2008年11月29日土曜日

株式市場は嫌い

俺は経済学というものがわからない。それに信じない。著名な学者でも後付の理論ばっかりである。経済というのは、1度動き出すと人間の制御、理論を越えて動き出す化け物だ。経済学部の方には悪いが、研究者によって、現経済に対して色んな処方箋が出されるが、決め手のない現在のがん治療のような領域だと思う。学べば学ぶほど、人間の限界を経済世界に対して露呈するだけであると思う。人間の限界、それならば文学部で学べばよい。

生命保険会社が、含み損で軒並み決算に苦戦している。株式市場の低迷を受けて、目が飛び出すくらいの額が損失となっているみたいだ。それに伴い、生保会社の株式も軒並み下がっている。

本当に無知な子供のような疑問なのだが、株式市場への運用資金で、利益がいっぱい上がったり下がったりするが、その会計基準というのは、本当にその会社の力量を表しているのだろうか?

株式運用で利益が上がり、何千億をプラス計上したとする。でも、そのお金は株式市場の数字だけの世界であり、実際に何千億の現金が、札束としてその決算企業に入ったわけではない。いや、現金化しようと思えば出来るので、一時的に入っているのだが、実際に現金の移動はほとんどない。コンピューター内の帳簿の世界での利益だ。幻の利益だ。

そんなのが、本当に儲かっているといえるのだろうか? 逆も同様だ。含み損で何千億と簡単に言うが、それも実際に現金が減っているわけではない。銀行などで、もし取り付けが起こった場合には、それだけの現金を用意しないといけないが、たかがコンピューター内の帳簿だけで、財務状況が左右されるほど、企業とは危ういものなのだろうか?

生命保険会社を例に取る。1人から毎月1万円ずつ集め、顧客が100万人になったとする。するとその会社の1月の収入は100億円だ。そして、死亡して3000万円の生命保険を受け取る人が月に100人いたとする。すると支払い金額は30億だ。

残りの70億が粗利であり、そこから会社は人件費や諸々の支出をするわけだ。そして残る現金が3億円だとしたら、それがその会社の実体の儲け、現金残高なのだ。この数字だけを信じて、この数字だけで決算をしていたら、こうも頻繁に景気の変動があるのだろうか?と思う。

株式市場というものがなかったら、身の丈に応じた現金の使い方しかないわけで、バブルもなければ、世の中の景気という問題はほとんど発生しなかったような気がする。

その分、今の日本のような俗に言う経済発展はなかったかもしれない。資産価値という概念も変わるであろうし、含み益頼りの過剰融資も行われない。銀行は節度ある庶民の金庫、適切な潤滑油となり、分不相応な過剰な設備投資もない。虚構の富がない分、現代人には原始的に思える社会なのかもしれないが、それはそれで幸せな気がする。

経済をしっかり学んだ人、会計知識のある人からしたら、何をくだらない見当違いのことを言っているのだ!と思うかもしれないが、子供が小遣い範囲で金欠、金満気分を味わうレベルのことを、分母を大きくしただけのものが、世界の経済であって、その上で今のような民主的な母体があれば十分幸せだと思うのだが・・・。

資産運用という発想自体が、非常に人間的でない気がする。個人の財産は、労働による蓄財と、消費による散財の加減だけで形成されるものだと思う。全否定はしないが、バブル前の銀行レベルで、利子がちょろっと鼻くそぐらいあるくらいでいいと思う。コンピューター上で資産が推移する流れというのは、色んな価値観があるが、健全な気はしない。

富の集中はあってもよい。社会主義になれと言っているのではない。ただ、そこに現実感ある貨幣経済だけがあればよいなと思う。

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