2008年2月6日水曜日

餃子問題

少し前のブログでも書いたが、餃子問題が大きくなっている。中国各紙は、「日本で中国産の冷凍食品に農薬が混入したと指摘されたが、中国当局の検査では検出されず、問題は見つかっていない」と書きまくり、一部の専門誌は、「日本が中国をギョーザ問題を使って攻撃してきている。」とまで書いているそうだ。

謝らない国にとっては、自分に反意を唱えるものは全て攻撃とみなすみたいだ。緊張感あふれる国である。安全に問題はないと言ったって、あるやん! 中華思想は一種の宗教的なヒステリックさを内包しているような気がする。そして、また半日藁人形が増えていく。ご苦労様。

ただ、こればかりは、あれこれ言っても仕方がないので、奴らに頼らないだけの食文化を作らないといけないのかもしれない。こちらが言っている意味が分かる人達が、かくも幼稚な興亡の歴史を繰り広げるはずはないだろうと思う。頑張って自己主張してください。君達が悪いのではないあるよ。君達と交流を持たざるをえない我らが悪いあるよ。

餃子問題で俺が気になったのは、俺の実家のスーパーで発見された冷凍食品に、小さな穴が開いていたということだ。もしかして、グリコ森永事件の再来??と思った。そうであれば、中国さんが怒るのも無理はない。窃盗を数多く犯してきた犯人が、ただ1件の立件だけを「濡れ衣だ!」と主張するレベルでの同情だが、濡れ衣は濡れ衣だ。その場合は、濡れすぎた奴らに謝らないといけない。卵投げられたらかなわんからだ。

最近、グリコ森永事件の本を再読していた。この事件が世間を賑わしていた当時、俺はもちろん知っていたが、自分の身近なところで起こっているという実感はなかった。当時の俺には世間の距離感は狭く、遠い国の暴動のような認識だったと思う。

それが、大人になってから書籍をあたると、かなり自分の知っている土地が出てきていたりするもんだから、親近感を覚えたのだ。

この親近感という表現は不適切かもしれない。しかし、世間を賑わす事件に対する俺の感情は、かくも低俗なものだ。自分が知っている、行動する範囲で起こっている(いた)事件が身近な事件で、遠くはなれた事件にまで、正義感を振り回して、真剣になれるほど、俺の想像力は高尚ではない。

グリコ森永に話しを戻そう。俺は、この時効となった事件に興味があるのだ。俺は、今でも、あの有名なキツネ目の男のモンタージュに該当する人は、この人だ! と思う人がいるのだ。

俺が中1の春から半年だけ通った塾のおっさんだ。塾というものを初体験の俺であったが、このおっさんの荒み方は、子供心に怖く映った。それが原因で、俺はこの時以来、塾を拒否するようになった。今でも塾講師たる職業は、胡散臭い仕事だと思いながら、この空間で浮遊しているのが現状だ。

その塾のおっさんだが、京都大学を出ていたのだが、癖の塊みたいな人だった。生徒の親御さんの職種を全て願書に書かせ、取っている新聞まで記入させやがる。

そして、それを生徒の前で、実に低俗な話題に変えるのだ。中でもこいつは公務員が嫌いだった。俺の実の親父は公務員だったものだから、授業中に、「○○(俺の名前)の親父は公務員だけあって、お前もどっか抜けてるな~。」と嘲笑する一方で、社長のご子息に対しては、「▲▲君は、家業継ぐのか?女子連中は、求愛するならこいつにせ~や!」といった、今の時流ならすぐに干されかねないおやじだった。数年後干されたが、それなりに一世を風靡した塾だった。

この親父、ぴかぴかの白いエナメル革靴で、宿題をしてこない俺のすねを蹴ったりもしやがった。俺は、腹が立つ一方で、この、やけに威張っているおっさんの裏に、卑屈でコンプレックスの塊のような、大人の悲しさを感じた。何か、得体の知れない憤りを内包した目つきが、まさにキツネだったのだ。

M崎Mさんが、キツネ目の正体として、世間をにぎわせ、捜査対象にもなっていたみたいだが、俺自身は、このおっさんこそが、犯人だと思っている。今は、その塾のあった場所は再開発がなされており、跡形もない。また、このおっさんが、今どこで何をしているかも知らない。

何か、強烈な鬱屈した精神が全身に滲み出る何かを感じさせたこのおっさんだが、ちょうど、グリコ森永事件の時の種々の取引現場には、物理的に関われる時間を持っていた。今頃になってだが、単なる証言としてでも一報を入れるべきだったかと思っている。違っていたら名誉問題で訴えられても良い。彼が繰り返し言う言葉の数々に、国家権力やエリートへの憎しみが込められていたのを、俺は確実に感じていた。色々と犯人と思う根拠はあるのだが、時効の事件であり、これ以上述べるのは控えるが、どう考えても怪しいと思っている。文体がまさにそれだった。

グリコ森永の本を読んでいたら、捜査対象にのぼった重要参考人の中に、塾講師がいたというくだりがあった。俺は興奮した。どうやら、それは神戸の塾経営者で、どうも、俺の思っているおっさんとは違ったみたいだが、同業種ということは、たまたまではない気がする。すごい業界だ。

本当に、塾講師というのは、癖の塊みたいな人種が多い。その癖が生徒の発育に良いほうに出ればよいのだが、保護者の立場にたってみると、実に恐ろしい習い事である。

餃子問題からグリコ森永へ、そして塾業界へと思いが巡る俺も、どう考えても癖のある人間だ。客観視できない分、我が職業を鑑みて、自己批判を定期的にしている。

だからといって、俺自身は塾講師として、害があるとは思っていない。当たり前だ、害があったらやっていない。俺が大丈夫だと思う根拠は、自分に裏づけのない自信は持たないということだ。謙虚で弱気なところは自信がある。後悔だらけの日々に自己憐憫するのではなく、しっかり落とし前をつけた男の清さが、俺にはあると思うのだ。だから、生徒の気持ちに土足で踏み込むような上から目線ではなく、俺自身が生徒であるような気構えがある。この気持ちがある以上、良い講師でありうると信じている。

塾講師という皮でパッケージされてはいるが、自己吟味と衛生管理を怠らない。内包された中身に品質劣化がないか、素材が味を強調しすぎていないか、といった項目を、常に自問自答している。冷凍されて思考を止めるような存在ではなく、常に生身のものである限り、例えそこに一時的な害が生じたとしても、生徒に嘔吐を感じさせない自信がある。長期的な基礎スタミナとなる、滋養分だけを提供できる自信を持って、俺は今日も教壇に立っている。

安全な餃子のような存在でありたいと思う。美味しくてスタミナがあって、次の日に香りを出して、滋養となるような、生身の餃子を目指したい。

こんな俺のモンタージュは、朝鮮半島的輪郭と、中国的髪型を持った男だ。キツネ目ではない。目は柔和だ。餃子のような膨らみが欲しい壮年の男だ。餃子に思う。

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