2008年2月26日火曜日

門出に思う恩師の言葉

高校3年生の国公立二次試験も終わり、後は後期日程やら私立入試の一部のみだ。高3生のほとんどは進学先が決まり、下宿先探しや身の回りの品の調達やらで忙しい日々をすごしている。一部、後期日程に全力を注ぐ子達もいるが、だいたいが固まりつつある。

もうすぐ、別れと出会いのしょっぱい季節の到来だ。特に、高校3年生にとっては、進学であろうと就職であろうと、人生初めての大きな別れと出会いの時期を迎えようとしている。

毎年この時期になると、高校の時にお世話になった恩師を思いだす。俺が高校1年生の時と3年生の時の担任だった下村先生だ。小学校の時にお世話になった門川先生と共に、いまだに恩義を感じている先生だ。

俺が通っていた高校は、俺達が1期生であり、伝統もくそもなく、グラウンド造成中に遺跡が発掘されたりして、グラウンドがなく、野球部の俺は練習場所をジプシーしながら過ごしたような学校だった。
就職する人が半分以上を占める、大阪の地元校であった。就職と進学が半々ぐらいで、地元中学のヤンキー臭ただよう奴らも多くいて、1年の4月はヤンキー同士の力の探りあいがなされていた学校だ。

大学に進学するという発想自体も思考できないほど無知だった俺は、ひたすら部活と恋愛に明け暮れた。バンドをしたくても楽器を買うことが出来なかったので、バンドデビューは高3の秋の文化祭だった。ベーシストとして、ラッフィンノーズとユニコーンとヴァンヘイレンのコピーをした。無茶苦茶だった。

俺が高3になった時、下村先生が、「大学に行く気はないか?」と打診してくださった。漠然と学校の勉強をそれなりにはしていたのだが、高3になる春まで、どこか進学するのかな?という進路ビジョンはあったのだが、自分がしたいバンドと、大学というものがどうも結びつかなかった。

「バンドをやりたい気持ちがあるならば、なおさらのこと、就職する前に色んなことを模索する、人生の猶予期間を持ったらどうだ?そして、それが許される世代に生まれたのだから、それもありだ」と言ってくださった。そして、「当然、大学は勉強しに行くところだから、親御さんには勉強する意志があることは示さなければならない。英語は嫌いじゃ無さそうだから、お前の好きな洋楽を味わうためにも英語をしっかり勉強してみたらいいじゃないか? その気持ちを素直に親御さんに伝え、進学先を探してみないか?」と言ってくださった。

俺はその日に、何か自分の進路に新しい輝けるビジョンが見えた気がした。その日から、下村先生は、俺の進学先を真剣に考えてくださった。高2で理数系科目を人生から抹殺した俺は、文系の私立大学を中心に探した。社会といった暗記項目に対する努力も才能も欠如していた俺に、「政治・経済」という暗記項目が少なく、理解力が問われる科目を提示してくださり、志望校も示してくださった。

上記のことは、強烈に覚えているのだが、それ以外にも、毎日の些細なひとコマの中に、「俺のことを親身になって考えてくれている。」というビームを俺は全身で被弾し、下村先生の期待に答えるためというモチベーションを多く保ち、夏以降の追い込みに打ち込んだ。

下村先生は、極左の先生だった。受験前なのに、高3の3学期の英語の授業のほとんどを、チャップリンの映画鑑賞に費やし、俺達に戦争に対する御大なりの気持ちを提示してくださった。決して押し付けがましいところはなく、ただ、自分の生身の人間としての感情を冷静に生徒に提示してくださった。

ちょうど、昭和天皇の崩御が卒業を控えた時にあった。全校集会が開かれ、校長の指示で黙祷がなされようとしていた時、下村先生とは違うのだが、同じく極左の数学教師が、「なんで黙祷するのですか?戦争で亡くなられた方々の命に対する配慮はないのですか?」と静寂の中、校長に噛み付き、退場させられるといった事件もあった。

もちろん、この当時の俺は、戦争に対する感情をしっかり噛みしめるほどの思考力もなかった。ただ、下村先生がチャップリン映画を通して提示してくださった思考のヒント、そして、大人が抱く思想の深遠さを漠然と感じ、この事件に高揚した。

約1ヵ月後に入試を終え、進学が決まったというものの、進学することへのビジョンは相変わらずなかったし、それよりもむしろ、下村先生と別れることが俺には悲しかった。俺は下村先生に、「先生のおかげでとりあえず、進路が決まりました。でも、これで交流が途絶えるのが正直悲しいです。また、定期的に訪ねてきていいですか?」と聞いた。

下村先生はこう言った。「教師という仕事を選んだ人間としては、今のお前の気持ちは嬉しい。でも、お前が俺を訪れたいといつまでも思うようならば、それは悲しいことだ。これから色んな新しい出会いがある。そんな中のひとつに俺が入っているようであれば、それは何て小さいことなんだ。そんな生活を過ごして欲しくはない。俺にとっては寂しいが、お前が新しい進路で毎日忙しくして、俺のことなんか思いだす暇もないくらい、色んな楽しいことも悲しいことも体験してほしい。だから、出来るだけしばらくは訪ねてくるな。もし大きな転機があった時だけでも報告してくれた、俺にとっては嬉しい瞬間だ。いいか、頻繁に俺を訪ねることができるような生活は過ごすな。」

上記は、記憶を頼りにだが、ほぼ正確だと思う。言われた時には本当の意味が分かっていなかったのだが、ずっと噛みしめていた言葉の気がする。

2年半後、俺は中退の報告をしに、下村先生を母校に訪ねた。幸い異動されておらず、お会いすることが出来た。「先生が勧めてくださった進学ですが、やめてしまいました。」と簡潔に報告した。

下村先生は、ひたすら俺の話を聞いた後、「○さんの中で大切な報告をしてくれてありがとうございます。進学をすすめた僕も悪かったです。ただ、中退という決断をした○さんと関われたことを僕は誇りに思います。共々、立派な大人になれるように、毎日全力で過ごしていきましょう。」と言ってくださった。

20歳のガキに敬語で接してくださって、正誤の判断ではなく、1人の人間として対峙してくださった下村先生の言葉が、毎年この時期になると、俺の心に突き刺さるのだ。数年後、ある繁華街で「赤旗」のチラシを配っている下村先生を見かけたことがある。俺は隠れた。なぜだかわからないが、会うべきではない気がしたのだ。

今日、俺の職場に2年前まで交流があった生徒3人が訪ねてきてくれた。高3生として進学が決まり、その報告に来てくれたのだ。色んな人に聞きながら場所を探してきてくれた。感激だ。俺が3年前に言った進路先の提案を胸に頑張ってきたという言葉などを聞かせていただき、感無量だ。

下村先生の言葉が浮かんだ。御大ほど立派には言えなかったのだが、俺は彼女達を見送る時、「幸せな日々をお過ごし下さい。そして、俺とこに来る暇がないほど忙しい日々をお過ごしください。」と言った。それ以上話すとこちらの未練が出そうでつらかったので、淡々と送迎した。

下村先生の気持ちが、今本当にわかった気がする。最高の恩師の気持ちを体感できたことを嬉しく思うのだ。進路を自分たちで切り開く若人の決断と矛先には危うさと浮揚感があるが、眼の清さを見ると、ただただ、今までのご縁に感謝すると同時に、今後交流がないことを願う寂しさと嬉しさの祈念に繋がる。塾講師という、うさんくさい稼業にも関わらず、こんな経験を出来たことが嬉しい日だった。門出だ。

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