2009年1月9日金曜日

小路散策

通勤経路は日々変えている。絶対に最短距離では行かない。わが住む市の道という道は全て制覇するつもりで、毎回幹線から外れては、枝のまた枝へと寄り道を繰り返しながら通勤する。巡礼者みたいな俺の通勤模様だ。

本来、小路は徒歩で巡礼するべきだと思う。都会ならば車の通れない小路がたくさんある。何か見えない力で遮光されたような路地裏で感じる息吹が好きだ。大阪環状線、京橋から天王寺にかけて、丸1日歩いたことがあったが、まさに袋小路のような道を歩くのが好きだ。

人同士がすれ違うのもやっとの道がある。そんな道を歩くと、そこに住んでいる人の生活模様もついつい見えてしまう。紛れもなく覗き見の範疇だ。

網戸越しに聞こえるお母さんの嬌声、奇声、テレビをラジオ代わりに鎮座している翁、緊張感のない肥えた犬と猫、ご飯時になれば、それぞれの家特有の香りがある。そこに居住している人には申し訳ないのだが、覗き見する。好奇心というのではなく、単純に狭い道で感じる息吹が好きなのだ。

そんな道を通っていると、俺は紛れもなく異邦人であり、たまたま人とすれ違おうものならば、たちまち好奇の目で見られる。自分たちの生活空間に侵入してきたエイリアンの1人となる。

俺の小路歩きは決して趣味が良いものではない。でも好きだからまだまだ歩くつもりだ。

都会での徒歩散策が1番楽しいのだが、田舎ではえてして道が広い。車社会の前提で道が作られるので、小路は少なくなっている。おまけに、自分の住む町での小路散策は、偶然にも知っている人の生活空間に迷い込んだ場合、非常にバツが悪い。俺にとっては偶然だが、彼らからしてみれば、俺の目的を必然と訝しがる可能性がある。

一種のストーカー疑惑を抱かせることにもなりかねない。よって、わが住む町では、車の散策で辛抱している。それでも結構楽しい。

もう辿り尽くしただろうと思っていても、なにぶん車での巡礼である。見落としはたくさんある。幹線から外れた枝葉末節全てを巡り終えるのは、まだまだ先になりそうだ。

今日は、初めての道を発見した。そこに居住している御一行か、郵便、宅配関係者しか通らない道である。車がやっとかっと通れる小路である。

こういった道がもし、車で通るには行き止まりになっていて、その行き止まりに隣する家が豪邸である場合、それは狭道関係者であることが多いので、俺は期待に胸を膨らませて徐行した。

あいにく、その道は行き止まりにはなっておらず、するりと枝道に抜けたのだが、なかなか厳かな通りであり、高い建物がないにも関わらず、日が当たらない道であった。俺の最も好きな小路である。

家は軒並み古い。まだ木の窓枠の家もあった。トタン屋根、トタン車庫がずらりと並び、小路全体は錆色である。家主を失くした廃屋もある。俺の好き好きレーダーが敏感に反応する。「ここには何かがある!」と俺はいきりたった。

あった。俺が求めている宝島的、トマソン的景観があった。

俺の目に飛び込んだ手書きの貼り紙には、「墓あります! ヨコ→ 」と書かれていた。
伝達する上で、極限まで無駄を省いた名コピーだ。広告代理店もびっくりだ。

「ヨコ→」を見た。そこには、無縁仏だらけのような、墓石割合の少ないミニ墓地があった。墓地の土は肥沃に見える。蓮根植えたら、立派な蓮の花が育ちそうな水分を多く含んだ土壌に見えた。倒壊している墓もあった。滋養に富んだ土地ならではの地盤沈下があったのだろう、その対策らしき盛り土もあった。激シブの仏御用達用地だ。

限りなく交通量の少ない小路に、このような貼り紙を出したところで効果はないだろう。
でも、この貼り紙主のような神経を俺は素晴らしいと思う。

そして、ぶら~~っとドライブしていて、「あ、墓あるんや? 買おう。」と即決出来るようなスケールの大きな人に俺はなりたい。

小路は魅力にあふれている。質の高いユーモアにもあふれている。死ぬまでに少しでも多く散策して、「ヨコ→」みたいな墓地で眠りたい。

はかばかしい小路散策であった。

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