2009年1月14日水曜日

雨晴開眼

今朝は寒かった。放射冷却現象とかのせいだろう。五時頃に寒くて目が覚めた。窓を開けて外を見ると、見るからに寒そう。突き刺すような冷気が頬を襲う。時折走る車が、路面の氷を粉砕する音が遠くで響く。もやもかかっている。

「今日だ!この日を待っていた。」俺はにやけて、朝方からばたばたし出す。嫁は「うぜ~~」と文句を言う。時は6時30分。

こんな日は、7時前には必ず空気が澄んでくる。俺は確信し、俺の大好きな絶景スポットに向けて車を走らせた。

「雨晴海岸」というのがある。我が家から車で10分くらいなのだが、県道を走ってトンネルを抜けると急に海が右手に広がる。昔、北朝鮮による拉致未遂事件が起こったことがある海岸だ。だが、そんなことは関係なく、ここの景色が狂おしく好きだ。

駐車場に車を停めて、ローカル線の線路を越えて海岸沿いに出る。右の水平線には立山連峰が見える。海の向こうに連峰が見える場所は、世界広しといえども、そうはないだろう。幻みたいな景色である。

猫の額ほどの砂浜に、額の黒子ほどの社がある。信心浅い俺ではあるが、絶景を見ることができる喜びを誰かに感謝せずにはおれない。

氷点下の気温であるのは間違いないのだが、インナーにジャンパー1枚羽織っただけの格好で、20分くらい砂浜を散策してはにやけていた。観光客らしき家族が1組、駐車場にはいたが、さすがに海岸までは降りてこない。絶景を独り占めした気になって、朝方の散歩を満喫した。

ビッグ・シチー大阪で生まれ育った俺が、富山に来たのは14年前。大阪から移住した直後から、何度となく聞かれたことがある。

「移住の決断するの迷わなかった?大阪と違って富山は何もないから、帰りたくならんけ?」 

俺は、「即決。満足」と簡潔に答えるようにしている。何の不満もない。これだけの絶景を車で10分の圏内で満喫できる県にいて不満なわけがない。都会に住んでいて、俺の今朝方のような散歩をしようとすれば、それは高額なレジャーとなる。非日常のイベントになってしまう。それを望めば毎日味わえるのだ。なんて贅沢な日々だ。

ところが、ずっと富山で育った人は、この土地の景観に感動したり、誇りに思ったりはしていないようだ。皆無ではないが、感動が薄い、そういう人が多い。早起きして雨晴海岸に行ったことを誰かに言っても、単なる物好きにしか思われないものだろう。

故郷は1度離れてみるものである。富山で育ち、その後、都会の雑踏にもまれて日々を商った人が、たまの帰省で、その絶景に触れ、心を洗われる気持ちを抱くことは、すごく貴重であると思う。

俺も富山に移住した当初と同じだけの感動と興奮を自然の景観に抱けているか、時々、自問自答する。慣れてしまうにはもったいない景観なのである。

38歳にもなって、天気に一喜一憂して、朝からわくわくして絶景スポットに行こうとする気持ち、これは自らの自然の景観に対する感動のメーターが、壊れていないか、鈍くなっていないかを確かめたいという気持ちが、どこかにあるのではないかと思う。感動の純度が鈍っていないかに対する怯えが、俺を早朝の海岸に向かわせるのかもしれない。

今日時点では、いつも通り、いや、いつも以上に、わが町の景観を満喫できた。俺も捨てたものではない。まだまだ眼は曇っていない。眼が開かれていることを実感できる日というのが、30代以降になってからは、実に嬉しい。ささやかな自己肯定日である。

少し休日返上の仕事をして、昼からは読書。

『クラッシュ』佐野眞一 (新潮文庫) 、 『捜査夜話』 石神正 (幻冬舎アウトロー文庫) 、 『白の鳥と黒の鳥』 いしいしんじ (角川文庫) 、「文藝春秋2月号」を読む。

いしいしんじ氏の作品は、意味もなく好きだ。咀嚼できない全体像でも、何だか涙腺がゆるむ。愛しくなる。

ちょうど、雨晴海岸の景観を眺めた時に感じる気持ちと同種の何かが、俺の胸に舞い降りる。白の鳥、黒の鳥、どちらも今日は見かけたような、見かけなかったような・・・。

今、富山では、しんしんと雪が降っている。何気ない冬のひとコマだが、日々を愛おしく思える日だった。こういう日に俺は喜びを感じる。日々のもやもや、雨を晴らしてくれる。 開眼だ。

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