2007年12月7日金曜日

村上春樹を読む

『東京奇譚集』村上春樹 が、文庫で出ていたので読む。

村上春樹氏の作品は、20歳の時に『ノルウェイの森』を、ビートルズやんけ!と思いながら読んで、えげつなく傾倒し、以来、全ての著作を辿ってきた。たまたま、酒友で、グダグダな日々をよく過ごした友人が春樹さんの作品をたくさん読んでいたことの影響もあり、とにかく読んだ。

しかし、『ノルウェイの森』以外は、正直、夢中になれなかった。

ちょうど、大学を中退した時であったが、在学中に英米文学のクラスでフィッツジェラルドを原書で読む機会があり、俺もある一部を割り当てられ、精読した。結局、そのゼミには参加せず、俺は自堕落な暮らしで学業を放棄したのだが、フィッツさんを初めて読んだ時に、春樹さんの香りを感じた。村上氏はフィッツさんを邦訳するのだが、都会的な香りだけが際立って、喪失感というものが、実にエレガントに美化されている気がして、興味は薄れる一方であった。

アメリカ文学範疇の作品は、有名どころは読んだが、マーク・トワイン、シャーウッド・アンダーソン、ソールベロー、ジェームズ・ボールドウィンについては、すごく好きで、何度か読み直したものもあったのだが、フィッツさんだけは、どうも惹かれなかった。今でも同じである。

村上氏の作品についても、間違いなく名作であろうし、歴史的な作家だと思うのだが、なぜか全く魅力を感じなかった。感じなくても、取り合えず新作が文庫化されたら購入したり、文庫化される前に図書館で読んだが、読み終わった後に、素晴らしいとは思うのだが、衝撃は、『ノルウェイの森』以外、味わうことはなかった。

その、『ノルウェイの森』にしても、4年ほど前に再読した時には、描写が安っぽく感じたり、変なくどさを感じた。読み返さなければ良かったと思ったものだ。

俺は学者じゃないから、村上氏の作品を評論して論ずる気はない。何で自分に合わないかだけを知りたかっただけだ。

俺は自分なりに、村上氏の作品に傾倒出来ない理由を考えていた。セリフが洗練されすぎているから?、 言葉選びの秀逸さについていくだけの思考が俺にないから? 色々考えた。

村上氏は、最初に英文で書いて、それを邦訳して作品化しているのではないかと思ったものだ。実に洗練されていて、どぎついことも言うのであるが、中上健次氏のどぎつさとは、全く異なる。(比較対象が違いすぎますな)。アメリカ上流階級の香りがプンプンなのだ。装飾品の香りをいつも感じる。南部の香りがないのだ。

大多数の支持を得る村上氏の作品を追いかける一方で、いつも不毛の時間を過ごしていて、「もう、金輪際追いかけない」と毎回思うのだが、書棚で見かけると、ついつい読んでしまう。

登場人物の語るセリフが、あまりに新しく、上物でありすぎるからか、俺は、そのセリフによって語られる青い春の残り香が、安っぽく思えて仕方なかったのだ。

ところが、高校の教科書に載っている『レキシントンの幽霊』を読んだあたりから、嫌味な感じを受けなくなってきた。そして、今回の『東京奇譚集」である。

俺は、少し村上氏の作品が好きになったかもしれない。もちろん、優先的には読もうとは思わないが、毎回感じていた、読んだ後の不毛感は、今回は感じなかった。

たまたまのめぐり合わせで、ひと時の感情の変化かもしれないが、今回は、妙な明るさと、洗練されているが、少し泥臭さも感じた。良かった良かった。

傾倒はしていないのに、毎回作品が出ると読んでみたくなる、村上氏のような作家が、真にプロといえる人なんだと思う。文句のつけようはないし、退屈は少なくともしない。トップ40的というか、IQ高い黒人音楽というか、だからといって、読み流す程度の作品ではなく、素晴らしき中身がある。

村上氏の魅力はなんだろう? 今後も読んではいきたい。しかし、謎だ? 氏の魅力の本質は未だにわからない。

村上氏と前後して、横光利一、新田次郎、垣根涼介、新堂冬樹、などを読んだ。この読書傾向自体が奇譚だ。

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