2008年11月21日金曜日

子供に携帯電話は必要か?

子供、特に小学生、中学生に携帯電話を持たせるかどうかの是非が、ことあるごとに盛んに議論されている。本当に難しい問題だ。

個人的な考えでは、現在の公衆電話環境を無視して言うならば、まず否定したい立場だ。子供が携帯電話を本当に必要とする場面はあくまで例外であり、どうしても必要な時には親のものを一時的に貸せばよい。

いくら保護機能があるとはいえ、携帯電話を持った子供が、携帯電話を使って何をするかといえば、通話以外のものに多く時間が費やされるのは明らかだ。あれば興味を示し、その世界に没頭してしまうのが、子供の性質だと思う。

たかが手のひらサイズの物体、小さな世界で時間を無駄に使うには、子供の時間は貴重すぎる。かけがえのない時間を浪費させないためにも、与えないほうがよいと思う。子供にとっての携帯電話は、しょせんおもちゃであり、それも建設的ではないおもちゃだと思う。

上記のような気持ちがあるが、現状を見るとどうだろう? 昔は、携帯電話を持たせなくても、どうしても連絡をとる必要があれば、町のいたるところに公衆電話があった。だが今は?

先日の入院に際して、俺自身が公衆電話を探すのにかなり苦労し、公衆電話の減少を実体験した。入院が決まり、身の回りのものを持ち込むために、一時帰宅する時のことだ。
入院が決まった旨を職場や、関係先に数件連絡する必要性があったのだが、あいにく携帯の電池がなくなっていた。

病院内ですればよかったのだが、俺は甘く考えていた。バス停まで歩く途中にでもあるだろうと軽く考えていた。しかし。歩けど歩けど見当たらない。入院で気持ちも滅入っていて、ゆっくり歩きながら考えたいこともあって、バス停を素通りし、病院から駅までの長い道のりを歩いた。

結局、最初に公衆電話を発見できたのは、市役所がある大通り沿いのバス停横だった。大人の足で20分くらい歩いた後のことだった。それも、たまたま市役所という公的機関があったからいいようなものの、なければもっと状況は違っていただろう。道路沿いの公衆電話を意識して観察したが、本当に減っている。

このような状況で、小学生が単独、もしくは子供だけで行動する時に、携帯電話なしで、「何かあったら電話しなさい」と親が言ったところで、環境自体が整っていないのに、それは意味をなさないだろう。

子供の携帯電話に関する議論は、今ほど携帯が普及しない段階、公衆電話がかくも撤去されない段階でするべきであったのかもしれない。現状では携帯無しでの外部からの連絡環境は悪すぎる。

まして、昔には少なかった子供の塾通い、子供の私立小・中学への電車通学が、特に都会では増えている。そうなると、安全面から何か連絡をする必要性が増える事態は当然増える。まして、親も昔のように家にいる比率は少なくなっている。

携帯から携帯への連絡環境を、例外的ではなく、恒常的に必要とする子供が増えている現状では、携帯電話の是非自体もむなしい議論かもしれない。

単純に、連絡需要が高い子供には持たしてあげ、少ない子供には持たせないという、完全親裁量にすればよいのだが、親の裁量基準自体が適正に均一化されるわけもない。そして、友達が持っていたら欲しくなるのが子供の性質だ。こうして、色んなデメリットを解消しないまま、子供の携帯電話の普及率だけが上がるのが今後だろう。かなり危惧すべき問題のような気がするが、動き出して、もう止まらない流れのような気がする。

親が安全のために子供に携帯電話を持たせること、気持ちはすごくわかる。俺ももし親になったらそう思うと思う。だが、まだ子供がいないうちに自分に戒めていることがある。
「自分の不安を減少させるためのことに安易に逃げないでおこう。」ということだ。

子供が外で時間をすごせば、物騒な世の中、危険は当然ある。親としては気が気でない。だが、過度な子供への配慮は、結局は親が自分の心情の辛さを緩和するための処遇に過ぎず、本当の意味で子供視点に立っているものではないような気がする。自分可愛いさからの利己的な処遇であると思うのだ。

そんなものに逃げるよりも、子供は大丈夫か?という不安を抱えながらも、それを克服する強さを親自身が持つべきだと思っている。

「昔」は全て「善」で、「今」は全て「悪」というような、懐古主義者ではない。文明の利器を賢く使っていくことにも肯定だ。だが、今よりも貧しかった時代には、親と子供の適切な距離が保たれていたような気がする。親心は今も昔も同じだ。変わったのは、親の精神的強さだけだと思う。

子供への携帯電話の是非は、親の子に対する接し方、親自身の精神的発育への反省も含めて議論すべきことのように思う。

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