2007年11月29日木曜日

風に吹かれて

一昨日の昼間に2回、夕方に1回、すごく揺れた。結構長い揺れ方で、まぎれもなく地震だと思っていたが、新聞やニュースでは報道されていない。観測されていないようだ。見落としがあったのかもしれないが、話題にもなっていない。同じ市内に働く嫁は地震なんてなかったと言っているのだが、わが職場の同僚は時を同じくして、揺れを味わっている。

1日空いて今日のことだが、昼間から以上に風が強かった。台風が来ている時以上の揺れを感じた。夕方には、建物が震えるほどの風圧を感じた。

断っておくが、俺が働く職場は鉄骨の建物だ。決して新しくはないが、風雨に負けるほどの軟な建物ではない。それが嫌な音を立てて、風圧に威嚇されていた。

しかし、窓から外を見ると、木々の揺れ自体はないのだ。その代り、隣接する高校の野球部用のバックネットが上下に揺れていた。縦揺れだ。そういえば、横殴りの風ではなく、頭上を押すような風であった。色んな風圧を感じてきたが、今日ほど縦の風の流れを感じたことはなかった。

縦揺れなるものがあるのであろうか? 今まで意識していなかっただけなのかもしれないが、今日ほど上下の揺れを感じたことはなかった。

気になることはまだある。窓から田んぼが見えるのだが、今日見た田んぼには、すごい数のカラスがいた。田んぼにカラスが今日ほど多くいた光景を見たことがない。たまたま今日だけ気付いたのだろうか?? そんなはずはない。 不気味な様相であった。

今までに窓からカラスをまったく見かけなかったわけではない。しかし、郊外の田園風景の中にある学校を中心とした隣接地域に、集団のカラスを見かけたことはなかった。ちょうど、2階の窓から目を向けると電線が視界の上部に開けるのだが、いつもは電線に数匹いたのだが、今日は田んぼの中にすごい数がいたのだ。

風の上から下への圧力が、カラスをも地上に降ろしたのであろうか?

雲は、夢でうなされそうな鱗雲であった。ただ、鱗の形がいつもとは違う。なんというのだろうか、形状が上下に長いのだ。仕組みはわからないし、俺が鱗雲と読んでるものが、気象学(天体学?)でいう鱗雲なのかは知らない。なんせ、今まであまり記憶にない。(多分、意識が行ってなかっただけだとは思いたいが・・・。)

昼間の風が嘘のように、今は完全なる無風である。2階の窓から吹き出したタバコの煙が真上に上がるのだ。これも珍しい。

俺は、「自然科学」という分野に対する造詣が乏しい。いや、知識量は小学生低学年並であると思う。だから、少しの自然現象の変化に驚き、戸惑い、喜び、はしゃぐ度合いが大きい。知識がないことに伴う喜びと怖さだ。それでも、雷が鳴った時に、真剣に、お臍を隠す程無知ではない。

科学という言葉自体がなかった時代の人が、雷の音を体験した時の怖さは尋常でなかったであろう。
空が怒っているようにしか思えない。「神のたたりだ!」とか言って、人間を生贄にしたりしたのも頷ける。無知であるが故の暴挙だ。

今は、科学が解明してくれたおかげで、雷の仕組みも分かっているから、怯えることはない。科学がもたらした知識は、先人の研究の成果だ。先人の努力に感謝する。

しかし、今日の俺の近辺で起こった自然現象を科学者はきっちり説明できるのであろうか?多分、明確なことは言えないと思う。自然現象のほんの0コンマ無限大ぐらいしか知りえていないのは明白だ。

未だに、天気予報の予想よりも、漁師の予報の方が当たる。また、最近では、俺は体の痛み具合で天気や湿度の予測がつく。漁師や俺は、科学的分析を経た結果、予想しているのではない。自然現象や、体に感じるかすかな痛みの違いで予想するのだ。

科学者の研究はむなしい。だからこそ科学者は日々、少しでも科学的たろうとして研究しているのだ。彼らを否定するつもりはない。ただ、少なくとも天文分野、自然現象分野での研究は、努力すればするほど、虚しさを感じる結果に終わる気がする。それでも研究する姿勢は素晴らしいと思うが・・・。

以前、身内の葬儀の後、火葬場に行った時、火葬場の職員が面白いことを教えてくれた。
彼は毎日、潮の満潮干潮の情報をチェックしているそうである。どちらがどうかは忘れたが、潮の満ち干きによって、死者が出る数が変わるので、「明日は忙しいだろうな?」とかがわかるらしいのである。

潮の満ち干気という自然現象、そして人の生死・・・・。解明出来るわけがない。自然現象は人の生死にリンクしているのだ。わかるはずがない。もっともらしい事は言えるかもしれないが、科学的たろうと精進するには、あまりに人の一生は短い。

それよりも、無知でいながら、もっと、自然に対して敏感でいたほうが幸せではないかと思う。微小な知識で自然現象の1つ1つをわかったつもりになって、自然に対する恐怖と歓喜を失うのではなく、雷が鳴ったら臍を隠すくらいの謙虚さを持ちたいものである。

科学者批判ではない。原始生活へのノスタルジーでもない。ただ、俺は、知らなくていいことがたくさんあるのではないかと思うのだ。知らなくてもいいことを知る努力より、日々を見つめる眼の鋭さを維持することに労力を使いたい。

この3日間の自然現象の異変の原因が何で、何が起こるのかを知る努力をするのではなく、これを契機に、日々、窓からの眺めに敏感でいたい。怒り、悲しみを排して、喜び、畏怖の念だけを抱きながら、日々を過ごしたい。

俺は体で本能的に自然を感じたい。風の縦揺れは、俺にヘッドバンギングをもたらした。首が痛い。しかし、風はアナーキーであるが優しい。縦でも横でも追従したい。何で揺れるかを知る必要はない。自然に対する答えは風の中にはない! 

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