2007年11月20日火曜日

「想像力」を暴く

「想像力」とは何だ? 

「カントさんが哲学的思考した結果、感性と悟性の二つの違った能力を媒介する能力を構想する力」とでも言うのか・・。

なんかよくわからない辞書的定義だ。だいたい、カントなるおっさんの著書を一本読みはしていない。しかし、いろんな引用などの場面で出てくるので、目にすることは多い。よくもま~、こんだけ定義するな~というくらい、定義力に優れたおっさんだ。御仁こそが想像力の権威だ。

「想像力」という言葉は、俺は良いイメージに捉えている。時事的評論などにおいて、特に、犯罪心理学などの場面において、「想像力の欠如が根本の原因である。」といった見解を、よく目に耳にする。

肯定派だ。俺も、想像力は大事なことで、本来備わった性質に適切な想像力があれば、色々な問題は解決できる気もする。

肯定的な意見はまたの機会にして、今日は、デメリット面について考える~の心だ~!(小沢昭一風)

今日の夕飯(といっても10分前に食べ終えた)には、今年2回目の、カニ身があった。実に美味い。紅か、本か、タラバか、毛か、何かは知らない。沢ではない。身が大きい。実に美味であった。

俺は魚介類が死ぬほど好きだ。大げさではない。味覚も肥えている。毎回最後の晩餐の気持ちで魚介類に面している。「鯵」と書いて、「まじ(本気)」と読むくらい好きだ。

特にわが住む町は魚介類が非常によろしい。魚介類に居住区分も糞もあったものではないが、俺は日本海東部におはしまする魚介類君が特に好きだ。よくぞ、この閉鎖的な海原に迷い込んでくれました!と拍手喝采を送りながら、毎回食している。

しかし、俺が好きな魚介類は、漁師が水揚げしたものに限られる。つまり、市場を通して手に入る魚介類だ。個人的な釣り人が竿で釣り上げた魚は食べることが出来ない。もっぱら魚河岸専門だ。漁師と名の付く人が、網で取った獲物だけを俺は食する。

最近はしていないが、富山に移住してからというもの、よく釣りに行った。釣りは好きである。防波堤から鯵や細魚や小鯛をたくさん釣った。カワハギなんかも釣った。また、船釣りでキスをたくさん上げたこともある。家に持ち帰って、妻は料理した。しかし、俺は体調不良を理由に食さなかった。

釣りを否定はしてはいない。大好きである。しかし釣果の獲物を食することは出来ない。なぜか?

答えは簡単である。釣りで使うえさは「いそめ」であるからだ。あの、ミミズと蛆虫の負の部分だけを肉した生物を、俺は心から嫌っている。奴の臭いは殺戮の香りだ。

殺戮の臭いのするものに、卑しくも食いつき、くちびるに針を刺され、上に持ち上げられる魚が美味いはずはない。釣り上げられる魚は、背筋も凍る経験をして極度の恐怖と痛みで、発狂した状態で死期を迎えるのだ。死の直前の奴らの恐怖を、そして、奴らをその恐怖と痛みに誘った人間への怨念を俺は想像力で感じることが出来る。美味いはずがない。

同情する面もある。釣り上げられた魚の同僚は泣きながら彼に弔辞を述べる。

「だから言ったんだ。いそめに気をつけろと俺は何回も諌めただろう。この魚鹿魚鹿、馬魚馬魚!」

一度釣り上げた魚の唇が切れていたことがある。きっと奴は、以前にも、いそめに食いついて、釣り上げられた釣り人に強引に釣針を抜かれ、その上リリースされた奴であろう。しかし、また食いついた。あれほど激痛と死の恐怖を味わったにも関わらずだ。本能とは怖い。 ファインディング ノーモア!

いそめに釣られる奴は、いそめを食している奴だ。いそめの養分が彼らの身となっている。彼らはきな臭い。血の味がする。

一方、網で獲られる魚は高貴である。彼らの防御システム上、網にかかって獲られるのは仕方が無い。網を揚げられ、一瞬狼狽するが、港までは水槽の中だ。死の恐怖は少ない。まして、痛みはない。
カゴに移されるときに息苦しさは感じるが、人間だって息苦しさを感じて死ぬ事例が多い。怨念を抱くほどではない。魚河岸の地べたで、人間の足で蹴飛ばされる時に彼らの意識は無い。

網で獲られる魚は、普段の食生活も健全だ。プランクトンなどを食べる。他に何を食べているかは知らないが、いそめを食べるよりは、プラークコントロールをしている。彼らに歯垢はない。実にデンター魚だ。彼らなら俺は丸かじりで食すことが出来る。かじっても血が出ない。

以上のような想像力に基づく理由で、俺は釣り上げた魚を食べない。

俺の想像力は矛盾に満ちている。実に偏見と傲慢に満ちた想像力だ。低脳な想像力だ。思いをはせる局面はある一部だけだ。いそめに支配されている。

想像力を正しく働かせたならば、カニやウニを美味と思うはずが無い。だいたい、見た目で判断して、食す対象ではない。人類史上初めてカニを食べた人を俺は尊敬する。カニはどうみてもインベーダーだ。横歩きをしている所をゲーマーに連打されて消える運命だが、立派な侵略者だ。カニを初めて見た人が、彼を侵略者とみなさずに、体内に取り入れた、そんな神経の想像力のなさに俺は敬意を表する。この場面においては想像力の欠如が吉と出たのだ。

想像力は思い込みと紙一重である。冒頭の定義に戻る。感性と悟性の両方ともが、健全である保証はない。カニをインベーダーに見立てる性質を感性と言う。一方、カニは美味しいと思う性質を悟性と言う。二つの能力を媒介する構想力は、文化が育んだ思い込みだ。公平なジャッジは無い。

どうだ? 想像力なんてものは、いい加減なものであることがわかったか!    

誰に言っているのであろうか? 想像の相手にである。悟性はない。感性はある。媒介するものはない。バイガイは美味しい。 駄洒落ではない。魚洒落である。鮮度はいい。

想像力・・・。なんて生臭い!

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