2008年11月19日水曜日

自分に凹む

元厚生事務次官と家族への殺傷事件が起きた。まだ断定はされていないが、厚生行政に対する怨恨からのテロであるのは間違いないだろう。

「罪を憎んで人を憎まず」ではないが、いくら怨恨があるとはいえ、許される行為ではない。次官のしてきた仕事はお世辞にも立派だとはいえず、むしろ、むちゃくちゃであり、国民の税金に対する意識は限りなく薄かったと思う。だが、それだからといって、人命とひきかえの代償を払う必要は全くない。まして、奥様に対する凶行には心が痛む。

厚生行政は国税をむちゃくちゃに浪費した。甘い汁を吸いまくって、ぬくぬくと仕事をしてきた人たちが、負うべき責任は大きい。だから、以前のブログでもふれたが、彼らの老後の最低生活保護だけを保障する代わりに、全財産を没収したらいいのだと思う。もしくは、牢屋入りで余生を過ごさせればいいと思う。

そうすれば、浪費した金額にはとてもじゃないが及ばないが、個人レベルで出来る償いは果たしたことになる。そして、今回のような惨劇には至らなかったのではないかと思う。責任の所在を明らかにし、責任者に厳罰を下さなかったことが、こんな事件を生んだと思う。

怒りの向けどころを間違える狂人は必ずいる。だがそんな狂人も、怒りの原因である人が、現時点で取れる限界の責任を負わされたならば、凶行にいたるまでの狂い方はしなかったと思う。

厚生行政絡みの関係者への警備強化がなされているが、長期的な解決にはならないと思う。テロリストに怯えるのではなく、堂々と顔を出し、自分がしでかしたことを全て白状し、精一杯の償いをする機会を与えてあげたほうが、対テロ面でも、真の厚生行政においても問題解決になると思う。

人が亡くなっている事件について、こんなことを書くのは不謹慎であり、本来ならスルーしようかと思っていたのだが、この一報を聞いた時に自分が抱いた感想が、あまりに人間としてずれていて、自分自身に凹む部分があったので、懺悔を込めて書している。

「罪を憎んで人を憎まず」と書いたが、実は、「ざまあみろ」と思ってしまった自分がいた。
「今までの悪事に対する天罰じゃ。」とまで・・・。遺族が聞いたら卒倒しそうな感想も正直抱いてしまった俺がいた。

ほんと情けない。今まで37年間生きて、何を学んできたのだろう?本質が全然見えておらず、感情的なだけである。何より命というものに対する重さを全くわかっていない。テロリストを非難しながら、彼らと同じレベルの精神構造を俺は持っているのではないか?と、空恐ろしくなった。

亡くなられた次官が1人で厚生行政をむちゃくちゃにしたわけでもなければ、次官なりの良い仕事もたくさんあっただろう。厚生行政の責任は組織ぐるみのものであり、1人の人間に全責任が負わされるものではない。だから、どう考えても凶行に及んだ犯人が悪い。

頭では分かっている。だけど「年金」がらみの杜撰な行政に対しての憤りが強かったので、ついつい、上記のような感想を持ってしまった。

秋葉原の加藤、池田小の宅間といった、無差別殺人者が死刑になったとして、それを当然と思う心理が俺の中にある。「ざまあみろ」と思う。思っていても口に出したり、書したりすることが、人間としての品格を欠いているのはわかっている。でも思うし、書く。

罪の形はいろいろである。罪の重さも色々である。法的な基準はあれど、本当にどれが重くて軽いのか、わからなくなってきた。

無差別殺人者の罪はわかりやすい。一方、行政に携わる官僚のしてきた罪はわかりにくい。だが、彼らがしてきた仕事が与える影響の大きさ、人数を考えると、凶悪犯罪者の罪との天秤に、決してかけられないものとも思わない。釣りあわないまでも天秤にはかかると思ってしまう。

そして、懺悔の体裁を取りながらも、人の生死に関して個人的な感想をブログでアップする俺・・・、俺の罪の重さはどれくらいだろう? 俺が遺族だったら、こんなブログを書する奴に深い失望と憤りを感じるだろう。

なんでこんなことを書いてまでアップしようとするのかわからない。数日後に削除するかもしれない。

ただ、恐ろしい感想を抱いてしまったのは事実であり、今後も変わらないかもしれない。
罪について、よく自己吟味、自己対峙したい。

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