2009年1月16日金曜日

窮屈なキャンパスと報道

昨日、中央大学で教授が何者かに刺されて亡くなるという、痛ましい事件が起きた。
考えてみれば、大学キャンパスほど無防備な空間はない。10代の学生から高齢の研究者まで、人種、性別、年齢を問わず、多種多様な人々が出入りするところだ。

どこの大学にも、正門前に守衛さんはいるが、守衛に許可をとって入るのは、工事業者、納入業者といった車両組みだけであり、守衛のセキリュティー業務は、単なる通行許可証の発行だけに限られているのが現状だ。

不審者かどうかは、主観的なものであり、守衛1人の権限で、片っ端から職務質問をかけるわけにもいかない。

でも、昨日のような事件が頻発するような事態になると、どこかで警備面の強化の必要性を声高に叫ぶ有識者が出てくるだろう。キャンパスが、身分証明書を見せないと入れないような場所になることだけは避けて欲しいものだ。

犯人が捕まった際には、犯人をセンセーショナルに報道するのではなく、法治国家の厳格な裁きだけを粛々と告示してほしい。凶悪犯罪者は、病的な犯罪予備軍にとっては、時に英雄となり得る要素を持っている。センセーショナルな報道は、時に殉職者みたいな英雄としての犯人像を報道してしまうことになりかねない。

「中央大学事件、38歳犯人捕獲。無期懲役確定。」といった温度のない言葉を、ただ告示するだけでいいと思う。近隣住民に対する、避難警報解除みたいな報道でいいと思う。

犯罪報道を見ていて、いつも思うことがある。犯罪心理、犯人像に対する予想屋の存在は必要か?というものだ。

コメンテーターとして推測、予想談話を発表する人たちの発言を、「あ~、なるほど」と思うことは、まずなく、「そんな談話なら誰でも言えるだろう。」というものにしか感じない。

「複数個所の刺し傷から、犯人は被害者に並々ならぬ恨みをもっていたのかもしれません。」とか、「仮想空間に生きていて、人間関係が希薄な人の犯行だと思います。」といった意見が多いが、「ふ~ん」としかならない。

評論家自体は否定しない。三宅氏、宮崎氏、勝俣氏など、視聴者が報道の深層理解をする手助けとしてのコメントを残してくれる人もいる。

ただ、表向きは「評論家」であるが、その実、予想だけを専門に食い扶持を得ている人たちがたくさん存在する。彼らの存在を正直不思議に思う。犯人像の勝手な推測を言うだけ言っているが、その推測の精度が問われないことが殆どだからだ。

昔、「酒鬼薔薇」事件があった時、さまざまな「評論家」が犯人像を推測していたが、もっともらしいことを言うわりには、誰一人として、少年の犯罪だとは推測できなかった。あまりに常軌を逸した事件であり、推測できないこと自体は仕方ないと思うのだが、だからこそ、「評論家」が勝手な犯人像をテレビで述べる場があることの必要性に疑問を感じた。勝手な推測を垂れ流される環境は、被害者感情にとってもよくないと思う。

「評論家」が推測した発言が、実際にはどうだったか、その結果だけを考察する人はいないのだろうか? 実に暇で生産性のない仕事だと思うのだが、同じく暇な仕事があるのだから、1人くらいいてもいいと思うのだが。

例えば、ある犯罪に対して5人が犯人像を述べたとする。実際に犯人が捕まった時に、その5人の予想が的を射ていたかどうかを、しっかり採点して晒すのだ。

犯罪だけでなくてもいいと思う。政局予想、経済予想、なんでも予想の世界に身をおいて、報酬を得ている人は、その予想精度をしっかり自己チェックするだけではなく、公にもチェックされるべきだと思う

証券会社の社員は、予想が外れ続けたら業界で裁きを受ける。競馬記者は予想が外れ続けると紙面から自分の場所がなくなる。おまけにその週の予想結果は紙上で公開されている。

証券アナリストでも、競馬記者でもなんでも、予想屋というのは、その予想精度のみによって評価される宿命である。その立場を選んだ人たちなのだから、精度によって業界から淘汰されたらいいと思う。

もし、公に精度が明らかになれば、予想屋としての「評論家」という存在自体の必要性が問われる土俵が出来ると思う。各自が自分の目で毎日の事象に向き合って、取捨選択していれば、予想屋はいらないと思う。

報道には、予備知識が必要な報道と、不要な報道があると思う。ガザ情勢なんかは、歴史的なことも含めて、予備知識を持って人々が報道に向き合う必要があると思うが、冒頭の大学キャンパス内での残忍な犯行に対しては、予想屋までを呼んで報道すべきことだろうか?と思う。

当事者以外が、その犯人像を問われて思考すべき事象ではない気がする。人間心理に照らし合わせて、非であるのは、思考する以前に明白であり、世に問う意味はない。

こんな事件に予想屋を揃えて報道する先に何があるか? 単なる野次馬が増えるだけであり、本来備わっている人間心理に色眼鏡をかぶせるだけである。これこそ危険で無防備なことだと思う。

マスコミの報道姿勢自体が、予想屋としての側面が強いから、薄っぺらい予想屋が跋扈する土俵を用意しているのだと思う。

そして予想屋の跋扈は、大学キャンパス同様に、本来無防備でかまわない人々を、心理的にも物理的にも窮屈にしていくだけだと思う。

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