2007年12月20日木曜日

事故から1周年

昨年の12月20日、午前11時30分くらいに俺は正面衝突の事故を起こした。詳細は過去ブログに記しているので書かないが、早1年である。今日は11時30分を過ぎてから車に乗った。別に過敏になっているわけではないが、何となくである。

俺が事故を起こした同日に、同じく正面衝突の事故が1件、県内であり、その方は亡くなられた。遺族の方にしてみれば、1周忌である。被害者、加害者、遺族を含めて、色んな方々のこの1年を振り返った思いがあるだろう。

今日は風が強かった。遺族にとっての千の風が吹いた日である。

俺は幸いにして生き残っているから、今こうしてブログをしたためることも出来るが、1度の偶然で死に至った方々の遺族が、事故があった日を毎年迎える気持ちを鑑みると、思いは膨らむ。どんな気持ちで、事故日を迎えるのであろうか?事故に限らない。最愛の人との死別を経験した人が、その命日に思うことやいかに? 今日はそんなことを考えた。

学生時代に京都の旅館でバイトをしていた。その旅館は、修学旅行生を中心に商いをしていたので、この時期は、学生アルバイトは雇わないのだが、繁忙期に毎月29日は仕事していた俺は、憐れみを頂き、この時期、一般客だけで、実に楽な時期ではあるが、働かせてもらっていた。4畳ではあるが、マンションタイプの、タコ部屋というには綺麗な部屋も、タダで提供してもらっていた。感謝の念は消えない。

そこの旅館に、毎年年末から正月までを、子供を連れて宿泊される紳士な方がいた。俺は3年連続で、接客で関わったのだが、女中さんも含めて、旅館全体が、その一団と顔馴染みであり、子供さんの成長を旅館従業員一同が楽しみにしているような、常連客であった。京都とはかなり離れた遠方の方であったと思う。

女中さんが、俺が聞いてもいないのに、そのお客さんのことを教えてくれた。

聞いた話によると、そのお客さんが、毎年その旅館を訪れるようになったのは、最愛の奥様を亡くされた後からだそうである。生前の奥様との思い出の京都旅行で訪れた旅館が、その旅館であり、ちょうど、それは年末年始の時期であったらしい。奥様は生前、京都という場所が好きであり、その旅館に泊まることになった旅行も、奥様の発案であったらしい。

奥様を亡くされた後、ご主人は、子供を連れて、毎年、奥様の好きであった京都を訪れる。毎年来ているので、館内のことは良く把握されている。別荘のような宿を拠点に、毎年京都の色々な場所を、お子様と一緒に回るらしい。遺族の方々の表情は、明るくて、生の喜びを全身で表しているように見えた。今も、その旅館に来られることが恒例行事として続いているかは知らないが、俺は、この話を聞いた当時、深く感銘を受けた。

最愛の人を亡くした人の物語は、悲劇の数だけある。その悲劇が起こったカレンダー上の日も365分の1だけある。1年、2年と月日を経ていくにつれ、悲しみの強弱は変化していくであろうが、暦の日付に対する思いは、色あせない。

悲しみを全て覚えていたら、悲しみにつぶされてしまう。人を失った悲しみは、言語化できるものではないだけに、色々考えると発狂する。死というものに対する問いかけを、四六時中出来るほど、人間の頭脳は賢くない。だから、染みが消えていくように、悲しみが形を変えていき、周忌を重ねるごとに、優しい気持ちで、故人の生前を偲ぶことだ出来るのだと思う。先に述べた旅館を来訪する御仁の、故人の偲び方を尊く思う。

それぞれの人がそれぞれの思いを抱く、生死に関する日付・・・。厳粛な思いに立ち返らせてくれる貴重な日である。年々、穏かで、生かされているありがたさを、故人を偲びながら穏かに過ごして欲しい。

テレビ報道されるような、残酷な大事件で、最愛の人を亡くされた遺族は、穏かに過ごそうにも取材が来る。事件の解決を願った、被害者側の取材だが、被害者心理を想像するならば、そっとしてあげるのが一番ではないかと思う。実態の見えない死というものに、言葉、活字を通して向き合わされる被害者の心情を慮ると、マスコミの対応を惨く感じる。

事故で生きながらえた奴が、無神経に鑑みた思考の文章化である。だが、行きながら、生死に関して思考できる機会を嬉しく思う。俺の墓はまだない。私の前で泣く人はいるが、偲んではいない。現実的な涙だ。千の風にはまだならない。

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