今日、生徒との何気ない会話の中でなのだが、面白いことを聞いた。
「あのですね~、うちの裏に下水みたいな汚い水が流れる用水があるのですが、そこにザリガニがいっぱい繁殖して、5キロくらい離れたところからでも小学生がザリガニ取りに毎日やってきて、すごく迷惑なんです。」とのことだった。
俺は興奮した。ザリガニ取りに関しては俺も小学時代にかなり夢中になったことがある。富山のうちの近くにザリガニがうじょうじょいる場所も知っているし、捕まえはしないが、奴らがはびこっている現場を、わざわざ車を停めて定期的に観察するくらい、今でも好きだ。
ザリガニというやつは、綺麗な水では見かけたことがない。かなり濁って、油膜も浮いているような不潔な場所にいることが多い。あくまで体験上の話であって、何でそんなところにばかり住んでいるのかを、わざわざ調べるといった方面の興味はない。ただ、いっぱいいる現場を見るのが楽しい。
今でもザリガニに夢中になる子供がいることに嬉しくなった。
屁垂れの俺は、ザリガニが怖い。奴らを素手で掴むのは、罰ゲーム並みの屈辱と勇気がいることだ。だが見たいし、釣りたいという矛盾した欲求がずっとある。
俺が幼少時によく釣りに行ったところは、日当たりゼロの水溜り以上、沼未満みたいなところであり、恐ろしく不気味なところだった。近くには戦前、結核病棟として有名だった病院があり、車が通れない細い道沿いにあった。
そこにザリガニがいたことを見つけたのは偶然だった。たまたまその道を通りかかったら、何でかしらないが、水中からあぶれたザリガニが道を横断しているのが見えたのだ。そして水溜りのほうを見ると・・・、「うそ~~ん」というくらい、数メートル先の水面に奴等の影が見えたことが始まりだった。
それからは連日、タコ糸と竹輪を持って釣りに出かけた。見えているのだから網ですくっても取れたのであるが、竹輪で釣るのが楽しくてたまらなかった。
俺は怖いので、釣れたザリガニは友人に離してもらっていたのだが、その友人はワイルドだった。
餌の竹輪がなくなると、ザリガニの尻尾部分を両手で引きちぎり出した。すると、海老みたいなプリプリの剥き身が飛びだすのだが、それを彼は餌にして次なるザリガニを釣るのだ。それがまたよく釣れた。ザリガニは共食いを習性とするみたいだ。
釣ったザリガニをどうしたのかは覚えていないのだが、家に持ち帰っていないことだけは確かだ。でも毎日大量に釣っていた記憶がある。
アメリカザリガニは食べられないことはないようだ。伊勢えびを小さくしたようなものだから、食べられる上に、決してまずくないことは想像に難くない。
『冒険手帳』谷口尚規著(光文社知恵の森文庫)によれば、「海でとれるエビと同様、焼いても煮てもよい。泥を吐かせてから料理するのがコツ」だそうだ。
伊勢えびを高級料理と認識しながら、アメリカザリガニを食したいと思わない感覚というのは不思議なものだが、その原因は、結局彼らの住処にあるのかもしれない。
海にいるものには、潜在的に食用のイメージが喚起され、湖沼にいるものにはそのイメージが喚起されにくい生活体験を俺はしてきたのかもしれない。海が身近になかった環境で育った俺は、身近で見るものを食す動機にはなれなかったのだろう。
まして、アメリカザリガニの住んでいる所といえば、汚水も汚水・・、反吐が出そうな濁り水にいる奴らを体験的に知っているから、食欲をそそらないのだろう。
食欲はそそらないが、見たくなる。この心理がなんなのかはわからないのだが、明日出勤前に、冒頭の生徒が教えてくれたスポットを見に行こうと思う。
今日、京阪電車にワームをばら撒いた、壊れた奴が捕まっていたが、いったいどんな奴なのか、壊れ方がえぐいだけに興味をそそられる。見てみたいと思う欲求もある。ちょうどザリガニを見たいと思う欲求と似ている気がする。
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