2008年2月1日金曜日

中東の笛

ハンドボールという競技は、決してメジャーなスポーツではない。しかし、ここ最近の「中東の笛」事件での再戦が決定され、テレビなどでの露出頻度が増えた。結果は残念なものだったが、ハンドボールを注目させたという点では、画期的な出来事だろう。

映像を見れば見るほど、ハンドボール選手の身体能力の高さには驚くばかりだ。浮遊しながら腕を猛スピードでふりおろすなんてことは、野生の香りを感じる。獲物とステゴロした時のジャンピング急所突きだ。熊と戦った空手バカ一代も真っ青の芸当だ。素晴らしい。

でも、ハンドボールがこれからメジャーなスポーツになるのか?個人的には否だ。なりそうでなれない気がする。冬期五輪の時のカーリングみたいに、脚光を浴びても、身近でその競技に参加できる環境がない限り、難しいだろう。

俺が不思議なのは、カーリングや、スキージャンプといったスポーツは、気候による地域性が限定されてくるのはわかるのだが、ハンドボールが、なぜ、かくも人気がでないのか?ということだ。

スポーツ競技が身近で人気が出る素地があるかどうかは、学校生活での部活にそのスポーツがあるかどうかが大きいと思う。部活として存在する絶対数が多ければ、それだけ、競技人口が増えるのは当たり前だ。富山県にはハンドボール部を備えた中学校が多いのだが、大阪では、俺の中学生時代には聞いたことがなかった気がする。知らなかっただけなのかもしれないが、少なくとも身近にはいなかった。体育の授業でも取り上げられなかった。

考えてみれば、ウィンタースポーツや射撃、乗馬系のスポーツと異なり、ハンドボールは、行うだけの体育館もあるのに、なぜ人気が出ないのかわからない。少なくともフットサルよりは、身近なスポーツになる素地はあるはずなんだが・・・。

人気のあるなしが、そのスポーツ人口の絶対数を決めるのは仕方がないことだが、かたや、あるスポーツ競技で名をなし、巨万の富を得るものがいる一方で、かたや、あるスポーツで、収入を削ってでもその世界に邁進している人がいる。どちらも素晴らしいのであるが、この差は何だ?

どのスポーツも、極めるにいたる過程では、それなりの自己鍛錬が必要とされるのは同じだ。そこに軽重の違いはないはずなのだが、あるスポーツを極める以上、そこにギャラリーがいて、収入が増えることが、更なるモチベーションになることは一緒だろうと思う。

松阪やイチローが、最初に出会ったスポーツがもし、野球でなかったら??? また、野茂がメジャーに行く前の時代に生まれて野球をしていたら??? これらは、その星に生まれたこと自体が、その人の能力であることを証明している。産み落とされる時代と、出会う競技が異なれば、どうなっていたかではなく、生まれるべくして、また、出会うべくしてその時代に、そのスポーツに巡りあったのが、彼らスーパースターなのであろう。

俺自身、スーパースターの存在を羨ましく感じるような、勘違いも甚だしい時期もあったのだが、今は、彼らの輝く星の明かりを、単純に目視することが幸せに感じる。よく、「同じ人間だ!彼らに出来ておまえに出来ないことはない!」といった、根性論を吐露する教育家がいるが、俺は、それは、ちょっとずれているような気がする。

やはり、生まれる星が違うのだよ。だが、どの星に生まれようとも、そこに種々の楽しみと苦悩があって、それぞれの立場でしか味わえない何かは、公平に用意されているような気がするのだ。だから、今は、スーパースターを眺めて一喜一憂できる自分の単純さと環境を嬉しく思っている。彼らは凄いが、それを客視して楽しむことができる俺の星も輝いていると思うのだ。

メジャーなスポーツからマニアックなスポーツまで、そこに全霊を傾け、その世界に邁進している人を素晴らしいと思う。1つの道を選ぶ過程で失う何かをも、全てひっさげた探求者としての清さを感じる。それが、スポーツを見て感動する心理の根源だと思う。

1つの世界を極めるも人生、色んなことに手を出して、極めた人に憧れを抱くも人生、一流スポーツ選手と総理大臣とノーベル級の科学者と浮浪者を一生で経験できる人はいない。それぞれの立場で感じる何かに幸せと苦しみを感じることが出来るようになれば、とハンドボールを見て思った。

「中東の笛」に似たものは、身近に毎日あるだろう。それに何を見出して、それがどのような結末を迎えるかも含めてが、その人の人生だ。あらゆる環境で吹かれる笛に一喜一憂するのではなく、ひたすら日々をローリングする球のような存在になりたい。漢(ハン)de 球(ボール)だ。

お後がよろしくない。周到な笛だ。俺もまだまだだ! 球体は小さい。ハンドボールよ大きくなれ!

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