2007年12月28日金曜日

飽食の苦悩

俺はヤフーBBに入っているので、色々な動画が無料で見れる。有料のものも多いが、無料だけで十分楽しめる。お笑いでは、今流行の人たちの映像は、ほとんど入っている。落語も然り。

音楽では、ツェッペリン、クイーン、クラプトン、ポリスなどの期間限定映像もあり、毎日ちょっとずつ見ているが、痺れる映像である。他にもたくさんの番組が用意されているので、一日中、パソコンの前にいても見尽くせないほどの優れた供給体制だ。

アニメもたくさんある。俺はコアなアニメは好きではないが、牧歌的なアニメなら喜んで見たい。番組を探すだけで、優先順位をつけるのに苦労する。

NHK的なアプローチのドキュメントもの、スポーツ映像、映画・・・・、選べばきりがない。おまけにヤフーBBだけでなく、今をときめくYOU TUBEなどの映像を含めると、時間がどれだけあっても足りない。

俺は特に、映像を2時間連続では見ることができない性質だ。映像を見る以外に活字を読む時間を1日に数時間欲する。音楽を聴く時間、また、嫁との語らい、テレビ、ギターを弾いての曲作り・・・。

供給過剰で、自分が今何を1番欲しているかの需要度を測ることすら困難な時代になっている。
市井のニュースにも興味がある。そうすると、検索もしたくなる。検索先で出会った単語につられてネットサーフィンもする。

パソコンだけではない。ツタヤに行けば、見たい映画もたくさんある。

ゲームは殆どしない俺ではあるが、桃太郎電鉄とドラクエだけは好きで、生涯で100時間は費やしていると思う。DSでドラクエが出たので(Ⅳの焼き直しと聞いたが)、今は本体を買ってでもしたい気もある。

なんか忙しすぎないか? 素晴らしき映像や活字や音楽やゲームがたくさん供給されているのは良いことかもしれないが、ちょっとアンニュイな気分になるのも事実だ。

俺が1番違和感を感じるのは、俺たちは検索することになれてしまって、偶然の出会いを必要としなくなってきているということだ。

ヤフー動画やYOU TUBEで、見たかった映像や、気になる映像を多々検索し、満喫した時間を過ごしているが、正直、脳天をかち割られるほどの衝撃を受けない。昔感動した映像を二度見した時は、見なければよかったと思うこともしばしばである。

それに、見逃してしまっても、あとから検索すれば、時差はあるが体験できる環境にあっては、ライブ感は希薄になってくる。たまたまテレビがついていた時に飛び込む映像、たまたま書店を覘いた時に飛び込む書との出会い・・・。実に愛おしい。

偶然が必要であって、必然であることが可能な出会いが多すぎるのではないかと思うのだ。なんで、その日、その時に、その映像、書、音がわが身に降りてきたかということに、高貴な存在感を感じるのだ。もっと味わいたいと思う間もなく、映像、書、音が過ぎていくとき、頭の中に残る余韻という名の残像が、心情を豊かに育んでくれるような気がする。

調べたいことを辿って検索し、網羅し、そこに体系を見出すことに満足を覚える時、それはアカデミックな手法を駆使した満足感だ。

感情なるものは、もっと外に向けて能動的ではあるが、外の媒体に関しては受動的なものではなかったか?と思う。

恋愛を例に取る(ずれているのは承知だ)。こちらから思い焦がれている時、その感情は能動的ではあるが、相手が自分を欲してくれるかどうかがわからない孤独な時間である。相手の自分に対する感情に対しては、受動的であらざるを得ない。

会えない時も、頭の中に身を潜める、愛しき人の残像を全身で感じながら、その映像をまた体感したいと欲する。しかし、検索して開ける映像ではない。だからこそ、思い続け、そこに思考の渦がある。時に残酷で、時に通り雨で、時に虹がかかり、時に成就が訪れる。この感動こそが、もっとも欲する感情のような気がする。

今の供給過剰の環境は、与えられることに慣れて、貴重な時間をたくさん奪い去る。奪い去られた後に残るのは、刺激を更新された空虚な精神世界だ。俺はこの環境が怖く感じる時がある。

とは言いつつも、見たい映像が簡単に手に入る。目の前に愛しのバンドの映像があるのに、スイッチを押さない理由はない。そしてついつい、毎日開く。しかし、満たされるのはその刹那だけだ。あとへの余韻は少ない。

俺は私生活でパソコンに触れる時間は、どんなに長くても1日、2時間以内だ。1時間が平均的な時間だ。しかし、これでも徐々に長くなってきた。パソを長時間いじった後に、感じる空虚な何かに対する後ろめたさみたいな感情は、日に日に希薄になっている。

これでいいのか?これが今を生きることなのか? 答えはわからない。ただ、何となく心に抱く危機感が訴える限りは、今の付き合い方を継続していこうと思う。

飽食の不幸、飢餓の苦悩、正反対の環境、この両者に良い意味で中立出来ていた時代が、俺が育った昭和晩年だったのかもしれない。だから、飽食の恐怖を感じるのかもしれない。感情が麻痺するならばそれはそれでよい。しかし、自ら麻痺される必要はない。

MIXIや、お気に入りのサイトやメールでの、心ある方々との交流の時間を俺は尊く思っている。そして、こんな環境が与えられている今の時代に感謝している。しかし、それ以外の数多く与えられすぎる娯楽の媒体に関して、いまいち満足出来ない。行かなければいいだけなのだが、与えられていないから行かないのと、与えられているのに行かないのでは、そこに関わり方の問題が出てくる。
多分、活字を通した交流以外に対して、自分の感性が追いついていないだけなのだろうと思う。素晴らしき映像に対して、警告めいた言葉を吐くのはおかしいと、ここまで書いて思った。

与えられ過ぎることに疑問を感じる俺は、根っからの貧乏性なだけなのかもしれない。素直に豊富な映像を楽しめる感性が俺に宿る時、この苦悶は消える。その時の俺がどうなっているかは知らない。今の時代に適した人間になれているに違いない。しかし、現状では、そうなった時の俺に対して今の俺は唾を吐く。今の感情を記録するのが正しき活字の力だ。数年後に笑い飛ばしそう。その時、何かが変わる。

この年末の苦悩は自らの心宿る人体を媒体にした臨床実験だ。「悪魔の飽食」森村誠一を再読しよう。低俗な個人レベルのプロパガンダブログが今日も電波に乗る。

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