2009年3月23日月曜日

宗教

確固たる揺るぎ無い自我を持つことは難しい。少しのことで凹んだり、少しのことで動じたり、少しのことで・・・。

良くも悪くも形成されてしまった性格との折り合いの付け方も難しい。自己の理想と、それに辿りつけない現状とのギャップを、真摯に覗き込めば覗き込むほど、時に哀しくなったり、時に自己嫌悪に陥ったり、自己憐憫で逃げたりしてしまう。

何を標準とするかはわからないが、人並み以上に色んな経験をしてきた俺ではあるが、上記のような心の動きと淀みが常にあり、それは不惑を目前にした今でも変わらない。

不幸な出来事もたくさん経験した。親父の死、交通事故、目の手術、大切な方々との死別・・・、だが、それを補って余りあるほどの恵まれた経験もさせてもらっている。差し引きできるほど、1つ1つの出来事を数量化できないが、断然プラスであると思う。そう思えるほど、マイナスの出来事を更新、上書き、消去できる技量を俺は生きる上で身につけてきた。

この俺の性質は、「喉元過ぎれば~~~」、という俺の弱さにも繋がっていて、決して喜ばしいことではないのかもしれないが、治らない性格とは折り合いをつけて、上手く処して行こうとするのが俺の人生哲学だ。おかげで、自己基準としては、毎日朝が来るのが楽しい。生きていることを毎日賛美したい気持ちで過ごしている。

前置きが長くなった。

身近な人がある宗教団体に勧誘され、徐々にその宗教に傾倒していく様を、最近見ている。
どうしても、俺は宗教というもの、概念に傾倒する気持ちがわからないので、すごくその人の動向を心配している。

特定の宗教団体を否定して、特定の宗教団体を肯定するという姿勢ではない。宗教自体に対する俺の無関心さと、その人の宗教との関わり方を比較して見た時に、どうしてもわからず、どうしても不安を駆り立てられてしまうのだ。その人が身近な人であるからなおさらだ。

「宗教」をあえて定義するならば、「神仏、または超越的な絶対者を信仰することにより、安心、幸福を得ようとすること」といえると思う。

今は亡き父親の霊というものを俺は信じてはいないが、人間には見えない力が存在することは否定しない。

親父がいたから俺は今日も生を賛美出来るのであり、そのことに対して、いつも感謝をしている。心の中で、定期的に親父の意志、意思と対峙して、心に問いかけることもある。
実際には、霊界があるかはわからないが、俺が亡き父親に対して想い、敬服する、そして、何か力を得ることもある。それは、「親父の勤勉さ見習って、ちゃんと日記つけてみよう。」といった、日常レベルのことが多いが、親父を思うことで、何か俺が、「よし、なんか背筋が伸びた気がする。やれそうな気がしてきた。」と思える瞬間がある。その時には、間違いなく、上記の宗教定義にあるような、安心、幸福が俺にもたらされる。

目に見えない、茂木健一郎さんが言うところの「クオリア」という概念での自己対峙と自己吟味、死者との意思疎通の機会は、誰もが持っていて、誰もが体験していると思う。

そういう意味で言えば、宗教心は誰もが持っている。誰もが宗教的な心の交流はしているのだと思う。俺が目に見えない神様や親父に誓いを立てたり、祈ったりすることは、まったくもっての宗教的行為だ。

そこに、媒介者が入るかどうかの差であり、ある宗教ではそれが霊媒師であり、ある宗教ではそれは超越的な教祖となる。

人間は弱い存在であり、1人では、かくありたい!と思っていても、日々の俗事に流されてしまうことはあると思う。だから、同じ宗派の旗の下、励ましあう信者同士の交流が必要であるのも、なんとなくはわかる。

だが、帰依する先が、人間という対象になることだけは、俺はどう考えても理解できないのだ。説法、祭壇、各種宗教グッズに対する金銭的需要も含めて、向き合う先をかえって、自分が本当に向き合いたい人から遠ざけているような気がしてならない。

宗教団体内でのステージが上がることが、霊的な傾斜を頂目指して登っていくような気になるのかもしれないが、弱さを全面的に備えた不完全な人間が、何か超越的な物に帰依することで、より素晴らしい人間になれると思うこと自体が、なんだか傲慢な気がするのだ。

自己の未熟さに向き合い、悩み、マイナーチェンジを繰り返しながら、それでも、「まだまだだ。」と思う日々、災厄が無情に降りかかることもあるだろう。悲しみが心を支配する日々もあるだろう。

でも、辛い時期に真剣勝負でその悲しみの渦を溺れながらでも泳ぎきること、それが生きることの喜びであり、もっとも謙虚な人間のあり方だと思うのだ。誰かを媒介されて救われるほど、日々の生活で味わうことは些細なものではないと思う。超越という名の目隠しがあるだけの気もする。

俺ごときが、素晴らしい人格者の方々が集う宗教に対して、あれこれ述べる資格はない。また、ある宗教を信じて精進される方々全員を素晴らしいとも思う。ただ、信条、哲学、価値観の違いがあるだけだろう。

だが、単なる違いにしては、あまりにも多くの宗派と教団があり、そこのほとんどが、俗世の煩悩の代名詞であるお金の集積地となっていて、多くの戦争が宗教起因である現状を見た場合、???と思うところがある。

何か、宗教が余計な病を作りだしているような気がする、というのは言い過ぎだろうか?

「哲学は一方で心の病となり、一方で心の支えとなる。しかるに両者は哲学的に表裏一体である。」(「まえけん全集第3巻『哲也との談話集』より抜粋引用」)

上記の、まえけん猿の言葉、「哲学」を「宗教」に置き換えてみようかとも思っている。

特定の団体批判ではない。ただ、身近な人の入信に際して、少し戸惑っているだけだ。くどく、重い文章、申し訳ない。

2 件のコメント:

Takabo さんのコメント...

誘われるのよね~宗教。
あたしって、迷える子羊な雰囲気?(汗)

入信して修行してみよう、とは思わないけど
たくさんの人が傾倒するモノに対しては
とても興味があります。
危ないですか?(爆)

管理猿まえけん さんのコメント...

>TAkabo

迷っていそうな子羊の気はしますな(笑)

同じく、たくさんの人が傾倒するものを見て味わってみたい気はするんやけど、客観的でいれる自信がないな~(汗)