2008年11月18日火曜日

未成年の自由

神奈川県のある高校が、入試の合格点数をクリアしていた生徒を素行面でマイナスして不合格にした問題が以前あった。校長の判断で、服装、言葉遣いなどを吟味し、点数以外の部分で不合格にしたのだが、その判断を下した校長が内部リークによって教育委員会に処分を受けたというニュースだ。

今日、そのニュースの続編を聞いた。何でもその校長の処分取り消しを求める嘆願書に署名が多数寄せられたというのだ。かなり嬉しくなったニュースだ。世の中の大人の視線もまだまだ捨てたものじゃないと思った。

テストで合格点をとっていようが、素行に問題があれば入試で落とすというのは、個人的に当たり前だと思う。なぜなら義務教育ではないし、勉強が出来るということ以前に、人として集団行動に悪影響を満たす奴を、なんで学校が保育しないといけないのか?
それは落とされるだろう、と思っていた。各家庭で処遇してもらうべき段階であり、税金が入った公立高校が受け皿としての機能を敬遠するのは当たり前だと思っていた。

だから、上記校長の処分には疑問の連続だった。処分側の言い分は、「選抜試験なので、最初に点数以外の部分が考慮される旨を告示すべきである」といったものだが、そんな幼稚な文句までわざわざ明記しないといけないものなのか?? 幼稚園じゃないのだから・・。

俺の中学、高校時代にも、勉強が出来るかどうかよりも、学校生活でやるべきことを全て放棄した奴がいた。好き放題に生活していたそいつらは、中学卒業後、当然公立高校には行けなかった。専門学校、私立高校という冠はあるが、その実、更正施設みたいなところに進み、そこで自ら種々の進路を選んだ。更正できずにヤクザの道を歩むもの、当たり前のマナーを身につけて、立派に社会人になったもの、色々だったが、彼らもテストの点数だけでいうと、公立に行けた奴もいたと思う。だが、本人達も、家族も、周囲も彼らの進路を適切だと思っていた気がする。

最近特に思うのだが、未成年(20歳以下という年齢で区切るのが適正かは別として)に対して、大人が何でも黙認しすぎでないか? 自由を与えすぎていないか? 愛情を勘違いしていないか? 強い疑問としてある。

「自分は苦労したから子供には不自由を体験させたくない」という潜在的な気持ちはわかるのだが、それはかえって子供に自由を与えていないと思う。ものわかりの良い大人を気取っているが、その実、未成年に迎合しているだけの大人が多いような気がする。

不自由な時間を経ずして自由はない。未成年にある一定の縛りを与え、その中で彼らが自由を枯渇しながらもがく時間を与える。そして、彼らが拘束の中で時に感情を爆発させながら、もがく時に、真の愛情を与えられるかが大人の役目であると思う。

俺自身、中学、高校時代は常に、「自由」という言葉がテーマであった。早く大人になって自由に思うことをしたい!といつも枯渇していた。そして種々の拘束の中でジレンマを感じていた。

だが、大学生になって好き放題にしていた時期、俺は自由を感じたかといえば、そうではなかった。むしろ、掴み取る何かがなくて、常に苛立ちが俺を支配していた。

「自由はある一定の拘束の中にある。」という認識にいたるようになった。一定拘束があるから余暇が自由として生きるのだ。

欲しいものがあっても買えない、今はゲームしたいのに勉強しなくてはならない、小さなジレンマ環境、現況を打開したい飽くなき欲求環境に未成年を置いてあげるから、彼らは大人になってからの余暇の自由を満喫できるだけの思考力と、問題解決能力を育むことができるのだと思う。

自由をはきちがえて、彼らに拘束を与えなくなった結果彼らが手にしたものは???
不自由であり、考えない脳であり、人に対する敬意の欠如と無礼な素行であり、慢性的な苛立ちである。

そんな奴と、不自由の中でも、純粋に自由を模索した子供たちが、同じ高校の枠内で身を置く環境が、お互いにとっていいはずがない。それぞれの人間的発達段階に応じた、線引きを未成年に与えるのは、大人が示すことが出来る最低限の愛情だと思う。

未成年は凶悪な犯罪をしたとしても、刑が軽くなり、匿名性が守られる権利を得ている。ならば、この権利に対する義務はなんだ? 義務なき権利が成り立たないのが世の中だ。

義務は、大人による適切な、時には不条理であったりもする拘束と裁きの中に身を置かれることだ。大人の目から見て眉をしかめる言動があったら、当然のようにして干されて、裁きを受ける。大人が完璧なわけではないが、大人の基準で彼らを受け入れたり干したりしたらいいのだ。

子供たちは教育されるだけの日々だ。昔の雷おやじが垂れる説教と訓示は、間違いなくうっとうしいものであり、未成年にとっては、何て矮小で、何て夢のない、何て偏屈なものであったことか・・・。

だから「ちくしょう、今に見とれ!俺が大人になったら・・・・。お前をひれ伏させてやる!」と息巻くところに自由があり、正しい教育過程が息づいていたと思う。

大人の都合で、生活指導といった仕事の無駄なエネルギーを憂慮した結果が、冒頭の神奈川県の入試における合否判断であったと思う。そこに高尚な教育理念はなかったのかもしれない。だが、権利だけを得て逆に不自由になった彼らに義務を果たす要求を突きつけた契機になったと思う。落とされた奴らは感謝すべきだと思う。自由の契機も与えられたのだ。

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