2007年11月23日金曜日

おう!

常日頃から思っていることがある。
国文法の体系を「国文法」という名の下に、たくさんの時間を割いてまでして生徒に教える必要があるのかな?ということだ。

文節に区切ることから始まり、品詞分類やら、活用やら活用の種類やら・・・。母国語以外の言語には当然、しっかりとした文法体系を学ぶことは必要な面もあると思うが、日本語に後付の文法を必至で教える必要があるのかな?と不思議でならない。

当然、正しい日本語を使うためには文法は大事なのかも知れないが、あまりに体系が整備されすぎていて、そこに感性はない。

基本的に俺は、生徒には、「国語の文法問題は本能で解け」と言っている。英語は別だ。今日は日本語の口語文法に関してだけを言う。

毎日使っている日本語を体系化すること自体は有意義であると思う。外国人に日本語を教える時に、体系がなければ、何から学ばせていいかわからない。俺らが英語を文法から学ぶのと同じだ。英文法は、外国語を学ぶ俺たちにとっては大事であると思う。

日本語は、助詞・助動詞が外国人にとって難しいであろうことは、容易に想像できる。だから、日本語を覚えたての外国人は、助詞と助動詞をなるべく省いて話す傾向があると思う。「私(は)思うあるよ あなた(が)間違っているあるよ。」

助詞を省いて、「あるよ」をつけると、なんとなく似非の香りがするが、意味は通じる。助詞がないが救いようがある。でもしょせん、似非は似非だ。しっかりとした日本語を学びたい外国人には、助詞・助動詞のしっかりとした体系が必要である。

しか~し、日本語を毎日話しながら、複雑な助詞・助動詞の活用を無意識に出来る人たちに、改めてフォーマルな体系を学ばせることに何の意義があるのかは疑問である。正直、今の現状を見ていると、中学生レベルで、外国人以下の日本語活用力しか持っていない生徒はたくさんいる。

でも、彼らに体系から教えることが何の意味をなすのであろうか? 文法体系は、日本語の仕様説明書である。説明書を読む力がある人が、文法を学べるのであって、それがない人が体系から学ぶのは無理がある。その場合は、やはり、日常会話レベルからの「聞く」「話す」「読む」「書く」の基本練習に時間を割いてあげて、感覚的に正しい日本語力を養成すべきであろう。良い文章と良い会話の時間を作ってあげるべきである。

日本語上級者に対しても然りである。体系を眺めて、「なるほど」と思うことはあるが、彼らはすでに頭の中で体系を持っている。それを今更具現化して、問題にするというのは、彼らに対して、科学的であることの馬鹿らしさを植えつけることになるのではないかと思うのだ。

非常に不満のある文法ではあるが、くだらない問題が入試に出題されるので、文法に癖のある学校や県の受験をする人には、「本能で解け」と突き放しつつも、添削を併用しながらしのいでいる。

今日、添削した文法問題は愚の骨頂であった。

「やあ」とか「おい」とかを「感動詞」と定義するのであるが、まったくもって馬鹿馬鹿しい。しかしフォーマルである。その感動詞のくだらない問題を記憶を頼りに再現するとこんな感じである。例文はかなり違っているが、趣旨は正確に再現する。

「次の傍線部の感動詞の用法を、あとのア~エの中から選びなさい。」
 【 通りを歩いていると級友の安夫に出くわした。「今日のテストどうだった。」と聞いたら、頼もしい返事が返ってきた。「おう、これ以上ないくらい最高だぜ。」】
この「おう」の種類の分類であるが、正解は「応答」というものであった。

点数でいう成績が低い生徒がほとんど正解しているのに対し、高得点組みの筆頭である生徒だけが間違えていた。彼女が選んだ選択肢は「あいさつ」というものであった。俺も文法体系に害されてきたのか、迷いなく「応答」を選んだ。しかし・・・

その彼女は、関西に生まれ育ち、越中に中学生になってから転校してきた生徒である。
よくよく考えると、同じ関西生まれの育ちの人間として、上記の「おう」は「あいさつ」にしか、俺も思えなくなってきたのだ。「おう」が「はい」といった肯定の意味を表すならば「応答」かもしれないが、道端であった級友に対して、「おう」という言葉で「毎度」とか「おや、~君やんけ」といった意味に捉えるならば、間違いなくこれは「あいさつ」である。あいさつをしてから本題への応答に入る・・・。美しいではないか!  豊かな意思疎通ではないか!

俺は彼女の誤答を突っ込みをいれて添削し、「おう をあいさつに使うのは関西人だけみたいやな?」とコメントした。そして直接、「これと同種の問題が出て、仮にこの誤答が原因で不合格になっても、それはむしろ喜ばしいことちゃうか?」と言った。彼女も頷いていた。保護者にも同趣旨のことを話すつもりである。

言葉という壮大な感情の発露手段を、言葉で定義することの限界を露呈しているものが、文法ではないかと思うのだ。体系を作ることは大事だが、言語を学んでいる生徒に長時間かけて指導する項目ではないと思う。豊かな感覚と言語認識を育みつつある子供たちに、悪戯な定義を植え付けたくはないと思っている。

文法を学んで楽しいのは、むしろ大人であろう。自分が何気なく使ってきた言葉が、体系化されたものを見ると、実に新たな発見があるし、素晴らしく定義したものであると思う。しかし、言語を感覚的に育む過程にある子供たちにとっての言語は、体系化されるほど安っぽいものであってはならないのだと思うのだ。後付の言い訳と体系化は大人の道楽であり、言い訳であり、これを得意とするの人種の筆頭が政治家だ。

文法体系を個人的には面白く思いながらも、本能を重視した感覚の鋭敏さを子供たちには養って欲しいと思う。そして、彼らから、感覚の素晴らしさを吸収して、衰えいく本能を鼓舞したい。

文法は面白くて必要だ。その一方で、文法用語は18禁だ。青い春に与える春本は想像力を鼓舞するものであってほしい。

おう」 ・・・結びの言葉への非難に対するあいさつだ。応答ではない。解釈は様々だ。




 

2 件のコメント:

naka さんのコメント...

「それはむしろ喜ばしいことちゃうか?」と言えるって、ええ先生やな。

読んでてヲイラは「おう」は固有名詞かと思った。
級友さん「王安夫」君ね。(w

管理猿まえけん さんのコメント...

王安夫君って、いそうだわ(笑)

固有名詞って解釈もありですね。言葉は楽しいっす。コメントありがとうございました。