仕事で暇な時に、「百人一首」、「万葉集」などの和歌をじっくりと読んでは鑑賞体制に入るのだが、どうも面白くない。良さがわからない。自然の情景が現代とは違い過ぎて、想像力を喚起するのに一苦労である。否定すると己のしょぼさを認めるようで嫌なのだが、わからない。
「百人一首」編纂者、藤原定家のおっさんの鑑賞眼も大したことないなと思いながら読んでいる。高尚で言葉選びも秀逸なのであろうが、自然環境、生活環境も今とは違いすぎて、素直に奥ゆかしさを鑑賞すべきなのだができない。どうも秀歌に思えない。
和歌を鑑賞できる人をすごいと思ってきた。自分もそうなりたいと思っていた。何だか高尚な感じがするし、和語に対する造詣と鑑識眼がある人に憧れていたところがある。だが、わからないものはわからない。
低俗な視点からいちゃもんをつけてみる。
「田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ 山部赤人」
富士山の雄大さに対する感動を詠んだものであろうが、こんな歌なら誰でも詠める。
山部赤人君が北陸に訪れたならば、
「灘浦にうち出でて見れば白妙の立山峰に雪は降りつつ 山部赤人@越中」
と詠んだであろう。たいしたことない駄歌である。
雄大な山と雪景色の組み合わせを最初に詠んだから価値があるだけで、別に着眼点が面白いわけでも、深い味わい、余韻をもたらすものでもない。
山部赤人君が、現代に舞い降りたならばきっとこう詠む。
「六本木 迷い込んだら 上見上げ ヒルの高嶺に 雪は降りつつ 山部赤人@上京」
冬に田舎から上京して、初めてポンギを訪れたおのぼりさんのアンニュイな心境をよく表した歌である。こちらの方が秀歌だと思うのだが・・・。
この山部赤人というおっさんの歌は万葉集にも載せられている。
「春の野にすみれ摘みにと来し我そ野をなつかしみ一夜寝にける」
【歌意】春の野にすみれをつみに来た私は、すみれの咲いた野原があまりに心地よいので思わず一晩をそこで過ごしてしまったことよ。
これは赤人君の作り話やと思う。春とはいえ、オーナイロングは風邪ひくやろ! いくら綺麗なすみれであっても、夜通しそれに見とれて、その空間にいたいと思えるほどの、すみれフェチがこの世にいるとは思えない。古の時代であっても然りだ。赤人の嘘つき!
他の歌人に目を向けてみる。
「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に 小野小町」
【歌意】桜の花のような私の容姿もすっかり衰えてしまったことよ。むなしく長雨を眺めて物思いにふけっていた間に」
こら!小町! 何勘違いしとんねん! 桜にわが身を例えるな! その神経が「いたづら」じゃ。それに容姿が衰えるまでの長雨やったら、洪水なるっちゅうんねん!
未練たらしい逢瀬の歌も気に食わない。
「やすらはで寝なましものをさ夜更けて傾くまでの月を見しかな 赤染衛門」
【歌意】来る気がなければさっさと寝てしまったのに、あなたの言葉を信じて西に月が傾く夜更けまで待ちましたことよ
「いま来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ちいでつるかな 素性法師」
【歌意】すぐ来ますとあなたが言ったばかりに毎晩待ち焦がれていると、九月の長い夜に明け方の月の出まで待ちましたよ」
両者共に、「ほんまかい!」と思いながら、いじいじした女心をおっさんが詠んでどうすんねん!と、きもおやじに対して侮蔑の言葉を用意していたら、赤染衛門は女性やったみたいだ。まぎらわしいっちゅうねん! そして、素性法師は百人一首の絵を見る限りおっさんだが、素性不明だ。まぎらわしいっちゅうねん!
この2首は完全に歌世界がかぶっている。小室氏の歌詞世界みたいだ。こんな同じ匂いの歌を一歌集に編纂するのはどうかと思う。赤く染めた奴と、素性不明の奴、どちらも歌人としてはしょぼい。
正直に申して、ジャポンの伝統ある和歌というものに対して、それを味わうだけの根本的な素養が俺には欠如しているように思う。音楽を作る上で、歌詞の言葉を紡ぐことに1番精力を傾けている身として、この和歌なるものの言葉と、そこに宿る何かを嗅ぎつけようと、それなりに努力しているのだが、どうも面白くない。
和歌の素晴らしさに魅せられ、これにどっぷり浸かれる人の境地とやいかに? 和歌の良さを理解できる人間に憧れていた時期もあったのだが、今は自信を持って言える。
「わからない。」 否定したくて否定できなかった和歌をとりあえず否定してみる。
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