2009年1月21日水曜日

ジェネレーション・ギャップ

今日は休みだが、中3受験生の最終出願に向けた進路相談に行ってきた。塾とは関係ない生徒だ。両親と本人を含めて4人で、色んな資料をプレゼンして、最終的に本人の意思確認、そして志望校最終決定へと至った。

いまいち実感のない本人と、本人以上の真剣さを持った保護者、塾稼業をするようになってから毎年見る光景だ。

だが、考えてみると、高校受験ぐらいで親が一生懸命になることは、塾稼業をしているものが言うのもなんだが、時代が変わったというか、過保護な気もしないでもない。

高校受験が意味ないとは思わないが、いつ頃からだろうか、親の子供を思う気持ちが、受験戦線の加熱を生み出してきている気がしてならない。大学受験ならまだわからない気もしないではないが、俺が中学時分にも、受験に熱心な親御さんがたくさんおられたのだろうか?

学校の提出物を期日内に出すといった、目の前の与えられたことに全力で向き合うことは大事だと思う。そういった中学校生活が子供にあれば親としては満足だと思うし、高校は家から近い所でいいと思うのだが・・・。俺も親になったら変わってくるのだろうか?

誰かに話すための学歴至上主義が、学歴神話が崩れた今のご時勢でも依然健在で、いや、むしろ勝ち負け基準のはっきりし出した今だからこそ、受験戦争は激しくなってきている気がする。

そして、親の子を思う気持ちを商売にしているのが、俺が今、身を置いている稼業なわけで、以前にもまして、なんだか胡散臭い仕事だと思ってしまう。

ただ、色んなお子様と関わらせて頂いて、自分が父親になった時の訓練をさせてもらっていると思って今は肯定している。人の子とはいえ、真剣対峙をモットーとして、手抜きはせずに励んでいる。

今の子は、ほんといい子ばかりだ。素直でひねていない。大人の顔色を窺う子や、大人に反抗心を示す子は、全くといっていいほど見かけなくなった。少なくとも塾通い出来る家庭環境にある子に限っての話だが、塾通塾率が8割を超える現在では、ほとんどの子が俺の思っている感想と、ほぼ近いのだろうと思う。

我が身を振り返ってみて、中学時分は大人の顔色を少なくとも窺っていた気がする。自分が気を許せる人には見捨てられたくないから、顔色窺っては、どこまで羽目を外していいいかを計っていた気がする。一方、気に食わない人には、徹底的に反抗していた気がする。

大人から見たら、かわいげのない子がたくさんいた気がする。でも自分が大人になった今、かわいげのない子がいない。人の子でそうなのだから、自分が親になったら、中学生といえどもかわいくてしかたないのだろう。

でも、そのかわいさが、小学生的なかわいさになっていたら、それはそれで問題あるだろう! 今の子は幼稚なのさ! 

少し前まで俺は、いっぱしの教育評論家気取りでそう思っていた。でも、俺自身の中学生時分も、今の俺が思うところの小学生的な幼稚さがあった! そう思わせる記憶が蘇ってきた。

学校で発熱して、しんどくてしんどくて、帰り道に泣きながら帰ったことがあった。そして家に帰るなり、お母さんの胸に飛び込み、安心したのか泣いた記憶がある。その後に看病してもらった時に、豊穣感というのだろうか、すごく満たされた記憶がある。しんどいのだが、満たされて、病気の身も悪くないと思った記憶がある。すりおろしたりんごを食べさせてもらって、親の愛情を独り占めした記憶がある。

俺はそれを小学生時分の体験だと思っていたのだが、今日ふと頭に、帰り道に坂を登った記憶が蘇ってきた。

その坂道は、間違いなく中学校への通学道にある坂だ。小学校は家から200mほどの所にあって、坂道はない。

つまり、俺は中学生にもなって、発熱ごときで、おかんの胸で泣いていたのだ。一方で機嫌が悪い時にはおかんを殴っていたというのにだ・・・・。

情けないというか、俺も十分幼稚なジュニアハイスクーラーだったのが、間違いない記憶として蘇ってきた。

世代ギャップの「今の若い子は・・・」という感想は、ハンムラビ法典時代からあるらしいが、俺も昔は、「今の若い子は・・・」と言われていたに違いない。

ならば、今の子を見て、「幼稚やな~」とか思うのは、記憶が薄れた大人の傲慢さではないか?と思うようになった。数千年スパンで繰り返されてきたジェネレーション・ギャップ、そのギャップを生み出すのは、大人のエゴに原因があるのではないかと思った。

それに、俺個人の経験は、俺が生きた、俺が関わった人たちとの関係だけであった体験であり、振り返っての感慨だ。それを今の世代全般に当てはめて、「今の若い子は・・・」と括ろうとしている姿勢こそが、十分に傲慢で、「目には目を」的な大人の負精神だと思った。

確かに、経済環境など、時代背景が変われば、世代間の置かれた環境差は出てくると思う。でも、ぞれぞれの時代に生きた子供、人は、世相に応じたマイナーチェンジがなされているだけで、あくまで本質的な部分は、人間発生時分から、何も変わっていないのだと思った。

散々、ジェネレーション・ギャップを感じる隔世感を大人の要因だ!と主張してきたが、それでも、ジェネレーション・ギャップを感じることは大切だと思う。

親も昔は稚拙であったろう、それでもその価値観を主張することは大切だと思う。それがくりかえされてきて、ジェネレーション・ギャップは教育の適切なツールとなってきていたのだと思う。

傲慢かもしれないが、今の親たちに欠けているのは、ジェネレーション・ギャップ自体にあるのではなく、自らが抱いたギャップを、当然のこととして消化出来ないまま、自分が抱いた不快感を子供に与えないようにしようとする、親の態度にあるのだと思う。つまり、ジェネレーション・ギャップを、摂理として咀嚼できていない親の側の、偏狭的な愛情の示し方にあるのだと思う。

「自分が受けてつらかったことは、子供には味あわせたくない。」この心を親心として甘んじてきた結果に、ジェネレーション・ギャップを超えた、今の世代の問題行動があると思う。

相変わらず大げさだ。咀嚼できていないのは、まだ親でもない俺のほうだろう。ただ、文章におこす技量は稚拙だが、色々考える機会を頂いただけでも、進路相談は俺にとって最高の発育ツールだと思う。ジェネリックにこの体験を活かしたい。

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