2007年12月24日月曜日

メリーチルドレン

「最近の若いモンはなっとらん」という言葉は、ハムラビ法典にも載っているらしくて、いつの時代も同様の裁きがあったみたいで笑える。

今日は、進路相談を数件受けたのだが、俺の働く塾の最寄り中学は、恐ろしくレベルが低い。ここ数年、レベル低下が危惧されていた中学であるが、現中2生の2学期期末テストは、500点満点のテストで、4人に1人が200点を切る状態だ。中学2年生後半でも、マイナスが入った計算が出来ない子が多数いる。

学力の低下だけならまだいいが、聞くところによると、学級崩壊が顕著で、授業中に立ち回る生徒が普通にいるので、保護者が交互に監視に来ているらしい。それでも保護者に対して暴言を吐いたり、一向に改まる気配がないらしい。先生方も、効果のない注意をくり返すばかりで、心労がたたって、担任が1年で2回変わるクラスもあるみたいだ。

ハムラビの時代からあった、若い世代の様々な面での停滞を嘆く傾向であるが、どう考えても、今はちとひどい気がする。

反抗の示し方が、家庭や大人に向いていた時代を体感した俺としては、反抗する姿勢自体は、尊くもあり、健全な傾向であると思う。

しかし、今の子で、反抗心から問題行動に走る生徒は少ない気がする。単に、嫌なことがあれば、その時間を避けるために、悪気も悪意もなく、自分本位の行動に出るのだ。幼稚園児が、泣きたいときに泣き、暴れたい時に暴れるのと同じような、精神構造だと思う。
いや、幼稚園児でも、もう少し大人の目線や他の子達の目線を気にするので、自分本位の猫のような精神の営みが、彼らの頭を支配しているのではないかとさえ思う。

怒られても、怒られている理由がわからず、その場だけは少し収まるが、改善が見られない。そして、怒られたら、昔は、その相手を避けてきたものであるが、今の子は10分後には普通の状態に戻り、なついてくる。すぐに、怒った相手になついて来ること自体が、彼らが、怒られる意味を理解していない証拠だ。反抗心はない。内なる家と、外なる学校などの社会との境界自体が彼らには存在していないように思う。

家を1度離れた瞬間から、よそいきの顔を持ち、適度な緊張感を抱いて過ごしていた、わが世代と比較し、彼らは、誰に対しても、本心で接することが出来る分、良い面もある気はするのだが、あまりに幼い。彼らは、外界の中で緊張した時間を過ごし、家に帰って、「ふ~、やっぱ家がいいぜ!」といった感想を持つことはあるのだろうか?

思えば、今の子は、人前で緊張する子が極端に少ない。大舞台の発表なんかでも、堂々と力を出し切ることが出来る子が多い。この傾向は、松阪世代以降、特に顕著だ。これは、羨ましい限りだが、この長所を生んだ性質は、短所も内包している。

外部の人に対する、適度な視点と敬意とが、彼らの中には養われていないのだ。だから、自分が本能任せでした行動に対して、人がどう思うかということを意識しない。そのまま育ってしまうと、メンチ切りのケツエリ女王様のような、社会的裁きを受ける。自分の行動が起こす結果に対しての想像力がない分、起きた裁きには泣き出すことでしか感情を表せない。

緊張感は、第三者の目を意識することから生まれる感情だと思う。第三者を意識しない空間では、誰に気兼ねもしないので、緊張感は生まれない。緊張しないということは、今の子が、第三者を意識する視点を欠如している証拠ではないか?と思う。「誰がどう思おうと関係ない。」と開き直っているわけでもない。単純に無思想、無想像力に起因する、第三者視点の欠如だ。

「そんなの関係ね~」が流行しているのは、実に世相を現している。義雄さんのこのセリフには、強いロックな主張を感じる。開き直りによる、強い主張を込めて使うのならば、上記の言葉は素晴らしいと思うが、主張無きオッパピーは、海洋にも平和をもたらさない。当然、陸地に平和は来ない。義雄さんのこの言葉の意味を、吟味して、今の時世に対する警告と捉える子供はいないだろうか? いないだろう。絵的にとらえるだけだ。左利きが増えるだけだ。

学制による学年で、年相応な対応をしていたのでは、対応できない。年に応じた平均的な響く言葉を投げかけても、彼らには通じない。だからといって、大人が投げかけを放棄するわけにはいかない。キリストのような忍耐心を持って、彼らに継続して、響くまで同じ言葉を投げかけ、厳しく怒り、励まし、彼らに届くだけの言語力を、我ら大人は培っていかなければならないような気がする。

非常に恐怖を覚える昨今の子供にまつわる現象ではあるが、問題行動に走る子供がいる一方で、外部の人間を意識して、当たり前の対人関係をこなせる子達も、割合は少ないが存在する。その子たちから見た、同世代の現状は、どのようなものなのだろうか? その環境の中で、学級崩壊の中で、モチベーションを保ち、アイデンティティーを築き上げる過程は、稀有な純度を持っていると思う。

どうすれば良いかという結論はない。また、俺の視点が、単なる歴史上の一般的な反復視点のステロタイプなのかもしれない。個人的な見解は、しょせん、自己の体験との比較だ。科学的に比較対象を据えたわけではない。それに科学的な項目の統計が真実を表しているとは思わない。ならば、自分の見た視点で、今の世を危惧し、先達の大人として、主観的に暑苦しく行動したい。色んな大人のサンプルを彼らに見せることは大切だ。

冷静になる。

サンプルとしては、俺は危険だ。獣臭と仕返しの美学だけを子供に嗅がせるかもしれない。しかし、「目には目を、歯には歯を」の精神を思春期に持つことは、順調な成長の証だと思う。ハムラビの教えは、平等の教えだ。外界の相手との心の通う交流があり、素晴らしき人的交流の中での、熱いビンタの応酬を美化したものだと思う。メロスとセリヌンティウスとの関係に相似する。

今の子にハムラビの魂を彼らに宿したいと思うのは傲慢か? 危険思想か?自分の過去への懐古に伴う、価値観の押し付けか?

俺ごときが、今の子供に対して、真剣に自説を振りかざして、価値観を教養するのはよくない。ひたすら、俺は謙虚に彼らを観察し、彼らに精力の半分を捧げる。人の子であるにも関わらずだ。何が俺のモチベーションかはわからないが、青春時代に対する回顧から来る償いの意識からかもしれない

人間の罪を償ったとされるキリストは、2007年前の明日に生まれたそうだ。今日はイブだ。子供に対する訝しげな視点を捨てて、メリーに日々を過ごそう。子供はいつも快活だ。メリークリスマス、メリーチルドレン!

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