2009年1月5日月曜日

達観

首相の年頭会見にあった、哲学者アランの引用、「悲観は気分、楽観は意志によるものだ」という言葉だが、よく出来た言葉だと思う。悲観、楽観というものが、本来かくあるべきという理想を的確に表した言葉だと思う。だが、理想はあくまで理想だ。

政治家、経営者というのはえてして、引用が好きだ。本人や演説ライターの力量不足が原因だろうと思うが、自分で言葉を紡ぎ出せないからか、安易に名言を借用して自分の力量をごまかそうとする。当然聴いている人間には響かない。

あまりに分不相応な言葉であり、会見という体裁ではあれ、国のトップの年頭会見である。訓示としての意向を持った場面で使われると、余計に哀しく響く。

個人的に、首相の引用を聴いていて、自戒の言葉、もしくは皮肉か?と思った。

政党同士の争いにおいて、意志を持って悲観論を垂れ流し、攻撃材料にする人たち、一方、大した根拠はないまま、現況に対して気分で楽観できる人たち・・・。「悲観は意志、楽観は気分」となっているのが、哀しいが現状だと思う。

「本来はかくありたい。俺もアランの言葉を体現できるように精進したい。」という自戒の念なのかもしれないが、自戒なら書斎ですればよい。国民に披露して気分を垂れ流す意志は必要ないと思う。

もし、アランの言葉が正しくて、国民全体がかくあるべきだというメッセージなのであれば、これほど現実と乖離した言葉もない。安易に使える言葉ではないと思う。もっと教義的というか、バイブル的な重みを持った言葉だと思う。

実生活においては、悲観の中に意志を持って楽観的な気分に変えながら、日々を処していくのがやっとであると思う。そして、この処し方は決して悲観的ではないと思う。人間の限界を知った上での謙虚で楽観的な処し方だと思う。誰が、楽観的な環境下にあって明確な意志を持てるものか。

もし、楽観的な状況で意志を持てる人が多くいたならば、アメリカ経済がくしゃみをしたぐらいで、日本経済が風邪をひくこともない。今は、アメリカが風邪をひいて、日本は瀕死の重傷を負っているのが現状だ。意志がある楽観の結果では決してない。

藤原道長の「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」という句にあるように、昔から人間は、楽観的な状況では浮かれ気分でいるものだ。それでいいと思う。

意志を持った楽観、気分の悲観・・・。 失脚後に自ら意志を絶たれたN元議員も、悲観の気分を意志を持った楽観に変えていけていたならば、悲劇的な結末を自ら選ぶこともなかったと思う。だが、現状はそうではなかった。

世の中は100年に1度の不景気だという。だが、個人的には実感がない。好景気という時代も生きてきているが、その時も実感はなかった。飢えている人を見るのが困難な時代だ。不景気不景気と気分を垂れ流されても、その気分はない。

派遣打ち切りで生活の場を無くした人たちに対する救済が、全国あちこちであったようだ。
炊き出し、住居の提供・・・、そして派遣労働者の主張の聞き取り調査も多くなされ、新聞紙上でいくつかが紹介されている。

彼らは悲観しているだろう。そしてそれは気分だろう。アランの言葉は今の局面においては的を射ている。だが、不安定な身分である派遣社員という立場を自ら最初に選んだ時の楽観に意志があったならば、今の現状に不満を言うことも、打ちひしがれることもなかったはずだ。だが、現実は違った。楽観に意志などなかったのだ。

あまりにも大きな言葉を引用して、理想論をふりかざすこと自体が、意志のない気分まかせの楽観であると思う。好転する契機となるトップの言葉ではないと思う。

俺は楽観的な状況では意志を持つ一方で、流されて気分に酔う。悲観的な時には滅入った気分に悪酔いしながらも、意志を持って楽観的な状況を目指す。
意志と気分、どちらも肯定しながらも、それを楽観、悲観どちらの状況でも持つ。

これが現状でできる最大の処し方であると思う。そしてそれを「達観」というのだと思う。「達観」は人生の晩年にしかたどり着けない境地だと思っていたが、目の前に転がっている、ありふれた境地だったのかもしれない。

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