2008年2月19日火曜日

Re・トリック

「レスラーが女性社員を触り処分」との見出しあり。Kンタロー君のことですが、レスラーって表記がいるのかな?と思う。職業表記は、センセーショナルに報道するための、見出しをデコレイトするための目的でのみ使われているような気がする。

これが、無職の人であれば、新聞報道もなされずに、坦々と処罰の書類処理がなされていくだけであろうに、かたや、見出しになるのだから、この差はなんだ?と思う。

レスラーでKンタロ表記だけを見ると、何だか夕刊スポーツ新聞の見出しみたいで、変な滑稽さも起こる。被害者にしたらたまったものではない気がする。悪質なトリックだ。

レスラーだけではない。芸能人はもちろんのこと、必ず職業を載せられるのが、警察関係者と教育関係と僧侶の人たちだ。公務員という表記も目立つ。

不思議なのだが、例えば、「18日未明、都内に住むプラスチック二次製品営業職員○○容疑者が、女性の体を触ったとして逮捕された」、といった具体的な表記はない。こういったケースだと「会社員」とだけ表記される。

表記として存在するのは、細かく調べたわけではないが、全国紙ニュースに限って見ると、「教員」、「警察官」、「公務員」、「芸能人」、「スポーツ関係」、「宗教家」といった人たちだけに思う。これらの人たちが具体的職業名で載せられ、その他の職業は全て、「会社員」と表記される。ちょっとジャンル整理が大雑把過ぎないかと思う。

そのくせ、犯罪の度合いが陰湿で重度であればある場合のみ、「会社員」という表記を厳密に、「派遣社員」やら、「○○業」といった具体名にされる。

犯罪は肩書きでするものなのかね? 全くもって、悪戯な三面記事的好奇心を煽るだけの結果しか招かない気がするのだが、報道表記は上記のような状態である。言葉の軟質なトリックだ。

1日に膨大な犯罪がある中で、人を殺めるといった事件を除くとしても、ある職業の人の犯罪は報道されて、別の職業の人の犯罪は報道されない。この違いの根底にあるのは、肩書きで人を認知する、大人の眼の醜さであると思う。

人柄に触れる前に、職業を探り、そこに色眼鏡を通した斜光を加え、肩書き=優劣という認識を無意識に培われてきた大人の軽薄さが見え隠れする。

だから、警察やら、教育関係者の犯罪は、日頃抱いているその職業への認識に対するギャップが、好奇心と怒りを煽り、報道は、目を引くタイトルに飛びつくのだ。

俺自身がそうなのだが、警察関係者、教育関係者の職業表記がなされると、無意識に、「こやつ、犯罪を取り締まる立場にいながら、人を教える立場にいながら、こんな犯罪をするとはけしからん!」といった、個人よりも職業集団への怒りを無意識に抱いてしまう。

しかしだ、よくよく考えてみると、怒りの根底にある、その職業に対する敬意を普段から持っているだろうか? 俺は、警察を「ポリ」と呼び、教育関係者を、「先コウ」と呼んで、そこに敬意のかけらもない人生を送ってきた人間だ。

普段から、その職業に対して、聖人視する敬意を持っていたならば、その職業の中の例外分子が犯した犯罪に憤るのも無理はないのだが、日頃、たいして敬意もないのに、その職業の肩書きを冠した人が犯罪を犯すと、鬼の首をとったかのように、センセーショナルな論調に巻き込まれてしまう。自分の単調さにも嫌気がさすが、職業表記の報道体制を見ると、多くの人たちが俺と同じような低レベルにあるのだろうと思う。

個別の犯罪検挙数に占める、職業詳細を精密に統計すれば、そこに職業的な偏りはないはずだ。もちろん、職業分類の定義が難しいが、どの職業だから犯罪を犯すといった偏りはないはずだと思う。

それに、教育関係者という括りにしてもだ、どんな仕事でも、アルバイトにだって、教育は存在する。親方、先輩が、弟子、後輩に仕事を教え、教えられた弟子と後輩はやがて教える立場に立つ。ある意味、大人は全て教育を生業として人生を過ごしていくのが現実だ。

大人に限らない。幼児同士、学生同士の中でも、あらゆる師弟関係、教育する側、される側の立場は、日々の中で存在する。全人口全て教育者であり、教育される側でもあるのだ。

それを、肩書きと言う名の下に定義され、その肩書きに良くも悪くも拘束されていることに、一種の滑稽さを感じる。ばかばかしいな~と思う。

冒頭に戻る。kタロー君が女性に触ったとかで全国報道される裏にある、潜在意識に目を向けると、この報道にはレスラーというものに対するイメージと、犯罪に対するギャップがあるのだ。だが、マッチョもガリも、同じ突起がある限り、触ることもある。要は、触る側と触られる側の共通認識の違いだけだ。

求愛と犯罪は紙一重だ。一方は胸キュンになり、恋愛として賛美され、一方は糾弾される。この差は職業定義以上にデリケートで本能的な問題だ。この問題の解決できない深遠な部分は、言葉で定義出来ない。法律と客観的な評価の限界と、それに縛られながらも、虚栄心を満たせる塀の外側の人間による美的感覚と平安が、この世の正義だろう。ユーモアはない。

Hi Madam! I'm Adam. と本当に言ったかどうか知らないが、アダムがイブに言ったであろう最初の求愛活動にある、言葉の美しさとユーモア。

むき出しの人間対人間の対峙が、長い年月を経て、言葉の化け物を頭に蓄積し、生理的な好悪を言葉で武装した結果、需要ある新しい情報になる事例が、セクハラであり、職業認識と報道体制であると思う。

言葉の本当のレトリックは、語感と背後の感性にあると思う。

Kンタローの報道に一瞬とはいえ興味を抱いた俺は、薄っぺらい言語認識に流されるところだった。
新聞報道のレトリックはトリックだ。くり返されるトリックにだまされないようにしたい。

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