夏がく~れば、思い出す~。 に~がい味~、いなご味~。
昔、口を開けて歩いていたら、口にイナゴが入ってきたことがあった。
幼少時の俺の写真を見ると、すねて写っている時以外は、100%、口をぽかんと開けて写っている。半開きで、魂を抜かれた人のような、しまりない顔・・・。
おかんがよく俺に言った。「写真撮ってもらうときは、口をちゃんと閉じなさい。あほの子みたいやんか!」
俺は言い返した。「てめ~の子やから、あほなんじゃ!」
布団たたきで尻打ちの刑を食らった。しかも、ずぼん、パンツおろしての生尻に食らった。
そんな痛い思いがあったからだろうか、高校生くらいからは、少し口を閉じるようになってきた。「ハイチーズ!」という声が聞こえる直前まで、くちをぽかんと開けていて、瞬時に閉じるように意識していた気がする。
常時、ぽかんと口を開ける癖は無くならなかったが、写真の時だけは口を閉じるように気をつけていた。
ところが、当時の写真を見るとどうも変だ。不自然極まりないのだ。
口を閉じるということは、唇上下を閉じればいいだけなのだが、当時の俺が、口を閉じるという動作を意識すると、おちょぼってしまう。おちょぼ口は自然だとかわいいが、不自然だと気持ち悪い。
カメラに向かって、チューをおねだりしているような顔になるのだ。暗闇で女性が目を閉じて、この口をすれば、絵的に需要はあるが、明るい所で男が目をギンギンに開けておねだりポーズをとるものだから、需要はおろか、通報される危惧すらある絵になる。
ある時はおねだり顔、ある時は蛸顔、ある時は殴られる前の顔、口の閉じ方に種々のバリエーションはあれど、どれも不自然だ。
だから、当時の写真を見るのは好きじゃない。気に入った写真は数えるほどしかない。当時にデジカメが普及していなくてよかったと思う。
大学に入った頃からか、写真を撮る時の変な力みは消え、自然な顔を出来るようになった。
口を閉じるということを意識せずに、自然体で写る機会が増えていた気がする。
ところが、大学から23歳くらいまでの写真を見ると、目が逝っていることに気がついた。
どう見てもシラフじゃない目をしている。犯罪者の香りはこの時代が一番きついと思う。
俺は薬はやったことがないし、今後もすることはないが、目はジャンキーのそれだ。
思い当たることがある。当時、俺はコンタクトレンズをしていたのだが、半年で2回無くした。そうなると当然買い替え費用は捻出出来ない。1個だけ残ったレンズを片目に入れて数年間過ごしていた。
すると視線が逝くのである。おまけに常に体内には酒が入っていたので、頭はとろ~ん、目に覇気はない。
この当時の写真も見るのが好きじゃない。写真に対するトラウマを感じる。
社会人になってからは、あまり何も考えなくなった。口を閉じようとか、目を素敵にしようとか、意識がない分、不自然な顔面部位はなくなっている。
ところが社会人以降、今までに至る写真も、どこか変なのだ。
3枚に1枚は半口写真、1枚は酔ってブギ~な写真、1枚は完全に間抜け顔、
撮られていることを気付かない写真だけが唯一、人間チックであるが、それ以外はジャンル的にはオカルトな気配のものもある。
俺の写真には心霊もどきの映り込みが入ったことがない。強引に探しても、何一つ写らない。
きっとオカルトな兵隊さんも、俺とは写りたくないのかもしれない。
今、写真は嫌いじゃない。むしろ一杯撮って欲しいと思うくらいだ。それは、ルックスに自信を持てるようになったからではない。ルックスやポーズに興味がなくなり、どうでもよくなったのだ。
最近の写真でも、モザイク無しでは人前に出せないようなものが多々ある。ただ、身内のインデイーズで見る分には摘発が入らないだろう。仮に見られても、ひどさを笑い飛ばせる自信がある。写真映りが悪いのではなく、実際がこんなもんだろうと思える潔さがある。
今の写真を数十年後に振り返ってみた時に抱く感情がどんなものであるか楽しみだ。月日の経過の早さに感慨深め、写真を見ながらほくそ笑む。半口開けながら、写真模様を記す。今日は2008年の前半最終日。
2008年6月29日日曜日
感情の温度差
最近、深酒した翌朝、布団の中でなんとも言えない、もわもわした感覚に襲われる。
もわもわの中身には、自己嫌悪感があったり、すかっとする突き抜けた感覚があったり、プラスもマイナスも含まれているのだが、核には、感情の温度差を感じたことによる寂しさみたいなものがある。
元来が毒舌の性格ゆえか、飲んだ席では、結構ずばずばものを言う。自分が心から敬愛、親愛の情を持つ方との会話は楽しい時間だけが過ぎていくのだが、自分の中で、「それは違う」と思う人には、容赦なく噛み付く傾向が、年々高まってきているように思う。
偉そうに噛み付くわが身を振り返り、「お前は何様だ!」と、深い後悔の念に包まれることがある。俺の嫌いな傲慢さを自らが最も内包しているようにも思い、毒舌で吐き出した言葉が頭の中を駆け巡り、自らの心の傷となって帰ってくる。
その一方で、俺が吐きまくった言葉と主張自体を冷静に考えてみて、間違っているとは思えない。言っていることは理路整然としていて、もっともであり、白黒を無理やりつけるならば完全に俺が白いように思える。
若いときは、自分の主張の未熟さからか、言っている内容自体が的外れで、一方的で黒いものだったが、大人になってから、特に30代になってからは、客観的に見ても正しい主張をしていると思える。
問題は、正しいことであっても、しっかり相手に言う必要があるかどうかということだ。
濡れ衣を着せられての弁明の場なんかではない、ただの飲んだ席での会話に、自分の主張が正しいからといって、何でも噛み付いて説き伏せようとする動機、これをどうするかというスタンスが問題だ。
スルーすればよい局面がほとんどの中で、俺は、常に真剣に対峙してしまう。別に「ふ~ん」と聞き流せば良いことでも、「ちょっと待たんかい!」と心が反応してしまい、言葉が後追いして口に出る。
やっかいな大人になったものだと思う。
大人になって、全ての人が俺みたいな温度を持って生きていたら、古代ギリシャ風の弁論ばかりがはびこって、それはそれで暑苦しい社会になるだろう。世の中にはふれなくてよいことがたくさんあり、ふれないでよいことにふれることは、大人にとってエネルギーを浪費するだけのものかもしれない。
仕事上の、生徒対応以外の付き合いなんかでは、あらゆることにスルーして、どちらかといえば聞き役に徹している。表面的に人と上手く折り合っていく術は、歳相応、いや以上に持ち合わせていると思う。
ところが、バンドでは、ことごとく噛み付いてしまう。
昨日のブログでも、少々荒っぽいことを書いたが、やっぱり、音楽をやることに対して、真剣であればあるほど、温度差を感じると噛み付いてしまう。
お客さんに媚びないで自らの音楽観を貫くことと、お客さんに見てもらう努力をすることは別だ。たったそれだけの主張で、それは最も正論なのだが、熱く語る俺とじっと聞いている対バンの人、時間が経てば、言った俺の方がむなしくなってきた。(そんなに暴言吐いたわけではないけれど、結構毒があったように思う。)
感情の温度差があるのを認めていかねばならない。そしてその上で、自分の感情にとって適温の場所を探していけばよいことで、昨日みたいに、初めてのハコに出させていただいておきながら、そこの温度が自分と違うからといって、噛み付くのは、単なる凶暴者なだけかもしれない。
感情温度差が違う人に噛み付くのではなく、適温の場所を探す努力に、もっとエネルギーを使えば、深酒後の、変なもわもわ感はなくなるだろうと思う。
熱帯雨林気候に住む人間が、ツンドラ地帯に旅行できて、「ここは寒いのがおかしい! 俺の言っていることは正しい。」と言っているようなことを、感情レベルですることは控えていきたいと思った。
噛み付いた人、ごめんなさい。
もわもわの中身には、自己嫌悪感があったり、すかっとする突き抜けた感覚があったり、プラスもマイナスも含まれているのだが、核には、感情の温度差を感じたことによる寂しさみたいなものがある。
元来が毒舌の性格ゆえか、飲んだ席では、結構ずばずばものを言う。自分が心から敬愛、親愛の情を持つ方との会話は楽しい時間だけが過ぎていくのだが、自分の中で、「それは違う」と思う人には、容赦なく噛み付く傾向が、年々高まってきているように思う。
偉そうに噛み付くわが身を振り返り、「お前は何様だ!」と、深い後悔の念に包まれることがある。俺の嫌いな傲慢さを自らが最も内包しているようにも思い、毒舌で吐き出した言葉が頭の中を駆け巡り、自らの心の傷となって帰ってくる。
その一方で、俺が吐きまくった言葉と主張自体を冷静に考えてみて、間違っているとは思えない。言っていることは理路整然としていて、もっともであり、白黒を無理やりつけるならば完全に俺が白いように思える。
若いときは、自分の主張の未熟さからか、言っている内容自体が的外れで、一方的で黒いものだったが、大人になってから、特に30代になってからは、客観的に見ても正しい主張をしていると思える。
問題は、正しいことであっても、しっかり相手に言う必要があるかどうかということだ。
濡れ衣を着せられての弁明の場なんかではない、ただの飲んだ席での会話に、自分の主張が正しいからといって、何でも噛み付いて説き伏せようとする動機、これをどうするかというスタンスが問題だ。
スルーすればよい局面がほとんどの中で、俺は、常に真剣に対峙してしまう。別に「ふ~ん」と聞き流せば良いことでも、「ちょっと待たんかい!」と心が反応してしまい、言葉が後追いして口に出る。
やっかいな大人になったものだと思う。
大人になって、全ての人が俺みたいな温度を持って生きていたら、古代ギリシャ風の弁論ばかりがはびこって、それはそれで暑苦しい社会になるだろう。世の中にはふれなくてよいことがたくさんあり、ふれないでよいことにふれることは、大人にとってエネルギーを浪費するだけのものかもしれない。
仕事上の、生徒対応以外の付き合いなんかでは、あらゆることにスルーして、どちらかといえば聞き役に徹している。表面的に人と上手く折り合っていく術は、歳相応、いや以上に持ち合わせていると思う。
ところが、バンドでは、ことごとく噛み付いてしまう。
昨日のブログでも、少々荒っぽいことを書いたが、やっぱり、音楽をやることに対して、真剣であればあるほど、温度差を感じると噛み付いてしまう。
お客さんに媚びないで自らの音楽観を貫くことと、お客さんに見てもらう努力をすることは別だ。たったそれだけの主張で、それは最も正論なのだが、熱く語る俺とじっと聞いている対バンの人、時間が経てば、言った俺の方がむなしくなってきた。(そんなに暴言吐いたわけではないけれど、結構毒があったように思う。)
感情の温度差があるのを認めていかねばならない。そしてその上で、自分の感情にとって適温の場所を探していけばよいことで、昨日みたいに、初めてのハコに出させていただいておきながら、そこの温度が自分と違うからといって、噛み付くのは、単なる凶暴者なだけかもしれない。
感情温度差が違う人に噛み付くのではなく、適温の場所を探す努力に、もっとエネルギーを使えば、深酒後の、変なもわもわ感はなくなるだろうと思う。
熱帯雨林気候に住む人間が、ツンドラ地帯に旅行できて、「ここは寒いのがおかしい! 俺の言っていることは正しい。」と言っているようなことを、感情レベルですることは控えていきたいと思った。
噛み付いた人、ごめんなさい。
ライブ後記
28日の「ほうるもん」ライブを終えて、今帰ってきた。
個人j的なライブ後の感情としては、抜群の集中力を持った素晴らしきライブだった。
気持ちの強弱が常にあり、音に委ねる潔さがあり、他者の目を気にしない唄への没頭感と適切なテクニックがあり、現時点での満足度はかなり高かった。
初めて出させてもらうハコ、地元のタウン情報誌にも載る様な店ということで、対バンの客を奪いながら、自己のバンドの動員を増やしていくという、チープハンズでやってきた手法に期待していた。
ところが、来て下さったお客さんは俺の心ある知り合いの6人だけで、あとはゼロ!
正直失望した。我が住む町の文化レベル自体に失望した。
俺が富山に来て数年間、富山の音楽小屋に初めて行った時に感じた悪いイメージが蘇る。
動員がないバンドに限って、自己の音楽に陶酔しがちである。正直かっこ悪い。
自分たちが骨身を削って、精神を凝縮して注入して作り上げた音楽、それをライブで披露しようとする動機は自分たち精神的発露を受け止めて欲しいからだと思う。
広い意味でライブに対する動機を突き詰めたら、お客さんの数が少ないことは、落ち込むべきことであって、個人的は音楽動機自体をも左右しかねない問題なはずだ。
動員がないバンドの奴に限って、お客さんの少なさを自慢する、もしくは、お客さんのlことを気にしない傾向にある。得意げに、「俺たちの音がよければいいさ。」といった主旨を拡大解釈して悦に入る術を知っている。
あほか! ライブハウスにお客さんがいないならば、ライブの意味はない。反論があれば聞いてみたい。
俺が今回お誘いして、忙しい中をライブに来場くださった方は、決して俺と音楽的趣味が合う方ばかりではない。むしろ、俺たちがやっている音楽とは対極の音を好む方々ばかりだ。
それでも、真摯に観戦?してくださって、温かい拍手もいただけた。俺は感極まった。
人によって、動員できる人、出来ない人の差はあって当然だ。友達が多い、少ない、色々あるが、基本的な姿勢としてお客さんに来てもらおうという姿勢があるかないかの差は大きいと思う。
自分たちの音楽を棚にあげもしなければ、卑下もしない。今日は良い演奏だった。
だからこそ、色んな方に見て、体感して欲しかった。
大阪、京都、東京と、色んな大都市のライブハウスに出た時に体感した雰囲気と、地方都市のライブハウスで感じた空気は、まったくかすりもしない。
誰か、特定を批判する気持ちはない。でも誰でもライブに対する当たり前の気持ちの高揚があれば、今日のような動員はなかったはずだ。
今日来て下さった、心ある友人に最大限の感謝の念と、地方都市にありがちな、狭い価値観に基づいた稚拙な意見とスタンス。両者ともにくらったライブであった。
酔っている。誤字脱字があっても、大目に見て欲しい。
個人j的なライブ後の感情としては、抜群の集中力を持った素晴らしきライブだった。
気持ちの強弱が常にあり、音に委ねる潔さがあり、他者の目を気にしない唄への没頭感と適切なテクニックがあり、現時点での満足度はかなり高かった。
初めて出させてもらうハコ、地元のタウン情報誌にも載る様な店ということで、対バンの客を奪いながら、自己のバンドの動員を増やしていくという、チープハンズでやってきた手法に期待していた。
ところが、来て下さったお客さんは俺の心ある知り合いの6人だけで、あとはゼロ!
正直失望した。我が住む町の文化レベル自体に失望した。
俺が富山に来て数年間、富山の音楽小屋に初めて行った時に感じた悪いイメージが蘇る。
動員がないバンドに限って、自己の音楽に陶酔しがちである。正直かっこ悪い。
自分たちが骨身を削って、精神を凝縮して注入して作り上げた音楽、それをライブで披露しようとする動機は自分たち精神的発露を受け止めて欲しいからだと思う。
広い意味でライブに対する動機を突き詰めたら、お客さんの数が少ないことは、落ち込むべきことであって、個人的は音楽動機自体をも左右しかねない問題なはずだ。
動員がないバンドの奴に限って、お客さんの少なさを自慢する、もしくは、お客さんのlことを気にしない傾向にある。得意げに、「俺たちの音がよければいいさ。」といった主旨を拡大解釈して悦に入る術を知っている。
あほか! ライブハウスにお客さんがいないならば、ライブの意味はない。反論があれば聞いてみたい。
俺が今回お誘いして、忙しい中をライブに来場くださった方は、決して俺と音楽的趣味が合う方ばかりではない。むしろ、俺たちがやっている音楽とは対極の音を好む方々ばかりだ。
それでも、真摯に観戦?してくださって、温かい拍手もいただけた。俺は感極まった。
人によって、動員できる人、出来ない人の差はあって当然だ。友達が多い、少ない、色々あるが、基本的な姿勢としてお客さんに来てもらおうという姿勢があるかないかの差は大きいと思う。
自分たちの音楽を棚にあげもしなければ、卑下もしない。今日は良い演奏だった。
だからこそ、色んな方に見て、体感して欲しかった。
大阪、京都、東京と、色んな大都市のライブハウスに出た時に体感した雰囲気と、地方都市のライブハウスで感じた空気は、まったくかすりもしない。
誰か、特定を批判する気持ちはない。でも誰でもライブに対する当たり前の気持ちの高揚があれば、今日のような動員はなかったはずだ。
今日来て下さった、心ある友人に最大限の感謝の念と、地方都市にありがちな、狭い価値観に基づいた稚拙な意見とスタンス。両者ともにくらったライブであった。
酔っている。誤字脱字があっても、大目に見て欲しい。
2008年6月27日金曜日
機械がくれた機会
まずは、宣伝。
明日、富山市「村門」にて、ほうるもんライブします。出番は20時ごろで、60分近く演奏します。
暗黒ロックというコンセプトでのセットメニュー、いいライブしてきます。初ハコなんで、久々の感覚です。
昨日、携帯電話のトラブルがあった。保護者から着信があり、電話に出たのだが、全く音声が出ない。こちらの声が相手に届かないだけでなく、こちらも相手の声が聞こえない。全くの無音状態だった。画面に相手の名前が表示され、バイブも機能していたのだが、無音状態。
職場の電話でかけなおし、進路相談の要件は済んだのだが、その後、携帯電話から発信しても、あの、「プップップッ」から「プルルル~プルルル~」に至る音が全く出ない。
電波は3本びっしりとそびえたっている。おかしい。
ちょうど、期末テストが終わり、進路相談が重なる時期でもあり、携帯の故障としては最悪のタイミング。最近は、ソフトバンク同士の通話料が安いので、ソフトバンクの保護者は、職場の電話より携帯にかけてくる。そのため、非常に不都合だった。
最寄りのショップに電話して原因を尋ねると、機器の故障以外考えられないという。メモリーの一部消えるかもしれないが、修理するしかないという。仕方がないからショップに行き、メモリーに保管していた、詩の断片メモだけマイパソコンに送って、修理依頼書を書いた。
すぐに代替機を用意してくれ、アドレスだけ臨時で写して職場に戻る。
戻ってすぐに職場に電話があり、「携帯に電話したら、現在使われておりませんって言ってたよ!」と教えてもらう。
な、なんでやねん! 口座引き落としで金せしめておいて、俺に許可なく使われておりませんって何事や! 俺は孫君の顔を思い浮かべ、憤りまくった。
すぐに、ショップに電話して、「かんにんして~、代替機も故障なんでっか? システム障害ちゃうん?」と言うと、また持ってきてくれという。
なめとんか! 取りにこさせたいところだが、ジェントルな俺は二往復目に旅立った。
持っていくと、かちゃかちゃいじりだしたあと、「すみません。今は通じるようになりました。」とのこと。そして、その代替機を俺に渡しやがる。
「今大丈夫って、さっきはなんで大丈夫違ったんですか?」と言うと、「わからない。」という。そして、「修理に出しておきますので、治ったらメール入れます、と言う。
「ちょっと待ちなはれ! 俺の携帯機って壊れてるん? 単なるシステム障害やったんとちゃうん?」 と、少々きつい口調で言った。俺の感情のバンクはソフトではなくなった。
「あ、そうですね。じゃあ、試してみてくれますか?」と言う。
当然、何の問題もなく、バリバリ通じる。僕の二往復はなんだったの?
結局、数時間の間、電話はかかるが、音が出ないという原因不明のシステム障害があっただけで、機器自体には何の問題もなかったらしい。非常に無駄な時間を過ごした。
それにしても、電話が一時的に通じないくらい、冷静に考えたらどうってことない、鼻くそみたいな問題なのだが、非常に不便に感じた。
携帯電話を当たり前に使っているけど、便利なようで実はむちゃくちゃヤバイもののようにも感じた。
携帯電話なんてものがなければ、人と人の連絡には時間的な大らかさがあって、誰も出なければ時間をおいてかけなおせば良いだけだった。緊急の事態なんかは、そう頻繁にあるものでもないのに、携帯電話が普及すると、何でもが無理やり緊急感を持ち出したように思う。
携帯電話に限らない。メールの普及で、伝達は同時性を帯びてきた。本当に電波に乗せて伝えないといけないことなんか、突き詰めて考えたらあまりないのだけれど、伝達が要求されるようになった。
便利さの追求で生まれた機器だが、実は人から時間と労力を多大に要求するようになっただけのようにも思う。大らかさが消え、実に慌しい日々が訪れただけのように思う。
物流面においては、発注して翌日納品が当たり前になったし、客からの電話は即連絡が飛び交う。ほとんどは緊急ではないのだが、同時性を持ってすぐに何かを必要とする。
パソコンを使用しての事務処理の多くは、一見作業を便利にさせたように思えるが、パソコンが普及しなかったら作成も不要であったドキュメントも増えているように思う。
毎日の生活で、パソを開き、メールをし、色んなサイトを訪問する。この行為が当たり前になっていて、昔の時間の過ごし方を忘れている。
俺の場合、読書時間や音楽を聴く時間などの総計は変化していないので、新たに別の時間が24時間内に入り込んだだけだ。
ブログを書くことは楽しい。人のブログを見るのも楽しい。以前には考えられなかったが、今後も俺はパソコン、携帯電話を好意的に使い続けていくだろう。
ただ、それが便利になったとは決して考えてはいない。インターネットで色々調べ物はたくさん出来るが、本気で調べたい時は書をあたる。中間の時間が増えただけで、最初から書籍にあたっても何の不都合もない。
なんでもだが、要は使いこなし方、関わり方の問題なのだが、いくら自分がスタンスを保とうとしていても、これだけの普及があると、頑なに拒否できない側面もある。それに、1度機器が生活に入ってしまうと、それ無しの生活が考えられない負の柔軟性を人間は持っている。
携帯電話、パソコンの普及のメリット・デメリットは一概に言えないが、人から時間を奪い、心を失わせる機会だけは確実に増やしたように思う。時間を奪われるか、心を失うかは人それぞれの自己責任だ。こうなってしまった以上、拒否もせず、賛美もせずに自分のスタンスで今後も関わっていきたいと思う。
今一度、個人的な関わり方の視点を見直す良い機会になった。機械がくれた機会。携帯ショップの中の待ち時間、いろいろ考えて、最後にはジェントルに店を出た。
職場への戻り道は、時間が緩やかに流れる気がした。
明日、富山市「村門」にて、ほうるもんライブします。出番は20時ごろで、60分近く演奏します。
暗黒ロックというコンセプトでのセットメニュー、いいライブしてきます。初ハコなんで、久々の感覚です。
昨日、携帯電話のトラブルがあった。保護者から着信があり、電話に出たのだが、全く音声が出ない。こちらの声が相手に届かないだけでなく、こちらも相手の声が聞こえない。全くの無音状態だった。画面に相手の名前が表示され、バイブも機能していたのだが、無音状態。
職場の電話でかけなおし、進路相談の要件は済んだのだが、その後、携帯電話から発信しても、あの、「プップップッ」から「プルルル~プルルル~」に至る音が全く出ない。
電波は3本びっしりとそびえたっている。おかしい。
ちょうど、期末テストが終わり、進路相談が重なる時期でもあり、携帯の故障としては最悪のタイミング。最近は、ソフトバンク同士の通話料が安いので、ソフトバンクの保護者は、職場の電話より携帯にかけてくる。そのため、非常に不都合だった。
最寄りのショップに電話して原因を尋ねると、機器の故障以外考えられないという。メモリーの一部消えるかもしれないが、修理するしかないという。仕方がないからショップに行き、メモリーに保管していた、詩の断片メモだけマイパソコンに送って、修理依頼書を書いた。
すぐに代替機を用意してくれ、アドレスだけ臨時で写して職場に戻る。
戻ってすぐに職場に電話があり、「携帯に電話したら、現在使われておりませんって言ってたよ!」と教えてもらう。
な、なんでやねん! 口座引き落としで金せしめておいて、俺に許可なく使われておりませんって何事や! 俺は孫君の顔を思い浮かべ、憤りまくった。
すぐに、ショップに電話して、「かんにんして~、代替機も故障なんでっか? システム障害ちゃうん?」と言うと、また持ってきてくれという。
なめとんか! 取りにこさせたいところだが、ジェントルな俺は二往復目に旅立った。
持っていくと、かちゃかちゃいじりだしたあと、「すみません。今は通じるようになりました。」とのこと。そして、その代替機を俺に渡しやがる。
「今大丈夫って、さっきはなんで大丈夫違ったんですか?」と言うと、「わからない。」という。そして、「修理に出しておきますので、治ったらメール入れます、と言う。
「ちょっと待ちなはれ! 俺の携帯機って壊れてるん? 単なるシステム障害やったんとちゃうん?」 と、少々きつい口調で言った。俺の感情のバンクはソフトではなくなった。
「あ、そうですね。じゃあ、試してみてくれますか?」と言う。
当然、何の問題もなく、バリバリ通じる。僕の二往復はなんだったの?
結局、数時間の間、電話はかかるが、音が出ないという原因不明のシステム障害があっただけで、機器自体には何の問題もなかったらしい。非常に無駄な時間を過ごした。
それにしても、電話が一時的に通じないくらい、冷静に考えたらどうってことない、鼻くそみたいな問題なのだが、非常に不便に感じた。
携帯電話を当たり前に使っているけど、便利なようで実はむちゃくちゃヤバイもののようにも感じた。
携帯電話なんてものがなければ、人と人の連絡には時間的な大らかさがあって、誰も出なければ時間をおいてかけなおせば良いだけだった。緊急の事態なんかは、そう頻繁にあるものでもないのに、携帯電話が普及すると、何でもが無理やり緊急感を持ち出したように思う。
携帯電話に限らない。メールの普及で、伝達は同時性を帯びてきた。本当に電波に乗せて伝えないといけないことなんか、突き詰めて考えたらあまりないのだけれど、伝達が要求されるようになった。
便利さの追求で生まれた機器だが、実は人から時間と労力を多大に要求するようになっただけのようにも思う。大らかさが消え、実に慌しい日々が訪れただけのように思う。
物流面においては、発注して翌日納品が当たり前になったし、客からの電話は即連絡が飛び交う。ほとんどは緊急ではないのだが、同時性を持ってすぐに何かを必要とする。
パソコンを使用しての事務処理の多くは、一見作業を便利にさせたように思えるが、パソコンが普及しなかったら作成も不要であったドキュメントも増えているように思う。
毎日の生活で、パソを開き、メールをし、色んなサイトを訪問する。この行為が当たり前になっていて、昔の時間の過ごし方を忘れている。
俺の場合、読書時間や音楽を聴く時間などの総計は変化していないので、新たに別の時間が24時間内に入り込んだだけだ。
ブログを書くことは楽しい。人のブログを見るのも楽しい。以前には考えられなかったが、今後も俺はパソコン、携帯電話を好意的に使い続けていくだろう。
ただ、それが便利になったとは決して考えてはいない。インターネットで色々調べ物はたくさん出来るが、本気で調べたい時は書をあたる。中間の時間が増えただけで、最初から書籍にあたっても何の不都合もない。
なんでもだが、要は使いこなし方、関わり方の問題なのだが、いくら自分がスタンスを保とうとしていても、これだけの普及があると、頑なに拒否できない側面もある。それに、1度機器が生活に入ってしまうと、それ無しの生活が考えられない負の柔軟性を人間は持っている。
携帯電話、パソコンの普及のメリット・デメリットは一概に言えないが、人から時間を奪い、心を失わせる機会だけは確実に増やしたように思う。時間を奪われるか、心を失うかは人それぞれの自己責任だ。こうなってしまった以上、拒否もせず、賛美もせずに自分のスタンスで今後も関わっていきたいと思う。
今一度、個人的な関わり方の視点を見直す良い機会になった。機械がくれた機会。携帯ショップの中の待ち時間、いろいろ考えて、最後にはジェントルに店を出た。
職場への戻り道は、時間が緩やかに流れる気がした。
2008年6月26日木曜日
公務員
大阪府知事の橋下氏はなかなか奮闘していると思う。
タレントとして「行列のできる~~~」に出演していた時は、自己アピールの仕方がうっとうしくもあり好きになれなかった。感情の表し方が役者くさくて、いらだちさえ覚えたものだ。
だから、大阪府知事になられた時は、とんでもない人が知事になって、大阪も終わりやとまでも思った。
ところがどうしてどうして、すごく仕事していないか? もちろん、若さゆえの暴走もあるが、とにかく本気感は伝わる。独りよがりな部分を持ち合わせながらも、綺麗事を拝して、自己信念で突っ走る行動力は、好き嫌い、主張の是非は別にして称えられるべきだと思う。昨日は国会議員にもしっかり噛み付いていたし、怖いもの知らずの今のうちに、どんどん突っ走ってほしい。今は橋下知事に好意を寄せている。
ただ、好意とはいったものの、彼の主張でどうも好きになれないものがある。
昨日、国会議員の勉強会で言ったとされる、「公務員の給料を一律さげないことには、国民は納得しない。下げた上で増税を議論したらよい。」という知事の主張だ。
公務員でない俺からすると、喜んで指示したくなるような主張だが、ちょっと乱暴な気がする。
景気が良い時に、民間並みの査定が行われ、昇給も賞与も大幅アップする可能性を秘めているならばいざ知らず、景気が悪いときだけ、まず最初にお上叩きで狙われたんじゃ、いくらなんでもかわいそうだ。
公務員の方々は、しっかりと試験を受けてクリアした人たちだ。景気に左右されない安定性が最初の前提で、その地位に立つべく、一定期間の努力をしてこられた方々だ。
公務員がうらやましいならば、うらやましがる人たちも目指すべきであっただけで、なれなかった者が、彼らを何でもかんでも叩き、そこから給与をむしりとろうなんていうのは、民間人の精神レベルの稚拙さをお上に露呈しているだけにすぎない。
税収が減った国が、喫煙者からの増税を企むのと同じ思想であり、世論の大多数が支持に回りそうな主張ほど、実はとっても危なくて暴論である気がする。一律カットはありえないと思う。
仮に一律カットされたところで、被害を受けるのは、真面目に公務をこなしておられる方々がほとんどであり、公務員バッシングの原因を作っている奴らは、なんだか抜け道を探して別名義の補填を出来るシステムを作るに決まっている。
と、ここまでは公務員弁護。
とは言ったものの、将来の安定を保証されているからといって、税金が給与の原資となっていることを踏まえると、なんでもかんでも公務員擁護の気にもなれない。
民間みたいに、特別な激務をこなしてもらう必要はない。彼らは試験合格者であるから、民間よりはゆったりとした時間で、福利厚生もしっかりした中で、当たり前の仕事を的確にしてくれたら何も文句は言わない。
ただ、当たり前のこともできない人に対しては、税金で面倒を見る気になれない。彼らが公務員全体の評価を悪くしているし、最低限のことが出来ない人を間引くシステムは必要だと思う。
当たり前のことをできたら将来の安定を約束、出来なければ消えてもらう。単純明快なことだ。真面目に仕事をしている人も含めて一律カットで給与を下げるより、当たり前のことが出来ていない人を間引くほうが、残念ながら金額は大きいと思う。
じゃあどうやって止めてもらうシステムを作るかだが、これが難しい。個人的な好き嫌いが裁きに入らないシステムは実質的には無理だとも思う。個人による仕事の能力差もあるだろうし、見た目がやる気ありそうな人となさそうな人とでは、最初から客観的評価という観点で不公平がある。
ただ、誰が見ても仕事をしていない人は確実にいる。そんな人を裁きにかけてもらう要望を、もっと気軽に出せるシステムは作ってほしい。もちろん、要望を書く人間もプライバシーを明らかにし、文責をもった上で要望書を書くのだ。公務員憎し!が前提にあるような奴の感情的な要望で裁きにかけられる公務員がいたら、あまりにかわいそうなので、両者に均等な機会と発言責任を負わせて、持たせてあげれば、不公平感はないと思う。
もし、裁きにかけられた人が、実はしっかり仕事をしている人であるならば、適切な弁護者が多数出てくるだろうし、クレームが趣味の訴えた奴の方が恥をかく結果になるだろう。裁判員の民間からの参加は、こういった公務員対民間人の要件に用いられたらよいと思う。
一昨日、国民健康保険加入者対象の、市が補助する健康診断の概要を聞きに、ある公的機関に行ってきた。
そこには、個人的な電話を公的な通信費を使って、何の恥じらいもなくしている人(ためぐちと笑い声のみの会話が公務のはずがない。俺がいる間、ずっと話していた。)がいた。
その人が話をしているおかげで、窓口対応者がいない。仕方なく、一番奥に座った、偉いさんらしき人が、面倒くさそうに出てきて、俺の対応をした。奥のほうには、事務をしている若い人がいた。
「市の補助がある健康診断について知りたいのですが。」と切り出すと、その偉いさんは、「今年からシステムが変わって、もう終わりました。」と言いやがる。それも無愛想にだ。
「いや、知り合いが今日、それで健診してきたのですが? 今日までやったのですか?」
と聞くと、
「え~? そう? ちょっと待って。」と言って、奥にいる若い事務に聞きにいく始末。
結局、その事務員の方が、詳しく知っていて教えてくれたのであるが、終わっているどころか、俺の年齢はこれからの申込みだった。
こういった事例、どう考えても職務の知識不足で、個人の能力差なんかではない、単なる怠惰が原因だ。
こんな人がいたら、俺が実名で要望書を書く。「○月○日、~にて、~さんとの対応時・・・」から始めて、先に述べた実情を書く。
それに対して反論の機会を設ける。この間は当事者間だけのやりとりだ。そして、反論が的を得ていない場合、さらに上の裁きの場を設ける。そこでは、全員への公開となる。
こんなシステムを作ることぐらいは必要な気がする。要望をあげる市民側にもいるであろう、理不尽なことを言い出す奴を排除するため、要望が2回棄却されたら、その人は要望をあげる権利を失わせればよい。
そして、あくまで、公務員の方々は試験をクリアされた方々であるから、民間と同じ尺度で要望をあげることがないように啓蒙する。例えば、「~さんは5時ちょうどに帰っていた。仕事をしていない。」、「~さんは大型連休をとって海外旅行をしていた。」なんかは、いちゃもんであり、公務員の方に非があるとは思えないので、却下するのだ。
あくまで、最低限の仕事が出来ているか出来ていないかだけを尺度に要望をあげる。
そうすれば、真面目に仕事をされている多くの善良な公務員の方々にとっても、嫌な上司、同僚は弾劾されるし、精神的苦痛も減ると思う。
橋下知事の公務員の給与一律カットの問題提起が、議論を経て発展し、先述したようなシステム構築にまで話が及ぶことを一個人として期待している。
タレントとして「行列のできる~~~」に出演していた時は、自己アピールの仕方がうっとうしくもあり好きになれなかった。感情の表し方が役者くさくて、いらだちさえ覚えたものだ。
だから、大阪府知事になられた時は、とんでもない人が知事になって、大阪も終わりやとまでも思った。
ところがどうしてどうして、すごく仕事していないか? もちろん、若さゆえの暴走もあるが、とにかく本気感は伝わる。独りよがりな部分を持ち合わせながらも、綺麗事を拝して、自己信念で突っ走る行動力は、好き嫌い、主張の是非は別にして称えられるべきだと思う。昨日は国会議員にもしっかり噛み付いていたし、怖いもの知らずの今のうちに、どんどん突っ走ってほしい。今は橋下知事に好意を寄せている。
ただ、好意とはいったものの、彼の主張でどうも好きになれないものがある。
昨日、国会議員の勉強会で言ったとされる、「公務員の給料を一律さげないことには、国民は納得しない。下げた上で増税を議論したらよい。」という知事の主張だ。
公務員でない俺からすると、喜んで指示したくなるような主張だが、ちょっと乱暴な気がする。
景気が良い時に、民間並みの査定が行われ、昇給も賞与も大幅アップする可能性を秘めているならばいざ知らず、景気が悪いときだけ、まず最初にお上叩きで狙われたんじゃ、いくらなんでもかわいそうだ。
公務員の方々は、しっかりと試験を受けてクリアした人たちだ。景気に左右されない安定性が最初の前提で、その地位に立つべく、一定期間の努力をしてこられた方々だ。
公務員がうらやましいならば、うらやましがる人たちも目指すべきであっただけで、なれなかった者が、彼らを何でもかんでも叩き、そこから給与をむしりとろうなんていうのは、民間人の精神レベルの稚拙さをお上に露呈しているだけにすぎない。
税収が減った国が、喫煙者からの増税を企むのと同じ思想であり、世論の大多数が支持に回りそうな主張ほど、実はとっても危なくて暴論である気がする。一律カットはありえないと思う。
仮に一律カットされたところで、被害を受けるのは、真面目に公務をこなしておられる方々がほとんどであり、公務員バッシングの原因を作っている奴らは、なんだか抜け道を探して別名義の補填を出来るシステムを作るに決まっている。
と、ここまでは公務員弁護。
とは言ったものの、将来の安定を保証されているからといって、税金が給与の原資となっていることを踏まえると、なんでもかんでも公務員擁護の気にもなれない。
民間みたいに、特別な激務をこなしてもらう必要はない。彼らは試験合格者であるから、民間よりはゆったりとした時間で、福利厚生もしっかりした中で、当たり前の仕事を的確にしてくれたら何も文句は言わない。
ただ、当たり前のこともできない人に対しては、税金で面倒を見る気になれない。彼らが公務員全体の評価を悪くしているし、最低限のことが出来ない人を間引くシステムは必要だと思う。
当たり前のことをできたら将来の安定を約束、出来なければ消えてもらう。単純明快なことだ。真面目に仕事をしている人も含めて一律カットで給与を下げるより、当たり前のことが出来ていない人を間引くほうが、残念ながら金額は大きいと思う。
じゃあどうやって止めてもらうシステムを作るかだが、これが難しい。個人的な好き嫌いが裁きに入らないシステムは実質的には無理だとも思う。個人による仕事の能力差もあるだろうし、見た目がやる気ありそうな人となさそうな人とでは、最初から客観的評価という観点で不公平がある。
ただ、誰が見ても仕事をしていない人は確実にいる。そんな人を裁きにかけてもらう要望を、もっと気軽に出せるシステムは作ってほしい。もちろん、要望を書く人間もプライバシーを明らかにし、文責をもった上で要望書を書くのだ。公務員憎し!が前提にあるような奴の感情的な要望で裁きにかけられる公務員がいたら、あまりにかわいそうなので、両者に均等な機会と発言責任を負わせて、持たせてあげれば、不公平感はないと思う。
もし、裁きにかけられた人が、実はしっかり仕事をしている人であるならば、適切な弁護者が多数出てくるだろうし、クレームが趣味の訴えた奴の方が恥をかく結果になるだろう。裁判員の民間からの参加は、こういった公務員対民間人の要件に用いられたらよいと思う。
一昨日、国民健康保険加入者対象の、市が補助する健康診断の概要を聞きに、ある公的機関に行ってきた。
そこには、個人的な電話を公的な通信費を使って、何の恥じらいもなくしている人(ためぐちと笑い声のみの会話が公務のはずがない。俺がいる間、ずっと話していた。)がいた。
その人が話をしているおかげで、窓口対応者がいない。仕方なく、一番奥に座った、偉いさんらしき人が、面倒くさそうに出てきて、俺の対応をした。奥のほうには、事務をしている若い人がいた。
「市の補助がある健康診断について知りたいのですが。」と切り出すと、その偉いさんは、「今年からシステムが変わって、もう終わりました。」と言いやがる。それも無愛想にだ。
「いや、知り合いが今日、それで健診してきたのですが? 今日までやったのですか?」
と聞くと、
「え~? そう? ちょっと待って。」と言って、奥にいる若い事務に聞きにいく始末。
結局、その事務員の方が、詳しく知っていて教えてくれたのであるが、終わっているどころか、俺の年齢はこれからの申込みだった。
こういった事例、どう考えても職務の知識不足で、個人の能力差なんかではない、単なる怠惰が原因だ。
こんな人がいたら、俺が実名で要望書を書く。「○月○日、~にて、~さんとの対応時・・・」から始めて、先に述べた実情を書く。
それに対して反論の機会を設ける。この間は当事者間だけのやりとりだ。そして、反論が的を得ていない場合、さらに上の裁きの場を設ける。そこでは、全員への公開となる。
こんなシステムを作ることぐらいは必要な気がする。要望をあげる市民側にもいるであろう、理不尽なことを言い出す奴を排除するため、要望が2回棄却されたら、その人は要望をあげる権利を失わせればよい。
そして、あくまで、公務員の方々は試験をクリアされた方々であるから、民間と同じ尺度で要望をあげることがないように啓蒙する。例えば、「~さんは5時ちょうどに帰っていた。仕事をしていない。」、「~さんは大型連休をとって海外旅行をしていた。」なんかは、いちゃもんであり、公務員の方に非があるとは思えないので、却下するのだ。
あくまで、最低限の仕事が出来ているか出来ていないかだけを尺度に要望をあげる。
そうすれば、真面目に仕事をされている多くの善良な公務員の方々にとっても、嫌な上司、同僚は弾劾されるし、精神的苦痛も減ると思う。
橋下知事の公務員の給与一律カットの問題提起が、議論を経て発展し、先述したようなシステム構築にまで話が及ぶことを一個人として期待している。
2008年6月24日火曜日
モンスターおやじ
(玄関の扉を開ける)
おい! 雨やんけ、ざぁーざぁーやんけ! 天気予報のちやんねえ、またいい加減なことぬかしやがったな。ほんましゃきっと当てたらんかい!
男は傘なんか、やわなもんは持たん。雨ごときに合わせられるかい。天の神さんのしょんべんやんけ。濡れたらんかい! おい、雷! うるさいど! 吠えるな、だぼ! 俺のへそ拝ましたろ! ほ~れほ~れぃ! まいったか? 取れるもんなら取ったらんかい!
(車を走らせる)
くお~ら、パイワー! おまえ、全然水退治してへんやんけ! 俺の真正面ばっかり雨残しやがって! 何へばっとるねん! お前なんかゴミ行きじゃ!
(ガソリンスタンドに入る)
おい、そこの丁稚、わしのワイパー換えたれや! シャキッと気合入ったやつにやぞ!
はよせ~や!
(店員)
「ありがとうございます。1700円になります」
おい! なんで水吹きがそんなに高いねん。 1700円あったら、わしの車に10リットル餌食わせれるやんけ! ただのゴムを針金みたいなんに付けただけちゃうんか? あん?? ちょっと、ぼってるんちゃうか? わしからぼろうなんて、ちゃん兄、え~根性しとるやんけ!
(店員)
「精一杯勉強させてもらっています。これ以上は安くならないで、もし嫌でしたら他でお買い求めください。 他でも同じくらいの価格と思いますが・・・。」
おうおう! え~文句たれるやんけ。 わしは銭がもったいのうと言うてるんとちゃうど! こんなゴムに棒かましたやつが1700円って、おかしいと思わんか? あん?
おれ、おかしいこと言うてるか? ちがうか? ちがうか?
(店員)
「そ、そうですね~。でも相場ですから・・・。当店は目一杯の価格ですから。」
わかったわい。ちゃん兄に免じて払ったろ! ただ、最後に聞くど! おどれ、わしからぼったくってないな? え~か、目~見て答えてみい。
(ガソリンスタンドを後にして、パチンコ屋へ)
昨日は3万パチンコ貯金したからのぉ、今日はがっつり引き出すど!
おい、そこの制服! 今日出る台教えろや! 何? どれもだ~?? ふん、うまいこと言いよるの~。 まあええか、わしの腕で、スロットマシン、いてこましたらあ!
(スロット打ち出し、それなりに出る。)
おい、そこのちゃんねえ! コーヒー買ってきたらんかい! 苦いのあかんど、ミルク砂糖たっぷりのホットやど! おい、それから、ちょい、ふ~ふ~してから持ってきてくれや! あんじょうよう頼むど! お前もなんか飲むか? いらん? 何遠慮してけつかんどん! まあえ~わ。 あとから飲みたいいうてもしらんど!
(携帯電話が鳴る)
おう、わしや、今しのぎの博打中じゃ、後からかけなおせ。 何? 今日、健康診断だあ??!! 誰がそんなこと決めてん! わし?? ははあん、うちのくそ嫁が申し込んだんやな・・・。 わぁ~った。 もうちょい待ったらんかい。 カラス鳴くまでに行ったるわい!
(健康診断場所に行く)
おう、わしじゃ! 待たせたのわれ! あん? 検便キットだあ? んなもんあるかい! ここで採ったらんかい! 今すぐ出したるど!
(採血をする)
おい、吸血女! わしの柔肌、傷つけんなよ! こら! おまえどんだけ吸い取る気じゃ!ほんでから、ちょい針太くないか? わしに恨みあるんかい!
いたっいたっ、いたいいたいたい! くお~ら! はよ~抜け!
軽くもんでくださいだあ?? おどれ、血ぃ吸わしたってんから、もんだらんかい!
(胃カメラ始まる)
なんや、このカスカスの豆乳は?? バリウム? バリウムかリチウムかしらんけど、わし喉かわいとるねん! 早く飲ませたれや! ゴクゴクグビ!!
まっず~~~ぅ! なんやこれ? 生コンかい! わしのぽんぽん固めてどないするねん! そこに座ってくださいだぁ?? 何する気や? しゃあない座ったるから、終わったら牛乳たっぷりのませてくれや!
くお~ら! ぐるんぐるん回すな。 デズニーランドかい! でも、おもろいど~、もっと回したらんかい! なんや? もう終わりかい。
なんや、この豆粒は?? 下剤? 今すぐ飲めだ? わぁ~った。飲んだるさかい、けちけちせんと、もう何粒かくれや! 腹へっとんねん! ガリガリガリゴリ・・・。
(下剤効いてくる)
なんやなんや? ピーピーうるさいど。僕ちゃん腹痛??? 昼間、雷君にへそみせたからかい? くお~ら、なりかみ! おどれ執念深いやっちゃのう! わし今ホスピタルやんけ! 許したらんかい!
それにしてもひどいど! あかん、も、もれそう! あのドクター、毒盛りやがったな~。 気分も悪いど! さぶ、さぶい、さぶい、あかん、俺いんけつや!
なあああんや、これ! 便ちゃん白いど! 毒や、毒byドクターや! あかん、僕ちゃん死ぬ~~~~・・・・・・・・。
(気を失い悶絶、便所の床に頭を打ちつけお隠れ! モンスター便死)
おい! 雨やんけ、ざぁーざぁーやんけ! 天気予報のちやんねえ、またいい加減なことぬかしやがったな。ほんましゃきっと当てたらんかい!
男は傘なんか、やわなもんは持たん。雨ごときに合わせられるかい。天の神さんのしょんべんやんけ。濡れたらんかい! おい、雷! うるさいど! 吠えるな、だぼ! 俺のへそ拝ましたろ! ほ~れほ~れぃ! まいったか? 取れるもんなら取ったらんかい!
(車を走らせる)
くお~ら、パイワー! おまえ、全然水退治してへんやんけ! 俺の真正面ばっかり雨残しやがって! 何へばっとるねん! お前なんかゴミ行きじゃ!
(ガソリンスタンドに入る)
おい、そこの丁稚、わしのワイパー換えたれや! シャキッと気合入ったやつにやぞ!
はよせ~や!
(店員)
「ありがとうございます。1700円になります」
おい! なんで水吹きがそんなに高いねん。 1700円あったら、わしの車に10リットル餌食わせれるやんけ! ただのゴムを針金みたいなんに付けただけちゃうんか? あん?? ちょっと、ぼってるんちゃうか? わしからぼろうなんて、ちゃん兄、え~根性しとるやんけ!
(店員)
「精一杯勉強させてもらっています。これ以上は安くならないで、もし嫌でしたら他でお買い求めください。 他でも同じくらいの価格と思いますが・・・。」
おうおう! え~文句たれるやんけ。 わしは銭がもったいのうと言うてるんとちゃうど! こんなゴムに棒かましたやつが1700円って、おかしいと思わんか? あん?
おれ、おかしいこと言うてるか? ちがうか? ちがうか?
(店員)
「そ、そうですね~。でも相場ですから・・・。当店は目一杯の価格ですから。」
わかったわい。ちゃん兄に免じて払ったろ! ただ、最後に聞くど! おどれ、わしからぼったくってないな? え~か、目~見て答えてみい。
(ガソリンスタンドを後にして、パチンコ屋へ)
昨日は3万パチンコ貯金したからのぉ、今日はがっつり引き出すど!
おい、そこの制服! 今日出る台教えろや! 何? どれもだ~?? ふん、うまいこと言いよるの~。 まあええか、わしの腕で、スロットマシン、いてこましたらあ!
(スロット打ち出し、それなりに出る。)
おい、そこのちゃんねえ! コーヒー買ってきたらんかい! 苦いのあかんど、ミルク砂糖たっぷりのホットやど! おい、それから、ちょい、ふ~ふ~してから持ってきてくれや! あんじょうよう頼むど! お前もなんか飲むか? いらん? 何遠慮してけつかんどん! まあえ~わ。 あとから飲みたいいうてもしらんど!
(携帯電話が鳴る)
おう、わしや、今しのぎの博打中じゃ、後からかけなおせ。 何? 今日、健康診断だあ??!! 誰がそんなこと決めてん! わし?? ははあん、うちのくそ嫁が申し込んだんやな・・・。 わぁ~った。 もうちょい待ったらんかい。 カラス鳴くまでに行ったるわい!
(健康診断場所に行く)
おう、わしじゃ! 待たせたのわれ! あん? 検便キットだあ? んなもんあるかい! ここで採ったらんかい! 今すぐ出したるど!
(採血をする)
おい、吸血女! わしの柔肌、傷つけんなよ! こら! おまえどんだけ吸い取る気じゃ!ほんでから、ちょい針太くないか? わしに恨みあるんかい!
いたっいたっ、いたいいたいたい! くお~ら! はよ~抜け!
軽くもんでくださいだあ?? おどれ、血ぃ吸わしたってんから、もんだらんかい!
(胃カメラ始まる)
なんや、このカスカスの豆乳は?? バリウム? バリウムかリチウムかしらんけど、わし喉かわいとるねん! 早く飲ませたれや! ゴクゴクグビ!!
まっず~~~ぅ! なんやこれ? 生コンかい! わしのぽんぽん固めてどないするねん! そこに座ってくださいだぁ?? 何する気や? しゃあない座ったるから、終わったら牛乳たっぷりのませてくれや!
くお~ら! ぐるんぐるん回すな。 デズニーランドかい! でも、おもろいど~、もっと回したらんかい! なんや? もう終わりかい。
なんや、この豆粒は?? 下剤? 今すぐ飲めだ? わぁ~った。飲んだるさかい、けちけちせんと、もう何粒かくれや! 腹へっとんねん! ガリガリガリゴリ・・・。
(下剤効いてくる)
なんやなんや? ピーピーうるさいど。僕ちゃん腹痛??? 昼間、雷君にへそみせたからかい? くお~ら、なりかみ! おどれ執念深いやっちゃのう! わし今ホスピタルやんけ! 許したらんかい!
それにしてもひどいど! あかん、も、もれそう! あのドクター、毒盛りやがったな~。 気分も悪いど! さぶ、さぶい、さぶい、あかん、俺いんけつや!
なあああんや、これ! 便ちゃん白いど! 毒や、毒byドクターや! あかん、僕ちゃん死ぬ~~~~・・・・・・・・。
(気を失い悶絶、便所の床に頭を打ちつけお隠れ! モンスター便死)
2008年6月23日月曜日
難解な文章の効力
学者の言葉は難解だ。難解にする必要性があるならばいいのだが、ただ単に表現を、言葉をこねくりまわして難しくしているだけにすぎないことが多い。精度は高いが、そこまでして精度を高める必要があるだろうか? 当然、読んでいて面白くない。
高3の生徒から、マーク模試の問題を見せてもらった。O田省吾さん(ハマショーではない)という人の論説文が、実に面白くない。
少し長いが引用する。
「わたしたちの生活を見てみれば、〈伝達〉といえぬ、〈共感〉とか〈通じ合い〉というべきコミュニケーションの仕方を日常いくらも実行しているのだが、理解の頭では、このもう1つの面を忘れがちだ。通じることは〈伝達〉の言葉として通じることだと考えている。したがって、表現が、通じにくいものの表現だと認めるにしても、それはその通じにくいものを〈伝達〉の言葉で通じるものにすることだという考えからなかなか出られない。〈劇的〉なるものがなかなか捨てられない。〈劇的〉とは、起伏を大きくするということだけではなく、通じるものにするという構成なのである。」
どうだ! 面白くないだろう。 大人が読めば、意味はわかるが、高3生にはちょっと難しいと思う。平均点がえげつなく低かったのも頷ける。
こんな文章、簡単に言えば、「言葉では表現できない感覚があるやん? 当然やん!」ですむ。
どうしても、学者の論説文は、言葉の定義に縛られ、科学的であるために、たくさんの実例を用いて、徒に難解になる。
こういった書物を読み解いていくことが、人文系の学問の基礎なのではあるが、どうせなら、もうちょい、面白いトピックを取り上げてほしいなと思っていた。
非難めいたことを書いたが、実はこういった文章を俺は肯定する。面白くないが肯定する。読むことの効力は大きい
この作者が言うように、言葉では表現できない感覚は確かに存在する。全てが伝達言葉で表現できるほど、人間の心理は稚拙ではない。
言葉は、必要に応じて生まれてきた、心理状態への後付けのものだ。だから、たまには、突き詰めて言葉という正体自体に対峙してみることは大事だと思う。それは、自分の心理との対峙になるからだ。そういった意味で、難解な文章に触れるということは、大切であると思う。
「言葉」と「感覚」、どちらも大切だ。
「感覚」が特別に優れている人がいる。その人を天才と呼ぶ。「言葉」が踏み込めないほどの理屈じゃないオーラを放つ人を見ると、驚愕の念を抱く。生まれつきの才能によるところが多いので、凡人には真似ができないように思う。
ところが、そういった人は、実は「言葉」も多く体内に宿している。秀でた「感覚」が、純度の高い「言葉」を掴み取るのだと思う。そして、掴み取った「言葉」で、さらに「感覚」を高めていくのだと思う。
今の若い世代は、「感覚」のみがもてはやされてきた世代だと思う。「理屈じゃないんだよ!」と、「言葉」を使った意見の扱いが低くされ、「理屈」は「屁」まで冠される始末だ。
臭くてたまらない理論武装、俺もずっとどこかで敬遠してきたところがあるように思う。
ところが、より「感覚」に近い「言葉」を探して表現することと、どうでもいい事象を(「感覚」に至らぬ事象)を言葉でこねくりまわすことが同一視されてきて、全て「言葉」自体が蔑まれている傾向に陥っていた気がする。
政治家などが、個別の事例をまやかしの言葉で正当化することは、言葉を使った悪質な作業である。彼らを見て、俺たちは難解な言葉に嫌悪感を持たされる。
ところが、自分の内面を表すにふさわしい言葉を探し、紡いだ言葉を表に出す表現者の行為、これは「言葉」を「感覚」で掴み取る、素晴らしい行為だ。
両者が一緒にされて、「言葉」の効力自体が弱くなってきた世代が、今の世代だと思うのだ。
以前にも触れたかと思うが、「びみょ~う!」 なんて言葉は、「感覚」が働きを停止している時に口に出る。とても嫌いな言葉だ。
昔の音楽人が紡ぐ言葉は素晴らしかった。感覚的でありながら、言葉も的確であった気がする。
ところが、年々、感覚に突き刺さる言葉もなくなって、言葉は韻遊びのみの側面を帯びてきている。韻は、優れた感覚に根ざした、優れた言葉で踏まれると、余韻があるが、表面的な言葉だけで踏まれると、単なる母音遊びになる。ボインボインボイン・・・、残るものは虚しさだけだ。
世代ギャップからの感慨ではない。優れた「言葉」を育んでいない人が、「感覚」を研ぎ澄ましたつもりになって「言葉」を出しても、しょせんはボイン遊びだ。
少しでも余韻を宿した言葉を紡げるように、「言葉」と「感覚」両者共に磨いていきたい。
そのためには、面白くない文章もたまには読んでみなければと思う。難解な文章にも効力はある。
高3の生徒から、マーク模試の問題を見せてもらった。O田省吾さん(ハマショーではない)という人の論説文が、実に面白くない。
少し長いが引用する。
「わたしたちの生活を見てみれば、〈伝達〉といえぬ、〈共感〉とか〈通じ合い〉というべきコミュニケーションの仕方を日常いくらも実行しているのだが、理解の頭では、このもう1つの面を忘れがちだ。通じることは〈伝達〉の言葉として通じることだと考えている。したがって、表現が、通じにくいものの表現だと認めるにしても、それはその通じにくいものを〈伝達〉の言葉で通じるものにすることだという考えからなかなか出られない。〈劇的〉なるものがなかなか捨てられない。〈劇的〉とは、起伏を大きくするということだけではなく、通じるものにするという構成なのである。」
どうだ! 面白くないだろう。 大人が読めば、意味はわかるが、高3生にはちょっと難しいと思う。平均点がえげつなく低かったのも頷ける。
こんな文章、簡単に言えば、「言葉では表現できない感覚があるやん? 当然やん!」ですむ。
どうしても、学者の論説文は、言葉の定義に縛られ、科学的であるために、たくさんの実例を用いて、徒に難解になる。
こういった書物を読み解いていくことが、人文系の学問の基礎なのではあるが、どうせなら、もうちょい、面白いトピックを取り上げてほしいなと思っていた。
非難めいたことを書いたが、実はこういった文章を俺は肯定する。面白くないが肯定する。読むことの効力は大きい
この作者が言うように、言葉では表現できない感覚は確かに存在する。全てが伝達言葉で表現できるほど、人間の心理は稚拙ではない。
言葉は、必要に応じて生まれてきた、心理状態への後付けのものだ。だから、たまには、突き詰めて言葉という正体自体に対峙してみることは大事だと思う。それは、自分の心理との対峙になるからだ。そういった意味で、難解な文章に触れるということは、大切であると思う。
「言葉」と「感覚」、どちらも大切だ。
「感覚」が特別に優れている人がいる。その人を天才と呼ぶ。「言葉」が踏み込めないほどの理屈じゃないオーラを放つ人を見ると、驚愕の念を抱く。生まれつきの才能によるところが多いので、凡人には真似ができないように思う。
ところが、そういった人は、実は「言葉」も多く体内に宿している。秀でた「感覚」が、純度の高い「言葉」を掴み取るのだと思う。そして、掴み取った「言葉」で、さらに「感覚」を高めていくのだと思う。
今の若い世代は、「感覚」のみがもてはやされてきた世代だと思う。「理屈じゃないんだよ!」と、「言葉」を使った意見の扱いが低くされ、「理屈」は「屁」まで冠される始末だ。
臭くてたまらない理論武装、俺もずっとどこかで敬遠してきたところがあるように思う。
ところが、より「感覚」に近い「言葉」を探して表現することと、どうでもいい事象を(「感覚」に至らぬ事象)を言葉でこねくりまわすことが同一視されてきて、全て「言葉」自体が蔑まれている傾向に陥っていた気がする。
政治家などが、個別の事例をまやかしの言葉で正当化することは、言葉を使った悪質な作業である。彼らを見て、俺たちは難解な言葉に嫌悪感を持たされる。
ところが、自分の内面を表すにふさわしい言葉を探し、紡いだ言葉を表に出す表現者の行為、これは「言葉」を「感覚」で掴み取る、素晴らしい行為だ。
両者が一緒にされて、「言葉」の効力自体が弱くなってきた世代が、今の世代だと思うのだ。
以前にも触れたかと思うが、「びみょ~う!」 なんて言葉は、「感覚」が働きを停止している時に口に出る。とても嫌いな言葉だ。
昔の音楽人が紡ぐ言葉は素晴らしかった。感覚的でありながら、言葉も的確であった気がする。
ところが、年々、感覚に突き刺さる言葉もなくなって、言葉は韻遊びのみの側面を帯びてきている。韻は、優れた感覚に根ざした、優れた言葉で踏まれると、余韻があるが、表面的な言葉だけで踏まれると、単なる母音遊びになる。ボインボインボイン・・・、残るものは虚しさだけだ。
世代ギャップからの感慨ではない。優れた「言葉」を育んでいない人が、「感覚」を研ぎ澄ましたつもりになって「言葉」を出しても、しょせんはボイン遊びだ。
少しでも余韻を宿した言葉を紡げるように、「言葉」と「感覚」両者共に磨いていきたい。
そのためには、面白くない文章もたまには読んでみなければと思う。難解な文章にも効力はある。
思春期への大人の目線
高2生の男の子を持つお母さんと話しをした。この子、お母さんと一緒にスポーツ観戦に行くという。暇だと買い物にもついて行くという。
中3生の男の子を持つお母さんと話しをした。この子、3つ上のお姉ちゃんと、お母さんと3人で、川の字になって寝るらしい。子ども部屋があるにも関わらず、近くで寝ることを好むらしい。お母さん曰く、「日常に、性の香りがしない。」そうだ。
上記の例に限らず、最近の子どもは親と仲良しだ。
うちの嫁も親とは仲良しなのだが、思春期の男がおかんと仲良しというのは、自分の体験からは考えにくい。
別に、「今の子は・・・・」といった世代ギャップを言いたいわけではないが、個人的かもしれないが、俺の実感としてあり得ない。
俺の思春期時代、おかんとまともな交流を交わしたのは、小3が最後だったと記憶している。盲腸手術に至る腹痛で、めそめそしていた時に、おかんが俺をおんぶして、近くの病院に連れて行ってくれた時だ。「あんた、重くなったな~。」と言うおかんの背中で、「死ぬ~死ぬ~!」と言っていたのを覚えている。道中、ザリガニが路上で干からびていた光景が残っている。
その時以来、結婚するまでの間、俺はおかん、おとん、兄、弟という家族を拒絶してきた。
授業参観の案内なんかは絶対に見せない。買い物なんかも絶対一緒に行かない。
友達が家に来た時に、おかんが登場するのが嫌で、家には極力友達を呼ばなかった。
おかんはワイルドだった。
友達の家に俺が行った時、友達のお母様は優雅だった。タカラブネのケーキと、紅茶なんかを出してくれた。綺麗な器と輝くスプーン、適温の紅茶にスジャータ・・・。
痺れていた。
友達に対する母親のもてなしの奥ゆかしさを俺は感じ、我が家にはないマイルドさを感じていた。
我が家に友達を連れてきた記憶は数えるほどしかないが、その初回が強烈だった。
おかんは、紅茶をだしてくれた。ところが、受け皿のないがぶ飲みコップであり、スプーンの代わりに、ジャンボサイズのフォークがお盆の上に、ボ~ンと置いてあり、ミルクは1リットルの紙パックだった。 並々注がれた紅茶、パックの牛乳、でかいフォーク!
ガテンおやじのおやつだ。 そしておやつに「かりんとう」と「房ごとバナナ」・・・
いくらなんでもひどすぎた。俺は傷ついた。それ以来、友達を家に呼ぶのは、おかんがいない時限定にした。
そんな、おかんだったから、俺はおかんの成すこと全てが嫌いだった。
中学に入った時、付き合う奴が悪すぎた。俺はヤンキーでもなんでもなかったのだが、友達がヤンキー道まっしぐら奴が多かった。
夜、家の周りで「パラリラパラリラ」と召集の音がなる。当然のごとく俺は出かけようとする。
すると、玄関前にはおかんがいる。手を水平に広げ、「あんた、こんな時間にまた、出かけるんか! 行くんやったら、おかあさんを殺してから行き!」とパジャマ姿で俺を阻止する。
ヤンキー友達は、俺のおかんの頑なさと、それに負けて家を抜け出せない俺に愛想をつかして、徐々に離れていった。今から思えばよかった。なぜなら、その友人は塀の中だからだ。
思春期の俺にとって、おかんは、俺の欲望を全て阻害する邪魔者にしか思えなかった。
ギターを買ってくれと言っても、「エレキは不良! クラッシックやったら買ったる」という。
俺が必死で手に入れ、必死で隠した春本は、すぐさま見つけ、俺の机にさらす。手紙が添えてある。「不潔! あんたを軽蔑します! 捨てなさい!」
ランディーローズのポスターを貼っていたら、「長髪で不道徳! 剥がしなさい!」と置手紙・・・。
俺のやることなすことを阻害する。仲良くなれるはずがない。
その当時のおかんと同じ年になった今、おかんの行動は偏っていたにせよ、少しは肯定できるような気もする。 おかんはおかんで必死だったのだ。
最近は帰省する度、ばあさんになったおかんに、なんだか、かわいらしさも感じるようにはなっている。
自分の体験だけで、一般的な子育て論を語るわけではないが、男にとって、反抗期というのは、なくてはならないものであったような気がする。
今、俺にとっての反抗期体験を俺は肯定出来るのだ。
自分にとって、1番無償の愛を与えてくれる親であるからこそ、その愛の動機が、欲望に盲目である思春期の子どもにとっては、欲望を阻害する邪魔者なのであり、その親との衝突があってしかるべきであり、その相克を経た先が個人の終生にわたっての人格を形成してくれる場面であると思うからだ。
今の思春期の男の子が、母親と仲が良いということは、平和で素晴らしく、微笑ましくもある一方で、そんなに良い子ばかりがいるだろうか?という疑問もある。彼らの人格形成が穏かであればあるほど、後に荒波が来たときの反動を危惧してしまう。余計なお世話かもしれないが・・・。
みんながみんな、親と衝突がないほど、平穏な日々を過ごせるほど、彼らにとっての思春期は刺激や起伏や、煩悩がない、平らな日々なのだろうか? 本当に疑問なのだ。
俺の世代でも兄貴や弟は、親とさしたる衝突はしなかったように思うし、俺だけが特別だったのかもしれないが、それにしても今の思春期の子ども達の、親との仲の良さは、なんだか不気味な気もする。
あくまでも主観だ。自分が親になって、子どもと接する時がきたら、また認識は変わるのかもしれないが、なんだか、現代が抱える病巣の根源には、反抗期レスがあるような気がしてならない。
ふと、そんなことを思った明け方であった。目が覚めたら、おかんに電話してみようと思う。俺の思春期の終わりは、遥か後方にあり、俺は、おかんに今、数々の暴行のお詫びをしようかな?という気にもなっている。 おかんにとっての病巣は去った今、俺の反抗期はレスだ。大人になった俺が大人の目線で思う。
中3生の男の子を持つお母さんと話しをした。この子、3つ上のお姉ちゃんと、お母さんと3人で、川の字になって寝るらしい。子ども部屋があるにも関わらず、近くで寝ることを好むらしい。お母さん曰く、「日常に、性の香りがしない。」そうだ。
上記の例に限らず、最近の子どもは親と仲良しだ。
うちの嫁も親とは仲良しなのだが、思春期の男がおかんと仲良しというのは、自分の体験からは考えにくい。
別に、「今の子は・・・・」といった世代ギャップを言いたいわけではないが、個人的かもしれないが、俺の実感としてあり得ない。
俺の思春期時代、おかんとまともな交流を交わしたのは、小3が最後だったと記憶している。盲腸手術に至る腹痛で、めそめそしていた時に、おかんが俺をおんぶして、近くの病院に連れて行ってくれた時だ。「あんた、重くなったな~。」と言うおかんの背中で、「死ぬ~死ぬ~!」と言っていたのを覚えている。道中、ザリガニが路上で干からびていた光景が残っている。
その時以来、結婚するまでの間、俺はおかん、おとん、兄、弟という家族を拒絶してきた。
授業参観の案内なんかは絶対に見せない。買い物なんかも絶対一緒に行かない。
友達が家に来た時に、おかんが登場するのが嫌で、家には極力友達を呼ばなかった。
おかんはワイルドだった。
友達の家に俺が行った時、友達のお母様は優雅だった。タカラブネのケーキと、紅茶なんかを出してくれた。綺麗な器と輝くスプーン、適温の紅茶にスジャータ・・・。
痺れていた。
友達に対する母親のもてなしの奥ゆかしさを俺は感じ、我が家にはないマイルドさを感じていた。
我が家に友達を連れてきた記憶は数えるほどしかないが、その初回が強烈だった。
おかんは、紅茶をだしてくれた。ところが、受け皿のないがぶ飲みコップであり、スプーンの代わりに、ジャンボサイズのフォークがお盆の上に、ボ~ンと置いてあり、ミルクは1リットルの紙パックだった。 並々注がれた紅茶、パックの牛乳、でかいフォーク!
ガテンおやじのおやつだ。 そしておやつに「かりんとう」と「房ごとバナナ」・・・
いくらなんでもひどすぎた。俺は傷ついた。それ以来、友達を家に呼ぶのは、おかんがいない時限定にした。
そんな、おかんだったから、俺はおかんの成すこと全てが嫌いだった。
中学に入った時、付き合う奴が悪すぎた。俺はヤンキーでもなんでもなかったのだが、友達がヤンキー道まっしぐら奴が多かった。
夜、家の周りで「パラリラパラリラ」と召集の音がなる。当然のごとく俺は出かけようとする。
すると、玄関前にはおかんがいる。手を水平に広げ、「あんた、こんな時間にまた、出かけるんか! 行くんやったら、おかあさんを殺してから行き!」とパジャマ姿で俺を阻止する。
ヤンキー友達は、俺のおかんの頑なさと、それに負けて家を抜け出せない俺に愛想をつかして、徐々に離れていった。今から思えばよかった。なぜなら、その友人は塀の中だからだ。
思春期の俺にとって、おかんは、俺の欲望を全て阻害する邪魔者にしか思えなかった。
ギターを買ってくれと言っても、「エレキは不良! クラッシックやったら買ったる」という。
俺が必死で手に入れ、必死で隠した春本は、すぐさま見つけ、俺の机にさらす。手紙が添えてある。「不潔! あんたを軽蔑します! 捨てなさい!」
ランディーローズのポスターを貼っていたら、「長髪で不道徳! 剥がしなさい!」と置手紙・・・。
俺のやることなすことを阻害する。仲良くなれるはずがない。
その当時のおかんと同じ年になった今、おかんの行動は偏っていたにせよ、少しは肯定できるような気もする。 おかんはおかんで必死だったのだ。
最近は帰省する度、ばあさんになったおかんに、なんだか、かわいらしさも感じるようにはなっている。
自分の体験だけで、一般的な子育て論を語るわけではないが、男にとって、反抗期というのは、なくてはならないものであったような気がする。
今、俺にとっての反抗期体験を俺は肯定出来るのだ。
自分にとって、1番無償の愛を与えてくれる親であるからこそ、その愛の動機が、欲望に盲目である思春期の子どもにとっては、欲望を阻害する邪魔者なのであり、その親との衝突があってしかるべきであり、その相克を経た先が個人の終生にわたっての人格を形成してくれる場面であると思うからだ。
今の思春期の男の子が、母親と仲が良いということは、平和で素晴らしく、微笑ましくもある一方で、そんなに良い子ばかりがいるだろうか?という疑問もある。彼らの人格形成が穏かであればあるほど、後に荒波が来たときの反動を危惧してしまう。余計なお世話かもしれないが・・・。
みんながみんな、親と衝突がないほど、平穏な日々を過ごせるほど、彼らにとっての思春期は刺激や起伏や、煩悩がない、平らな日々なのだろうか? 本当に疑問なのだ。
俺の世代でも兄貴や弟は、親とさしたる衝突はしなかったように思うし、俺だけが特別だったのかもしれないが、それにしても今の思春期の子ども達の、親との仲の良さは、なんだか不気味な気もする。
あくまでも主観だ。自分が親になって、子どもと接する時がきたら、また認識は変わるのかもしれないが、なんだか、現代が抱える病巣の根源には、反抗期レスがあるような気がしてならない。
ふと、そんなことを思った明け方であった。目が覚めたら、おかんに電話してみようと思う。俺の思春期の終わりは、遥か後方にあり、俺は、おかんに今、数々の暴行のお詫びをしようかな?という気にもなっている。 おかんにとっての病巣は去った今、俺の反抗期はレスだ。大人になった俺が大人の目線で思う。
2008年6月21日土曜日
グッド・ジョブ!
連日の職業ネタ。
転職率の高い俺は、今まで色んな仕事をしてきたが、職に就いている時は、その業種の中で精一杯楽しんだ。
楽しむということは、その業種全体に興味がいき、オフの時間でも該当業種への視点は、他者にはわからない興味深さを生む。
例えば、作業用品全般を販売していた営業時代は、製造業者を見ると、全て飛び込み営業したくなった。
「~工業」、「~興業」、「~製作所」、「~鉄工」、「~建設」、「~運輸」、「~食品」、「~アルミ」、「~コンクリート」・・・・・。
社名という社名に敏感になり、自分の担当地域の会社という会社は全て飛び込んだ。
自分の担当地域の会社は、看板を上げている会社は100%、上げていない会社(自宅が事務所)なんかも洗い出したので、全会社数の95%以上は飛びこんだと思う。
いくら、営業向きの風貌ではないとはいえ、数打ちゃ当たるで、営業成績は抜群に良かった。
俺が職業病を感じたのは、休暇で県外にいる時だ。バンドで上京中、家族旅行中、県外のあらゆるところに行くたびに、無意識に会社名の書かれた看板を目で追っていた。
電車の車窓を眺めている。「~鉄工所」なんて文字が見えたら、「おや! こんな所に会社があるやんけ! 革手と安全靴とユニフォーム売れるやんけ!」と興奮し、後で冷静になる。 「縄張りちゃうやんけ!」
こういう視点は皆持っているだろうと思う。アパレル関係の仕事の人は、街行く人の服や雑誌を見ても敏感になる。
広告代理店は、どこの会社がどこから、どのくらいの宣伝費で発注しているかに興味がいく。町中のチラシと看板に敏感になる。
就いている職業に真剣に向き合っていれば当然のことだろう。
面白かったのは、昔、ある会社の社長と話していた時だ。
道路工事の前段階として、道路を裁断し、古い舗装の残骸を駆除す業種がある。「~カッター工業」なんて社名で、全国にある。そんな会社の社長だ。
そこの社長は、プライベートでも、車を走らせていると、道路の痛みが気になる。そして、痛んだ場所があると、そこが近日中に、舗装工事の対象になることを知るらしいのだ。
心の中に、「ここ、・・・・切れる!」と思われるそうだ。
その社長と話していた時に、解体業の社長が来られた。俺はどちらにも面識があったので、一緒に会話した。
解体業者社長:
「 あんたら、どっか壊すとこないけ?(注:どこか解体する現場の話ないですか?)」
カッター業社長:
「 な~ん、 ないわ。 あんたとこ一杯壊しと~がいね~(注:ないですね~。でもあなたの会社、たくさん解体しているでしょう?) それよんか、 社長、どっか切るとこないけ?」
解体業者社長:
「な~ん、ない。」
2人の社長:
「せちがらいの~・・・・。」
これらの会話は、決してユーモアを意図してなされているのではなく、彼ら2人の社長の日常会話なのだ。
壊すこと、切ることを生業とされている社長の会話は、俺には面白くて仕方がなかった。
思えば、色んな仕事と会社があるものだ。それぞれの仕事にプライドと使命を持ってされている人の会話は、聞いていて心地よい。時にユーモラスだが、馬鹿にしたくはならない。敬意を持った上でのユーモアを感じる。
日常の生活、目にするあらゆるものに思いをはせる。
自然の物以外は全て、製作者が存在する。そしてそれを生業としておられる人がいる。
パソコンのキーボードを叩く。パソコン本体の販売業者もあれば、パソコンのプラスチック部分だけを作っている会社もある。半導体だけを作っている会社もあれば、出来上がった商品を販売する会社がある。販促のために広告する会社があれば、メディアがある。
素晴らしき連携プレート、経済山脈の裾野だ。
そして、それぞれの業種に関わる方々が、俺と同じような視点で市場を見る。
例えは悪いが、性産業なんかにしても、コンドームを作る会社、販売する会社、キャッチコピーを考えるコピーライター、販売する薬局、宣伝ポスターを刷る印刷会社、連係プレーは至る分野にある。
大の大人が、一生懸命仕事に打ち込み、精力増強剤のキャッチコピーを考えるとする。
商品名は「絶倫大王」だとする。
これは、青少年教育的観点からしたら、退場、レッドカードものだが、その人が職業使命に燃えて行った所為としては、純潔無垢、倫ある行動だ。
「絶倫大王」を考えた会社の人は、プライベートでも、ライバル会社の商品名なんかをチェックする。例えば、町で、「スッポン王国」なんて、精力剤のコピーを見かけると、
「くそ! あっちはスッポンできたか~・・・。 ならば・・・」
と、種々の職業使命的思考を巡らし、時には嗜好も交えて、新たなる商品開発に取り組む。
「膨らみある性生活を! バルーン!」なんてコピーで対抗する。突起に対して膨張率を市場に問うのである。
悪ふざけが過ぎた。すまない。
職業に対するプロ意識は素晴らしい。それぞれが精魂込めて取り組む仕事に貴賎の区別はない。
職業の数だけ独自の視点がある。色んな視点を実際に体験したり、他の業種の方から話を聞いて疑似体験し、己の視点のバリエーションを増やしていけたら、グッド・ジョブだ!
転職率の高い俺は、今まで色んな仕事をしてきたが、職に就いている時は、その業種の中で精一杯楽しんだ。
楽しむということは、その業種全体に興味がいき、オフの時間でも該当業種への視点は、他者にはわからない興味深さを生む。
例えば、作業用品全般を販売していた営業時代は、製造業者を見ると、全て飛び込み営業したくなった。
「~工業」、「~興業」、「~製作所」、「~鉄工」、「~建設」、「~運輸」、「~食品」、「~アルミ」、「~コンクリート」・・・・・。
社名という社名に敏感になり、自分の担当地域の会社という会社は全て飛び込んだ。
自分の担当地域の会社は、看板を上げている会社は100%、上げていない会社(自宅が事務所)なんかも洗い出したので、全会社数の95%以上は飛びこんだと思う。
いくら、営業向きの風貌ではないとはいえ、数打ちゃ当たるで、営業成績は抜群に良かった。
俺が職業病を感じたのは、休暇で県外にいる時だ。バンドで上京中、家族旅行中、県外のあらゆるところに行くたびに、無意識に会社名の書かれた看板を目で追っていた。
電車の車窓を眺めている。「~鉄工所」なんて文字が見えたら、「おや! こんな所に会社があるやんけ! 革手と安全靴とユニフォーム売れるやんけ!」と興奮し、後で冷静になる。 「縄張りちゃうやんけ!」
こういう視点は皆持っているだろうと思う。アパレル関係の仕事の人は、街行く人の服や雑誌を見ても敏感になる。
広告代理店は、どこの会社がどこから、どのくらいの宣伝費で発注しているかに興味がいく。町中のチラシと看板に敏感になる。
就いている職業に真剣に向き合っていれば当然のことだろう。
面白かったのは、昔、ある会社の社長と話していた時だ。
道路工事の前段階として、道路を裁断し、古い舗装の残骸を駆除す業種がある。「~カッター工業」なんて社名で、全国にある。そんな会社の社長だ。
そこの社長は、プライベートでも、車を走らせていると、道路の痛みが気になる。そして、痛んだ場所があると、そこが近日中に、舗装工事の対象になることを知るらしいのだ。
心の中に、「ここ、・・・・切れる!」と思われるそうだ。
その社長と話していた時に、解体業の社長が来られた。俺はどちらにも面識があったので、一緒に会話した。
解体業者社長:
「 あんたら、どっか壊すとこないけ?(注:どこか解体する現場の話ないですか?)」
カッター業社長:
「 な~ん、 ないわ。 あんたとこ一杯壊しと~がいね~(注:ないですね~。でもあなたの会社、たくさん解体しているでしょう?) それよんか、 社長、どっか切るとこないけ?」
解体業者社長:
「な~ん、ない。」
2人の社長:
「せちがらいの~・・・・。」
これらの会話は、決してユーモアを意図してなされているのではなく、彼ら2人の社長の日常会話なのだ。
壊すこと、切ることを生業とされている社長の会話は、俺には面白くて仕方がなかった。
思えば、色んな仕事と会社があるものだ。それぞれの仕事にプライドと使命を持ってされている人の会話は、聞いていて心地よい。時にユーモラスだが、馬鹿にしたくはならない。敬意を持った上でのユーモアを感じる。
日常の生活、目にするあらゆるものに思いをはせる。
自然の物以外は全て、製作者が存在する。そしてそれを生業としておられる人がいる。
パソコンのキーボードを叩く。パソコン本体の販売業者もあれば、パソコンのプラスチック部分だけを作っている会社もある。半導体だけを作っている会社もあれば、出来上がった商品を販売する会社がある。販促のために広告する会社があれば、メディアがある。
素晴らしき連携プレート、経済山脈の裾野だ。
そして、それぞれの業種に関わる方々が、俺と同じような視点で市場を見る。
例えは悪いが、性産業なんかにしても、コンドームを作る会社、販売する会社、キャッチコピーを考えるコピーライター、販売する薬局、宣伝ポスターを刷る印刷会社、連係プレーは至る分野にある。
大の大人が、一生懸命仕事に打ち込み、精力増強剤のキャッチコピーを考えるとする。
商品名は「絶倫大王」だとする。
これは、青少年教育的観点からしたら、退場、レッドカードものだが、その人が職業使命に燃えて行った所為としては、純潔無垢、倫ある行動だ。
「絶倫大王」を考えた会社の人は、プライベートでも、ライバル会社の商品名なんかをチェックする。例えば、町で、「スッポン王国」なんて、精力剤のコピーを見かけると、
「くそ! あっちはスッポンできたか~・・・。 ならば・・・」
と、種々の職業使命的思考を巡らし、時には嗜好も交えて、新たなる商品開発に取り組む。
「膨らみある性生活を! バルーン!」なんてコピーで対抗する。突起に対して膨張率を市場に問うのである。
悪ふざけが過ぎた。すまない。
職業に対するプロ意識は素晴らしい。それぞれが精魂込めて取り組む仕事に貴賎の区別はない。
職業の数だけ独自の視点がある。色んな視点を実際に体験したり、他の業種の方から話を聞いて疑似体験し、己の視点のバリエーションを増やしていけたら、グッド・ジョブだ!
働く側の問題
昨日の夜飯を食べながらニュースを見ていたら、日雇い従業員の実態といった感じで、20代、30代の人、数人のインタビュー形式の報道がなされていた。
内容は、どれもこれも、「仕事がなくて困っている。」、「働く気はあるのに仕事がない。」
といった、労働者目線の特集であり、「今のままじゃやってられない!」といった弱者の怒りを拾ったようなものだった。
ネットカフェ難民の問題と併せて、こういった問題を社会、政府批判の材料として使うのはたやすい。一方的に報道を信じたら、ついつい冒頭の若年求職者に同情してしまうだろう。
だが、俺は報道を見ていて、その弱者とされている奴らの方に深い憤りを感じた。取材する側も悪いが、のこのこ報道に出て、被害者気取りしてるんじゃねえ! と偏った怒りを持った。
失職し、仕事を求めている人が多くいるのは事実だ。なかには、障害を抱えたり、高齢であるがゆえに、なかなか働き先が見つからない方もおられる。だから、仕事を求めている人全てをひとまとめにして、偉そうに言うことは出来ないが、昨日の報道に出てきた奴らは、甘えているとしか思えなかった。
人材派遣業者からの紹介で派遣先で働いている人ばかりを取り上げていたのだが、彼らの愚痴に対しては、???ばかりだった。
20代後半の子は、バンドをやりながら、日雇い仕事を中心に仕事をしていたが、最近は仕事伺いの電話してもないことが多いと言う。
月収10万円で、家賃4万、光熱費なんかを入れたら5万越え、生活の窮状を訴えていた。
あほか! 日雇い登録やったら10万稼げて上等じゃ! 自分でその道選んだんやろう?バンドがしたくて、その道選んだんやったら、窮状訴えるな! 嫌なら日給月給のシフト勤務で工場ででも働け!
こいつが、おかしいのが、10万しか稼ぎがないくせして、携帯をいじっていやがる。おまけに、仕事がない日は、創作活動や、ブログを書く! 携帯もパソコンも繋ぐな! 10万の収入を社会のせいにして、不満垂れる資格があるのは、10万の生活をしている人だけだ! お前、全然、必死ちゃうやんけ! 今の収入はお前にぴったりじゃ! 本気で探そうとしているようには残念ながら思えない。
もう1人は30代後半の奴、人材派遣業者からの派遣先で働いているそうだが、額面が20万以上あり、寮費なんかを差し引いて手取り14万くらいだという。
「もうね~、やってられないっすよ!」と愚痴を垂れる。パンとインスタントラーメンしか食えないという。
おい! 何でや? 住むところ与えてもうて14万もらえたら十分やんけ! 嫌なら転職しろ!
俺も以前、3回、人材派遣業者にお世話になったことがある。その3回とも、派遣先の企業からスカウトされて、その内1回は、そこの工場の社員になったことがある。通信教育で大学に籍を置いていた時であり、夏にはスクーリングのため、1ヶ月近くの欠勤があるにも関わらず、社員として受け入れてくれた。
俺がたまたま運が良かったわけでも、俺の才能が特別秀でていたから恵まれていたわけではない。
時間を守る。勤務中は一生懸命に仕事をする。上司の教えをしっかり聞く。先輩に対しての言葉遣いに注意する。 当たり前のことを当たり前にしていただけだ。
俺が入った後にも、何人か派遣業者から人が送り込まれてきた。そのほとんどが、1ヶ月未満で首を切られた。彼らに対して行った会社の仕打ちを、俺は残酷とは思わなかった。
むしろ、よく1ヶ月辛抱して、高い金を払ったな~と感心したくらいだ。
首になった奴の言動は醜い。 時間には遅れる。言われたことだけやって、終わったら、次の指示があるまで、ぼーっとしている。自分からはコミュニケーションをとらないのは構わないが、せっかく話しかけてくれた上司の言葉に、ため口で返す。おまけにすぐに体が痛いといっては、欠勤する。休憩時間は最初に座り、最後に立ち上がる。
どこが被害者だ。こんな奴らに給与を払わないといけない会社の方が被害者だ。
対価を得るためには最低限のマナーがある。それが備わっていない奴が、社会から干されること、当然であり、そんな奴でも食住が与えられる環境がある中での、冒頭の報道・・・。
弱者という認識自体がずれている気がする。弱者とは、障害をもたれている方や、高齢で、勤め先が倒産するなどの憂き目に遭った人たちのことであり、テレビで紹介された奴らは弱者でも何でもない。真の弱者に失礼だ。奴らは、真の弱者からの仕事の機会自体も奪っている。恥を知れ!
当たり前のことをする人に対しての、日本の雇用体制は、とても整備されていると思う。
色んな価値観、色んな人生、仕事と個人との関わりは、千差万別だ。バンドをするために日給月給で働いている人はたくさんいる。ただ、彼らのほとんどは、雇用体制自体に文句は言わない。
職種によっては、本当に見つけるのが大変で、なかなかめぐり合えないものもあるだろう。だが、それも自分で選んだ進路、文句をたれて、被害者気取りになる要件ではない。
A日放送さん、ちょっと視点ずれてませんか? 彼らを被害者として取り上げることが、彼らの甘えを助長されていることに気付き、無視するか、思い切って公開批判でもしてあげるべきではないですか?いい年こいて、被害者面している奴に、一番俺は腹が立つ。
仕事を選びたければ、どこか辛抱して、その進路に向けて努力する。選べる環境にないのであれば、与えられたところで全力を尽くす。
健常な求職者の需要を満たすだけの仕事量は十二分にある。派遣された先の労働環境があまりに劣悪であれば、変えたらよい。そんな会社自体も干されるだろう。
拘束されたくはない、待遇はこだわりたい、そうでなければやる気が出ない。そんな奴に選択肢が多く与えられる世の中ならば、それが不平等な世の中だ。
飢えてくれ! そうすれば文句を言う口も閉ざされるだろう! 働く側の問題だ。
内容は、どれもこれも、「仕事がなくて困っている。」、「働く気はあるのに仕事がない。」
といった、労働者目線の特集であり、「今のままじゃやってられない!」といった弱者の怒りを拾ったようなものだった。
ネットカフェ難民の問題と併せて、こういった問題を社会、政府批判の材料として使うのはたやすい。一方的に報道を信じたら、ついつい冒頭の若年求職者に同情してしまうだろう。
だが、俺は報道を見ていて、その弱者とされている奴らの方に深い憤りを感じた。取材する側も悪いが、のこのこ報道に出て、被害者気取りしてるんじゃねえ! と偏った怒りを持った。
失職し、仕事を求めている人が多くいるのは事実だ。なかには、障害を抱えたり、高齢であるがゆえに、なかなか働き先が見つからない方もおられる。だから、仕事を求めている人全てをひとまとめにして、偉そうに言うことは出来ないが、昨日の報道に出てきた奴らは、甘えているとしか思えなかった。
人材派遣業者からの紹介で派遣先で働いている人ばかりを取り上げていたのだが、彼らの愚痴に対しては、???ばかりだった。
20代後半の子は、バンドをやりながら、日雇い仕事を中心に仕事をしていたが、最近は仕事伺いの電話してもないことが多いと言う。
月収10万円で、家賃4万、光熱費なんかを入れたら5万越え、生活の窮状を訴えていた。
あほか! 日雇い登録やったら10万稼げて上等じゃ! 自分でその道選んだんやろう?バンドがしたくて、その道選んだんやったら、窮状訴えるな! 嫌なら日給月給のシフト勤務で工場ででも働け!
こいつが、おかしいのが、10万しか稼ぎがないくせして、携帯をいじっていやがる。おまけに、仕事がない日は、創作活動や、ブログを書く! 携帯もパソコンも繋ぐな! 10万の収入を社会のせいにして、不満垂れる資格があるのは、10万の生活をしている人だけだ! お前、全然、必死ちゃうやんけ! 今の収入はお前にぴったりじゃ! 本気で探そうとしているようには残念ながら思えない。
もう1人は30代後半の奴、人材派遣業者からの派遣先で働いているそうだが、額面が20万以上あり、寮費なんかを差し引いて手取り14万くらいだという。
「もうね~、やってられないっすよ!」と愚痴を垂れる。パンとインスタントラーメンしか食えないという。
おい! 何でや? 住むところ与えてもうて14万もらえたら十分やんけ! 嫌なら転職しろ!
俺も以前、3回、人材派遣業者にお世話になったことがある。その3回とも、派遣先の企業からスカウトされて、その内1回は、そこの工場の社員になったことがある。通信教育で大学に籍を置いていた時であり、夏にはスクーリングのため、1ヶ月近くの欠勤があるにも関わらず、社員として受け入れてくれた。
俺がたまたま運が良かったわけでも、俺の才能が特別秀でていたから恵まれていたわけではない。
時間を守る。勤務中は一生懸命に仕事をする。上司の教えをしっかり聞く。先輩に対しての言葉遣いに注意する。 当たり前のことを当たり前にしていただけだ。
俺が入った後にも、何人か派遣業者から人が送り込まれてきた。そのほとんどが、1ヶ月未満で首を切られた。彼らに対して行った会社の仕打ちを、俺は残酷とは思わなかった。
むしろ、よく1ヶ月辛抱して、高い金を払ったな~と感心したくらいだ。
首になった奴の言動は醜い。 時間には遅れる。言われたことだけやって、終わったら、次の指示があるまで、ぼーっとしている。自分からはコミュニケーションをとらないのは構わないが、せっかく話しかけてくれた上司の言葉に、ため口で返す。おまけにすぐに体が痛いといっては、欠勤する。休憩時間は最初に座り、最後に立ち上がる。
どこが被害者だ。こんな奴らに給与を払わないといけない会社の方が被害者だ。
対価を得るためには最低限のマナーがある。それが備わっていない奴が、社会から干されること、当然であり、そんな奴でも食住が与えられる環境がある中での、冒頭の報道・・・。
弱者という認識自体がずれている気がする。弱者とは、障害をもたれている方や、高齢で、勤め先が倒産するなどの憂き目に遭った人たちのことであり、テレビで紹介された奴らは弱者でも何でもない。真の弱者に失礼だ。奴らは、真の弱者からの仕事の機会自体も奪っている。恥を知れ!
当たり前のことをする人に対しての、日本の雇用体制は、とても整備されていると思う。
色んな価値観、色んな人生、仕事と個人との関わりは、千差万別だ。バンドをするために日給月給で働いている人はたくさんいる。ただ、彼らのほとんどは、雇用体制自体に文句は言わない。
職種によっては、本当に見つけるのが大変で、なかなかめぐり合えないものもあるだろう。だが、それも自分で選んだ進路、文句をたれて、被害者気取りになる要件ではない。
A日放送さん、ちょっと視点ずれてませんか? 彼らを被害者として取り上げることが、彼らの甘えを助長されていることに気付き、無視するか、思い切って公開批判でもしてあげるべきではないですか?いい年こいて、被害者面している奴に、一番俺は腹が立つ。
仕事を選びたければ、どこか辛抱して、その進路に向けて努力する。選べる環境にないのであれば、与えられたところで全力を尽くす。
健常な求職者の需要を満たすだけの仕事量は十二分にある。派遣された先の労働環境があまりに劣悪であれば、変えたらよい。そんな会社自体も干されるだろう。
拘束されたくはない、待遇はこだわりたい、そうでなければやる気が出ない。そんな奴に選択肢が多く与えられる世の中ならば、それが不平等な世の中だ。
飢えてくれ! そうすれば文句を言う口も閉ざされるだろう! 働く側の問題だ。
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