺の価値観がずれているのか、どうもそうではないらしい。
身内から非行児が出たら、その身内の心中たるや、想像を絶する苦悩の日々だろう。監督者によっては、明らかに監督を放棄していたり、非行を生む素地を自ら用意したりしている人もいるが、尾車親方の場合は、どう考えてもそうではないように思う。
日頃一緒に関わってきて、尾車親方の人柄とかは、多少なりともわかっているであろうに、自らの保身に終始して、人間的な1対1の情も示せない奴らに品格を語る資格はないと思う。今回の騒動の決着自体が、八百長であり、品格とは無縁のものであると思う。
優勝翌日からは、「横綱のガッツポーズがよくない」やら、「モンゴル帰国許せない。」やら、この世界は本当に進歩がない。品格という言葉の意味を更新できていない奴らがご意見番にうじゃうじゃいるものだから、自己矛盾を抱えたまま進歩がない。
表立っては言えないが、根本に、外国人力士に角界を支えてもらっていることに対して、消化できない苛立ちと不満があるようにも思える。
ガッツポーズを安っぽいという価値観をわからないでもない。本来、日本人がもともともっている感情表現の身ぶりではないと思うからだ。粛々と勝利を享受する奥ゆかしさが古来、伝統だったのかもしれない。
それならば、ずっと外国人力士に開放しなければよかったのだ。開放した以上は、いくら帰化しようがしよまいが、その力士の持った素の部分として、噛み付くべきではないと思う。こちらが、それぞれの力士の価値観などを理解してあげればよいと思う。
「ガッツポーズがよくない。」「メンチがよくない。」と思う考え自体は否定しない。ただ、こういった思想の背景が、相撲道という名の偏った品格感を育んできたことに、そろそろ気づいて、対処すべき時期にきていると思う。
しょうもないいちゃもんをつける前に、もっとやるべきことがあるだろう!と思う。
弟子を稽古という名のリンチ状態にする。八百長が定期的に疑惑として上がる。こんな世界に品格があるのだろうか。品格を語りたければ、もっと先に目を向けて改善してから、大いに相撲界の品格を強要したらいいと思う。
種々の問題が露見してきた角界に、ダメ押しのような事件が起こった。日本人相撲力士の大麻吸引事件だ。
昨年も大きく取りざたされた大麻問題であったが、昨年は、外国人力士の大麻吸引ということで、深刻に捉えたふりをしながらも、何か他人事、違う文化がもたらした悪癖の被害者であるかのような、言い逃れに終始していたような気がする角界のご意見番たちであるが、今回は、角界品格の純血、日本人の吸引だ。
個人的には、大麻を吸う人間が角界にいても驚かない。若くして相撲界に入り、食う→寝る→稽古だけを繰り返してきた人たちだ。相撲道に邁進する上で、何か社会人的な資質が欠損したり、身につかなかったりしたまま大きくなる力士がいるのは必然だ。
角界が、品格を大きく語りたいのであれば、このような事件が起こらないための、しっかりとした教育課程から手をつけるべきだ。多くの力士が公的教育を早期に放棄して入ってきているのだから、学校になりかわるだけの、相撲稽古以外の部分でのフォローが必要であったはずだ。
893組織の下足番から首領への道に行く過程と、相撲界はどこか似ている気がする。
稽古という名のリンチが起こるのも納得できる気がする。893組織と同様、一般社会からは閉ざされた集団であろう。
そのような集団でのし上がってきた横綱に対する敬意も持たず、「ガッツポーズ」で噛み付くかと思えば、末端の弟子の教育も出来ていない。どこから手をつけていいかわからないほど、自己矛盾を持った集団だ。なんとかならないか、せめて、幼稚な噛み付きだけはやめて欲しい。
それから、相撲経験者でもないのに、偉そうに訓示をたれる、やくくん達、君ら何もの???
やく君は相撲以外のことへの意見は、時に鋭くて、勇気ある発言も多く感じるのだが、角界の品格に関する意見と、亀田パパに対する意見との温度、思想背景が同じレベルにあるような気がしてならない。
不満だらけの角界だが、俺の好きな尾車親方の昨日の行動には感激した。
弟子が起こしたことに対して、同部屋の弟子達に対して謝罪したという。「迷惑かけてすまん。家宅捜査を受けたりして大変だったろう。」といった謝罪だったらしい。
なかなか出来ることではないと思う。甘すぎるといえば甘いのかもしれないが、日頃接している愛弟子に対して投げかける言葉としては、深い愛を感じる。
いくら監督責任が問われる立場とはいえ、また、十数人の弟子しかいなかったとはいえ、24時間体制で彼らを監視しているわけにはいかない。彼らのプライベートな行動で、大麻吸引があったとしても、尾車親方を責めるのは酷だと思う。
監督者責任を問われても仕方ないと思うのは、実の親だけだと思う(親でも問う必要のない事件もあるが)。
日本は監督者責任追及が得意だ。だから、上司にまで処分が及び、上司が謝罪会見を行うのが世の常だ。そして、監督責任を問われた上司は、世間的には謝罪、部下に対しては訓示を行うのが通例だ。
ところが、親方は、謝罪会見をして、世間に対してわびるのは定番だとしても、部下にもわびた。これがすごいと思う。親方の人間性を如実に表していると思う。
尾車親方の相撲解説が好きだった。解説している時に、本当に楽しそうに話す。心から相撲を愛し、後輩力士に対する敬意と愛情がいつも感じられた。野球界でいえば、掛布さんと同種の清い性質を感じていた。あくまでテレビ越しの主観だが、この親方は、人間的に素晴らしいと、常日頃思っていた。
大麻問題が発覚した日の尾車親方の謝罪会見、涙を見て、俺は感動したが、「役者やのう」といった中傷もあったようだ。
本当に監督責任を言うならば、角界の理事クラスが処分されるのが筋であると思う。ところがそうではない。本来ならば、理事クラスの奴は、親方の無念さを思って、親方、同部屋の力士に対する配慮に労を注ぐべきであると思うのだが、俺の価値観がずれているのか、どうもそうではないらしい。
身内から非行児が出たら、その身内の心中たるや、想像を絶する苦悩の日々だろう。監督者によっては、明らかに監督を放棄していたり、非行を生む素地を自ら用意したりしている人もいるが、尾車親方の場合は、どう考えてもそうではないように思う。
日頃一緒に関わってきて、尾車親方の人柄とかは、多少なりともわかっているであろうに、自らの保身に終始して、人間的な1対1の情も示せない奴らに品格を語る資格はないと思う。今回の騒動の決着自体が、八百長であり、品格とは無縁のものであると思う。
2009年2月2日月曜日
グッジョブ!
朝起きると喉が痛い。インフル菌食らったか?? そういえば生徒が咳をゴホゴホしとったな~っと、思い出しながら、昨日イソジンタイムをさぼったことを反省する。
おまけに頭も痛い。何だか熱っぽい! 医者に行くのは怖い。どうする?
時節柄、生徒に風邪を移してはまずい。だからといって、風邪ぐらいで休むわけにもいかない。マスクをはめると俺はすぐに、職質対象者に変化する。教育上もよくない。即効で治すしかない!どうする? 1分考えた。
がっと布団から飛び起き、急いで仕事用意をかまして、コンビニでパンをかじり、近くの大型薬局に行く。
「1番効くやつちょうだい。」と言って、勧められたやつを買って、栄養ドリンクと一緒に即飲み!その後、銭湯のサウナにこもること10分。
効果はすぐに出た。職場について、少ししたら、体のだるさも熱っぽい感じも、喉の痛みもなくなって、完全なる健常に戻った。俺はわが身の回復能力の速さに惚れた。
自己愛からの満足感に満ちていたら、雲古をしたくなった。とてつもなく容量の多い雲古感があった。雲古がでかい時は、内臓を褒めてやりたくなる。「グッジョブ!」
排雲古は、容量が大きいほど、達成感も大きい。俺は山の頂を目指すような気分で厠に入った。
ミッション・コンプリート!俺は得意気に厠の放水装置をひねった。
雲古激務による服装の乱れを整えていたら、便器のせせらぎ音が、洪水音に変わった。ぷっかぷっか浮いた無数の雲古が容器からはみ出そうになる。
新任務発生! 今度は手ごわい。ジャックバウワーもびっくりの激務の連続だ。
幸いにして、便器の容量のおかげで床下浸水の危機は直前で止まった。だが、ビー玉1個いれたくらいでもはみ出そうなほど、ぎりぎりだった。
さて困った。便器が詰まって困った。おまけに自分の雲古がまだいるもんだから、余計に困った。すぐに隠したい。自分の雲古を人に見せられるには、俺はまだデリカシーがありすぎる。同僚が来る時間まではまだ1時間はある。俺は全ての意識を雲古除去に集中した。
ゴム手袋を探して、左手にスーパー袋、右手にゴム手の体制で、俺は固形物を1つ1つ救った。俺の内臓はグッジョブしすぎで、これでもかと質感と目方を感じる。泣きそうだったが、刺激臭が俺の涙腺を麻痺させた。比較的冷静に、固形物撤去作業を終える。
問題はこの後だ。便器9分目くらいまである水が、少しずつでも引いてくれるのを、しばし待つことにした。
その間、浸水した床をキレイキレイして、「トイレその後に」を狂ったように放射し、ゴム手をゆっくりスーパー袋に密封し、待っていた。
15分後、かなりの水が引いて、便器内の水位が正常値並みになっていた。問題はここからだ。先ほどゴム手を捨ててしまったので、どうしようかと思案した挙句、サランラップを俺は手に巻きつけた。皮膚呼吸が困難なほど巻きつけて、便器内に右手を突っ込んだ。すぐに、紙の塊をゲットした。
「トイレクイックル」を1度に流しすぎたのが原因みたいだ。昨日の最後、便所掃除をしたのは俺だ。確かに、生徒のハミションが多量にあったので、アホみたいにクイックルしてしまった記憶がある。自業自得だ。
塊はすぐに取れたのだが、まだ水の流れはよくない。試しにちょろっと流してみたら、すぐに溜まり出す。
便器の奥の方に穴がある。そこの奥底まで人差し指を突っ込んで、ツンツンするのだが、指応えがない。それでもツンツンをくり返して、トイレットペーパー格納庫にあった、清掃用の歯ブラシを使って、再度ツンツンをくり返した。
くり返すこと5分、急に「ご~~~!」という音を立て、水が流れ出した。その時になぜかしらないが、下から逆噴射する水しぶきが、俺のお顔に飛沫をかけた。
「き、切れそう僕!」と思いながらも、辛抱し、左手でトイレットペーパーをぐるんぐるんさせて、とりあえず水分を拭き取った。
何とか詰まりは取れたのだが、簀巻きにされた右手のラップを外す時のことを考えていなかった。左手にゴム手をはめることを忘れていた。「たまらんの~~。」
泣き泣き、素手でラップを剥がし、ゴミ類をスーパー袋に入れて、10分間、狂ったように腕と手を洗った。
ちょうど、その時に同僚が来たので、俺は、「銭湯言ってくる」と一言残して、彼に留守番を頼み、近くの風呂場で、残り香を消した。迷わず泣いた。安堵と恐怖の入り混じった涙だ。
散々な1日だったが、人生最大のグッジョブかもしれない。風邪は治った。
おまけに頭も痛い。何だか熱っぽい! 医者に行くのは怖い。どうする?
時節柄、生徒に風邪を移してはまずい。だからといって、風邪ぐらいで休むわけにもいかない。マスクをはめると俺はすぐに、職質対象者に変化する。教育上もよくない。即効で治すしかない!どうする? 1分考えた。
がっと布団から飛び起き、急いで仕事用意をかまして、コンビニでパンをかじり、近くの大型薬局に行く。
「1番効くやつちょうだい。」と言って、勧められたやつを買って、栄養ドリンクと一緒に即飲み!その後、銭湯のサウナにこもること10分。
効果はすぐに出た。職場について、少ししたら、体のだるさも熱っぽい感じも、喉の痛みもなくなって、完全なる健常に戻った。俺はわが身の回復能力の速さに惚れた。
自己愛からの満足感に満ちていたら、雲古をしたくなった。とてつもなく容量の多い雲古感があった。雲古がでかい時は、内臓を褒めてやりたくなる。「グッジョブ!」
排雲古は、容量が大きいほど、達成感も大きい。俺は山の頂を目指すような気分で厠に入った。
ミッション・コンプリート!俺は得意気に厠の放水装置をひねった。
雲古激務による服装の乱れを整えていたら、便器のせせらぎ音が、洪水音に変わった。ぷっかぷっか浮いた無数の雲古が容器からはみ出そうになる。
新任務発生! 今度は手ごわい。ジャックバウワーもびっくりの激務の連続だ。
幸いにして、便器の容量のおかげで床下浸水の危機は直前で止まった。だが、ビー玉1個いれたくらいでもはみ出そうなほど、ぎりぎりだった。
さて困った。便器が詰まって困った。おまけに自分の雲古がまだいるもんだから、余計に困った。すぐに隠したい。自分の雲古を人に見せられるには、俺はまだデリカシーがありすぎる。同僚が来る時間まではまだ1時間はある。俺は全ての意識を雲古除去に集中した。
ゴム手袋を探して、左手にスーパー袋、右手にゴム手の体制で、俺は固形物を1つ1つ救った。俺の内臓はグッジョブしすぎで、これでもかと質感と目方を感じる。泣きそうだったが、刺激臭が俺の涙腺を麻痺させた。比較的冷静に、固形物撤去作業を終える。
問題はこの後だ。便器9分目くらいまである水が、少しずつでも引いてくれるのを、しばし待つことにした。
その間、浸水した床をキレイキレイして、「トイレその後に」を狂ったように放射し、ゴム手をゆっくりスーパー袋に密封し、待っていた。
15分後、かなりの水が引いて、便器内の水位が正常値並みになっていた。問題はここからだ。先ほどゴム手を捨ててしまったので、どうしようかと思案した挙句、サランラップを俺は手に巻きつけた。皮膚呼吸が困難なほど巻きつけて、便器内に右手を突っ込んだ。すぐに、紙の塊をゲットした。
「トイレクイックル」を1度に流しすぎたのが原因みたいだ。昨日の最後、便所掃除をしたのは俺だ。確かに、生徒のハミションが多量にあったので、アホみたいにクイックルしてしまった記憶がある。自業自得だ。
塊はすぐに取れたのだが、まだ水の流れはよくない。試しにちょろっと流してみたら、すぐに溜まり出す。
便器の奥の方に穴がある。そこの奥底まで人差し指を突っ込んで、ツンツンするのだが、指応えがない。それでもツンツンをくり返して、トイレットペーパー格納庫にあった、清掃用の歯ブラシを使って、再度ツンツンをくり返した。
くり返すこと5分、急に「ご~~~!」という音を立て、水が流れ出した。その時になぜかしらないが、下から逆噴射する水しぶきが、俺のお顔に飛沫をかけた。
「き、切れそう僕!」と思いながらも、辛抱し、左手でトイレットペーパーをぐるんぐるんさせて、とりあえず水分を拭き取った。
何とか詰まりは取れたのだが、簀巻きにされた右手のラップを外す時のことを考えていなかった。左手にゴム手をはめることを忘れていた。「たまらんの~~。」
泣き泣き、素手でラップを剥がし、ゴミ類をスーパー袋に入れて、10分間、狂ったように腕と手を洗った。
ちょうど、その時に同僚が来たので、俺は、「銭湯言ってくる」と一言残して、彼に留守番を頼み、近くの風呂場で、残り香を消した。迷わず泣いた。安堵と恐怖の入り混じった涙だ。
散々な1日だったが、人生最大のグッジョブかもしれない。風邪は治った。
2009年2月1日日曜日
企業倫理
トヨタが3回目の下方修正で、数千億円の赤字見通しを発表した。異例中の異例であり、裾野の広い自動車業界のドンがこれだから、俺が思っている以上に、不景気感は深刻なのだろう。
下請けで1兆円規模の年商を誇る企業があるくらいだから、トヨタの販売不振が経済的に与える影響は、ちょっとした小国がふっとぶくらいの大きさがあるだろう。
ただ、トヨタはいい。毎年経常利益を兆円規模で叩きだしてきた会社だから、国債を発行し続ける日本国よりも財務状況は、まだまだ大丈夫だ。この販売不振が数年規模で続いても持ちこたえるだけの体力は余裕であるだろう。
だが下請けは、トヨタの風邪が1年続くだけでも、ずいぶん淘汰される運命になるだろう。トヨタなど自動車産業と関わりのある会社がない県は、おそらく日本にはないのではないかと思うので、全都道府県が、財政面、雇用面で影響を受けることになる。
38年生きてきて、不景気感も好景気感も抱いたことのない俺ではあるが、間違いなく不景気なのだろう。
この手のトピックは何度か書いたことがあるが、不景気を連呼する政府と大企業に対しての不満が依然消えない。
失業率、所得水準、企業決算、国税収入、判断する側の母体によって、色々な尺度はあるだろうが、こんなもの、単年ベースで見て、「不景気だ~不景気だ~」と垂れ流す国と大企業が、1番、不景気を作り出す作業に熱心なのではないか?という不信感がある。
現時点で職がある人と、ない人で不景気感が異なるが、以前にも書いたとおり、飢えることが困難な時代に、携帯電話を持って、パソコン持って、外食もして、趣味にも興じられる環境で不景気感を抱くのは、個人的には無理がある。
今、職を失った当事者や、求職中の人が「不景気だ」というのは、そういった人たち全員に同情したり、肯定したりはしたくはないが、言う資格はある。でも、大企業ともあろう立場の人たちが、「不景気だ~」と言ったところで、何一つプラス要素はない上に、自らの能力の無さを声高に叫んでいるだけに思えて仕方がない。
中小、零細企業が不景気感を抱くのと違って、天下のトヨタなどの大企業が、「不景気、不景気」と叫ぶのは、いかがなものかと思う。長期的なビジョンを標榜しているはずじゃないですか?と言いたくなる。
なぜなら、「不景気だ」と言うときには、首切り、減給が付随するが、景気がいい時には、その景気の良さに比例するだけの雇用確保と昇給がなされていたかといえば、そうではないと思う。
経常利益1兆円を上げました。それだけの利益が出るくらいなら、新車の価格下げたり、社員の給与をもっと上げたり、色んな還元の仕方があったはずだ。でもそうしなかったこと自体は否定しない。
なぜなら、経常利益を上げる目的は、売り上げが悪い時に備えての蓄えとしての意味を持つからだ。一般家庭が、ボーナスが多い時に、全部を使うのではなく、もしかの時に備えて貯蓄しておくのと同じだ。
でも、そうではないらしい。少し売り上げが落ちたら、大企業は下請けの工賃をカットし、自らの牙城は同じ状態を保つ。そして、さらに売り上げが悪くなれば、首切りだ。それも数年間持ちこたえて、蓄えがなくなりそうになってからではない。
ならば、好景気時に、多くの経常利益を出すことの意義はどこにあるのだろうか?言い方は悪いが、兆円規模の利益を出せる会社の、価格設定はぼったくりではなかったのかとさえ思う。企業努力でも何でもないと思う。経営者のエゴと虚栄心だけに魅せられた黒い数字への執着が産んだ利益だと思う。
政府や経済学者は、国民の預貯金に目をつけ、「不景気時にこそ、消費を刺激する政策が必要だ。たんす預金を使わせればよい。」と訳知り顔で言う。だが、そうだろうか? 国民の消費を刺激する前に、大企業が貯めこんだ、莫大な利益を吐き出させる政策が先ではないだろうかと思う。
それなのに、その大企業が「不景気」の言い訳を楯に、首切りやら賃金カットをするから、実際に不景気が蔓延する。当事者でない者まで、なんだか貧乏臭い気分になる。余剰金を吐き出さないまでも、「不景気」連呼の主導者となるのはやめて欲しい。
今、車が売れない原因を彼らは、世界的な金融危機だけのせいにしているが、そうではないと思う。壊れてもいないのに贅沢品として車を愛でて、乗り換える性質にあった国民が、ガソリン高を受けて乗り控えた結果、車というものに対して、単なる移動手段の乗り物としてだけの側面に気がついて、社会的地位や見栄えを優先した無駄な部分に気がついただけだと思う。
だから、車の販売不振は、世界景気が良くなったところで、エコへの配慮や、安全性に基づく需要以外の需要は生まれてこないと思う。少しの車マニアは依然として存在するだろうが、以前のような短い乗り換え期間に戻ることはないと思う。
ぜいたく品としての車がこれだけの市場を持てたこと自体が、バブルであったのだと思う。バブルを享受した人たちは、泡を残さず使い果たしてから、次のステップに進んで欲しい。それが企業倫理だと思う。
下請けで1兆円規模の年商を誇る企業があるくらいだから、トヨタの販売不振が経済的に与える影響は、ちょっとした小国がふっとぶくらいの大きさがあるだろう。
ただ、トヨタはいい。毎年経常利益を兆円規模で叩きだしてきた会社だから、国債を発行し続ける日本国よりも財務状況は、まだまだ大丈夫だ。この販売不振が数年規模で続いても持ちこたえるだけの体力は余裕であるだろう。
だが下請けは、トヨタの風邪が1年続くだけでも、ずいぶん淘汰される運命になるだろう。トヨタなど自動車産業と関わりのある会社がない県は、おそらく日本にはないのではないかと思うので、全都道府県が、財政面、雇用面で影響を受けることになる。
38年生きてきて、不景気感も好景気感も抱いたことのない俺ではあるが、間違いなく不景気なのだろう。
この手のトピックは何度か書いたことがあるが、不景気を連呼する政府と大企業に対しての不満が依然消えない。
失業率、所得水準、企業決算、国税収入、判断する側の母体によって、色々な尺度はあるだろうが、こんなもの、単年ベースで見て、「不景気だ~不景気だ~」と垂れ流す国と大企業が、1番、不景気を作り出す作業に熱心なのではないか?という不信感がある。
現時点で職がある人と、ない人で不景気感が異なるが、以前にも書いたとおり、飢えることが困難な時代に、携帯電話を持って、パソコン持って、外食もして、趣味にも興じられる環境で不景気感を抱くのは、個人的には無理がある。
今、職を失った当事者や、求職中の人が「不景気だ」というのは、そういった人たち全員に同情したり、肯定したりはしたくはないが、言う資格はある。でも、大企業ともあろう立場の人たちが、「不景気だ~」と言ったところで、何一つプラス要素はない上に、自らの能力の無さを声高に叫んでいるだけに思えて仕方がない。
中小、零細企業が不景気感を抱くのと違って、天下のトヨタなどの大企業が、「不景気、不景気」と叫ぶのは、いかがなものかと思う。長期的なビジョンを標榜しているはずじゃないですか?と言いたくなる。
なぜなら、「不景気だ」と言うときには、首切り、減給が付随するが、景気がいい時には、その景気の良さに比例するだけの雇用確保と昇給がなされていたかといえば、そうではないと思う。
経常利益1兆円を上げました。それだけの利益が出るくらいなら、新車の価格下げたり、社員の給与をもっと上げたり、色んな還元の仕方があったはずだ。でもそうしなかったこと自体は否定しない。
なぜなら、経常利益を上げる目的は、売り上げが悪い時に備えての蓄えとしての意味を持つからだ。一般家庭が、ボーナスが多い時に、全部を使うのではなく、もしかの時に備えて貯蓄しておくのと同じだ。
でも、そうではないらしい。少し売り上げが落ちたら、大企業は下請けの工賃をカットし、自らの牙城は同じ状態を保つ。そして、さらに売り上げが悪くなれば、首切りだ。それも数年間持ちこたえて、蓄えがなくなりそうになってからではない。
ならば、好景気時に、多くの経常利益を出すことの意義はどこにあるのだろうか?言い方は悪いが、兆円規模の利益を出せる会社の、価格設定はぼったくりではなかったのかとさえ思う。企業努力でも何でもないと思う。経営者のエゴと虚栄心だけに魅せられた黒い数字への執着が産んだ利益だと思う。
政府や経済学者は、国民の預貯金に目をつけ、「不景気時にこそ、消費を刺激する政策が必要だ。たんす預金を使わせればよい。」と訳知り顔で言う。だが、そうだろうか? 国民の消費を刺激する前に、大企業が貯めこんだ、莫大な利益を吐き出させる政策が先ではないだろうかと思う。
それなのに、その大企業が「不景気」の言い訳を楯に、首切りやら賃金カットをするから、実際に不景気が蔓延する。当事者でない者まで、なんだか貧乏臭い気分になる。余剰金を吐き出さないまでも、「不景気」連呼の主導者となるのはやめて欲しい。
今、車が売れない原因を彼らは、世界的な金融危機だけのせいにしているが、そうではないと思う。壊れてもいないのに贅沢品として車を愛でて、乗り換える性質にあった国民が、ガソリン高を受けて乗り控えた結果、車というものに対して、単なる移動手段の乗り物としてだけの側面に気がついて、社会的地位や見栄えを優先した無駄な部分に気がついただけだと思う。
だから、車の販売不振は、世界景気が良くなったところで、エコへの配慮や、安全性に基づく需要以外の需要は生まれてこないと思う。少しの車マニアは依然として存在するだろうが、以前のような短い乗り換え期間に戻ることはないと思う。
ぜいたく品としての車がこれだけの市場を持てたこと自体が、バブルであったのだと思う。バブルを享受した人たちは、泡を残さず使い果たしてから、次のステップに進んで欲しい。それが企業倫理だと思う。
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