2008年2月15日金曜日

音の値段

最近(といってもだいぶ前からだが)、CDの収録曲数の多さが嬉しい反面、どうも1枚を通して集中して聞けなくなってきている。1枚のアルバムの収録曲数は10曲を切ることは殆どなく、名盤の2枚が1枚になったCDでは、20曲越えも多々ある。

どっぷり、特定のミュージシャン、バンドの音源に浸りたい時もあるのだが、どうしても長い時間の間には集中力が続かず、敬愛する人たちの音をイージーリスニング的感覚で流してしまうことも多い。
そのためか、自分が持っていたり、聞いたことがあるアルバムであっても、どこか外でたまたまかかっている時に、「え~、こんなかっこよかったっけ?」と思いなおし、家に帰ってCD棚を探すことがよくある。完全に聞き流していたのであろう。

その点、LP時代の音源は、46分テープに収まる範囲の収録曲数であり、集中力が続く。A面が終わってB面に変えるという作業自体も、何かたまらない興奮がする。俺はオートリバースにはしない。必ず裏返す。収録する曲順に対するコンセプトがあり、B面の1曲目でないといけない曲、A面の終わりでないといけない、いや、必然的にそこに配置された曲の佇まいと雰囲気というものがあった気がする。

最近は、ニールヤング以外は、アルバムを通して聞くアルバムはCDではなく、昔のテープを引っ張りだして聞いている。音のもこもこ感も含めて、妙に新しく感じる。

それと並行して、俺の中で流行っているささやかな楽しみがある。ブックオフなどの、105円コーナーに行って、この値段でなければ聞くことはなかったであろう音と戯れるのだ。

考えてみれば失礼な話しである。ミュージシャンが精魂込めてパッケージした盤面が、幾年の時を経て廉価で裁かれるのだ。もちろん、105円でも買いたくなく、憐憫も感じない音楽もある。むごいようだが、数年前からずっと不良在庫で並んでいるバンド、ミュージシャンもたくさんいる。個人的にも聞く気が起こらない盤面も多い。

そんなジャンクの棚を細かく見ていると、思いがけない掘り出しものに出会うことがある。また、以前なら聞かなかったであろう音源を廉価という事で買って聞いてみると、自分の中での名盤になることも多い。名前も知らないバンドであっても、帯にファーストアルバムと書いてあれば、極力買って聞くようにしている。音的な好き嫌いは別にして、なんというか、音源に込められた未熟さを補うだけの熱さと消化不良感がただよっていて、聞いて損はないのだ。表面的には何一つ影響は受けないのだが、聞く時間は楽しい。

音がパッケージされて、そこに値段が付けられるってことのすごさを感じる。一世風靡した音がそのまま歴史的に残るわけでもなく、大量に売れて、大量に中古屋で廉価で並ぶ音源もあれば、大量に売れても、まだまだ中古市場でも値下がりしない音源もある。また、売れない分、中古棚ではめったに見かけないが、確実にリスナーの下で大切にされている音源もある 。音の値段とは不思議なものだ。

自分の作った音源が中古市場で安売りされる光景を見た、当事者の音楽人の心境たるや、いかなるものだろう?と思う。経験がないのでわからないが、複雑であろうと思う。

余計なお世話なのだが、音楽人が、例え一時的にせよ、精魂込めたであろう音源であれば、それが廉価で流通している現状に心が痛む。出来るだけ購入して、棚から排除してやりたい気持ちにかられる。もちろん好き嫌いがあるし、明らかに音に対する気持ちが軽薄であることがわかるバンドや似非ミュージシャンの音源もあるので、個人的斬り方で、そんな音源が晒し者になるのは気にならない。

でも、105円で晒されていることが許せない人たちもいる。ジャケットや、曲名から醸し出される雰囲気でだいたいわかる。そんな人たちの音源を、オムニバスも含めて購入し、最近は耳を肥やしている。
ファーストアルバムはやはりいい人たちが多い。

音に制作費以外の値段を付けられずに音楽を楽しめる幸せと、値段を付けられながらも、その世界で長年持ちこたえている人たちの魂の太さを素晴らしいと思う。

全く売れない廉価棚の隅に、こっそり俺の好きな音源を並べてみようか?と思ったことがある。こういう場合はどんな罪名で裁かれるのだろう。なんか、売り場全体を明るくしてあげたい気がしたのだ。

檸檬じゃないんだから・・・・・。でも幸せな映像だ。 音の値段を檸檬が包む。

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