2009年1月19日月曜日

俺パレス

センター試験の朝、激励に行った時のことだ。LEOパレス御一行がチラシ配布に来ていた。1人暮らしを始める新入学生に対する、先手必勝の営業活動だ。

進学先が決まったら決まったで、住む場所、各種電気製品の手配と色々忙しい日々を過ごすことになる新入学の若者である。彼らの市場を狙った営業活動が盛んになるのは当然だ。

このLEOパレスの居住空間は素晴らしい。俺も大人になってからウィークリーでお世話になったことがある。

ただ、学生にLEOパレスを与える親を見ると、少し文句も垂れたくなる。「夢中で頑張る君にエールを送りすぎちゃうか? ライオンやったら、わが子を谷底落としたらんかい! 宮殿与えてどないすんねん!。」と突っ込みを入れたくなる。

だが、今やLEOパレスのような居住空間も標準的であり、若者にとってはパレスとも感じないのだろう。

ほとんどの生徒が標準的な住まいで学業を始めるが、なかには、時代に取り残されたアパートを選ぶ、殊勝な若人もいる。俺は、昔ながらのボロアパートを選ぶ学生を見ると、「赤貧青年負けるな!」と檄を飛ばしたくなる。

俺は下宿に関しては武勇伝の持ち主だ。少なくなったとはいえ、ボロアパートは未だある。だが、俺が住んだ空間と比べたら、全国のどんなボロアパートも敵わないと思う。なぜなら、俺の住んだ空間は、アパートではなく、小屋だったのだ。

わが身を振り返ってみると、大学入学当初は、自宅から通学するつもりでいたので、下宿を探すこともなく、遊びほうけていた。入学式にも参加せず、実にやる気ナッシングであった。

授業が始まり、初日のガイダンスに参加して、チープハンズのリズム隊2人と仲良くなり、クラスの女の子とも仲良くなった。新歓コンパに参加してからは、俺はそこそこ居場所を得た。

だが、学業集団であるにも関わらず、俺の居場所は談話室だけであった。大学にはバンドをしに行っていたようなもので、練習の合間に文学部の談話室で、学業に勤しむ友人との交流があるのだが、肝心の教室での交流を持とうという意欲がなかった。

新入学4月末には、授業に出なくなり、バイトとバンド生活になった。親に学費を払わせておきながら、大学は音楽サークルと化していた。不規則な生活リズム、当然、家にはほとんど帰らなくなり、友人の家を渡り鳥して過ごした。

1回生の6月、俺を学業体制に戻すべく、親身になって叱ってくれる友人がいた。彼は英会話サークルにも入って、ばりばり英語を勉強していた。彼が、「しばらく俺の家に泊まって、授業にしっかり行くようにしなよ。起こしてやるからさ。」と言ってくれた。彼は1浪だったので、年上ということもあり、俺は彼に従った。それから1週間は授業に行った。

彼の住んでいるアパートは、大家さんが自分の敷地内に強引に立てた小屋の集合体でなっていた。そこに1部屋、格安物件の空き(厳密に言うと、誰も入り手がいない物件)があるという。毎日彼の住処にお邪魔するわけにもいかない。俺は下宿を決めた。家賃は13500円だった。敷金礼金合わせても5万円未満の格安物件だった。

行動が早い俺は、すぐに入居した。文字通り身1つでの入居だ。その時はたいして何も思わなかったのだが、今から考えると、俺が住んだ部屋というのが凄かった。

大家さんが、アパート経営を拡張する上で、欲にかられて設計をミスったとしか思えない立地だった。現場は棚田が出来そうな斜面にある。 

数棟あるアパート入り口から細い小道を登っていく。すると2棟の建物が現れる。その建物と建物の間に梯子がある。階段ではない。梯子を登りきった所に1つの独立した個室がある。結構広くて立派な個室だ。だが、そこは俺の邸宅ではない。

そこからまた梯子を登るのだ。標高は俺の部屋が1番高い。梯子を登りきった所にある、鳥小屋みたいな立方体が俺の部屋だった。道路からは俺の部屋は見えない。山荘みたいな塊がいくつか見えるだけだ。忍者でもこんなところには住まないだろう。アジトである。

この部屋には窓がなかった。洗面台が部屋の外にあった。部屋中がかび臭かった。トイレに行くたびに、梯子を2回降下しなければならず、俺は面倒くさいので、雲古以外は洗面台の横でした。だんだんと床の鉄が錆びて変色していった。

かび臭い部屋だったが、当然だ。湿度がばりばり高いのだ。おまけに百科辞典に載っていない虫がたくさんいた。ドラクエのレベル3ぐらいで倒せるような虫だ。市販の湿度計では計測不能なほど、メーターを突っ切る湿度だった。

当時、地図をたまたま見る機会があった。俺の住む小屋は載っていなかった。他の棟はしっかり製図されていたのだが、俺の小屋は製図不可能だったのだろう。棟と棟の間に梯子を書いて立方体を書き入れる製図記号がなかったのだと思う。

地図からも消された小屋で、俺は学生としての更生機会を持ったのだが、これは、ムショ帰りの人が、ドヤで更生を始めるようなものである。すぐに学業を放棄した。更生を促してくれた上記の友人ともすぐに疎遠になった。

でもこの小屋は好きだった。幼少時、押入れの中に篭るのが好きだった記憶を持つ人は多いと思うが、ちょうどあの押入れの中のような快適さを感じた。

色んな意味で、最初の原点であるこの小屋が好きだった。もう少し住みたかったのだが、湿度からか、体にカビが生えたことを機に、俺は宿を変えていくことになる。

この後、俺は鍵のない「笠殿荘」、アンモニア臭漂う「弥生荘」と、すごい低レベルで漸進していく。でも、最初のこの小屋が1番強烈な記憶として残っている。

今はあるのだろうか、松田さんちの小屋。俺にとってはパレスだった。 

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