2008年2月20日水曜日

くるりライブ盤を聴く

本日発売のくるりライブ盤を聴いた。パシフィコ横浜と磔磔ライブの2枚組み!

むちゃくちゃよい!感動のメーター突き抜けた。俺は完全なるくるりファンですわ。選曲もどんぴしゃで、ずっと聴く一枚になりそうだ。

日本のバンド、ミュージシャンに関して好きな人はアマチュアのバンドの方が多かったのだが、メジャーなバンドで、くるりがデビューしてからというもの、俺は完全に彼らのファンになっている。
ライブも3回行った。どれも脳裏に焼きついている。CDも全部持っている。

思えば、日本のメジャーな人たちで夢中になった人たちで、発売日が待ち遠しい人っていえば、ボガンボス、ブランキー・ジェット・シティーぐらいであった。他にも好きな人はたくさんいるが、発売日に買いたいと思える人はなかなかいなかった。その中でも、くるりは別格だ。本気で、彼らの曲と歌詞と魂が好きだ。

俺は、偶然にして、くるりが在籍していた音楽サークルに入っていた。たったそれだけの理由で、彼らがデビューした時に聴いたのが、彼らとの出会いだったかもしれない。単純にそんな動機だ。
しかし、彼らの音楽に対しては、デビュー以来、一貫してファンである。例え、サークル的な共通点がなかったとしても、彼らの音楽には魅せられていたと、自信を持っていえる。

彼らがデビューした当時、京都の音楽人の中には、彼らの音楽を認めたくない派と、彼らの名前と交流を出すことで、自分たちを大きく見せたい二派に別れていたような気がする。「メジャーの世界がなんぼのもんやねん! どんな音を出すかみてみようか?」といったタイプと、「あいつらうまいことやったな~。」みたいに軽々しく言う人たちが多かった気がする。

確かにだ、音楽をしているという立場での優劣はアマチュアとプロにはない。しかし、彼らが出す音の素晴らしさを音源として聴いた時以来、俺は、「くるり」というバンドに対して、軽く評論したり、さも接点があったかのような軽率な発言は出来なかった。なぜなら、彼らの音楽に、そんなことはどうでも良く、評論を挟む余地を超越したものがあり、単純にリスナーとして、魅せられたからだ。プロ野球のドラフトルーキーが、清原のプレイを目の前で見るかのような感覚であったと思う。

色んな音楽性への試み、個人的に親近感のある音色、そうでない音色、色んな変遷が、くるりにあったような気がするが、どの時にも、彼らの音楽の奥底にある魂に揺さぶられた。言葉の音にのっかる魂の深さは、俺の敬愛するニールヤングにも通じる気がした。

童謡的なメロ、高度な理論に負けない感覚を研ぎ澄ましたコード展開、そして何より、命を賭けているのが伝わる音への真摯な求道ぶりが痛いほど伝わって、俺はその頃から、メジャーな音楽人に対しての凄さと、自分には真似出来ない素晴らしさを感じた。その筆頭というより、横綱が「くるり」であった。今でも「くるり」だ。

もちろん、他に俺が知らないだけで、個人的な琴線を揺さぶってくれる音楽人はメジャーな人たちにもいるだろう。でも、今は「くるり」でおなかいっぱいである。

いまだに、依然として、俺が好きな音楽人はアマチュア業界に多い。なぜなら、プロとしてのメジャー流通の場で立ち回っていく価値観をいただいていない人たちが多いからだと思う。そして、それだけでなく、何よりそんなに器用に立ち回れるような何かを持ち合わせていない人が、俺の好きな音楽人には多い気がする。

だから、個々の世界での吐き出される魂の純度は、アマチュアの方が高く、尊いもののように感じることが多い。メジャーな世界で魂を出し続けたら、それこそ、発狂して死ぬしかなくなるような気がする。気のせいか、俺の好きな音楽人は短命が多い。事故。自殺・他殺の違いはあるが、文字通り、身を削っている。

そんな中で、くるりが歩んできたスタンスは、素晴らしいものがあると思う。好き嫌いの域を超えて、本当にすごいと思うのだ。

俺の推測だが、外人のミュージシャンからの影響は公言出来るが、国内ミュージシャンに対しては、同等に据え、影響を公言しない人が多い気がする。それも、自分より年上の人ならば公言出来るのだが、年下に対して、素直に賛辞を送れる音楽人が少ないのではないかと思う。なんでだろう?

いいもんは年齢も国内も海外も関係ない気がするのだが・・・。

俺は影響を受けやすい性質であり、ミーハーであり、耳の能力に関して自信があるほうではないのだが、「くるり」の音楽の影響だけは、たくさん受けたいものだ。彼らが育った同じ風土を数年早く味わえたことを嬉しく思う。

そして、彼らのような真摯な音楽への向き合い方を、生涯かけてアマチュアレベルで突き詰めていきたいと思う。

 

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