2007年11月11日日曜日

電報と電文・・・会津の夢

ベースの明君と40分電話で話した。今日の話題は教育についてだ。これは楽しい。実にいろいろなことを話した。彼も奮闘している。

明君は、俺が尊敬する天然アナログ素材だ。彼がパソに触れている絵を想像しただけで、俺の涙腺が緩む。ちょんまげを結った侍が、パソを手にして、気に入らなければ刀で切る絵が浮かぶ。

そんな彼も、最近ではインターネットを満喫して、色々な画像を楽しんでいる。

今日の会話では、「文明批判ばかり言ってられない。俺はパソを使うぜ。便利だもん。」という彼のたくましい、文明開化な発言が聞けた。俺は彼をたくましく思った。「共々頑張ろうぜ!」俺は声をかけた。
煉瓦とランプの絵が頭に浮かんだ。はいから人種の俺たちだ! 鹿鳴館で踊ろうぜ!

時代錯誤と笑うなかれ。時代錯誤に真実が露見される瞬間がある。言霊は明君に宿った。

明君と交わしている英文メールのやり取りが、最近滞っていたのを追求しようと思っていたのだが、彼の方から言ってきた。

明君: 「けんじ、メール届いている?」
俺 : 「いつのやつ?俺は絶対返信するから、俺の返信がなければ、届いてないか、迷惑メールと
     思って、削除してるか、どっちかだわ。」
明君: 「けんじのアドレスって、・・・・・・・・・。(言い出したが、頭文字から合っていない)??」
俺  : 「前から変わってないで?」
明君: 「あれ、あれ、もう一度教えて!」
俺 : 「前、俺が送った返信が手元にある?」
明君: 「ある。」
俺  :「じゃあ、そのメール開いたら、『返信』っていうのが画面上にあらへん?」
明君: 「ちょっと待って・・・・。ある。ある。」
俺  :「それ押して文を書いたら届くで。」
明君 :「そうなの?」
俺  :「今までどうしてたん?」
明君: 「けんじのアドレス入れてた。」
俺 : 「それ、面倒くさいやろ? 来た画面に『返信』したらいいねんで。」
明君: 「俺が書いたメールに『返信』って、けんじがすることやろ? なんで?」

お気づきだろう。彼の中では、『返信』って言葉は連続性を生まないのである。1回きりの動作として捉えた場合、自分が書いた文面に対して、返事が来た場合、それを返信と言う。

それに対して、再度書く場合は、彼の中では、もはや、『返信』ではないのである。能動・受動の関係が交錯する思考は彼にはない。

すごすぎる!明君。

手紙で考えよう。 自分が誰かに手紙を書いた場合、それに対する先方からの返事が返ってきたら、それを『返信』という。自分が能動であれば、返ってくる手紙は「返事が返ってきた。返事が書かれた。」という意味で受動だ。

本来、手紙というものは、差出人から受取人への1回きりの動作を1組としてすえるものであったのかもしれない。俺は、すごくショッキングであった。

複数回にわたる手紙のやり取りは、それは『返信』に対する動作主が、ぼやかされて、やがては『文通』か『往復書簡」という言葉に変化する。

これだ!

現在のメールのタイトルには「Re. Re.Re.Re.・・・」とくり返されるものが多くある。俺もそうしていた。
しかし、本来、文のやりとりというものは、往と復の1回きりをもって完結されるものではなかったのかと思うのだ。

これが文のやり取りで、そこで完結するものが、美しい『返信』ではなかったか。

それを、だらだら用件を一筆に込めず、複数回のやり取りで完結するような文のやり取りはは、単なるチャットであったのではないか? チャットとは言うが、単なるおしゃべりである。

筆をとって、心を書したからには、常に1回完結であるのが本来の姿であった気がする。

文人の『往復書簡』を読み返す。確かに、前記されたことに対する、いくばくかの言及はなされているが、常に、能動と受動が入れ替わっている。往復という流れを貫いているが、返信者が送信者に常に入れ替わっている。

これだ!!! 

俺は悟った。電脳媒体はしっかり使う。その上で、電文と電報の区別をしっかりとしたい。

電報とは以下なるものだ。

送信者:「父危篤。すぐ帰れ。」    返信者:「了解。」    これは業務連絡だ。

しかし、心ある友からの文には、例えそれがメールという手段を使っていても、一撃で完結できる『返信』をしようではないかと、俺は痛切に思い、背筋を伸ばす。業務連絡ではない。用件→返信の過程が電報であっては、だめだ。俺は電文が書きたい。

注:「『電文』と『電報』との言葉認識に注意して読め。」      「了解。」

タイトルは大事である。「Re. Re.Re. Re.・・・」なるタイトルに、心の交流は無い。俺は、しっかりと能動・受動を使い分けたい。

明君の感性には涙が出る。彼が間違って送った英文メールは、送られた誰かに削除されているかもしれない。しかし、その清さは、電脳媒体に風を起こすだろう。

送信者と受信者。この立場をしっかり噛みしめて、墨汁になりかわり、しっかり筆をキーボードでしたためよう。それが、会津からの使者、須佐明之助が鳴らす警鐘である。

彼は何も考えていないようでいて、本心をついてくる。ボーン・トゥービー・シャインだ。答えは明だ。

『明』に触れた、秋の夜長、俺は会津の夢を見よう!

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