2008年2月29日金曜日

職人への憧れ

今日のテレビニュースで、八甲田山での観光バススリップ横転事故と、観光バス運転手の勤務実態の報道がなされていた。

雪道でスリップして横転し、死者を出した事件ということもあり、運転手の過失責任が問われるのは間違いない。吹雪の中の雪道をスタッドレスタイヤだけで走行し、チェーンを巻かなかった責任は重いと思う。人名を最大50名ぐらい、一走行で預かっているのだから、運行上の過失は問われてしかるべきだと思う。

ただ、その後の観光バス運転手の実態報道を見てびっくりした。1日あたりの観光バス会社の貸切料金は7万円台まで下落していたそうだ。そして、その7万の内訳を見ると、運転手の日当が2万円となっていた。

これが本当ならば、運転手に同情の念を禁じえない。早朝から深夜まで、週に4回、無理して5回働いても月収40万ほどの額面ですぜ! あまりに安すぎないかと思ったのだ。

物を運ぶ運転手も素晴らしいが、観光バスの運転手は大型のプロ中のプロだ。運転手業界のエリートだ。どんなに電脳媒体が進化しても、路上を走る観光形態は存続するだろう。我々に、車道の旅の快適さを提供してくださり、どんなにハードな勤務であっても、眠気を自制し、強い節制で安全運転をされる、彼らプロの稼ぎとしてはあまりに気の毒だ。

俺は、1年半ほど、添乗員のアルバイトで、全国の温泉地に観光バスの添乗をさせていただいたことがあった。観光バスの運転手の運転技術は、人間業とは思えないほどの芸術感があり、夜の食事に同席させていただいた時にも、翌朝の勤務時間から逆算して酒量をコントロールし、殆どの場合は、勤務時形態の実情では飲めない状況にも関わらず、自己節制され、50名近くの方の生命を預かっているプロ意識を持っておられる方々ばかりであった。

俺がご一緒させていただいた方は寡黙な方が多かったが、寡黙な中にも人間的なスケールのデカさが滲み出ていて、惚れ惚れする職人気質を感じたものだ。

飛行機、電車、船舶といった同じく乗客の安全性を担う業種の方の給料と比較して、あまりに観光バスの運転手の見返りが少ないと思った。陸海空、1番注意力が必要なのは、事故確率から言って、断トツで陸だ。そして、軌道がひかれ、全てが高速みたいな電車と違い、一般の人も乗り入れする車道を多くルートに含む、1番偶発性の大きなルートを走るのは、観光バスの運転手だ。彼らの見返り賃金というものの見直し無しに、彼らの事故の度の過失責任を問うのは、あまりに理不尽ではないかと思ったのだ。

飲酒運転といった防げることに起因する事故ならば、いくら糾弾しても良いが、プロ意識を持ち、1人1人の運転手の、体力の限界すれすれの中でしか、観光需要を満たしてくれない必要性の中、彼らが起こした事故に対する処罰の規定は、あまりにも酷な気がする。

何が言いたいかというとだ、今こそ、職種による賃金の優劣基準を見直す時期に来ているのではないかと思うのだ。これだけ電脳が発達した時代、ホワイトカラーが高給を得てこなしてきた業務のいくつかは、電脳媒体のシュミレーションにまかしておけば事が足りるようになってきている。杓子定規とまでは言わないが、没個性で成り立つのがスタンダードなホワイトカラーの仕事だ。いや、ホワイトカラーの仕事に多い。

杓子定規にすることすら出来ないで、自分たちの電脳との戯れミスを、さらに税金を使って調査する、公的な保険を扱う国民愚弄が趣味の愚老が高給をとる一方で、個別の判断が全ての熟練の技能給が信じられないほど低い。

どんなに世の中が進化しても、進化の過程はハードレベルでは頭打ちだ。ドラえもんのような次元を異にする世界が成り立つ可能性がほぼないのは、アホの俺でもわかる。テレポートはありえないでしょうあ??? ならば、どんなに電脳が発達しても人力以外に頼れない、職人というものの労働対価を、今こそ見直す時期に来ている気がするのだ。

コンピューターの力を仕事内容に内包する比率が低ければ低いほど、職人の力が必要になる。今需要の高い介護業界、建設に携わる現場労働者、特殊車両の運転手、彼らの給料が高くなり、彼らに対する敬意が今より高まる時代の到来は、考えただけでわくわくする。

机上の空論を垂れる高給背広族の奴らが手を置く机も、座るイスも、職人の加工により存在するのだ。ハードに乗っかった理論派きどりの奴らの理論は、コンピューター的思考と変わらない。直線的な意味での同一性だ。それならば、作業効率でコンピューターに劣る。

人間にしか出来ない匠の技を必要とする業種が高給で報われ、そこに高い競争率と選抜があってしかるべきだと思う。コンピューター制御の船が衝突して、匠の出番が最終的には必要であることが明らかになりつつある時代だ。その上で、匠の不注意による事故は弾劾されて、防げる過失である場合は、極刑なみの弾劾がなされても良いが、今は、職人の技をなめているとしか思えない矛盾の塊の法体系と思想感が、職人の優れた技を機械化し、無機質におとしめているような気がしてならない。

学歴選抜で生き抜いた人の優秀さは、その頭脳の思考力にあるのではなく、元服前の記憶レベルにある。彼らが勝ち抜いたキャリアと、そこに至るまで耐え抜いた我慢の力とが、さも、思考力レベルの優劣であるかのように考えられて、そこに賃金格差が生まれてきたのが今の現状だ。

学問は本来、個人的知的好奇心に基づく遊びであったはずなのだが、それが賃金格差の指針になった結果が、今のこの矛盾だらけの平和な日々だ。幼少時に知的好奇心が言葉以外の物体に向いた人たちの思考は、テストレベルでは低いかもしれないが、言語認識と本能的な吸収力では決して差はない。要は、幼少時に与えられた環境で、それなりに目の前のことをこなし、表層の根底にあるものを本能的に察知しながらも、言葉遊びのテストに興味が向かず、自分の腕に磨きをかける人たちの追究の結果が職人の誕生である。

職人が真の匠であるためには、中途半端な思考に劣る思想なしの奴らが入り込めるだけの隙間のない環境が必要になる。究めた人は、興味がテストレベルに向けば、今の学習ごっこレベルの競争は勝ち抜く素地があった人たちであったと思う。20歳までの種々の環境の差が、彼らの環境を悪戯に支配しているだけである。

職人が真の匠であるためには、彼ら職人の賃金レベルを上げることこそが、電脳まみれの世の中に必要なことである気がした。

俺は職人にはなれない。言葉に戯れ、好奇心を満たすただの道楽者として、匠を味わいたい。職人ってかっこいい。職人に対する俺の憧憬は幼少時から変わっていない。薄給でよい。

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