2007年12月2日日曜日

師走

坊主も走りまくる師走ですな。毎年12月1日から10日までになると俺は異常な興奮を覚える。
普通は、師走は後半が一般的な興奮時であろうが、俺は前半にピークを迎える。

なぜなら、俺の誕生日は11日なのだ。今から36年前の今頃は、俺はおかんの体の中で、産み落とされる瞬間を待っている状態だったのだ。その記憶といえるのかわからないが、ピカドンな瞬間が間近に迫った今頃は、俺の中に、日頃はない感情が芽生える。

おかんが、何日に病院に入ったのかは俺は知らない。しかし、この時期が俺の投下される秒読み段階に入ったのだけは確実だ。予定日がどうのこうのではなく、今か今かと投下を待ちわびる36年前の俺が目に浮かぶ。胎教の音楽は八代亜紀か詩吟であったろう。俺は音には耳を貸さず、ひたすら産み落とされる日々を待ちわびていたはずである。

胎児がどのような環境で、どのようなことを本能的に感じていたのかを、臨床的に知ることは出来ないが、人の性質が千差万別であるならば、このお腹の中での生活時代には、何か一生を左右する性格が育まれる素地があったのではないかと思う。

俺は胸がキュンとくるほど自分が好きでたまらない一方で、吐き気がするほど嫌いなときもある。胎内で俺の性格を育む何があったかは結果論で、今更どうのこうの言えることではない。
ただ、感受性を豊富に胎内で育ててくれて、投下スイッチである腹圧ボタンを押してくれた、おかんには感謝する。投下されたからこその胸キュンと吐き気である。外界で味わいたい。

腹の中にいる時に、何か感動的な出来事がいっぱい、悲しいことがいっぱい、おかんの中で語られていたのだろうと思う。語っていない場合でも、思考が胎児に伝わる言語化をされていたのだと思う。その上で、「こんな悲喜こもごもの世界に出る準備はいいの?」という、俺に対する最終尋問がなされ、壮絶な生命の戦いを勝ち抜いてきた生命体のエリートである俺が投下される最終サインが出されたのであろうと思う。

親は選べない。親に殺される子供もいる。しかし、胎内で上記の過程を経た上で、産み落とされた人間が、母親を肯定は出来ても否定は出来ない。否定できない母親から否定される悲しみは筆舌に尽くし難い。

俺は父親を憎み、死後、敬服した。母親を憎み、今敬愛している。どういう因果で生かされているかは知らないが、毎年この時期に、妙な胸騒ぎと興奮を覚えるのは、胎内で感じた息吹を、慣れに害された感性に再注入してくれる、何らかの力があるのではないかと思う。

こんなことを考えていたら、頭がいくつあっても足りない。だが俺は思考をやめない。
俺は特定の宗派には属さない。教祖が宗旨を作れるほどの思考ではない。思考に思考を重ねても、その破片もつかめない壮大な力がそこにはある。ただただ、この息吹を感じ、精一杯思考したい。

宗教批判に読めるかもしれないが、断じてその趣旨はない。どんな形であれ、その人が心のよりどころとしている存在を俺は否定しない。拠り所に忠実に心を置いている人たちの精神を清く思う。

ただ俺は、頭脳の限界を超えた何かを、得たいの知れない何かに感謝し、思考するだけで、特定の誰かに解決を求めたり、帰依しないだけだ。傲慢なだけかもしれないが、この時期に高まる感情は、敬虔であると思う。

胸の中で高まる何かが俺の拙い文章をさらに害している。言葉は複雑で正解のない迷路だ。言葉で今の感情を書こうとすることがおかしいのかもしれない。

これを読んで、不快に感じた方がおられたら、許して欲しい。

俺が、わが子を授かる日が来て、その子が嫁の胎内でカウントダウンを始めたら、俺は言葉ではなく、精一杯の思考の結果を眼差しと体温で示してあげたい。それをどう感じるかはわからないが、カウントダウンの時期を特に大切にしてあげたいと思う。

師走に生まれた俺。師が走り回るのは俺には関係ない。しかし、俺を産み落としてくれたおかんと、得体の知れない何かを師とし、師を忘れないようにしたい。原点回帰の上旬が始る。

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