久々(といっても3週間ぶり)に図書館で本を借りる。
川西蘭『夏の少年』、立川談志『談志受け咄』、 太田省一『社会は笑う』、
矢野誠一×中原道夫『衣食遊住がらくた館』、秋岡伸彦『読売コラムニストの13年~バブル景気から平成不況へ』
最近は読書ペースが落ちているので、10日くらいは持つだろう。久々に物語も借りた。川西蘭の物語には懐かしさがつまっていて、琴線に響く。
暑さが本格化。クーラー入れながら、久々にルーリード「トランスフォーマー」を聴く。
最近、よく考える。日本語の歌詞で物語るのは難しいなと。日本語圏内の音楽において、ストーリーテラーとなるのは難しい。何度か挑戦したが、物語りきれない。
ルーリードの例で言えば、「ハリーはフロリダのマイアミからやってきた (中略) 彼女は言う “あんた、裏街道を歩きなよ”」とか、「ジャッキーはスピードでいっちまっている」とか、「金持ちの息子のハリーは司祭になりたがっていた」といった具合の物語る歌詞だ。
上記の例にしても、日本語にした時点で興ざめしてしまう。英詩として聴いていたら入りやすいものも、日本語変換をすると粋でないお江戸風味になってしまう。
ボブ・ディランにしてもしかり。
何でだろうな? 上記の歌詞を日本の事例で置き換えたらどうなるだろう?
「山田は和歌山の市内からやってきた (中略) 彼女は言う “あんたな~、地下に潜り!」 なんだか、鉄砲玉になった構成員への姉さんのセリフだ。消されるぜ!
「佐藤は咳止め薬で躁鬱が激しい。」 なんだか、いがいがしい。要治療。
「ぼんぼんの田中は坊さんになりたがっている。」 ドラムより木魚が響く。大谷大学を勧めるぜ!
ストーリーテラーとしての素晴らしき日本語の詞世界で、俺が知っているのは、ブランキー・ジェット・シティーの「悪い人たち」ぐらいだ。知らないだけで他にもあるのだろうが、絶対的に少数だ。
日本人には行間を読む力が他国の人よりも備わっていて、その間を大事にするために、音階を乗せて物語ることは、どちらかというと野暮ったいものに感じる素地があるのかもしれない。
インテリジェンスの語源はラテン語かなんかで、「行間を読む」ことらしい。そんな講演談話を最近の新聞で読んだ。
なるほどなるほど。日本語と同じく行間の余韻があるハングル圏の将軍様の言動と、その行間を読めないアメリカの人。
アメリカのストーリーテラーは、使用済みの核施設を破壊させ、そのご褒美に制裁を緩和しようとしている。
物語ることより、行間を大事にしようと思った。
0 件のコメント:
コメントを投稿