2009年1月29日木曜日

生々しい目

昨日は、緑内障術後の定期検診に行ってきた。本格的な視野検査をして、視野の欠損が進んでいないかをチェックした。

幸いに、現時点で欠損は見られず、手術前に欠損していた視野(右が左の7割くらい)を維持できていたようだ。

眼圧はだいたい15~18ぐらいを推移していて、一般的な正常値範囲内であるので、初見上は問題ないのだが、正常眼圧内緑内障というのもあるので、俺にとっての眼圧正常値がいくつであるかを測った。

眼圧は、1日の間で色々変化し、緊張、ストレス、食前食後、運動後など、色んな要素で変化する。その触れ幅をデータ採取して、俺にとっての正常値の範囲内を決めるための検査だ。

長い拘束時間、定期的に測る眼圧。眼圧測定も、一般的な機械の、風がプシュッと吹きつけられるやつだけでなく、医師による眼球に測定器を直接あてる検査もされる。

やっぱ、目の手術時の恐怖感は一生癒えないのだろうか、目に向かって何かが近づいてくるだけで、異常な恐怖感があった。

へたれな俺の恐怖感はこれだけでなく、「眼科」という文字、病室の匂い、建物、器具なんかを見ただけで、ぶるぶる震える何かが感情に湧いてくる。おまけに、「緑内障」の字面はもちろん、「緑」という文字も色も嫌いになった。名前が似ている「白内障」の字面も、十分に俺に恐怖をわかせてくれる。

今、俺が口げんかをしたとして、相手がいくら小学生でも、「目に針さすぞ!」とか、「や~い緑内障おやじ~」と言われたら、俺は、瀕死の獣が相手に牙を向くかのような発狂をかますだろうと思う。

情けないがそれくらい怖いのである。

幸いにして、今のところまだ再発症はしていないが、定期検診などで眼圧に向き合う度に、めったなことではストレスを感じない俺も、かなり消耗する。

考えてみれば、人間の体の中で、唯一、「生」が露出しているのが「目」である。全身は皮膚がカバーしてくれていて、「生」部分は包まれているが、眼球だけは、実に「生」である。それがなぜに無事であるのか、不思議でならない。町中の埃やごみを目に受けながら、我々は暮らしているのだ。

例えは悪いが、包茎野郎が初めて、男根をムキ実した日に、それを露出して街を歩いているようなものである。俺も経験があるが(露出ではない)、自分でムキ実をこしらえた翌日に、野球部でヘッド・スライディングした時の、この世のものとは思えない激痛を思い出した。 晒して歩こうものならば、即日、体に支障をきたすだろう。

例えが未完成な上、おげれつなので戻る。

目にゴミが入ったら痛いが、毎日大量の埃をくらっているわりには、それら1つ1つに対して痛くは感じない。目にある水分が、「生」の鮮度を落とさないために涙となり、埃を外に排出する。流れきらない場合は、目やにとして、目周りのゴミ収集場に集められる。
神様の設計は完璧だ。

朝青龍関のような、モンゴルの人の目が細いのは、遊牧民族として、かなりの砂埃を日常的にくらう環境に生まれたからだろう。先天的にも、後天的にも生身の「生」目を守る仕掛けが自然にされていることを、改めて素晴らしいと思った。

目が見えていること、そして、目が毎日の営みを続けてくれていること、その幸せを感じる機会としてとらえれば、定期検診も意味のあるものなのだが、診察室にある機器は、オペルームでの恐怖感を蘇らせてくれるに十分な、生々しさである。

「生」目で見る、眼科病棟の「生々しさ」、それを生ある恵まれた身で感じて、そこに教訓を見出すには、俺はまだまだ、生ぬるいのかもしれない。

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